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1956-03-16 第24回国会 衆議院 内閣委員会公聴会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和三十一年三月十六日(金曜日)     午前十時三十二分開議  出席委員    委員長 山本 粂吉君    理事 大平 正芳君 理事 保科善四郎君    理事 受田 新吉君       大坪 保雄君    大村 清一君       北 れい吉君    小金 義照君       椎名  隆君    薄田 美朝君       高橋  等君    辻  政信君       床次 徳二君    眞崎 勝次君       松浦周太郎君    粟山  博君       山崎  巖君    山本 正一君      茜ケ久保重光君    飛鳥田一雄君       石橋 政嗣君    稻村 隆一君       片島  港君    西村 力弥君       細田 綱吉君  出席公述人         東大名誉教授  神川 彦松君         法政大学教授  中村  哲君         都立大学教授  戒能 通孝君  委員外出席者         専  門  員 安倍 三郎君     ————————————— 本日の公聴会意見を聴いた案件  憲法調査会法案について     —————————————
  2. 山本粂吉

    山本委員長 これより憲法調査会法案について公聴会を開会いたします。  開会に当りまして、公述人各位に一言ごあいさつ申し上げます。本日は御多忙中にもかかわらず貴重なるお時間をさいて御出席いただき厚くお礼申し上げます。  本委員会におきましては、先般来より、本案の審議を慎重に進めて参ってありますが、その重要性にかんがみまして、広く公正なる世論を反映せしむるため、本日は特に公述人各位の御出席をお願いいたしました次第であります。何とぞ忌憚なき御意見なり御批判なりを承わることができますれば、本委員会の今後の審査に多大の参考になるものと存じます。  それでは、これより逐次御意見を承わることにいたしますが、一応全部の御意見を伺った上で、委員各位より公述人各位に対する質疑を行うことにいたします。  なお、初めの公述の時間は、一人当り約二十分程度にお願いいたします。  なおこの際念のため公述人各位に申し上げますが、衆議院規則によりまして、公述人各位の御発言委員長の許可を得ること、またその発言の内容は意見を聞こうとする問題外にわたらないこと、公述人から委員に対しての質疑をしてはならないことになっておりますので、お含みおき願います。  では、公述人神川彦松君。
  3. 神川彦松

    神川公述人 御指名によりまして私の意見を申し上げますが、私は過去四十年来国際政治学国際政治史並びに国際法の研究に従事して参ったのであります。それで私は本日そういう専門家の立場からいたしまして、今の日本憲法を再検討し、全面的にこれを書き改めなければならないということについての私の意見を申し上げたいと思うのであります。  まず第一に、今の憲法は本来英語で書かれた憲法である、すなわち英文憲法であって日本語憲法ではないということなんであります。  この憲法がどうしてできたかということは、実は占領中は全く、ほとんど全く日本人には知らされていなかったのであります。その後に、至りましてだんだんアメリカから資料が参り、また著述が出まして、初めてその真相がわかって参ったのでありまして、それはようやく一、二年のことなのであります。でありますから、一、二年前までは、日本人はこの憲法ほんとうにどうしてできたかということは全然知らなかった、いわばわれわれ日本人はつんぼさじきに置かれておったのであります。この数年来、まず第一には、マッカーサー元帥その人が本国に送りましたところの憲法改正に関する報告、御承知のポリティカル・リオリエンテーション・オブ・ジャパンという報告、これは一九五〇年に本国に送られて公表された。これによって初めて、大体において日本のこの憲法がどういうふうにしてできたかという経過世界に知らされたのであります。