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説明員(小出栄一君) それでは川崎航空機と新三菱重工の三社に結局最終的にはしぼりまして、一方を主とし一方を副といたしました事情でございまするが、それは、新三菱重工業につきましては、当時、F86Fジェット戦闘機を
昭和三十五年三月までに三百機製造するという生産
計画でもって、その当時におきましては、大体百号機まで製造を終っております。それから川崎航空機の方は、T33Aジェット練習機を
昭和三十四年三月までに二百十機製造するという
計画で、その当時におきましては百四十五号機まで製造を終っておったのであります。そこで、新三菱重工業におきましては、当時F86F生産のための直接工といたしましては約千六百名でございました。
昭和三十五年三月F86Fの生産を終了する時点を
考えました場合におきましては、その会社の名古屋の大江工場のサブアッセンブリー工場――約七千坪の工場がございまするが、これらの施設は、全く空白
状態になったというような
状況でございます。そういう仕事の
状況でございます。これに比べまして、川崎航空機の方は、その当時におきましては、T33A生産のための直接工は約八百五十名でございました。おもな組み立て工場約五千坪の相当部分というものは、当時すでに準備中でごさいました。P2V―7――対潜哨戒機の製造に転用するというようなことが
予定されておったのであります。一方、機械設備につきましては、新三菱重工業におきましては、フライス盤その他の高
性能の工作機械が割合に多い。従いまして、非常に高度の技術を、要しまする超音速機の製造のためには、機械設備におきましては、川崎航空機工業よりも、より加工能力が高いというような判断がなされたわけであります。それから実際の生産の
状況が、先ほど申しましたような、いわゆる工数の関係から申しまして、新三菱重工の方が、かなり余力があるという
状況でございます。また、技術、経験の面から申しましても、当時、新三菱重工は、
昭和三十二年度末からF1OODジェット戦闘機の修理を開始いたしておりまして、すでに超音速戦闘機についての実際の技術も知識も、ある程度有しておったというようなこと、それからF86Fジェット戦闘機の製造経験を持っておるというようなこと、それらの経験、技術というような点から申しましても、川崎航空機工業よりは、より適格性がやや高い、こういうふうな判断がなされたのであります。しかしながら、何と申しましても、当時
考えられておりまする戦闘機の生産につきましては、とうてい一社だけでは単独生産できないということは、これは明らかなことでございます。従いまして、大体、当時の
考え方といたしまして、次期戦闘機の加工工数が一機当たり約四万三千工数、月産七機といたしまして、一ヵ月に三十万工数というようなものがこれは必要であるというようなことを考慮いたしまして、従って、新三菱と川崎が共同で生産をするけれ
ども、しかし、主たる生産者、いわゆる主生産者としましては新三菱重工、これに対する
協力会社と申しまするか、副生産者としては川崎航空機工業、こういうことで、両社
協力してやらせるというようなことが最も適当である、こういうふうな結論に基づきまして、その
通りの内容を両方の会社に指示をした、こういうような経過であります。