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大原亨君 ただいま
議長から御
報告のありましたとおり、
広島県第一区
選出議員萩原幸雄君は、去る十一月二十九日
急逝されました。
ここに
議員各位の御
同意を得て、
議員一同を代表し、謹んで
哀悼の
言葉を申し述べたいと存じます。(
拍手)
萩原君は、本年二月、持病の
糖尿病が高じて倒れられましたが、以来御家族の看護のもとに、病気と懸命に闘い続けておられましたその君の姿を見るにつけ、いつの日か病を克服して必ずや健康を取り戻されるものとかたく信じて疑いませんでした。
去る八月五日、
広島市の
平和記念式典の前夜には、あなたは
広島グランドホテルに元気な姿をあらわし、席を同じくしていた私に向かって、「災いを転じて福となす、やっと健康を回復する確信がつきました」としみじみ申されました。このときの健康そうな君の顔をいまも忘れることはできません。そして、あなたが亡くなられる一カ月ほど前にも院内の廊下で再度お会いをして、「
お互いに健康に気をつけましょう」と言って励まし合って別れたのであります。
その後、十一月の半ば、一時入院をして検査を受けられましたが、
糖尿病も快方に向かっているとの
医師の診断に奥様とともに笑いがよみがえり、十一月二十八日には上京のため切符の手配もされ、「
自民党大会と
首班指名の
臨時国会には何としても出席するのだ」と張り切っておられたやさき、容態が急変をし、翌二十九日午前に引き続き午後には大量の吐血を繰り返され、
救急車で
県立病院に運ばれました。そして
医師団の手当てのかいもなく、午後八時五分、あなたはついに不帰の客となられました。直接の死因は
食道静脈りゅうの破裂でありますが、解剖の結果は肝硬変と
糖尿病と診断されました。
萩原君、いまここに若いあなたと
幽明界を異にして、私が若いあなたに
追悼の
言葉を贈ることになろうとはだれが予測したでありましょうか。人生まことに無常、痛恨のきわみと言わねばなりません。
萩原幸雄君は、大正十二年十月、
広島市の西、
広島県佐伯郡大野町にお
生まれになり、
旧制広島一中四年修了後、
旧制広島高等学校を経て
東京帝国大学法学部に進まれました。
終戦直後の
昭和二十年九月、
大学を卒業された君は、戦禍を受けて荒廃をした
国土の
復興と
国民生活の安定に若い
情熱をささげるべく、内務省に入られました。自来、静岡県、
広島県在勤の後に
自治庁及び自治省の各課長を
歴任をされましたが、との間、君は
地方税、
地方財政のエキスパートとして、その実績を高く評価されました。とりわけ、
固定資産税の課税の基礎となるべき
評価制度の改善に寄与され、また「
固定資産税」あるいは「
事業税の解説」という名著を残されるなど、その
功績は特筆すべきものがあったのであります。
昭和四十一年、君は推されて
広島県副
知事に御
就任、六年五カ月にわたり県勢の
振興に努められました。
君は、
広島県内における
高度経済成長下のひずみの
是正、過疎過密、
公害あるいは
県民間の所得の不
均衡是正など、うんちくを傾けて
長期総合計画の立案と実行に当たられ、その卓越した
手腕を発揮されました。特に
広島市の再
開発、大
規模住宅団地の
建設、瀬戸内海の島々に対する
水道供給事業の
実現、
原爆被爆者対策、
病院の整備にも大きく貢献をされたことは、広く
県民の知るところであります。(
拍手)
昭和四十七年七月、
広島県を襲った
集中豪雨は
各地に甚大な被害をもたらしましたが、特に
県北の三次市は江の川のはんらんにより完全に
孤立状態となりました。君は直ちに現地に急行し、濁流の中で
不眠不休の
被災者救援活動と
応急復旧の
陣頭指揮に当たられました。君のこの
迅速適確な措置と温かい態度に、市民はいたく感動し、君の功労はいまもなお語り継がれているところであります。
続く
昭和四十七年九月には、
広島市と周辺三町の
高知県沖への屎尿外洋投棄問題が重大問題化いたしました。君は再三にわたり
高知県に赴き、猛反対する
関係漁民と
話し合いを重ねた結果、ついに
円満妥結、
高知県との間で覚書を交換、調印にこぎつけられたのであります。
かくして、この年、
昭和四十七年の秋を迎え、君の身辺に
一大変革が起こりました。故
砂原格代議士の
急逝とその後継者問題がこれであります。日ごろ、君のすぐれた
手腕と誠実な
人柄に大きな
期待を寄せられた
郷党、各界から、あなたを
国政のひのき舞台に送らんとする声が急速に高まったのであります。あなたは、一度は固辞されましたが、
支持者の強い要請にこたえて、三十年に近い
官界生活を去り、
昭和四十七年十二月の第三十三回
衆議院議員総
選挙に際し、
自由民主党から立候補し、先輩の
灘尾代議士や私を抜いて、
最高点をもって
みごと当選されたのであります。(
拍手)この
選挙中、資金の枯渇に悩まされた君は、「財産があるわけではなし、ないそでは振れない」と言い切って最後まで闘い抜かれたことも語りぐさとなりました。
本
院議員となられた君は、長年の
地方行政における豊富な経験をもとに、着々と研さんを積まれました。
大蔵あるいは
決算の
委員として国の
財政運営の
基本を体得され、また、
内閣委員として
行政機構のあり方について検討を加えられました。
さらに、君は、
原爆被爆者対策に常に心を砕いておられました。実兄を
原爆で失い、
被爆直後、その兄上の消息を尋ねて
広島市に入った君自身も二次放射能を受けられ、さらには、最愛の
恵美子夫人も
被爆の体験をお持ちであることから、君は
広島出身の
国会議員の一人として、
被爆者対策の
推進に特段の力を注いでこられたのであります。
君はまた、
昭和五十年五月には、この壇上において、
自由民主党を代表して、当時の
三木総理に対し、
独禁法改正案の質疑をされましたが、この質疑を通じて、わが国経済社会の実態と独占禁止
政策の位置づけについて解明をされるとともに、問題点の所在を自民党の
立場から国民の前に明らかにされたのでありまして、君の
演説は私どもの記憶に新たなところであります。
かくて、在職期間は六年余という短いものであったとは申せ、精励もって本
院議員の職責を果たされた君の
功績は大なるものがあったと申さねばなりません。(
拍手)
君は、色紙を求められると、ただ一字「誠」という座右の銘を揮毫されました。文字どおり、その生涯を通じて誠実にして真摯、大言壮語するではなく、
政治家として着実でうそのない
政治をその信条としておられました。また、律儀な性格の反面、きさくで、常に明るく、その
人柄は広く
選挙民の敬愛の的でありました。
あなたを知るだれもが、あなたの一日も早い健康回復を祈り、将来を期して大きな飛躍を
期待をいたしておりましたのに、よわい五十五歳、これからという若さをもって忽然として去っていかれました。君の御逝去は、ひとり
自由民主党のみならず、本院にとっても、広く
国家、国民にとっても大きな
損失であり、惜しみてもなお余りあるものがあります。
順風満帆の官界から、決意して波乱怒濤の政界に足を踏み入れ、志半ばにして
急逝された君の心中を思い、奥様を初め御遺族の心情をお察しするとき、まことに痛恨の念にたえません。また同時に、落ちついて療養もできなかった
政治生活の厳しさを、他人事ではなくいまさらのように身につまされるのであります。
ここに、いまは亡き
萩原幸雄君の御冥福を心からお祈りをして、
追悼の
言葉といたします。(
拍手)
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