それまでは、何人も公けには知らなかった。また国務省が出しましたオキュペーション・オブ・ジャパン・ポリシー・アンド・プログレスというような本、あるいはファーイースタンコミッションが出しましたアクティヴィティズ・オブ・ファーイースタンコミッションというような記録、あるいはまた占領中の内情に通じておりますマーク・ゲインのジャパン・ダイアリーであるとか、あるいはハーリー・ワイルズのタイフーン・イン・トーキョー、そういうふうな著書か出ました。さらには一昨年日本で、この憲法原案が初めて天下に発表されまして——むろんその原案は、まだアメリカ日本も発表していないのでありますが、日本内で初めてその原案か発表されました。初めてこの憲法原案がどういうものであるかということが、一般に、知ろうと思えば知れるようになったのであります。しかしながら、遺憾ながらまだそういう経過というものは、日本人一般には知られていないのでありまして、ほんとうにどういう経過をもってできたかということを一般に認識するに至っていないという現状なのであります。  この憲法は、普通の憲法と違いまして、全く国際政治産物なのであります。大体憲法というのはみな国内政治産物であり、また革命推進力としての国内的政治権力所産でなくちゃならない。ところがこの憲法に限りましては、その推進力は、一に外国政治権力軍事権力であった。ここにこの憲法の根本的の特色があるわけです。いかなる革命も、いかなる憲法も、その推進力たる政治的権力なしには行われません。こんなことは、皆さんにお説法するまでもないのでありますが、その政治的権力が一に外国軍事権力政治権力であった、こういうような憲法というものは、世界あってこの憲法以外にはありません。これに若干似ておるのは、ドイツボン憲法たけであります。また従って世界憲法史上にも全く類例のない憲法でありまして、従ってこういう憲法というものは、普通の憲法学とか、普通の憲法史だけではわからないのでありまして、全く国際政治史、また国際政治学的な観点から研究しなければわからないということは当然のことであります。これかすなわち私がこの問題に対して深甚の関心を持ったわけなのであります。  こういうわけで、今の憲法外国軍事権力政治権力所産であると申しましたが、それは言うまでもなく戦勝国、特にアメリカでありますが、戦勝国占領政策産物なのであります。この第二次世界大戦というものは、無条件降伏という実に有史以来前例のない主義政策もとに遂行され、また終結いたした。これは私が専門としております国際政治史から申しまして、実に前代未聞の主義方針であります。その主義方針からこの憲法が生まれてきたのでありますから、その主義方針が何であるかということを知ることが、この憲法の性格を知ることの第一なんでありますが、それはもう全世界に知られておるのです。世界においてだれも知らぬ者がないというほど知られておるいわゆる五つのDの政策というものがある。五つのDの政策というものをアメリカ戦争政策とし、また占領政策とし、占領目的といたしたわけでありまして、この五つ政策というのはDという言葉で始まっておりますために、五つのDの政策というふうに世界に知られておる。すなわちその第一は、ディスアーマメント、軍備撤廃ということなのであります。これが第二次世界戦争における米英中心眼目であったわけなのであります。戦敗国をして完全に軍備撤廃せしめるということが戦争目的の第一であり、従って占領政策の第一であったわけであります。これは言うまでもなく完全にその国の陸海空軍撤廃することなのであります。そしてそのことは終戦直後に始められ、負けた国はみなその軍備撤廃させられた。さらにこれを永遠化するということが占領政策のやはり眼目でございまして、すなわちそれが第九条第二項前段として実行されたわけなのであります。それから第二はディミリタリゼーション、すなわち非軍事化政策といわれておるものでありまして、これはただに形をなした陸海軍ばかりではないのであります。また陸海軍Lはならないが、一変すればすぐ陸海軍になるという一切の実力なのであります。それがすなわち戦力を徹底的に撤廃しない限り、戦敗国を無力にすることはできないという考えから、非軍事化という政策考えられたのであります。