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1974-05-22 第72回国会 衆議院 文教委員会 第29号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和四十九年五月二十二日(水曜日)     午前十時四十四分開議  出席委員    委員長 稻葉  修君    理事 坂田 道太君 理事 塩崎  潤君    理事 西岡 武夫君 理事 松永  光君    理事 森  喜朗君 理事 木島喜兵衞君    理事 嶋崎  譲君 理事 山原健二郎君       有田 喜一君    上田 茂行君       河野 洋平君    田中 正巳君       楢橋  進君    林  大幹君       三塚  博君    山崎  拓君       勝澤 芳雄君    小林 信一君       長谷川正三君    山口 鶴男君       栗田  翠君    有島 重武君       高橋  繁君  出席国務大臣         文 部 大 臣 奥野 誠亮君  出席政府委員         文部大臣官房長 井内慶次郎君         文部省初等中等         教育局長    岩間英太郎君  委員外出席者         文教委員会調査         室長      石田 幸男君     ————————————— 委員の異動 五月二十二日  辞任         補欠選任   安里積千代君     受田 新吉君     ————————————— 本日の会議に付した案件  文教行政基本施策に関する件      ————◇—————
  2. 稻葉修

    ○稻葉委員長 これより会議を開きます。  文教行政基本施策に関する件について調査を進めます。  質疑の申し出がありますので、順次これを許します。山原健二郎君。
  3. 山原健二郎

    山原委員 ちょっと大臣資料をお渡ししたいものですから……。  最近、田中総理発言の中に「知恵太り、徳やせ」というのがございまして、その点について質問をいたしたいと思います。  知恵太り、徳やせということば、したがって徳の教育をしなければならないということは、二月の段階でも、たしか文部大臣のほうに対してそういう要請があったように聞きますし、最近の発言にはずっと出ておりますが、徳やせのほうについてはあと質問をいたしますけれども、知恵太りということ、はたしてそうなのか、現在の日本教育実態がそういうふうな判断でいいのかという疑問を私は持っておりますので、教育担当大臣としての奥野文部大臣がこれをどういうふうに受けとめておられるか、最初にちょっと伺っておきたいのです。
  4. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 教育知育体育徳育、調和のとれた人間をつくらなければならないといわれておるわけでございますし、知育体育徳育、いずれをとりましても、これで十分だということはない、われわれは理想を追って努力をしていかなければならない、こう考えるわけでございます。知育の問題につきましても、なお一そう深さを増し得るように努力をしていかなければならない、かように思っております。  ただ、今日批判されておりますことは、知育体育徳育を通じて見た場合には、知育偏重ではないだろうか、こういう議論がございますし、また小さいときから何でもかんでも覚え込ませようとし過ぎているのではないだろうか、こういう批判も行なわれておるわけでございまして、そういう点については謙虚に耳を傾けて努力をしていかなければならない、こう思っております。
  5. 山原健二郎

    山原委員 実際に現場実態としまして、今日の子供たち学習の状況、特に最近、長年にわたって授業についていけない子供、よく理解できない子供、いわゆるわからない子供がふえておるということが非常に問題になって、父母の間からも問題になっているわけです。それで、この間私が質問しましたのは、たとえば学級定数一クラス四十五名を何とか四十名に近づけるとか、あるいは三十五名に近づけるとかいうような努力の問題について聞きました。また栗田議員のほうからは、四十五名以上を直ちになくすことはできないのかというような質問をいたしましたが、その点ではなかなか困難だ、あるいは岩間局長お話によると十年間はベビーブームの中でむずかしかろう、あるいは奥野文部大臣もその点では用地の問題あるいは先生確保の問題でむずかしかろう。そうすると御答弁を聞いておりますと、まだ今後一クラス四十五名の標準というのは改善をされる見込みはないというような暗い気持ちがするわけですが、そういう条件の中でわからない子供がおる、そして教科書の問題につきましても、かなりむずかしくなっておるのではなかろうかという例として、ちょっとしたメモを差し上げたわけです。これを見てみますと、一番最初の紙に書いてあります、上のほうにグラフが出ておりますが、これはいままでしばしば使われました。使われましたが、「教育内容理解程度」これは全国教育研究所連盟調査によるものでございます。これは御承知のように一九七〇年の秋、全国教育研究所連盟共同研究として、義務教育改善に関する意見調査全国的規模で行なっている。そうして、小学校について見ますと、新学習指導要領への移行措置の時期に当たっていた時期ですが、全国無作為に選んだ七百二十七校の小学校、同数の中学校の二十五歳、三十五歳、四十五歳、五十五歳の教師専任指導主事全員、ほかに研究所員も含めましてアンケートがとられた結果がいま出ているわけですね。それが一番上に出ております表でございます。  そうしますと、小学校で、教科の理解程度、四分の三が理解をしておるというのが二八・九%、それから中学校アンケートによりますと、四分の三理解しておる子供が二八・七%、指導主事の側で見た場合には二〇・一%、こういうふうになるわけです。そうして約二分の一、半数子供しか理解していないというのが、小学校先生方アンケートによりますと四九・二%、中学校では五〇・二%、それから指導主事のほうのアンケートによりましても五〇・五%、あとは省略いたしますけれども、こういう調査が出ているわけです。  では、そういうアンケートの結果に対して、ちょっとここへ載せるのを忘れましたけれども、どこに原因があるかという調査が同時にアンケートで行なわれておりますが、個別指導困難点というのがあるわけです。  それによりますと、小学校先生方の中で一番多いのが、学級人数が多過ぎるが二七・二%でございます。その次に多いのが教職員不足、これが二六・〇%、中学校先生方アンケートによりますと、学級人数が多過ぎるが三三・五%で、これが一番多いのです。教職員不足が二七・四%、それから指導主事の側からのアンケートによりますと、学級人数が多過ぎるが三三・二%、これが一番多い。教職員不足が第二番目で一七・五%、そのほか、プログラムの作成困難とかあるいは指導方法不足とか、施設設備の不備とかいうのがありますけれども、何といっても圧倒的に多いのは、この原因につきまして学級人数が多過ぎるというのが一番多いわけですね。そしてさらに多くの教師の、学級人数をどれくらいにするかということに対しては、大体三十五名から三十人以下だ、こういうふうに出ているわけなんですね。  これは岩間局長に伺いたいのですが、この前もたしか質問をしましたけれども、きょうはちょっと具体的に数字を出しまして、これについての文部省見解を、簡単でけっこうですが伺っておきたいです。
  6. 岩間英太郎

    岩間政府委員 先ほど、だんだん子供がわからなくなるというふうなお話がございましたが、私はそうは見ておりませんです。私が二十年以上も前に県の指導課長をしておりますときに、あのころ高等学校へ進む者の率はいまよりもずっと低かったわけでございますけれども、あのときにすでに三分の一の子供は分数の足し算などが理解できていないというふうな話を指導主事から聞いておったわけでございます。戦後のいろいろな混乱、そういうものが影響しておるのじゃないかというふうに私どもは考えておったわけでございますが、あの当時学級編制を、最高は六十四人ぐらいから、現在最高四十五人までずっと引き下げてきたわけでございますけれども、もしかりに先生お話が正しいとしますと、学級編制を下げてきたにもかかわらず、理解がますます困難になってきた、そういうふうなことになるわけでございまして、その意味ではそういうふうな、理解ができないような子供たちが常におる。その原因が一体何であるかということは、もう少しいろいろ検討してみなければならない問題であろう。いわば教育のあるいは永遠の課題かもしれませんが、非常にいろいろな原因があり、いろいろなむずかしい要素がある。それを私どもが解明をしてまいりまして、それの教育効果を高めていくということが必要ではなかろうかというふうに考えているわけでございます。  しかしながら、ちなみに、これは世界各国での比較の調査がございますけれども、たとえば数学とか理科につきましてすでに行なわれておりますが、わが国児童生徒学力の水準と申しますか、そういうものは世界で最も高い部類に属しているわけでございます。そういう点を考えますと、これはわが国だけではなくて、ある意味では世界的な問題であろうというふうにも考えるわけでございます。単に学級編制の問題あるいは教師不足というふうな問題だけに原因が限られるかということになりますと、教師質自体という問題も、これは世界的な視野で見ますと問題になるだろう。したがいまして、私どもとしましては、教職員の充実、学級編制改善というふうなことを行ないますと同時に、教職に人材を得るために人材確保法というものの制定につきまして政府から御提案申し上げて、国会で御承認をいただいたというふうないきさつもあるわけでございます。いろいろな面からこの問題につきましては分析を加え、検討を加えるということが必要ではなかろうかというふうに考えているわけでございます七
  7. 山原健二郎

    山原委員 いま申しましたように、全国教育研究所連盟調査なんです。いま文部省見解とは少し違うようですが、国際的なレベルでは日本子供たち程度が高いということですけれども、私はその中身も十分知りませんけれども、これにも多少問題があると思いますし、この調査は実感として出てきているということはいなめないと思うのですよ。そういう点で、ほかにこういう資料があればまた別の観点が出てくるかもしれませんが、いまのところ私は、こういう広範な七百数十校にわたる抽出調査というものが行なわれているわけですから、これを基礎にいませざるを得ないのですが、文部省として実際に今日の現状を把握する意味で、たとえば抽出をしてそういうことをやられたことがあるのか、あるいは教育研究所その他に委嘱をしてやったことがあるのかと考えてみますと、その点はどうなんですか。
  8. 岩間英太郎

