○中村
公述人 ただいま
神川彦松先生から、
憲法を
改正すべきであるというお話がありました。その際
神川先生は、
国際政治の
専門の立場からお話しになったのでありますが、私は、戦前台北帝大に十年間
憲法を講じておりまして、その後
終戦後は、法政大学その他で
憲法を講義しております。そういう
憲法を講義しております経験からいって、この今の
憲法について、むろん批評はあります。
憲法の学問をするからには、各国の
憲法と比較していろいろ検討しなければならないわけです。ことに、旧
憲法と新
憲法と両方講義して参りました関係上、いろいろこれについての批評は持っております。しかし、現在ここで
憲法調査会というものが作られんとし、それによって単なる調査でなくて、われわれは研究上今の
憲法のいい悪いを検討するというだけですが、そういうのでなくて、ここに
憲法調査会というものを作って、実際は
憲法の
改正を強行しようとしている、こういうことについては大へん問題であると
考えます。ことに、この調査会法案の提案理由などを見ますと、抽象的に、
憲法のいいところ悪いところを検討するのだということを書いてありますけれども、すでに世間には、半公け的に各政党の
憲法改正案というものが公表されておりまして、新聞などで伝えるところによりますと、そういう従来の
改正案を総合し、これを調整して、大体そういう
改正案を
政府は作ろうとしているのであるということが、再三新聞などに伝えられているのです。そうしますと、ここで調査会法案というものが出されておりますけれども、実際にはこの一、二年の間に出されておる
改正案をまとめて、そしてそれを強行するためにこういう法案ができようとしていることは明らかだと思うのであります。そうなりますと、そういう具体的な今の段階における
改正というものを
承認していいかどうかということになりますと、これはわれわれが学問的に、
憲法の長所短所をただ客観的に検討するということとは違っておりまして、明らかにこれは政治問題であるし、また現在の国際情勢の中でこういう
改正をするのがいいかどうか、こういう問題になると思います。
先ほどから
神川先生は、
マッカーサー憲法ということを言われましたが、これは、政治家が
マッカーサー憲法というふうに失言されることは、あり得るかとも思いますが、先生のような
国際政治の
専門家が簡単にこう言われることについては、ちょっと疑問を持たざるを得ないのです。なぜかと申しますと、前の
憲法を
明治憲法というのは、明治の時代に作った
憲法だという意味でありましょう。またかりに
明治天皇の作った
憲法であるというのであるとするならば、それと同じ意味において、今の
憲法を
マッカーサー憲法ということはできないのです。
明治憲法は御
承知のように、
マッカーサーに比較しますと、ちょうど伊藤博文という人物がおりまして、その伊藤博文の
もとで井上毅という
ドイツ学者が主として原文を作りまして、伊藤博文の名において
天皇の御前会議にかけた
憲法です。そうして、その
天皇の御前会議で
承認されたことから、これは
天皇の作った欽定
憲法だ、こういわれております。それと同じような意味で今日の
憲法をいうならば、
マッカーサーに相当するものは井上毅というか、伊藤博文であります。その井上毅や伊藤博文の作った
原案を国会が検討して、そうして修正すべきところは修正して
承認したのでありますから、それは国会の作った
憲法といわなければならない。
原案をだれが持ち出したかというところで
マッカーサー憲法というのであれば、それは、旧
憲法の場合に、伊藤博文の作った
憲法だとか、井上毅が押しつけた
憲法だというのと同じでありまして、これは、
憲法学上はそういうことは従来言っておりません。
さて、そういうことは別としまして、今日ここに出されております調査会法案の説明を見ますと、この説明の理由によりましてこの法案が作られるというのであるとしますと、この法案の説明は、非常に根拠が薄弱であるし、ある部分、多くの国民が納得できないような理由を含んでおると思うのです。法案の内容については、これはほとんど制度上の問題ですから、あまり問題はないかと思うのです。それでも多少——たとえば、国会にこういうものを付置させないで、国会の