アメリカ占領政策の第一が日本軍備撤廃並びに非軍事化であるということは、マッカーサーに与えられたところの訓令を見ますと、しばしば繰り返されておりますから、だれも疑うことができない。この非軍事化すなわち戦力撤廃ということが、やはり第九条第二項前段にうたわれておることも御承知通りである。第三は、ディスインダストリアリゼーション、すなわち非産業化政策、これがまた資本主義国の親玉である米英の主たる目的でありまして、戦敗国たるドイツ日本を完全に非産業化する、非近代化する、できれば中世期農業生産国にするというのが本来の目的であった。それを普通モーゲンソー・プランといって、戦争中から世界に知れわたっておったことは御承知通りであります。むろんその通りは実行できませんで、モーゲンソー・プランを緩和はいたしましたけれども、ドイツ及び日本を完全に非産業化して、そして世界資本主義市場というものを米英が永久に独占したいという考え方を持っておったのが第三であります。ところがそのことは同時に第一、第二の政策と相通ずるのでありまして、非近代産業化というものは、近代軍備を持つことはできない。国家をして非近代化させるということは、すなわち非軍事化せしめることなのでありますから、従ってこれは要するにドイツとの両面でありまして、結局は第一、第二の目的にもかなうことなのです。これがすなわち第三の政策である。第四はディセントラリゼーション、これはアメリカ伝統的システムでありますところのフェデラリズムの現われでありまして、すなわちドイツ日本に対して政治的、行政的、経済的、文化的、あらゆる面においてディセントラライズせしめるという政策をとったのであります。ドイツにおいてはそれが十分に行われましたが、ちっぽけな日本では行われませんでした。しかしながらでき得る限り占領軍は行政的に、また経済的、文化的にディセントラライズいたしたのであります。第五がいわゆるデモクラティゼーション、民主主義化であります。民主主義化こそ日本において最も力強く宣伝されましたが、しかしながらアメリカのデモクラティズムは、いうまでもなくアメリカデモクラシー世界にしくということで、いわゆるアメリカン・オブ・ライフなのであります。アメリカ生活法を全世界にしいて、アメリカの経済的、政治的、文化的勢力を全世界にいきわたらせることが本意でありましょう。この五つ政策、これを実現することが米英戦争目的であり、占領政策であったわけであります。これを実現するために無条件降伏という従来前例のない徹底的政策をとったわけであります。でありますからこの五つ政策を実行しますのに、無条件降伏というこれまた前代米国政策でありまして、いまだかつて行われたことはなかったのでありますが、要するに戦敗国というものを一時滅亡せしめるのであります。これをローマ法ではデベラチオと申しました。すなわち戦争によって絶滅した状態に陥れて、軍事占領の間に戦敗国を思う存分あらゆる方面を料理する。すなわち今中しました五つ政策というものを思う存分に実行するのが、すなわち無条件降伏であるわけであります。でありますから。ポツダム宣言にしても、また降伏文書にいたしましても、これは決して条約でも合意でもありません。これは全く一方的な命令なのであります。このことはアメリカ本国マッカーサーに与えましたところの権限の文士によってはっきりうたっておる。ここでは時間がありませんから、詳しくは申しませんが、要するにマッカーサー司令官に絶対的な軍事独裁権を与えたのであります。何ものにも制限されないのであります。日本とは何ら条約合意もないのであります。全くアメリカ及び最高司令官がやりたいと思うこと、またやる必要のあることは何でもかんでもできる。いわば絶対的軍事独裁権マッカーサーに与えた。そういう軍事独裁権を持って五つ政策を実行したのが、すなわち占領当時であったわけであります。この軍事占領軍事統治の結果といたしまして、今の憲法ができたのであります。ところがこの憲法を作るということは、アメリカ戦争中から考えております。さすがにどうも先見の明のある国でありまして、戦争の半ば以後、日本無条件降伏させた後どういうふうに日本を治めるかということを、国務省陸海軍の三省の合議体でもってよく研究しておりました。