    岩間政府委員 私どもアンケート調査というのは非常に不正確な面が多いというふうに考えているわけでございますから、もしこういうふうな調査に本格的に取りかかるとなりますと、やはり昔やりました全国学力調査、ああいうようなやり方、これが一番客観的で、しかもいろいろな原因を探り、それから全国的な傾向を見るという上では効果があったのじゃないかというふうに考えているわけでございます。  残念ながら、全国学力調査は御反対がございまして、現在実施をしていないわけでございますけれども、これはいわば子供の頭の身体検査みたいなものでございますから、私はそういうものをやるということ、これを虚心たんかいに国民の方方が受け入れていただけるということが一番望ましいわけでございますけれども、遺憾ながら、そういうふうなことを行なうことによりまして教育界混乱が起こるというふうな事態がございまして、そういうものを避ける意味から学力調査というものを現在中止しているわけでございますけれども、私はただいま先生が御指摘になりましたようないろいろな原因を探り、これを国民的あるいは国家的な規模で是正につとめていくというためには、どうしてもそういうふうな客観的な、基礎的な、全国的な調査というものが必要でなかったかというふうにいまでも考えているわけでございます。
  9. 山原健二郎

    山原委員 学力テストの問題については、これは単に反対があったとかなんとかいうことは、教育学上の問題その他もあって、ああいうふうになっているわけですから、あの一律のあれがなければ調査ができないなどという考え方もおかしいと思うのですよ。今日のこの実態全国教育研究所連盟がやった調査を否定されるならば、またその点の調査のしかたが悪いのかどうか、そういった点を指導、助言することもできると思いますね。そういう点では、いまそのことを論議しておりませんから、次の資料をちょっと報告したいと思うのです。  「いまの学校での勉強はおもしろい」が四分の一という図表も出ております。「一番わかりにくい科目」という下の段ですが、算数が一番多いのですね。三分の一以上が算数指摘をしています。それから勉強がおもしろくない理由に教科書が出ていますね。それから次に、「算数勉強について半分以上わからないが約半数」というのも、これは中津川市の教育研究所のあれでしょうか、これが出ております。それから算数教科書を六〇%が悪いと指摘しておるものも出ているわけですね。かなり算数問題が出てきております。  それで教科書についてちょっと調べてみますと、まず最初国語漢字の問題ですけれども、これについて質問したいのです。  これもいろいろ見方があると思いますけれども学習指導要領の中で出ております漢字配当表ですね。たとえば小学校二年生で「読」「話」というのが出てまいります。ところが、「読」「話」というのの言べんのほうですけれども、「言」が出てきますのが小学校の四年生で出てくるわけですね。それから片方の「話」の「舌」のほうは小学校六年生で出てまいります。それからまた喜べんの「試」とか「談話」の「談」とか「調査」の「調」とか「言」というのは、四年生に出てくるわけですね。ここらあたりの漢字配列のしかたに問題があるんじゃなかろうか。それから金へんの場合には、一年生で「金」が出てまいります。それから三年生で「銀」「鉄」「鏡」というのが出てくるのです。五年生に入りますと、「銅」とか「鉱山」の「鉱」というような字が出てまいります。このような漢字配列なんかはどういうふうにお考えになっているのですか。「言」という字が四年生で出てくる。「話」という字は二年生で出てくる。こんなのも教科書の構成として、指導要領として一体どうなのか、よくわからぬのですが、ちょっとお聞きしたいのです。担当課の方でもけっこうですよ。
  10. 岩間英太郎

    岩間政府委員 漢字配列につきましては、ただいま先生指摘になりましたもののほかに、一年生で「森」が出てきて、二年生で「林」が出てくるというふうなものがほかに引例をされているようなことがございます。漢字教え方は、やさしいものからだんだんむずかしいものへというふうな行き方ももちろんあるわけでございまして、それはやはり一つの原則であろうと思います。しかしながら、たとえば「お話」というふうなことば、これは低学年で出てくる。それから「言語」というふうなことになりますと、これはややむずかしくなりますから高学年のほうで出てくるというふうな、児童生徒発達段階あるいは生活経験というものを主にしてやるか、それからやさしいものからむずかしいものへとやっていくかというふうな問題があるわけでございまして、これをどういうふうに組み合わせるかということ、これは現在各先生方意見を聞きまして、私どものほうで配列をきめているわけでございます。現場先生方の御意見をまとめているわけでございますが、必ずしも系統立ったというふうには、いっていないというふうな問題はあろうと思います。ただいま御指摘になりましたような事項、これはこれから教育課程審議会審議も行なわれまして、新しい観点から教育課程全般を見直すというふうな作業も行なうわけでございますから、そういう際にも、御意見によりまして十分検討してまいりたいと考えております。必ずしも合理的に一つに割り切ってやるというふうなことがなかなかむずかしいものでございますから、その点は御理解をいただきたいと思います。
  11. 山原健二郎

    山原委員 たとえば山に生活しておる子供たちにとりましては、「林」とか「森」とかいうようなものは、早くからなじみやすいことばでもありますし、淡字としても目につくものだと思うのです。それから工業地帯に住む子供たちにとりましては、たとえば金へんの「鉄」とか「銀」とか「銅」とかいうようなものが目につきやすいわけですね。それが先生方にとってみますと、一面では、これは正しいかどうかよくわかりませんけれども、その生活の環境に応じて、子供たちに教えやすい部分と教えにくい部分がありますね。そういうことについて、先生方がたとえばいろいろな機会を通じて漢字を教えるとか適したものを教えるとかいうことについて、この指導要領一つの歯どめになっているというようなことはないのですか。
  12. 岩間英太郎

    岩間政府委員 具体的な教え方につきまして、私ども先生方創意くふうにまつというふうな態度で参っておりますから、たとえば「森」という字を教える場合に、「木」というものがある、それが二つ集まると「林」になる、それが三つになると「森」になるというふうな説明あるいは指導やり方、そういうことはあってもよろしいのじゃないかというふうに考えるわけでございます。ですから、教え方につきましては、それぞれ先生創意くふうにまつ。「林」というのを一年生で教えてはいかぬというふうなことではない。ちゃんとした漢字として教えるのは四年でございますけれども、一年のときに「森」というものを教える。「森」というのは、鎮守さんの森だとかいうふうにわりあい身近に使っていることば、あるいは童話なんかで出てきますのは林よりはむしろ森が出てくるというふうなことの御判断ではなかろうか。いずれにしましても、実際に教えておられる先生方の御意見を承って、現在のようなことになっているわけでございますけれども、こういう問題につきましては、やはりいろいろ御意見がある。むしろ順序を追って教えるべきじゃないかというふうな御意見がある。そういうふうな御意見は、これは謙虚に私どもも受けとめまして、改善をはかっていくということは必要であろうと考えておるわけでございます。
  13. 山原健二郎

    山原委員 教科書改定によりまして、漢字がどれだけふえておるかといいますと、二枚目の紙の下のグラフの左のところ、第三表に、「小学校で覚える漢字数」これは教科書に出てくるわけですが、一年生を見ますと、四十六年三月に四十六の漢字が現在七十六、プラス三十ですね。そういうふうにずいぶんふえているわけですね。合計しますと一年生から六年生まで八百八十一の漢字がありましたのが、現在百十五ふえて九百九十六の漢字になっています。四年生だけが十字減っておりますけれどもあとはずっとかなり大幅にふえているわけですね。これは一つ教科書の例ですけれども、この面ではかなりむずかしくなっておるといっていいのか、あるいはその程度のことは当然だといっていいのか、その辺がよくわかりませんけれどもかなりふえておるということは事実ですね。授業料としては、先生方の教授の面では、これは一定の負担になっておるということはいえると思いますが、この辺はどうなんですか。この辺の教科書のつくり方、これは相当検討された上でやられたのでしょうか。
  14. 岩間英太郎

    岩間政府委員 学校教育は、御案内のとおり、現在、私ども日本国民あるいは民族が持っております文化、伝統、そういうものを継承するというのが一つの大きな目的であろうと思います。そういう意味から申しますと、現在、日本の国家あるいは民族というものがどの程度漢字を必要とするのか、慣用としているのか、あるいは将来これをどういうふうに伝えていくかという問題は、国全体の問題としまして国語審議会におきまして検討する、その国語審議会で検討されましたものを、どういうふうな順序で、子供発達段階に応じて義務教育を終わるまでに国民に必要なものを教えていくか、そういうふうなことであると思います。したがいまして、ほかの問題とやや異なりまして、この漢字の問題につきましては、これは国語審議会の御答申というものが非常に大きなウエートを占めるべきものであろうというふうに考えているわけでございます。ただいま先生が御指摘になりましたような、漢字がふえておるという傾向、これはそのとおりでございまして、そのために負担がふえておるかとおっしゃれば、やはりふえれば負担はふえるというふうなごく自然なことであろうというふうに思うわけでございます。
  15. 山原健二郎