委員会としないで、内閣に置いたということが問題ではないか、これは非常に大きなことになります。その他については、調査会の構成そのものについては、それほど問題はないかと思いますが、しかし、そういう調査会をなぜ設けるかということを、国が、しかも内閣が責任をもって理由としてあげておるこの理由書というものは、実に矛盾しておるし、間違っておるし、これは全然提案の理由にはならないと私は思うのです。そこで、少しこれを検討してみたいと思うのです。
まず現行
憲法が民主主義、平和主義並びに基本的人権の尊重にその基本的
原則を貫いておるということは、何人も不可とするものではない、これは当然でありまして、このことを内閣あるいは国会の諸子が明瞭に自覚されておるならば、今日簡単に
憲法改正というような問題は出てくるはずはないと思う。現在の
憲法ほど各国の
憲法に比べて民主主義的であり、平和主義的であり、しかも基本的人権の保障においてよその国よりも厳重であるという
憲法は——私は、比較
憲法上はこれが最もすぐれた
憲法だと思います。それにもかかわらず、現在すでにもう
改正意見として出ております、自由党あるいは旧改進党、それから自主
憲法期成同盟、それらの
改正案と申しますものは、民主主義、特に国会の
権限をある程度制限しておる、そうして執行権を強化するとか、あるいは平和主義という点では、国際紛争の起った場合の話し合いの政治の余地をなくして、むしろ武力的な解決に頼まうとしている、そうして再
軍備をしようとしている。また基本的人権については、個々の条文について制限規定を設けていないために、
一般の国民は、何か基本的人権には
改正案は触れていないかのようでありますけれども、実際には
原則的な規定を設けまして、法律によってするならば、基本的人権はどういうふうにでも制限し得るというふうな規定を加えているのです。これは大へんな問題でありまして、旧
憲法時代はまさにそうでありました。法律をもってするならば、権利や自由は制限し得たのです。ところが今の
憲法でいう基本的人権というのは、法律をもっても制限し得ないというところに、思想の自由や言論の自由の問題があるのです。ところが戦時中は、言論や思想の統制法を次々に出しまして、そのときそのときの政治情勢によって言論統制や思想統制その他をやったわけです。宗教の弾圧もやっているわけです。それと同じことを、この各
改正案は共通して、法律によるならば制限していいと言っているのです。そうなりますと、これは基本的人権を尊重することでなくて、基本的人権を旧
憲法時代に戻すことなんです。そういう点で、もしこの民主主義と平和主義と基本的人権の尊重ということが基本的
原則で、これが最も大切だというならば、簡単に今
改正案を持ち出すはずはないわけです。
次にこの理由書は「現行
憲法が
昭和二十一年
占領の初期において連合国
最高司令官の要請に基き、きわめて短期間に立案制定せられたものであり、」こういうふうに断定しておりますが、
もともと終戦後
憲法を作るということは、これは連合国司令官の要請によるまでもなく、われわれがあの
戦争の経験に基きまして、軍国主義と独裁政治が再び起らないためには、どうしてもここに
憲法の
改正をしなければならない、民主的な
憲法を作らなければならないということをわれわれは主張しました。当時私どもの先生である美濃部達吉先生は、
憲法の
改正はする必要はない、
憲法が悪いのではなくて、独裁政治や軍部が悪かったのだから、
改正する必要はないと申されましたが、私は、これに反対でありまして、やはり
憲法改正をしなければ、再び戦時中のああいう誤まりを犯すというので、
憲法を
改正すべきだという主張をしておりまして、こういう言論は、国民の中からいろいろな形で出されておりましたし、当時民主的ないろいろな政党なども、そういう
意見を持っておりました。現に束久邇内閣当時でも
憲法改正の動きがありまして、私も多少当時は、その動きに関係もいたしました。ですから、その当時でさえも
憲法を
改正すべきだという声はあったのです。ことに
ポツダム宣言によれば、
日本の民主主義の復活強化ということを言っておりまして、
日本で民主主義の復活強化をするためには、ただ政治を民主的にするというだけでなく、その政治のよってきた
憲法、つまり
戦争中は、一たび事をしようとしましても、
憲法に違反するとか、あるいは国体に違反するというと、すべて政治がやれなかった。そういう
憲法上の制約を
撤廃して、
ほんとうに国民中心の
憲法を作ることが
終戦後の
日本の再建の道であり、