そして終戦になりまするや、同時にその政策を次々にマッカーサーに授けたのでありますが、マッカーサーに授けました権限の中に明かに日本政治制度を改革するとい一項があった。すなわちマッーカーサーは初めから日本政治制度を改革する。すなわち日本政治的革命を実行するという権限が与えられているわけであります。ところが遺憾ながら占領の年の末にマッカーサーの手からその権限極東委員会の手に移ってしまったのであります。すなわち終戦の年の十二月二十六日のモスクワ三国協定によりまして日本占領統治に関する最も重大な政策とか原則とか、標準というものは、全部これは極東委員会が作る。ただマッカーサーはこれをインプルーブメント、それを実行する任に当るという明確な協定ができて、マッカーサー憲法に手を入れる権限を失ってしまったのであります。このことは占領の翌年一月に極東諮問委員会の人々がマッカーサーをたずねましたときに、マッカーサーははっきり言っている。もう自分憲法に関する権限は失われた。ところがアメリカにおいてはそうではなかったのであります。アメリカ本国におきましては極東委員会が発足する前に、新憲法という既成事実を作ってしまいたいという決意を固めました。終戦の翌年の一月七日、国務省陸海軍調整委員会SWNCCと普通いわれておりますが、ステート・ウオー・ネーヴィ・コーディネーティング・コミッティという名前でありますが、その委員会大急ぎ日本統治制度の改革、すなわちレフォーム・オブ・ガヴァーメンタル・システム・オブ・ジャパンということをきめた。これはSWNCC二二八の文書にあるのであります。このSWNCC二二八の命令によりまして、マッカーサーはたちまち憲法を作るという決意を固めざるを得なかったと思います。これがすなわち占領の翌年の二月二日であります。そこでマッカーサー元帥はこのアメリカ命令と、アメリカの提供しました材料基礎にいたしまして、部下を督励いたしまして、わずかに一週間、すなわち占領の翌年の二月四日から二月十日に至る一週間で今の憲法原案を作ったのであります。しかもそれに関係した者はしろうとでありまして、ただ一人憲法専門家というものは入っていなかった、しろうとがでっち上げたのでありますが、材料本国から来ておりますから、本国材料によってマッカーサー部下の者がわずか一週間で作りましたのが、大体において今日の憲法原案なのであります。ところが二月十三日に、御承知のように、ホイットニーケーディスなどを引き連れまして、当時の吉田外務大臣松本国務大臣をたずねて、それを下げ渡している。これをもとにして憲法を作れ、この通り憲法を作れとは言わないが、しかしながら根本原則及び基本形態、フォンドメンタリ・オブ・プリンシプルス・アンド・べージック・フォームスという言葉を使いまして、根本原則及び基本形態というものは全部ゆるがしてはいかぬ。もしもこの憲法を作らなければ、天皇の身柄も保障するわけにはいかない、天皇のからだを保障するわけにはいかない、こういうことを申して日本憲法改正を迫ったのであります。そこでいろいろ紆余曲折がありますが、とにかくどうしてもこれに従うほか道がないというので、とうとう三月四日から五日、マッカーサー司令部におきまして、日本から出ましたのは結局は法制局佐藤達夫君一人でありますが、佐藤達夫君一人と、向うホイットニーケーディス、その他司令部首脳部総がかりで、一夜のうちに、今のマッカーサー原案というものを基礎にして、逐語訳的に日本憲法にいたしたのであります。これは大体において先に申しましたマッカーサー原案と同じでありまして、ただわずかにニカ条だけが変ったのであります。その他多少の違いはありますが、結局九五%までは全然もと通りのものなんであります。そうしてでき上りましたものが三月六日の憲法改正草案であります。これがすなわち世間でマッカーサー憲法原案と呼んでいるものであります。マッカーサー憲法原案なるものがすなわち三月六日にできたのであります。このマッカーサー原案というものがもし発表されますならば、これは全く英語憲法である。また司令部が作ったものであるということがはっきりわかりますために、アメリカ政府も、従ってまた日本政府も、今もってよう発表しないのである。