    山原委員 もう一つ国語の問題で教科書指摘しておきたいのですが、小学校の四年の下、これは「新国語」でございますが、石森延男さんの著でございます。光村図書ですね。これの八〇ページのところに気温調査が出てくるのですね。一日の平均気温というのが出てまいります。グラフがここでつくられるわけです。これは四年生です。ところが、平均を教えるのは、数学では五年生なんですね。学習指導要領によりますと、第五学年の「目標」のところに、その第四に「文字などで式を簡潔に表わしたり、式の表わす数量の関係を調べたりする能力をのばす。また、百分率や円グラフを用いたり、資料平均やちらばりを調べたりするなど、統計的な事象について考察する能力をのばす。」これは五年生に出てくるのですね。国語のほうでは四年生で出てくる。こういうかっこうになっているのです。この辺の系統性といいますか、そういうバランスのくずれ、そういうものを実際に現場で一人の先生が全部教えているわけですから、そういうズレというのはかなり影響してくるんじゃないかと思いますが、この点は御研究になっておりますか。指摘しておきたいのです。
  16. 岩間英太郎

    岩間政府委員 いまのような問題、私、実は承知をいたしておりませんでした。教科書も千数百種類ございまして、中身につきまして私どもが知る機会というのが少ないわけでございますので、ただいまの御指摘はたいへんいい御指摘を受けたのじゃないかというふうに感ずるわけでございます。やはり教育というのは、特に学校教育は、系統的に積み重ねをしていく、しかもそれを繰り返し繰り返し行なうことによりましてその効果を発揮するということでございますから、四年のときにある程度それに触れておいて、五年で本格的に教えるというような方法もそれはあろうかと思いますが、しかしながら、それは必ずしも妥当な方法ではなかろう、やはり下のほうから積み重ねをしていくということが、学校教育としましては望ましいのじゃなかろうかというふうな気がするわけでございます。そういう点につきましては、中でも十分検討させていただきたいというふうに考えておるわけでございます。
  17. 山原健二郎

    山原委員 次に算数の問題ですが、肝心の算数が一番わからない子供が多いということ、これはいなめない事実であろうと思うのです。それで算数の、昭和三十三年の学習指導要領改定後、昭和四十五年の学習指導要領改定、この間の動きを見てみますと、これは表の二枚目の上の段にございますが、小学校四年の算数教科書を調べてみますと、これだけ違いが出てくるのです。  昭和三十三年から四十五年、単元数にしまして十七が二十五になる。ページ数は二百六十が二百五十四になる。ページ数は減っているわけです。ところがこの中身ですね。掛け算にしましても、六十四かける五十八が、三千五百四十七かける四千三百九十八、こうなってまいります。それから割り算にいたしますと、一けたの割り算、それが四十五年の教科書によりますと、二万四千七百二を五百三十七で割る、すなわち三けたの割り算になってしまうのです。  それから大きな数字のところでは、万の位のものが兆の位になるのですね。そうして大きな数の計算では、三十三年のでは三万四千五百六十七プラス一万七千五百六、これが幾らか、こういう大きな数字計算が、今度は四十五年になりますと、五十兆を一万で割る、この暗算が出てくるわけですね。こういうふうに見てまいりますと、五十兆などというのは、子供の感覚の中ではたいへんなものですね。何でも子供の持っている三万何ぼのグラフがありますが、それを集めると、四千万枚集めなければ一兆などという数字は実感として出てこないという、全く膨大な数字がばっと四年生で出てくるわけですね。これは全く暗算方式を頭にたたき込めばそれはできるかもしれませんが、実感としてこういう数字が出てくるということ、これはちょっと考えられないのです。  それから、その下の段の第二表にございますけれども、三十三年から四十五年にかけまして、小学校三年生で九九をやっておったのが、小学校二年生になるわけですね。不等号が中学校一年生のものが小学校二年生までおりてくる。それから関数にいたしますと、中学校一年生で教えておったものが小学校三年生までおりてくる。図形の合同にしますと、これは中学校一年生のものが小学校四年生。集合になりますと、高等学校一年のものが小学校四年生までおりてくる。これは一々申し上げません。  それからその次の第四表を見ていただきましても、「中学校数学の新旧指導要領比較」によりますと、集合とその利用、高一のものが中一におりてきておるというふうに、算数中身というのは、四十五年を契機にしまして教科書かなりむずかしくなっている。ページ数は変わらないけれども中身はこってりとむずかしくなっておる、こういう状態なんですね。これほど激しい変化というものがはたして起こっていいものかどうか、これはどうなんでしょう。
  18. 岩間英太郎

    岩間政府委員 お示しになりました第一表の小学校四年の算数教科書につきましての、たとえば三行目の掛け算のページ数が五十二となっております。それが、私どものほうで調べましたのは二十四ページというふうなこと、それからその次の掛け算でございますけれども、これは大体新旧とも三けたでやっているように、私どものほうではそういう受け取り方をしているわけでございますけれども、この表にはそういう間違いと思われるようなものがあるわけでございまして、さらに検討してみたいと思いますけれども数学全体、御案内のとおり数字の近代化ということが、これは世界各国そういう方向で進んできているわけでございます。先般も東南アジアの文部次官クラスの方を文部省にお呼びしましたときに、日本では数学の近代化が進んだのかどうかというような質問もあったわけでございまして、各国とも非常に関心を持っていることは確かでございます。やはり学問、研究、そういうものが進んでまいりますと、小中学校で教える面につきましても影響力が出てくるというのは、これはやむを得ないと思います。  それから掛け算につきまして、九九の問題、私が子供のときは、山原先生もそうじゃなかったかと思いますが、二年生で九九はやったように記憶をしております。したがいまして、二年生でやって無理だということにはならないと思いますが、そういうふうに数学の近代化、それから子供の発達状態、そういうものを両方考えましていろいろくふうをしておるということが実情ではなかろうかというふうに考えるわけでございます。しかしながら、なお全般的に内容がやや重いのではないかという御批判、それから数学などは、途中で間違えると申しますか理解ができないということになりますと、それから以後のものがほとんどわからなくなってしまうという問題がございまして、これは国語あるいは漢字などと非常に違う点でございます。そういう意味では私ども子供理解程度を増すためにこういう点についてさらにくふうをする必要があるのではないかというふうにも考えるわけでございます。私どももそういう点は切実に考えておりますので、ただいま御指摘になりましたような点を含めまして教育課程審議会等におきまして十分御検討いただきたいというふうに考えているわけでございます。
  19. 山原健二郎

    山原委員 算数は、私も小学校教師をやったことがあるのですけれども、ほんとうに基礎的なところから固めていかないと、もうあとになればなるほど、そこのところがわからないとどうにもならなくなってくるわけですね。そうすると、子供たち算数数学ぎらいといいますか、それがふえるわけですが、この基礎的な部分をほんとうに力をつけていくということ、それがほんとうに手の足りた教育だと思うのです。算数ぎらいな子、確かにおります。第一に数字を合わせたりするのがもういやになってくるわけですね。ところが、それにちょっと手を足してやれば、案外興味を持ち、きらいであっても好きになり、またそれをさらに伸ばしていくことができるわけですが、このもとが非常にく、ずれやすいのですね。だから、今日の教育条件と関連をして、教科書あるいは指導要領というものがそれに密着していかないと、結局わからない子供先生は心ならずも捨てて教科書を済ましていくというところにいくわけです。その先生方の悩みというものもまたたいへんでしょうし、父母も、うちの子供はわからないということをどうしてくれるんだという要求も出てきますし、それでいろいろ試みをやってみまして、一つの問題について一時間みっちり教えたそうです。そうしたらほとんどの子ができるというのですね。きょうは一番よくわかったという声を子供は言っています。ところが一方では同時に、先生、こんなことをしておってもいいのか、たった一つの問題を一時間やって、よくわかったけれども、これでは教科書も済まぬじゃないか、それで受験についていけるかという、そういう疑問も五年生、六年生になったら出てくるわけですね。ここらの問題をほんとうに文部省としても解決をしていくという姿勢が必要だと思うのですよ。そういう意味できょうは申し上げているわけですが、たとえば、これは新聞にも出ましたから、三枚目のところに書きましたけれども、ある中学校数学のテストを入学したときにやっているわけです。それは小学校で習った教科書にあるものをそのまま出しても、ここに出ておりますように1の「次の計算をしなさい。」というのが1から10までございますけれども、これを見ますと、その左のところではわからない子供が割合がずっと出ている。5の問題なんかは小学校三年生で教えられている問題ですが、三六・一%が解答ができないというような数字が出てまいります。それから多いのになりますと、小学校四年生で教えられておるものが八五・九%できないというふうに、基礎部分ができていないものですから、中学校で今度は数学を教えようと思っても基礎のところがわかっていない。そして、このままいくわけですから、中学校を卒業して、さあ、今度は高等学校へ入る。もうそのときにはまるで基礎の部分はわからなくともとにかく解答だけは出せるような頭脳構造になってしまう。こうなりますと、これはたいへんな問題でございまして、そういう点で私は、この数学の問題については、ほんとうに子供たちに基礎部分をわからしていくということに力を注がねばならぬと思うのですよ。そういう点でいま申し上げておりますので、その点、私の言っていること、わかりますか。いまの子供をどうするかということも私は言いたいのですよ。今度、教育課程審議会にかけるというお話でございますけれども、いまの子供がこういう状態では、これは困るのです。  それから最後のところに、数学からまた国語へ返って恐縮ですけれども、この国語だって大学へいってどうなっているかというと、国語の基礎部分ができていないものですから、これは大学生の出した解答案なんですが、この中で「豊臣秀吉」というのは、「臣」が「富」の字でしょう。それから「大和朝廷」は、「ヤマト」の「ヤマ」が「山」の字、「朝廷」の「廷」に至っては「延」という字が出てくるわけですね。これは一々申し上げたら何ですけれども、誤字、脱字、これがあたりまえのようになってくるわけですね。国語教育というのは民族教育の中で一番大事なものでございますけれども、そこらの部分がこんな状態では、大学の試験は受かっている、みんな優秀な学生諸君でございますけれども、しかし試験の答案というものはもう全く誤字、脱字が出てくるわけですね。これではほんとうに日本の学術、文化の基礎というものは全く私はあやういと思うのですよ。ほんとうに国語なら国語というものを大事にしていくという観点に立たなければ、ただ入学試験だけでこれをやっていくというようなことではやはりだめなんでして、その基礎部分、これをしっかりと教えるような教育条件の整備も必要ですし、またそれに対応した教科書もつくっていくということに相当の力を注がなかったら、これはたいへんなことになる。「国語がこんなに乱れてどうして民族の心を守ることができるか」ということばがどこにもありますけれども、私はその点を指摘しておきたいのですが、どうでしょうか。
  20. 岩間英太郎

