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説明員(今井四郎君) まず、最初の御質問の点は、二十七年の七月の承認のときに、ホテルが載っておったという
お話でございますが、ホテルが載っておりましたとすれば、ちょっと私、はっきりその具体的な内容を今持っておらないのでありますが、その後それが変ったと思うのであります。
それから、よく地元の方が、使途
変更の申請を出して、それを承認したというようなことを言うのでありますが、
国鉄といたしましては、早い話が、細部の使途につきましては、時々非常に変化があるのでありまして、
国鉄は大綱を押えるといいますか、それよりいたし方がないような実際上の事務処理になっておるのでありまして、いろいろな言い方があると存じまするが、
国鉄といたしましては、先ほど申し上げましたように、二十八年の二月に会社ができまして、その会社が登記をされて、その内容として記載された一切の事業、そういうようなものを、二十八年五月三十日に、新しくできた会社に対しまして、従来の
あり方の民衆駅の構想を承認するというように解釈いたしておるのでありまして、特に使途
変更というようなものが出たかどうか、はっきり調べませんと、何とも私から御返事できないのでございます。
また民衆駅の設計の規模でありまするが、ただいまの
お話のように、二十八年の春ごろまでは、地下一階、地上五階で
計画されておりました。ところが、二十八年四月末に、地下一階を二階に、地上五階を八階にいたしまして、できるだけ奥行を、まだ約五メーター広げ得るから、奥行を五メーター広げさしてくれという設計
変更の出願がございました。これを東鉄並びに東京工事事務所で審査いたしまして、本庁に上ってきたのが、三十年の暮というふうな段階になりますが、それまでは内容の
検討ということに時間がかかったわけであります。
それから昨年の暮から非常にばたばた急いだというような
お話がありましたが、二十九年の六月中旬に換地指定がすっかり確定いたしまして、東京都からその通牒を受けておりして、その後今申し上げましたような設計内容の
検討その他で時がたちまして、別に特に急いだというわけでなしに、昨年の暮ぐらいから大体、この二十七年に承認をいたし、二十八年の五月に最終的な承認をした構想が動き出した。それまでには細目協定といいまして、こまかいいろいろな付帯設備のお互いの
あり方、分担の仕方、あるいは
財産の区分というようなものをこまかに相談する段階にあるのでありまして、それが三十一年の一月下旬に完結いたしまして、それで着工の段階に来た、こういう順序になるのであります。