さすがのマッカーサーも良心に恥じるのでしょう、今もってこれを世界に発表しない。しかしながら幸いに一昨年六月、日本渡辺銭蔵氏が発表してしまった。でありますから、これをわれわれしろうとが読んでも十分わかるのでありまして私も現に持ってきているのでありますが、今の憲法には英文憲法がついている。コンスティチューション・オブ・ジャパンという英語憲法がついている。これと比較対照しますと九五%は同じことである。結局今の憲法というものは、マッカーサー憲法原案というものを口日本語に逐語訳したものにすぎない。とにかく向うの書いたものを日本語に訳すのでありますし、しろうとがかかったのでありますから、多くの点において拙訳、誤訳が今もって残っているのであります。そういう憲法がすなわち今の憲法なのであります。むろんその後多少変りました。変りましたけれども、そのおもなるものはファーイースタンコミッション指令によって変ったのであります。それはファーイースタンコミッション記録を見れば明白でありまして、結局日本側イニシアチブで変ったものはないのであります。日本側イニシアチブで変ったものも多少こまかい点はあります。しかしそれとても決して日本側がきめたものではない。なぜならば、これはみな司令部が許可して初めてきまったものであります。なぜならば、これは司令部承認もとにできたものであります。この訳語の一点一句といえども、向う承認なしにはきまらなかった。かくのごとくにして、要するにおもなるところは、すべてみなと言ってもいいくらい、向うイニシアチブによってきまったものであります。ところがこういうことをすべてみな当時は秘密にしたのであります。なぜならば、これはマッカーサーが、またアメリカが、極東委員会を出し抜いて作らなければならないから、どうしても大急ぎでやらなければならない。また極東委員会指令を無視したのである。極東委員会がこの指令幾ら公表せいと迫っても、決してこれを公表しなかったのであります。そうしてまた極端なる検閲政策をとった。当時はすべての出版物みな事前検閲もとにやったのでありますから、その真相日本なんかに知れるはずはない。また世界にもなかなか容易には知れなかったのであります。そういうわけでありまして、要するに極秘のうちにやったのであります。なぜそういうような政策をとったかということは、マッカーサーがしばしば述懐しておりますが、マッカーサーはこういうことを申しております。マッカーサーといえども、こういうような憲法やり方がいいとは思っていないのです。確かにこの憲法やり方というものは間違っていると思っている。これは先ほど申しました本国政府に対しますところの報告のうちで、こう言うているのです。およそ権力や優越な軍事力によって強制されたものは、圧制の色彩を帯びるばかりでなく、ほんとうデモクラシー対蹠物、アンチテーゼである。だから本来こういうやり方というものがデモクラシーであるはずはない。従ってこんなふうにして憲法ができたということが、やがて日本人にわかれば、幾ら日本人だってこれを変えようという考えになることはわかっているから、あたかも日本人自分の手で作ったかのようにやらなくちゃいかぬ、そのためにそういうやり方をしたのだということを、しばしばマッカーサーはその後語っているわけであります。でありますから、悪いことは知っておるのでありますけれども、それがわかってしまえばあとで本人が変えてしまう違いない、こう考えたのでしょう。これはもうしばしば言うておるのです。銃剣によって日本人に押しつけられたならば、その銃剣が存在する限りは存在し、軍隊が撤退しかつ日本人が彼ら自身が勝手にせられると、その瞬間に彼らはその憲法から免れるだろう こういうことをしばしばマッカーサーは言うておる。これは当然のことなんです。でありますから、マッカーサーはすべてのことを秘密のうちに運んだわけなんであります。かくのごとくにしてできたのがすなわち今の憲法でありますから、これは本来マッカーサー憲法原案ほとんどそのままである。これを拙訳、誤訳したものが今の憲法である。でありますから、もしほんとうならばこれは英語で発表すべきものなのです。これを下手な日本語で発表したから今日問題が起った。