    岩間政府委員 まことに当を得た御指摘だと思います。ただ、漢字等につきましては、これは学校で教える部分を十といたしますと、外から知る部分が七というふうなデータも出ておりまして、学校で教えたから正確に覚えているというふうなことでもなかろう。やはりその生活を取り巻く環境が、昔から比べますと、テレビを見る時間が多くなって、活字に親しむような機会が少なくなったということも影響をいたしているわけでございますけれども、私ども国語の力が低下をしているという点につきましては憂慮をしているものでございます。  それから算数につきましても、ただいま御指摘のように、どっこかでわからなくなってしまうとそれ以後の発展がないというふうな非常にむずかしい教科でございますので、これをできるだけたくさんのお子さん方に理解をしていただくということ、これは必要であろうと思います。また同時に、数学に非常に大きな才能を持っておられる方、そういう方々の才能も伸ばしていきたいというふうな、二つの矛盾した問題を私どもこれから解決をしていかなければならないということでございまして、そのためには教育方法改善その他、あらゆる面におきまして、これは検討を加えていくということが必要であると思います。特に教え方などというものは算数数学の場合には非常に大事なことでございまして、そういう面につきましても十分検討開発を加えるという必要があろうかというふうに考えています。
  21. 山原健二郎

    山原委員 次に理科の問題。簡単に申し上げます。これはたくさんの教科書の中からの問題ですから、ほんとうに簡単な指摘にとどめますが、「新しい理科」の四年生の上です。これは東京書籍ですが、この中に「川原と水の流れ」というのがございます。これは川を流れる岩が川の流れによって次第に小さな丸い石になっていくという、このことを子供たちに知らせるということで、ここでどういう実験をさすかと、実験が出てくるのです。それは水を入れたかんの中に砕いた小石を入れまして、そして二千回くらいこれを振るというのです。「水のにごりかたにも、注意しよう。」「小石を一つだけかんに入れてふっても、まるくなるだろうか。」こういう設問がございます。そこで、いま学校では四年生は一時間が四十五分でしょう。かんに入れて二千回振るわけですよ。実際振ってみた。そうしたら一分間にそんなに振れないのですよ。シェーカーを振るように、こういうようにやるわけですけれども、これは子供がみながちゃがちゃ——実験せよと書いてあるものですから、忠実な先生なら一生懸命やるわけですね。おとながやっても二千回振るのに二十分かかるのです。こういう実験が出てくるのです。これなんかも私は頭の中から出てきておる教科書の側面を出しておると思うのですよ。川の流れというのは洪水もあれば、その中で丸い石になってくる、こういうことですね。「君が代」にいうさざれ石が巌となるなんということはないので、岩がさざれ石になるので、あれは全く非科学的になるのですけれども、そういう実験を子供に教える場合に、かんに入れてがちゃがちゃ二千回やるなんてとんでもないことが、これはまじめにやれば、このとおり指導要領によって先生はやらなければいかぬわけですが、こんなことが出ているわけですね。もうちょっとこれなんかもほんと考える必要がありますね。これを一つ指摘しておきます。こんなことをするから理科のきらいな子が出てくるわけです。二千回もがちゃがちゃやられたら、先生ものぼせてしまいますね。これなんかもやはり頭で出てきた教科書ではなかろうかと思いますが、その点も指摘しておきます。  これらのことを考えますと、やはり時間配当がありますから、教科書は済まさなければいかぬという先生の気持ち、しかも学校によってはすし詰め学校、それで理解がしにくいというようなところから、もうそれについていけない子供の非行化の問題も出てまいりますね。それからほんとうに学校を楽しく、明るく、よくわかる学校にすべきだという点からもいまのような問題を指摘したわけでございます。  学校教育法十八条によりますと、国語といえば「日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。」算数といえば「日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。」理科といえば「日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。」こうなっていますね。やはりすべて教科書にしましても日常生活に必要なものから発足しているわけでして、そういうことを忘れて教科書がつくられても、これは子供たちに適合するものではないのではないかという点を指摘しておきたいと思います。  次に中学校社会を取り上げてみたいと思います。実はこれは「中学社会」、大阪書籍の場合ですが、この一五ページあたりを読みますと、簡単に申し上げますが、相続のことですね。父親が死んだときの相続のことについては実に詳しく書いてある。財産分配ですね。これは均分相続制ですね。これについては実に詳しく書いて、母親がどうなるとか、兄がどうなるとか、私がどうなるという財産配分については非常に綿密に記載されております。ところが、子供が両親を扶養する義務の問題については、これはもうきわめて簡単な一行しかないわけです。この辺がやはり——徳やせだ、親孝行せよとこう言っているわけですけれども、実際教科書の面から見ますと、どの教科書を見ましても、相続、財産分配には相当力を注ぐような教科書ですが、実際に親を扶養するという、そういうところ、これは非常に抜けています。私はこれをおかしいなと思って見ておりますと、最近の新聞の投書の中にも、「相続されないのか扶養義務」などという投書が出まして、自殺者も出ているわけです。八十三歳の母親が命をみずから断ったということ。財産問題と扶養の問題ですね。現在、親孝行の中で親に対する扶養の問題というのは非常に大きな問題ですね。その点の記述が欠けているのです。ここらも実際に親孝行せよなどと申しますけれども教科書の面ではその辺が抜けている面があります。これらも私は、悪く言えば、親孝行と口で言っておるけれども文部省は親孝行するなということをむしろ指導しているのじゃないかと言われかねないような教科書になっているわけですよ。ここらの問題もかなりの人が指摘しておりますし、はっきりさすべきだと思います。これは教科書を言っておきますから、ごらんになっていただきたいと思います。   〔委員長退席、森(喜)委員長代理着席〕  もう時間もそうありませんからこの辺でおきますけれども、社会科の本を見ましても、たとえば家の家業が出てくるわけですね。魚屋さん、八百屋さん、洋品屋さん、出てきます。これを読んでみますと、どうもほんとうに流通機構の中で持たされている商人のいわゆる商人道といいますか、道と言ったらおかしいですが、商人としてのその地域社会の人たちに関係した任務とか仕事といいますか、そういうものは全く強調されないで、どの教科書を読みましても、ただもうけ主義なんです。たくさん売ってもうければいいという思想につながりそうな記述が全部出てくるのですね。これなんかも、いま悪徳商人の見本などというのが出てきておりますけれども、こういうところを、たくさん売るくふうだけでなくして、やはり子供たちに職業の尊厳さというものを教えていくという考え方が教科書になければ、子供のときからただもうければいいというような、そういうふうに読み取れるようなことではだめだと私は思っております。「しょうがくしゃかい2」「新しい社会3上」「しゃかいか2」、たくさんあるのですけれども、これを三冊持ってきておりますから、こういう点を指摘をしておきたいと思うのです。  それからもう一つは「現代の社会」、これは中教出版の場合ですが、これにはたとえば労働というものに対してどう書いているかといいますと、こういうふうに書いてある。一四五ページですが、「労働者の保護」という項目がありまして、そこには、「労働者が、長時間労働と低賃金のために、病気になり、働くことができなくなれば、国や使用者にとっても損失である。そこで、国が労働者を保護する政策をおこなうようになった。」こう書いてあるのです。これはもう明らかに間違いですね。労働者を保護するのは、国や使用者にとって損失であるから保護するというこの思想なんか一体どこから出てくるのか。労働基準法第一条、労働法から見ても、これは明らかに間違いなんですよ。しかも先生方はこの教科書を教えようとすると、教えている子供さんたちの親はみな働くサラリーマンであり、労働者ですね。それに対して、おまえの親を大事にするのは、おまえの親が低賃金や長時間労働でくたびれて仕事ができなくなったら会社の損失になるから大事にするのだなどと教えることができますか。労働に対する基本的な考え方もこの教科書は誤っていると私は思うのです。  こういう一連の指摘をいたしましたが、もちろん部分的な面もありますけれども、私の指摘はどうですか、ひとつ感想を聞かしていただきたい。
  22. 岩間英太郎

