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鈴木説明員 ただいま御
指摘がございましたように、
刑事補償法におきましては、
免訴あるいは
公訴棄却の
裁判を受けました場合でも、もし
免訴、
公訴棄却をする
事由がなくてそのまま
実体裁判が進められれば
無罪になったであろうというように認められる場合には
刑事補償を行うということになっておるわけでございまして、今回の
費用の
補償についても同じような
考え方をとるべきではないかということがこの立案の過程で一番慎重に
検討したところでございます。
結論的にはそういう場合にまで
補償するのは適当でないという考えになったわけでございますが、その
理由といたしましては、
免訴とか
公訴棄却の
裁判というものは
形式裁判と言われておりますけれども、果たして
被告人が罪を犯したかどうかという
事件の
実体について
審理をしないで門前払いの
判決と申しますか、そういうことでやるのが通常でございます。そういう
判決が出まして
免訴あるいは
公訴棄却ということになりました場合に、さらに
補償をするのかどうかということを
判断します場合に、もう一度今度は、
——もう一度と申しますか、
補償するかしないかという目的だけのために、果たして
被告人は罪を犯したのかどうか、あるいは
裁判を進めていったら
有罪になったか
無罪になったかということを
補償との
関係だけで
審理するということは技術的にも大変困難でございますし、また
補償の
手続というのは簡単な
決定手続でございまして、
刑事裁判と違って、両当事者が出てきて、そこで互いに
証拠を
提出して
有罪、
無罪を争うという
手続ではございませんので、そういう
手続で
有罪、
無罪を決めるのと同じようなことをやるということは適当でないのではないかということから、この
公訴棄却、
免訴の場合には
補償しないのが適当であろうというように考えたわけでございます。
同じ問題はもちろん
刑事補償についてもあるわけでございまして、
刑事補償の場合につきましても、
免訴、
公訴棄却の場合に
補償するということになりますと、場合によって、
補償の
手続が大変複雑かつ必ずしも正確な事実
認定ができないような
手続においてそういう
判断をしなければいかぬ場合が出てくるわけでございますが、これは
刑事補償法ができました
趣旨がこの
費用補償とやや違っておるということから見まして、この
刑事補償の場合には
免訴、
公訴棄却の場合であっても、そういう
事由がなければ
無罪になったであろうという場合には
補償した方がいいということになっているのであろうというように理解しております。
費用補償と
刑事補償の違います点は
二つございまして、
一つは、
刑事補償というのは、刑の執行を受けた場合、あるいは未決の場合でございますと抑留、
拘禁されたという大変重大な
損害を受けた場合でございますので、こういう重大な
損害を受けた以上、これをできる限り広く
補償していくというのが適当でございまして、たとえ
免訴、
公訴棄却になりました場合でも、もし本来
無実であるのにそういう
拘禁を受けたということになった場合には、やはり
補償した方が適当であろうというように考えられるわけでございます。
それからもう
一つ、この
刑事補償と申しますのは、
損害を
補償するという点もございますけれども、同時に
無実の者が
起訴されたということによっていろいろ
名誉等を棄損されるわけでございますが、そういう名誉を
回復するという
趣旨も入っておるのであろうというように理解しておるわけでございます。この点は
刑事補償法におきましては、ただ単に
補償金を支払うだけではなくて、
刑事補償をしたときは、こういう
無罪の
判決があってそれに基づいて
補償をいたしましたということを官報や新聞に公告することになっておるわけでございますが、こういう点も
刑事補償というのが一種の
名誉回復措置であるというように考えられるわけでございます。そういうものといたしますと、たとえ
免訴、
公訴棄却になりました場合でも、本来なら
無実であるという主張がありました場合には、一応その点についても
審理をして、もし
審理を続ければ
無罪になったであろうというように思われる場合には
補償をするのが適当である、こういうように考えられるわけでございます。
これに対しまして
費用補償の方は、ある
意味では、俗な
言葉で申しますと、
訴訟に勝ったか負けたかといいますかということで、もし国の負けと申しますか
無罪になった場合にはこの
費用を
補償する、それから
有罪になった場合には
被告人に
訴訟費用を負担させる、こういうような
関係になるわけでございまして、ある
意味では、かなりドライな割り切った
制度と見ることも可能であろうというように思われるわけでございまして、必ずしもこの点で
刑事補償と同じように扱う必要はない、こういう
考え方になったわけでございます。