世界の大勢に合致することだったのです。そういうことから、何も
マッカーサー司令官によって急にこの
憲法改正が持ち出されたわけではないので、当時の心ある者は、みな
憲法改正をしなければならないというふうに
考えていたわけです。
しかももう少し具体的に申しますと、この連合国司令官が
憲法改正を要請したというのは、おそらく近衛氏に対して要請したことなどを言うのだと思いますけれども、当時すでにいろいろな方面で
憲法改正の必要がいわれておりまして、それを当時の
政府が怠っておりましたために、たまたま近衛氏に会ったときに、
マッカーサーがそれを示唆したわけ下す。
それからさらに、今の
憲法は、
マッカーサーの押しつけた
憲法であるとか、あるいは
マッカーサー憲法であるとかいうふうなことを軽々しく申しますけれども、そのことは大へん私は間違いだと思います。というのは、この文章としましても、すぐ次で問題になることです。「真に国民の自由意思によるものにあらざることは否定しがたき事実であります。」ということを提案理由にしているのです。果して国民の自由意思によるものでないということをどうして証明するのかということです。
それは、まず先ほどから
神川先生の申されるように、
マッカーサーが
原案を出したというところに相当問題があるかに思うんです。ところがこの
マッカーサーが
政府を通じて
原案を国会に出したということは、当初から
マッカーサーの方で
考えられたことではないのです。この点は先ほど申された民政局の
日本の政治的再建というあの
報告書によりますと、
アメリカ側がそのことを明確に言っております。というのは、
アメリカとしましては、最初から
憲法草案を用意したのじゃなかった。
日本政府がいわゆる松本案というものを準備しておりまして、これは公表されておりませんでした。ところが、その
占領報告書によりましても、また私自身の記憶によりましても、毎日新聞が当時これをすっぱ抜いたわけです。それを連合国側は見まして、
政府が
改正しようとしている内容はこういうふうな程度の
改正なのか——あの
改正案、発表されました松本案と称せられるものは、
天皇の
権限にはほとんど触れないで、議会の
権限を多少ふやすという程度のものでした。そういうものであるとすれば、これは
日本の民主政治の方向に合するものではない、こういうふうに
アメリカ側としては痛感したわけです。そこでさっそく
政府に、今作っている
原案を持って来いということで、
アメリカ側がそれを要求したというふうに書いてあります。そこで
アメリカ側としては、
政府がそういうふうな非民主的な草案を作っているようではいけないからというので、急に民政局が草案を作り始めた。ことにその民政局の
報告書の中には、その毎日新聞に発表された
政府案なるものに対して、
日本の民間側ではいろいろ反対があるといっています。われわれはそれに対して批評し反対したわけです。政党もそれに対して批評したわけです。つまり
日本が民主化しようというときに、こんな旧
憲法そのままの草案を作っているのではだめだということを批評した。つまりそのことによって、
アメリカ側としては、当時の
政府にまかせられないということで、初めてそこで草案を作ることを用意し始めたわけです。そうしますと、われわれ国民が民主的な
憲法を作れという要求は、松本案よりも、むしろその段階においては
マッカーサー司令部の方がそういう意思を反映してくれたと言ってもいいと思います。先ほどからの
神川先生の言論の中に、
アメリカの
占領下で作ったものはすべて悪い、すべて
占領政策だと一方的に断定されますが、
日本の民主勢力の中でも、そういう見方がないわけではありません。ちょうど裏返したように、
日本に対する
アメリカの
政策はすべて植民地化
政策だ、こういう判断をする見方があります。しかし、それはやはり極端なのでありまして、
占領下において
アメリカのやったことには、いいこともあれば悪いこともある。やはり
アメリカは、
日本に比べますと民主政治という点では先進国でありましたし、ことに
戦争中の
日本なんかに比べたら、比較にならないわけですから、そういう意味で、
アメリカが
占領下において
日本に教えたものの中には、非常にプラスもある、欠点ももちろんあります。それを、すべて
日本を従属させるための
政策であったというふうに断定することは、歴史を分析する仕方ではなくして、非常に独断的なものの見方だと思うのです。それで