    岩間政府委員 数々の点につきまして御指摘をいただきました。中には、世の親たち、非常に共感を感ずるような御指摘もございました。私ども教科書の検定につきましては、いままでも十分つとめてまいったつもりでございますけれども、まだ御指摘のような点があるということはたいへん残念でございます。一そう検定の強化充実につきましては今後ともつとめてまいりたいというふうに考えております。
  23. 山原健二郎

    山原委員 それから理科の六年生の上、教育出版株式会社の理科の項の六三ページ、これは明らかに誤りがあります。これはこういうふうになっているのです。フラスコの中に、水槽の中にメダカを入れた水槽と何も入れない水槽と置くわけです。どちらが青い、緑色のモでしょうね、これができるかというのです。これを教科書では、メダカが青いものを食ってしまうから、こっちのほうにできない、メダカの入ったところはできない、こうなっている。これは科学的に間違いなんです。こんなことを平然と、しかもその間違いであることがあとで立証されるような記述がこのあとに出てくるのですけれども、こういうこともありますので指摘をしておきます。  そこで、いままでのことを考えましたときに、いま最後に労働者の問題を言いましたが、労働者というのは、労働基準法第一条によりましても、労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための最低必要条件をうたっているわけです。この労働者に対する考え方、それから親孝行の問題、扶養の義務の問題、商店は金もうけという思想、こういうようなものを私は幾つか例をあげて指摘をしましたが、ほんとうに勤労を重んじ、そして真に親に対しても孝養を尽くすことのできる状態、またそういうものを、さらに国語を愛して、そして民族の歴史を学び取るというような問題について、もっと検討する必要があると思います。そしてそういう基礎といたしまして、教科書に対して十分注意をすると同時に、子供たちにほんとうに行き届いた教育のできる、そして基礎的な力を子供たちにつける、これが日本子供たちにとって一番大きな基本でございますから、その点をやっていくべきであるということを強く強調しておきたいと思います。  最後に教科書の問題について、音楽の問題に触れてみたいと思うのです。  音楽の教科書におきまして、「君が代」が出てくるんですね。この「君が代」は何年生から教えることになっているのでしょうか。
  24. 岩間英太郎

    岩間政府委員 全学年でございます。
  25. 山原健二郎

    山原委員 一年生の場合「君が代」わかるでしょうか。
  26. 岩間英太郎

    岩間政府委員 歌詞につきましてはわかるわからないというふうな問題で、教える教えないということではないと思います。やはり歌詞があってそれから曲があるわけでございますけれども、一般的には、たとえば「君が代」の場合でございますと、国際的な催しあるいは元首の往来、そういうときには曲を吹奏するわけでございます。歌詞を必ずしもつけてやっているわけじゃございません。そういう意味で曲を教えるということも必要でございますが、その際に当然歌詞があって曲ができているというふうなたてまえから申しまして、歌詞をつける、理解できるできないにかかわら、ず歌詞をつけるということ、これは決して無理なことではないというふうに考えております。
  27. 山原健二郎

    山原委員 この「君が代」は一年生から六年生まで全部音楽の教科書に出ていますが、古歌となっていますね。これはどういうところですか。古歌は、出典はどこですか。
  28. 岩間英太郎

    岩間政府委員 古歌といっておりますのは、これは御案内のとおり「新古今集」に「君が代」というのが出ている、そういうふうな意味でございます。
  29. 山原健二郎

    山原委員 「新古今集」における「君」とは何ですか。
  30. 岩間英太郎

    岩間政府委員 私もちょっと「新古今集」における「君」が何であるかはあれでございますけれども、「君」というのは君主、天皇という意味と、それから女性からでございますと男性の相手と申しますか、そういうふうな意味に二つの解釈があるというふうなことは聞いているわけでございます。
  31. 山原健二郎

    山原委員 「君が代」というのは何でしょうか。
  32. 岩間英太郎

    岩間政府委員 「君が代」というのは、君主の場合でございました場合には、たとえば世襲でございましたら、その代々の天皇なら天皇の御代と申しますか、そういう続いた、昔のことばで申しますと万世一系というようなことばもあったわけでございまして、ずっとそういうふうな天皇の統治する世の中と申しますか、そういうような意味でございましょうし、それから特定の相手でございましたら、その人の一生と申しますか、そういう意味にも理解できるのじゃないかと思います。
  33. 山原健二郎

    山原委員 「君」はときには恋人であり、大体「新古今」「古今」通じまして恋歌が多いわけですから、そういう点から見ますと、古歌となっていますと、私はこれは恋の歌だろうと思うのですよ。それがいまのような解釈で万世一系の天皇、こうなってまいりますと、幾つかの解釈が出てくるわけですね、あなたが言われるように。これが全部の教科書に入っているわけですね。「君が代」というのは、おそらく文部省が入れた気持ちは、天皇陛下の世の中だという気持ちだろうと思うのです。けれども、憲法は御承知のように主権在民をはっきりうたっています。天皇は象徴でありますから、旧帝国憲法のときとは違いますね。そうすると、私、学校教師としてほんとうに忠実にやろうとすれば困るのですよ。文語文は何年生から教えるのですか。この「君が代」の歌詞は、これは明らかに文語文ですね。そうすると、文語文というのは何年生から教えることになっているのですか、指導要領は。
  34. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 「君が代」の問題についていろいろ御意見を聞かせていただいておりました。「君が代」をつくった作者は、それなりに「君が代」についての考えを持ってつくったものだと思います。また、この「君」があなたであるか天皇であるか、いろいろな議論もございます。しかし、だんだんとこの「君が代」が国民全体の歌だ、国歌だというように定着をしてまいってきている、かように私は考えているわけでございます。  国歌として定着するようになりましてから、この「君」は何か、それは天皇ということだ、新憲法になってからそれでいいのかという議論もございますが、新憲法の中におきましても、天皇は日本国の象徴であり、かつ日本国民統合の象徴である、こううたわれておるわけでございますので、新憲法下においてこの歌を国歌としても何ら支障はない。「君が代」というのはどういう意味かというお尋ねもございました。私は、天皇を象徴とするこの日本の国は、こういう意味だ、かように解釈し、またそういう気持ちで国民も歌っているものだと思います。したがいまして、国民主権をたてまえとする日本国の憲法とこの「君が代」を国歌とする国民の気持ちとの間に何らそこに支障はない、かように私は考えるわけでございます。  同時にまた、国歌あるいは国旗というものにつきましては、国民全体がこれを尊重する、理解を示すということが非常に必要なことでございますから、私は小学校の一年生からこういうものについてなじませていくということは大切なことじゃないだろうか、かように考えるわけでございます。また、児童の理解できる程度において理解させるような努力をしていけばよろしいのでございまして、低学年の場合には低学年としての理解程度がございましょうし、高学年になれば高学年になるに従いまして深い意味合いを理解をしていく、またそのような指導がなされていかなければならないんじゃないだろうか、こう思っておるところでございます。
  35. 山原健二郎

    山原委員 私は、ここで政治論をやっているのじゃないのですよ。「君が代」が教科書にありますから、教科書の問題としていま取り上げて、文語文はいつから教えるのですかという質問をしているんです。そんなところへのこのこ出てきて自分の解釈を発表されては困るのですよ。そのことはそのことでやるときがあるでしょう。「君が代」の論争だってやっていいわけですから。私はいまそのことを要求しているんじゃないのです。音楽の教科書の中にありますので、(「口語だって文語だってどっちでもいいじゃないか」と呼ぶ者あり)そんなむちゃくちゃなことを言うな。だめだ、そんなことは。教科書にあるのだから、どう教えるのかと言っているんですよ。何年生から文語を教えるのですか。
  36. 岩間英太郎

    岩間政府委員 ちょっと、文語をいつから教えるかということにつきましては、いまお答えできるような資料は持ち合わせておりませんのでお答えはできないわけでございますけれども中学校の三年から古典を教える、   〔森(喜)委員長代理退席、委員長着席〕 中学校の三年で古典を教えるということでございますが、その前にも、指導要領に規定がなければ、理解程度に応じまして教えても差しつかえないということになるのじゃないか、そういうふうに考えるわけでございます。
  37. 山原健二郎