もし初めからフル・テキストで出しておいてくれさえすれば問題はなかった。だから今日でも日本憲法にはコンスティチューション・オブ・ジャパンという英文がついている。だれでも憲法を最初研究いたします場合には、原語にはどうなっておるのかということを探る。原語がこうなっておるということを知って日本語の翻訳が適当かどうかが判明する。だからコンスティチューション・オブ・ジャパンがオリジナル・テクストだということを知っているし、日本の六法全書にはすべてコンスティチューション・オブ・ジャパンがついているのです。だから本来正直な政府ならば、また占領統治中ならば、英語で公布してしかるべきものなのです。それをいろいろな細工をして、これをあたかも日本政府が作ったように、日本人が作ったように、また御丁寧に明治憲法の七十三条かなんかでやったかのようにやったから、問題が残ったのであります。今は日本中学生に教師が、今の憲法はこのままでいいかと言いますと、すべてみな異口同音に、このままではいかぬ、どうしても直さなければいかぬと言うそうです。なぜかというその説明を聞きますと、今の憲法はかなづかいが違っている、これは旧式かなづかいである、これは新式かなづかいじゃない、だからこれは全部書き直さなければいかぬと言うそうであります。これはなるほどその通りなんです。昭和二十一年の五、六月ごろにはまだ新式かなづかいがきまっていなかった。旧式かなづかいだった。だから今の憲法の本文は旧式かなづかいになっている。旧式かなづかいだから直さなければならぬというのはもっともなことなんです。でありますから、もし今の憲法ほんとう英語で公布されておってごらんなさい。これは小学生といえども、これはいかぬ、これは英語憲法です、これはどうしたって日本語憲法に直さなければならぬと言うでしょう。中学生ですらそんなことはわかるのです。それがおとなの日本人にわからぬというのはどうしても不思議なことです。(笑声)どうしてこんなことがわからないのですか。これは何と言ってもマッカーサー憲法でしょう。すなわちスターリンが主になって作った憲法スターリン憲法です。一九三五年のソビエト憲法スターリン憲法といっている。また一八七〇年のドイツ帝国憲法ビスマルク憲法といわれている。また明治天皇憲法明治憲法といわれているでしょう。これはそれでいいわけでしょう。実際スターリンが作ったのですからスターリン憲法ビスマルクが作ったからビスマルク憲法明治天皇が主になって作られたから明治憲法でけっこうなんでしょう。マッカーサーが主になって作ったのだから、マッカーサー憲法と言うのが何が悪いのですか。これほど天下公明なことはないじゃないですか。マッカーサー憲法と言うたらマッカーサーが喜ぶでしょう。マッカーサー憲法がいつまでもそのままで残っているということは、ほんとうマッカーサーの本意ではないと私は思いますが、とにかくマッカーサー憲法には相違ない。マッカーサー憲法原案ならほとんど誤訳はない憲法なんですから、これがマッカーサー憲法でなくてどうしますか。でありますから、こういうマッカーサー憲法に対しては、日本国の忠良なる公民である私は、遺憾ながら腹から忠誠の念をささげることはできません。(「同感々々」と呼ぶ者あり)私はこれは日本国民に対して訴えたいのです。もしほんとうにこの憲法に忠誠の念をささげる人があるとしますならば、それこそマッカーサー帝国の忠良なる臣民に違いないと私は考える。遺憾ながら日本にはマッカーサー帝国の忠良なる臣民が一ぱい満ちているのです。実に遺憾千万なことであります。何としましても日本人日本人日本にしなくはいけません。いつまでも日本マッカーサー日本であってはいけませんですよ。なるほどソ連はスターリンのソ連であってもいいかもしれません。またドイツビスマルクドイツであってもよかったかもしれません。またある場合には、日本明治天皇日本であってもよかったかもしれません。しかしながら、われわれの日本は、何としても日本人日本でなければならない、こう私は確信するものであります。これが私の意見であります。(拍手)
  4. 山本粂吉