アメリカとしましても、
占領下においては、
アメリカ本位に
日本憲法の
原案を作っているわけではないので、それだけに今
アメリカとしましては、
アメリカの都合のいいような再
軍備を要求しようとする場合に、
日本の
戦争放棄をした
憲法がじゃまになってきたわけです。このことは、
アメリカが
自分の都合のいいように
憲法を作ったのじゃないということを意味しておると思うのです。今
改正が持ち出されているのは、まさに
アメリカの要求する再
軍備のためであります。そういう意味でも、今の
憲法が矛盾しているわけです。そういうふうに、
憲法の条文の中にはいろいろの要素がありますが、これを、一がいに
占領行政の現われだと言うことはできないと思うのです。むしろそういう
占領行政の現われだと言って
改正を言っている人は、何を言おうとするかといえば、今の
憲法の中にある国民中心の基本的人権を尊重したり、国会が中心であったりする、それを
改正しようと言うのでありますから、それは、つまり今の
憲法の内容があまり国民本位にできている、国民本位にできているということは、これは
占領政策だ、こういうふうな非常に矛盾したことを言っているわけです。
さて話が余談になりましたが、問題になっているのは「国民の自由意思によるものにあらざることは否定しがたき事実であります。」こういう断定をどうしてできるのか、当時
原案は、確かに
アメリカ側から出されましたが、これを
日本の
法制局なんかが折衝しまして、そして一応妥当な線のところまで持ってきた。そしてこれを国会にかけたのです。そしてその国会では、百日余り審議しまして、そして修正すべきところは修正し、衆議院においては四カ条、貴族院においては三カ条の条文を加えました。それから全面的に条文の字句を訂正しております。そういう国会、皆さん方の今属しておられるこの国会、その前身である帝国議会、これは国民の意思を反映するものと見るほかはないと思います。皆さん方の御
意見自身が国民の意思を反映するものと思うのであります。同時にまた、当時の帝国議会が国民の意思を反映したものと見るほかはないと思います。当時の議会は国民の意思を反映しなかったのだと言うならば、これは議会そのものを信用しないということでありまして、内閣が議会を信用しないということはわかりますけれども、その内閣の出したそういう理由を国会が
承認するというのはおかしいと思います。そして国民の意思というものは、時の国会と違うときもあるでしょうけれども、しかし一応国会に現われたものを、国民の意思と見るよりほかないと思います。このことが
憲法においても、国会は国民の代表機関であると言っている理由であります。でありますから、その議会が修正すべきところは修正し、
承認した。最後的にはその議会が内容を決定しているのです。まるのみ込みをしたのじゃないのです。しかも審議権そのものを動かされたということではないので、ただだれが
原案を出したか、その
原案をどういうふうに了解してこれを受け入れたか、その責任をとったのは国民を代表する議会ですから、その意味で、議会が
承認したものは国民の意思と言わざるを得ないと思います。また当時の議会は、その
マッカーサー草案と称せられるものを自由に検討したということは——本来旧
憲法の手続によって
改正するならば、旧
憲法の七十三条によりますと、
憲法の
改正案というものは、勅命をもって議会の議にかけるのです。それで、この
マッカーサー草案というものは勅命の形で議会にかけられたわけですが、その場合に、旧
憲法の
改正の法的な性質としましては、
天皇のみが発議権を持っておりまして、議会側が発議権を持っておりませんために、旧
憲法における
憲法の
改正という場合には、議会は新しい条項を加え得ない。出された
原案を修正することはいいが、新しい条項をここに加えますと、その部分については
天皇の発議権を侵すことになるから、
憲法改正の場合だけは、普通の法律案と違いまして、新しい条項は加え得ないというのが、旧
憲法の定説であります。ところがあの議会では、相当自由に討論しまして、衆議院においては四カ条、貴族院においては三カ条加える、そうしていろいろな部分の新しい
言葉を加えている。そのくらい自由に、いわゆる
マッカーサー草案というものを検討しているわけです。でありますから、これを簡単に、国民の自由意思によるものでないというふうに言うことは、間違いであると思います。