    山原委員 教育現場を知らぬ者がいろいろやじを飛ばしているけれども、実際に教科書にあれば教えるのですよ。しかも、指導要領に基づいてやれ、指導要領は法的拘束力があるとあなた方は言っているでしょう。だから私は質問をしているのですよ。しかも、指導要領の中にはこう書いてあるのですよ。歌唱については、「歌詞の内容を理解し、気持ちをこめて楽しく歌うこと。」歌詞の内容を理解できるか、こういうことなんですね。だから歌詞の内容を理解させる。三年生の場合は、「歌詞の内容を味わい、気持ちをこめて美しく歌うこと。」こういうことを指導要領に書いてあるわけですね。だから文語文を使う場合には、六年生の、皆さん御承知の「われは海の子」が出てきます。これも文語文ですね。そのときには、「われは海の子」につきましてはちゃんと説明が出ているのです。たとえば「とま屋こそ」というのがありますけれども、とま屋というのは「草ぶきのそまつな小屋」、「ゆあみして」というのは「入浴」と書いてある。入浴なんというのもおかしいんですよ。実際おれは神田の水で育ったんだといういきなところ、これを海で育ったということ、海で入浴したなんという解釈はおかしいのですけれども、ともかく解釈がついているわけですね。それだけ文語文については手を足しておられるわけです。ところが「君が代」については、一年生からありますけれども、実際にそういうことがないわけですね。では中身を教えてくれといったらどうするんですか。賢い子供は「君が代」をどういう意味ですかと聞きますよ。そのときに先生はそれに対して適当な答えをするのですか。そういうことでいいというお考えですか。文部大臣のようなお考えもあると思うのですよ。しかし、歌詞の内容をちゃんと子供理解させて、美しく情感豊かに歌わせる、こういうことが指導要領の中に書かれており、しかもその指導要領はあなた方はしばしば法的拘束力を持つと言っているのですから、そうするとどうなるのか、私に教えていただきたい。私が教師として教える場合にこの歌詞をどう教えたらいいんですか、そういう意味で私は申し上げているのですよ。これにはもう「君が代」の場合だけは解釈も何も必要ない、ただそれを教えればいい、歌わせばいい、こういうことですか。
  38. 岩間英太郎

    岩間政府委員 御案内のように指導要領には、児童生徒発達段階に応じてということでございますから、その理解できる程度で教えるということでございましょう。低学年におきましては、これは国を代表するような歌であるというふうなこと、それから先ほど大臣から申し上げましたように、新しい憲法のもとにおいて天皇が日本国の象徴であるというふうな説明、まあそういうふうなことで、その発達段階において理解ができる程度に説明をすればよろしいんじゃないかと思います。いずれにしましても国歌でございますから、これは国の発展を祝うと申しますか、期待すると申しますか、そういうふうな歌であるということを理解していただければそれでよろしいんじゃないかというふうに思うわけでございます。
  39. 山原健二郎

    山原委員 ほぼ文部省の考え方がわかった程度で、ちょっと教育の問題としては不足ですね。それは私は言っておきます。その「君が代」論争については、またいろいろ異論があるようですから、それは適当な場所でやっていいと思うのですよ。「君が代」についてはいろいろ考えもあるわけで、絶対歌わねばいかぬという人もおるでしょう。それはけっこうですよ。しかし、今日の情勢に私は合わないと思っているのです。それからこの教科書の出し方につきましても、必ずしも親切ではないとこれは思っています。それから文語文を教えるというような教科書の構成の経過から見ましても、一年生からこれが。ばっと出てきておる。こういう状態については非常に不十分なものを感じておりますから、そのことだけ言っておきます。  最後の問題としまして、徳やせの問題が総理大臣からしばしば言われています。総理大臣のことについては、教師論その他も最近出されていますから、それはいま委員長のほうで総理大臣をこの文教委員会の席上に出ていただく御努力がなされておるそうですから、そのことは総理大臣に聞くべきことでありますが、ただ私は、この田中総理が、知恵太り、徳やせと、こう言っておりますので、私は、必ずしもいま知恵太りの状態ではない、知恵は必ずしも正確に、しかも基礎学力がつけられるような状態にない面がたくさんあるということを教科書の面からきょうは申し上げたわけでございます。  それから徳やせの問題でございますけれども、この総理の発言の中には、徳やせということを強調すると同時に、だから徳育が大事だ、そうしてその徳育の背景には、教育勅語もよかった、あるいは軍人勅諭もよかった、こういうふうな発言が付随をしておるわけでございます。これら一連の発言について、たとえば教育勅語はよかったというようなことについて、教育担当大臣として奥野文部大臣はどういう受けとめ方をしておるか、伺っておきたいのです。
  40. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 総理大臣教育勅語の話をときどき持ち出される、どういう意図であるかは御本人にたださなければなりませんが、私なりにはこう理解しているわけでございます。  教育勅語の中には、将来に変わらない人倫の道がたくさん述べられている、こういうものはお互い絶えず理解につとめる、反省につとめる、そうして徳性豊かな人間が育つように努力していかなければならない、こういう気持ちじゃなかろうか、かように私は判断をいたしているわけでございます。  そう言われてまいりますと、戦後、徳目を並べる、そういうことを必要以上に避けてきたのじゃないだろうかという感じが私はするのでございます。敗戦後、占領軍によりまして、教育勅語については国会において廃棄の決議が求められた、廃棄の措置がとられたわけでございます。そういうこともございまして、そこにりっぱな徳目がいろいろ書かれているけれども、その徳目をことさらに避ける、同時にまた、戦前の修身教育というものがあれでよかったのだろうかという反省もございます。ただ、ものを記憶させるだけではしっかり身につくわけではない、覚え込ませることに努力が払われて、しっかり身につけていくというところの努力が不十分であったのではないかという反省もあったりしているように思います。そういうことがことさらに徳目を並べることを避けてきたのではないだろうか。いわば戦前は国家とか社会とかということに重点が置かれた、そうして戦争に入っていった。だから戦後は国家、社会ということばを使うことをことさら避けてきている。国家や社会ということばを使うとすぐ戦争につながるというようなおどしをかけられる。全くとんでもないことだと思うのですけれども、そういう傾向が多分にあるわけでございます。私は、個人の充実も大切だが、国家、社会の充実も大切だ、こういう方向に教育も向かっていかなければならない、こう考えているわけでございます。そういう意味合いにおきまして、徳目というものもお互い徳育一つの手段として理解をする、そしてまたそれが身につくような実践を通じて努力をしていかなければならない、こういうことも大切じゃないだろうか、かように考えているわけでございます。そういうような徳目を並べることをことさら避ける風潮に対しまして一つの警鐘を打ちならす、こういう気持ちが総理にあるのじゃないだろうか、私なりにそういう気持ちで伺っているわけでございます。
  41. 山原健二郎

    山原委員 この徳目に人倫の道があるとおっしゃったわけですが、それは奥野文部大臣としては、たとえば「父母二孝二」とか、それから「兄弟二友二」とか、あるいは「夫婦相和シ」というようなことをさしておられるのでしょうか。
  42. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 そのとおりであります。
  43. 山原健二郎

    山原委員 昭和二十三年に衆参両院におきまして教育勅語の廃止決議がなされておるわけですね。そしてその決議というのには御承知のように教育基本法あるいは憲法に基づく新しい国際的な立場に立つ道徳というものが出てくるわけです。決議を持ってきておりますけれども、そういうことなんです。そこで、いま田中総理発言の中には、教育基本法ということばについては全く出てこないで、教育勅語ということばが出てくるわけですね。そしてその徳目は、いま文部大臣も言われたようなことなんですけれども、あれを二十三年に廃棄をしましたときどういうところから廃棄をしたのか、その辺のことを御勉強になっているでしょうか。
  44. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 占領軍としては、日本の民主化を促進していきたい、同時にまた、国民の団結を強化するような行き方は避けたいという気持ちがあったのじゃないだろうか、私はかように考えておるわけでございまして、そういう意味合いにおきましては教育勅語などは好ましくないと考えられたのじゃないだろうかと思うわけでございます。同時にまた、憲法の改正もあったわけでございますので、より一そうそういう意図が強く働いたのだろう、こう思います。敗戦直後は、当時の文部省は、教育勅語は将来に変わらないものとして持ち続けていくのだということを国会で答弁しているわけであります。国会で答弁しておきながら間もなく廃棄の決議が国会において行なわれているわけでございますので、私は、その間に占領軍の強い意図が働いた、かように理解をしているわけであります。
  45. 山原健二郎