    山本委員長 委員長より公述人各位にお願いを申し上げます。速記者が、英語を多く使われると速記が大へんとりにくいと申しますから、英語を御使用の場合は、なるたけごゆっくり御発言を願い、それの訳をおつけ下さるよう、特にお願い申し上げます。  では中村哲君。
  5. 中村哲

    ○中村公述人 ただいま神川彦松先生から、憲法改正すべきであるというお話がありました。その際神川先生は、国際政治専門の立場からお話しになったのでありますが、私は、戦前台北帝大に十年間憲法を講じておりまして、その後終戦後は、法政大学その他で憲法を講義しております。そういう憲法を講義しております経験からいって、この今の憲法について、むろん批評はあります。憲法の学問をするからには、各国の憲法と比較していろいろ検討しなければならないわけです。ことに、旧憲法と新憲法と両方講義して参りました関係上、いろいろこれについての批評は持っております。しかし、現在ここで憲法調査会というものが作られんとし、それによって単なる調査でなくて、われわれは研究上今の憲法のいい悪いを検討するというだけですが、そういうのでなくて、ここに憲法調査会というものを作って、実際は憲法改正を強行しようとしている、こういうことについては大へん問題であると考えます。ことに、この調査会法案の提案理由などを見ますと、抽象的に、憲法のいいところ悪いところを検討するのだということを書いてありますけれども、すでに世間には、半公け的に各政党の憲法改正案というものが公表されておりまして、新聞などで伝えるところによりますと、そういう従来の改正案を総合し、これを調整して、大体そういう改正案を政府は作ろうとしているのであるということが、再三新聞などに伝えられているのです。そうしますと、ここで調査会法案というものが出されておりますけれども、実際にはこの一、二年の間に出されておる改正案をまとめて、そしてそれを強行するためにこういう法案ができようとしていることは明らかだと思うのであります。そうなりますと、そういう具体的な今の段階における改正というものを承認していいかどうかということになりますと、これはわれわれが学問的に、憲法の長所短所をただ客観的に検討するということとは違っておりまして、明らかにこれは政治問題であるし、また現在の国際情勢の中でこういう改正をするのがいいかどうか、こういう問題になると思います。  先ほどから神川先生は、マッカーサー憲法ということを言われましたが、これは、政治家がマッカーサー憲法というふうに失言されることは、あり得るかとも思いますが、先生のような国際政治専門家が簡単にこう言われることについては、ちょっと疑問を持たざるを得ないのです。なぜかと申しますと、前の憲法明治憲法というのは、明治の時代に作った憲法だという意味でありましょう。またかりに明治天皇の作った憲法であるというのであるとするならば、それと同じ意味において、今の憲法マッカーサー憲法ということはできないのです。明治憲法は御承知のように、マッカーサーに比較しますと、ちょうど伊藤博文という人物がおりまして、その伊藤博文のもとで井上毅というドイツ学者が主として原文を作りまして、伊藤博文の名において天皇の御前会議にかけた憲法です。そうして、その天皇の御前会議で承認されたことから、これは天皇の作った欽定憲法だ、こういわれております。それと同じような意味で今日の憲法をいうならば、マッカーサーに相当するものは井上毅というか、伊藤博文であります。その井上毅や伊藤博文の作った原案を国会が検討して、そうして修正すべきところは修正して承認したのでありますから、それは国会の作った憲法といわなければならない。原案をだれが持ち出したかというところでマッカーサー憲法というのであれば、それは、旧憲法の場合に、伊藤博文の作った憲法だとか、井上毅が押しつけた憲法だというのと同じでありまして、これは、憲法学上はそういうことは従来言っておりません。  さて、そういうことは別としまして、今日ここに出されております調査会法案の説明を見ますと、この説明の理由によりましてこの法案が作られるというのであるとしますと、この法案の説明は、非常に根拠が薄弱であるし、ある部分、多くの国民が納得できないような理由を含んでおると思うのです。