それからさらにその次に「過去約九カ年におけるこれが実施の経験にかんがみまして、わが国情に照らし種々検討を要すべき」ものがある、こういうふうに言っております。まず国会としまして、作られた
憲法が果して守られているかどうか、こういうことを検討するのが当然だと思いますけれども、その作られた
憲法が、いろいろな形で事実守られていない点があるわけです。その守られていないことについて、なぜそういうことになっているのか、そういう
憲法違反の行為に対してどうするか、こういうふうな検討を、国会としまして今まで十二分にやってこられ、また内閣がその違憲の事実に対して、九十九条のいうように、
憲法擁護の義務から、特に
憲法を守っていく、こういうことを十二分にしてきたならいいですが、その逆に、
憲法に違反する事実が出てきた場合に、その方に加担して
憲法の条文を再検討する、こういうことは、本来九十九条でいう
憲法擁護の義務を持っている
政府や国会の方々としては、どうもその責任を果しているように私どもには思えない。
もともとこの
憲法は、
日本の民主化のために作られたものです。
憲法の基本精神は、この中で言われている
通り、民主主義と平和主義とが基調になっている。そういう民主主義や平和主義という点では、
日本は、あの
終戦までは、軍国主義や独裁主義にわずらわされておりまして、
ほんとうに民主主義や平和主義の方向に進むだけの実力を持っておりませんでした。そのために、たまたまここに
憲法の力をかりて、そうして民主的な平和的な
憲法の示すところに従って、実際の社会の実情をそこまで持っていかなければならなかった、そういう努力をしなければならなかったのです。このことは、
憲法制定のときの衆議院の附帯決議の中にも、そういう
憲法の条文に沿って
日本を民主化することについて、あらゆる努力をしなければならないということを言っている。そのくらいでありますから、実情を
憲法に合せるということに努力しなければならないのに、逆に民主化されてない実情の方に
憲法を逆行させようとする、そうして、あたかも旧
憲法時代に戻そうとするような
改正というものは、
日本のとるべき方向ではないと
考えます。
そこで最後に、この文章を見ますと、この際新たなる国民的立場に立って
憲法に全面的検討を加える、こう言っておりますが、新たなる国民的立場とは何か、自主的な国民的立場とは何か。これは、最近
アメリカの極東
政策に基いて再
軍備が要求される、それに基いて
憲法の
改正をして、
戦争放棄の規定を変えてしまう、そういうことではなくて、そういうふうな外からのいろいろな要請や圧迫がありましても、きぜんとしてこの平和の
憲法を守り抜くということが、新しい国民的立場であると私は
考える。その意味からいいまして、この
政府の提案理由は非常に矛盾しておりますし、こういうふうな理由でもし
憲法改正のための調査会を作るとすれば、末代までその恥を残すことになると思います。
それから調査会の構成の問題ですが、本来こういう調査会というものは、国会が発案——
憲法改正の場合でも発案するのが筋でありまして、内閣がほかの法律案と同じように
憲法改正の発案をしても、それをもって直ちに
憲法違反というふうには私は言えないと思いますが、しかし本来は、やはり国会が国民に対して発議するほどでありますから、
改正案を作るという場合でも、国会の内部で調査会ができて、そしてそこで調査や審議が行われる。ある場合にそれが発案されるというようなことが自然であると思うのですが、それをなぜ内閣に置くのか。おそらくその理由としまして、国会に置いたのでは、国会議員だけの構成になってしまう、学識経験者などは国会の
委員会だと加えられない、こういうふうに言われるのだと思うのです。ところが学識経経者と申しましても、つい先ごろの小選挙区を審議したあの選挙制度の
委員会でもわかりますように、学識経験者全員が反対しましても、強引にああいうふうにして通してしまう、こういうことでは、内閣に調査会を設けて学識経験者を二十名も入れるといいましても、実際はそうした人たちの
意見はあまり尊重しないのではないか。今の
政府では、おそらくそういう
やり方になるのじゃないかと思います。これでは、
政府に調査会を設ける理由がないように私は思います。
大体以上をもって私の
公述を終ります。(拍手)