    山原委員 占領軍の方針によって廃棄をした、こういうお考えですね。では占領軍という強大な権力が動けばそれに従うということでしょうかね。私はそうではないと思うのですよ。だから、教育勅語というのは一体何か、これはお互いに研究する必要があると思うのです。教育勅語の中にあるあなたがよい点だと言われた徳目、たとえば私はここに戦前における教育勅語を子供たちにどう教えるべきかという文部省の通達を持っています。これで教育勅語は教えられたのです。しかもその教育勅語の中に含まれておる徳目、理念というものがどういうものであるか、私はそこだけ読み上げてみます。検討を今後していただきたいと思うのです。これは総理が出席をされたならば、そのことについてお互い論争すべきだと思いますけれども、たとえば「夫婦相和シ」というのは何かということですね。これではこういうふうに書いてあります。現在この戦後の社会においてわれわれが夫婦仲よくするというそういうものではないのです。これははっきりこう書いています。「葢シ妻ハ元ト体質孱弱ニシテ、多クハ労働に堪ヘザルモノナレバ、夫ハ之レヲ憫ミ、力ヲ極メテ之レヲ扶ケ、危難ニ遇イテハ、愈々之レヲ保護スベク、」それから「又妻ハ元ト智識才量多クハ夫ニ及バザルモノナレバ、夫ガ無理非道ヲ言ハザル限リハ、成ルベク之レニ服従シテ能ク貞節ヲ守リ、妾ニ逆フ所ナク、」ということですね。だから、この「夫婦相和シ」というのは、これは人倫の道といいますけれども、明らかに婦人というものははっきりと知識才量多くは夫に及ばないという立場に立っているのです。これが教育勅語における「夫婦相和シ」の理念なんですね。これは文部省検定による「勅語衍義」ではっきりと述べられています。これで教育が行なわれてきたのです。これが教育勅語における「夫婦相和シ」の理念なんです。  それからもう一つ申し上げたいと思います。これは昭和十九年に出ておりますところの「國体の本義解説叢書」、これは文部省教学局が出しています。親に孝にというのは一体何かという点ですね。これにははっきりと執拗に強調されておる点があるわけです。親に孝にというのはこういうことです。単なる孝行ではないのです。忠孝一体の思想から来ています。忠孝一体というのはそのほかにも軍人勅諭の中にも出てくるのですが、孝行というのは何かといいますと、「我が国の孝は、人倫自然の関係を更に高めて、よく国体に合致するところに真の特色が存する。我が国は一大家族国家であって、皇室は臣民の宗家にましまし、国家生活の中心であらせられる。」これを離れて孝はない。それは次に出てまいります。「我が国に於ては忠を離れて孝は存せず、孝は忠をその根本としてみる。国体に基づく忠孝一本の道理がここに美しく輝いてみる。」これがずっと強調される孝行の原理なんです。また次にこう書いています。「この忠を本として親に対する孝が成り立つ。それは我が国民が、相先以来行って来た古今に通じて謬らざる惟神の大道である。」こういうふうに出てまいります。それがいいという人もおいでになるでしょう。だから、教育勅語の徳目、親に孝に、夫婦相和し、こういう教育勅語の全体を通じてある理念というものは、いま単に徳目として出ておるものとは違う思想なんです。そこに田中総理教育勅語をよかった、人倫の大道が書かれていると言うことを私どもがすなおに受け取ることのできない面があるということを申し上げておきたいのであります。  さらに「之ヲ中外二施シテ悖ラス。」ということばがございます。この前に「一旦緩急アレハ、義勇公二奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」というのがあります。これは徳目が出ておりますけれども、句読点なしに最後の締めくくりは「一旦緩急アレハ」ですよ。だから、この親に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、と田中総理がこの間の参議院で答弁されている徳目というのは、一たん緩急あれば義勇公に奉じというこの天壌無窮の皇運を扶翼すべしで消えていくのです。そういう勅語の国語的流れというものも私は見ておかなければならないと思います。  同時に、「中外二施シテ悖ラス。」というのは一体何かということなんです。これはどういうことかというと、この勅語の精神は全世界に通用するという思想です。これはこういうふうに出ているわけです。わが国の理想的な万世一系の天皇を中心とする家族国家、これはわが国の外に見ることができ得ないというにすぎないので、いま世界各国はそうなっていないけれども、いずれの国家社会にありてもこれを理想とすべきであるという考え方に立っているわけですね。だから、この思想は、わが国の体制を世界各国に、「中外二施シテ悖ラス。」という、いわば侵略的な思想につながっていったのです。こういう考え方です。だから、これら幾つかの点を見まして、徳目はあります。徳目はあるけれども教育勅語の国語的流れ、教育勅語の持つ思想、それから教育勅語を長年にわたって日本の子弟に教えてきた日本政府教育のしかた、それはいま私が読み上げたわけですが、これを背景にしなければ、こういうものがあるからこそ、これは今日の戦後の社会に適切でないという衆参両院の議決になってあらわれて、廃棄されたわけです。それをいままたよかったという思想の背景には、これらを含めたものがあるということを当然考えておかなければならないわけです。そういう点で、いま田中総理がしばしば発言しておることは非常に危険なものを含んでおるということを私たちは指摘をしているわけです。その点を私は強調しておきたい。どうですか。
  46. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 山原さんとはかなり違った考えを私は持っております。まず一つは、占領下の時代についてのことでございます。あの当時は、国会で修正案を出そうと思いましても、占領軍の承認を得なければ出せなかったのです。ほんとうに国会は無力な存在でございました。飾りものでございました。私は、現実にその間に処してまいったわけでございまして、国会の先生方と、ぜひこれは改正をしたい、そういう場合には占領軍に対しまして頼みにも行きました。また、占領軍が国会の動きに対しまして、これには承認を与えていいか、与えないほうがいいかという相談も受けました。この事実だけは私はぜひ山原さんによく知っておいていただきたい。お願いを申し上げておきます。  第二に、教育勅語の中に将来に変わりのない人倫の道がいろいろ述べられているということを申し上げましたが、しかしその内容は違っているという御指摘がございました。私は、人間が社会を変えていくのだ、また社会が人間のよしあしの判断を変えていくのだ、こう思っておるものでございます。いま二つの点について御指摘がございました。一つは「夫婦相和シ」。「夫婦相和シ」の内容も、私はどんどん変わっていくと思うのであります。夫唱婦随がいわれておった。夫が唱えて妻が従っていく。いまそうじゃない。夫婦同権だ。どんどん変わっていくのです。また、親に孝を尽くす。かつては親に孝を尽くすために娘は身を売る、これも必ずしも否認されたわけじゃなかったのだと思います。いまはとんでもないことであります。私は、やはり社会の変化に従いまして善悪の判断もどんどん変わっていく、教育勅語に述べられている人倫の道の中身のとり方もどんどん変わっていくのでして、そう固定的に窮屈にお考えにならないで、どんどん努力をしていかなければならないと思うのでございます。私は、夫婦の間につきまして、夫がなくなれば妻に相続税を課する、反対であります。また、そういう意味において、相続税について妻についての控除もだんだん金額を上げていっているわけであります。所得税につきましても、私は私なりの考え方を持っておるわけでございまして、社会を変えていかなければならない、また善悪の判断もそれに従っていろいろと変わっていく、新しい内容が見出されていくものだ、こう私は考えておるわけでございまして、あまりに固定的に考えられますと、世の中は絶えず革命でも起こさなければ前進しないようなことになってしまうのじゃないかと、お話を伺いながら疑問を持ったわけでございます。私はいま申し上げましたような考え方に立っているわけでございますので、教育勅語の中に示されている多くの道、将来に変わりのない人倫の道がたくさん含まれておる、こう判断しておるわけでございます。
  47. 山原健二郎

    山原委員 考え方が変わるというならば、教育勅語という発想は出てこないと私は思うのです。人倫の道なんてたくさんありますよ。たとえば毛利元就が三人の子供を集めて、三人の子供に仲よくせよと言っているわけです。教育勅語というのはそんな単純なものではないわけですよ。一ぺん読んでごらんなさい。  それから、文部省が今日まで日本教育をあの戦争の中へ送り込んでいった長い明治以来の経過ですね。明治二十三年といえば、私はもちろん生まれておりませんけれども、私の県からは自由民権運動が起こりました。それは国会開設運動です。その第一回国会が召集される前にこの教育勅語が出されたのです。それ以来国会は、この教育勅語のために、まさに勅令という形態のために、教育について多くのことを語ることができないような状態がつくられていったその過程というものも知らなければなりません。徳目といえばたくさんあるわけです。そして多くの人たちが言っているわけです。それが教育勅語という発想になってくるところに問題がある。  それから同時に、あなたははっきりと言われたけれども、これは占領軍から押しつけられたものだ。だからあなたの本心は、教育勅語をあのとき残してよかったんだ、心ならずもおれたちは賛成したんだ、こういう論法でございます。しかし、日本の中にはあなた方のような考えだけじゃないのです。この教育勅語によって日本教育がどんなに国家主義的な、軍国主義的な教育になったかという反省もあったのです。それからまた、事実、私の聞いたところでは、占領軍の押しつけだけではなかったのです。これは当時の責任者が言っていますから。そういうこともあります。同時に、そういう状態で、かりにもし日本の国権に関して非民主的な押しつけをするならば、なぜ当時の国会議員はたとえ占領軍といえども戦わなかったのですか。占領軍には勝てないという思想だけでしょう、あなたが言っているのは。しかし、あのとき昭和二十四年にレッドパージだって来たのですよ。各県段階にまで占領軍の命令が来たのですよ。私は当時県の教育委員をしておりましたが、占領軍の命令で私はあのときに重労働まで科せられたのです。しかし、レッドパージがかつてどんな結果を生んだかというと、私は占領軍と戦ったのです。そしてそれをやめさせたこともあるのです。日本の国会議員が、占領軍があのときマッカーサーの命令だということで日本の国権を損害し、そして日本国民にとって重大なものをのけようとすることに対して、ほんとうにそれがいかぬものだったら戦ったはずですよ。それをいまになって、占領軍が言えば何でもあのときはやむを得なかったんだ、だから、この教育勅語は残したかったんだけれどもおれたちはできなかったんだ、こういう論法はいまは通りませんよ。しかもそれは、少なくとも衆議院、参議院における昭和二十三年の議決をいま奥野文部大臣そのものが否認しようとしている。重大な発言ですよ。どうですか、その点。国会の議決は偽りであった、押しつけられたものであった、こういうわけですか。
  48. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 どうも話をかってに発展させておられるようであります。私に総理大臣の趣旨を言えと言われるから、言わぬでもいいことをことさらに私の推測まで親切にお答えをしている。それで私は、徳目が忘れられがちだ、だからそれを指摘して注意を喚起しようとされているのだろう、こうお話をしたら、いや、教育勅語の徳目というのはこんな意味じゃないかとおっしゃるから、それは社会が変われば価値判断も変わってくるのですよ、親に孝行の内容も変わってくるのですよと、こう申し上げたわけであります。  同時に、教育勅語につきましては廃棄されているじゃないか、こう問題が出るでありましょうから、その前提として、終戦直後には政府側から文部大臣教育勅語はそのまま続けていくのだ、こう言って、舌の根もかわかぬうちにああいう国会の決議になった、それは当時占領下でございますので、占領軍の強い指導があって行なわれたことでしょうと、こう申し上げているわけでございまして、経過をそのとおりお答えをしているわけでございます。
  49. 山原健二郎

    山原委員 これ以上は、総理が出てきたときに総理みずからにお聞きすることにいたしましょう。  あともう短時間で終わりますが、今度総理が、私は、総理の考え方の背景にはいま私が指摘したような問題があると思いますが、五つの大切、十の反省ということを出されました。総理がそのことをたとえばどこの会場で言われても、それは御本人の座右の銘というものはみな持っているわけですから、けっこうなことかもしれません。しかし、それも率直に言えば、総理みずからに反省してもらいたいことだとも思いますけれども、今度文部大臣がそれを引き取って、この間の発表によりますと、各審議会にかける、あるいは全国教育会議か何かを集めて、この徳目を実施してもらうとかいうようなことを言っておられるのですね。そうなってくると、これは単に総理大臣のつぶやきではなくて、まさに文教行政の中へあなたはこの問題を持ち込んでおられるわけですが、これはどういうつもりですか。
  50. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 参議院の文教委員会で、総理が五つの大切、十の反省というものを掲げておられる、あれはどういう趣旨なのか確かめてほしいというお尋ねが社会党の議員の方からございました。それで私は率直に総理に尋ねたわけでございます。そうしたら総理は、問題の提起だ、これでどうしろこうしろという気持ちはないというお話がございました。せっかくの問題提起でございますので、私もまた、徳目に触れることが何か悪いような空気が一部にある、これはやはり避けなければならない、ただ、昔の修身教育的に記憶さえさせればいいんだということで道徳教育が行なわれるものだとは思っていない、その反省が過ぎて、逆に徳目というものを避け過ぎている、だから、やはり徳目を教育の中に生かす方法は考えなければならない、こう思っておったわけでございます。したがいまして、私としては、まず社会教育審議会において、社会教育としてどういうふうなプリンシプルを掲げたらいいものだろうか、御検討いただいたらいいじゃないだろうかと考えたわけでございます。たとえばボーイスカウトは三つの誓い、十二のおきてだったと思いますが、そういうものがございます。いろいろな団体それぞれございますが、それぞれの社会教育団体は社会教育団体なりに、自分たちはどういうことを眼目にして身を正していく、そういうふうな方針を明らかにしているわけであります。言いかえれば、徳目を掲げている、こう申し上げていいと思うのであります。そうしますと、社会教育の面において、現状にかんがみどういうようなプリンシプルを打ち出すことがいいだろうか、お互いに考えてもいいんじゃないだろうか、そういう意味で社会教育審議会で御検討いただけぬだろうかと思っておるところでございます。学校教育の面につきましては、昨年十一月に発足させました教育課程審議会に、私なりに、教育基本法に示されている、平和的な国家及び社会の形成者として心身ともに健康な国民を育てていかなければならない、こう考えているが、こういう点について学校教育は十分にいっているのだろうかどうだろうか、同時に、学校教育と社会教育の体系的な結びつきもくふうすべきじゃないでしょうか、こんなお願いをしているわけでございます。気持ちを率直に申し上げているわけでございます。いずれ教育課程審議会では、それぞれの専門分科会に分かれて議論をさらに進めるということになっているわけでございますので、そういう際には、いまの道徳の時間のあり方がいいか悪いか、御議論いただくことになるだろうと思いますので、そういう場合にはこういう問題もよく御検討いただいたらいいのじゃないだろうかと思っておるわけでございます。同時に、各学校におきまして校訓とか校是とかいうものをきめておられます。また、そのときそのときの努力目標も掲げておられます。そういう際に、総理が一つの提起をしているこういう徳目は、私は、時代時代ばかりじゃなしに、地域地域、そしてまた年齢年齢に応じて具体的な取り上げ方が変わってくるんじゃないだろうか、こう思っているわけでございますので、各学校におきましても、それなりのごくふうがあってしかるべきではないだろうか、そういう意味において、いろいろと積極的にくふうしていただいて、一そう徳育という問題が前進するようにはかっていくべきじゃないだろうか、したがってまた、教育長さんの集まりでもありました場合には、そういうことの話しかけはしたいものだな、かように考えているところでございます。
  51. 山原健二郎

    山原委員 そうすると、教育課程審議会に一度諮問はしたのだけれども、今度の総理の発言があったのでさらに追加諮問をしたという形態ですか。
  52. 奥野誠亮

    奥野国務大臣 社会教育審議会には諮問をしたいと思っておりますが、教育課程審議会は従来からそういう方向で御検討いただいているわけでございます。
  53. 山原健二郎

    山原委員 私は、ほんとうに教育行政にあずかる大臣として、この総理の発言についてもつぶさに検討して、それに対して反撃すべきところは反撃する、総理の考え方は古いとか、あるいはいままでの経過からいって間違っているとか……、それをうのみにするような——考え方が一緒だからうのみになるのかもしれませんけれども、少なくとも日本教育に携わる大臣でございますから、それなりの見識というものがあってしかるべきだと思っているのですよ。それから、この徳目にしましても、実際に友だち同士仲よくしたかというのもあります。しかし、今日五段階評価等の中で、実際に子供たちが友だち同士ほんとうに仲よくできるような体制にあるのか。競争の中に組み込まれているわけですね。入学試験なんかになったら、友だちをけ落とさなければならぬというような、そういう切実な、狭い門の中にみな追い込まれておるという状態の中で、むしろ私は反省すべきはだれかということを今日考えてみる必要もあると思うのですよ。  そういう中で、私たちはこう思っています。  おくれた子供を出さない教育をしたい。そのためにいままで教科書の問題なんかを取り上げてきました。  それから、正しい教育評価の確立をすべきだと思うのです。五段階評価の問題につきましても、いままでしばしば強調してきましたが、これではどうしても子供たちを仲よくさすなどという方向ではない。これこそアメリカ式の五段階評価の持ち込みだと私は思っています。  それから、正しい市民的な道徳というものをちゃんと教えていくということ、こういう考えに立っていますけれども、同時に、私どもは、その基礎はやはり日本の国の憲法、教育基本法の理念に立って、民主的社会の形成者にふさわしい道徳を身につけさすことが必要だと思っているわけです。  その内容としまして、互いの人格と権利を尊重してみんなのことを考えるということ。そして、うそやごまかしを排して真実と正義を愛する心を育てていく。それから、社会の生産をささえる勤労の重要な意義を身につけさせる。それから、みんなの協力を大事にしながら、自分の責任は自分で果たしていく自立心を高めていく。それから、封建的な「忠」や差別でなく、親きょうだいや隣人へのあたたかい愛情を育てていく。それから、民主的な市民として欠くことのできない公衆道徳をわきまえさせていく。それから、侵略戦争や暴力の賛美でなく、真の平和の愛好者に育てる。そして、排外主義や他民族べつ視でなく、真の愛国心と諸民族友好の精神を教えていく。今日の憲法、教育基本法を正しく理解するならば、そういう徳目と申しましょうか項目が教育の面で出てくるのではないか、こういうふうに私たちは考えております。この考え方は、少なくとも田中総理の言っておりますところの五つの大切、十の反省の背景になる教育勅語思想、軍人勅諭もよかったという思想とは異なるものであるというふうに私たちは考えておりますので、最後にそのような見解を述べまして、私の質問を終わります。
  54. 稻葉修

    ○稻葉委員長 この際、暫時休憩いたします。    午後零時二十九分休憩      ————◇—————   〔休憩後は会議を開くに至らなかった〕