法案の内容については、これはほとんど制度上の問題ですから、あまり問題はないかと思うのです。それでも多少——たとえば、国会にこういうものを付置させないで、国会の委員会としないで、内閣に置いたということが問題ではないか、これは非常に大きなことになります。その他については、調査会の構成そのものについては、それほど問題はないかと思いますが、しかし、そういう調査会をなぜ設けるかということを、国が、しかも内閣が責任をもって理由としてあげておるこの理由書というものは、実に矛盾しておるし、間違っておるし、これは全然提案の理由にはならないと私は思うのです。そこで、少しこれを検討してみたいと思うのです。  まず現行憲法が民主主義、平和主義並びに基本的人権の尊重にその基本的原則を貫いておるということは、何人も不可とするものではない、これは当然でありまして、このことを内閣あるいは国会の諸子が明瞭に自覚されておるならば、今日簡単に憲法改正というような問題は出てくるはずはないと思う。現在の憲法ほど各国の憲法に比べて民主主義的であり、平和主義的であり、しかも基本的人権の保障においてよその国よりも厳重であるという憲法は——私は、比較憲法上はこれが最もすぐれた憲法だと思います。それにもかかわらず、現在すでにもう改正意見として出ております、自由党あるいは旧改進党、それから自主憲法期成同盟、それらの改正案と申しますものは、民主主義、特に国会の権限をある程度制限しておる、そうして執行権を強化するとか、あるいは平和主義という点では、国際紛争の起った場合の話し合いの政治の余地をなくして、むしろ武力的な解決に頼まうとしている、そうして再軍備をしようとしている。また基本的人権については、個々の条文について制限規定を設けていないために、一般の国民は、何か基本的人権には改正案は触れていないかのようでありますけれども、実際には原則的な規定を設けまして、法律によってするならば、基本的人権はどういうふうにでも制限し得るというふうな規定を加えているのです。これは大へんな問題でありまして、旧憲法時代はまさにそうでありました。法律をもってするならば、権利や自由は制限し得たのです。ところが今の憲法でいう基本的人権というのは、法律をもっても制限し得ないというところに、思想の自由や言論の自由の問題があるのです。ところが戦時中は、言論や思想の統制法を次々に出しまして、そのときそのときの政治情勢によって言論統制や思想統制その他をやったわけです。宗教の弾圧もやっているわけです。それと同じことを、この各改正案は共通して、法律によるならば制限していいと言っているのです。そうなりますと、これは基本的人権を尊重することでなくて、基本的人権を旧憲法時代に戻すことなんです。そういう点で、もしこの民主主義と平和主義と基本的人権の尊重ということが基本的原則で、これが最も大切だというならば、簡単に今改正案を持ち出すはずはないわけです。  次にこの理由書は「現行憲法昭和二十一年占領の初期において連合国最高司令官の要請に基き、きわめて短期間に立案制定せられたものであり、」こういうふうに断定しておりますが、もともと終戦憲法を作るということは、これは連合国司令官の要請によるまでもなく、われわれがあの戦争の経験に基きまして、軍国主義と独裁政治が再び起らないためには、どうしてもここに憲法改正をしなければならない、民主的な憲法を作らなければならないということをわれわれは主張しました。当時私どもの先生である美濃部達吉先生は、憲法改正はする必要はない、憲法が悪いのではなくて、独裁政治や軍部が悪かったのだから、改正する必要はないと申されましたが、私は、これに反対でありまして、やはり憲法改正をしなければ、再び戦時中のああいう誤まりを犯すというので、憲法改正すべきだという主張をしておりまして、こういう言論は、国民の中からいろいろな形で出されておりましたし、当時民主的ないろいろな政党なども、そういう意見を持っておりました。現に束久邇内閣当時でも憲法改正の動きがありまして、私も多少当時は、その動きに関係もいたしました。ですから、その当時でさえも憲法改正すべきだという声はあったのです。ことにポツダム宣言によれば、日本の民主主義の復活強化ということを言っておりまして、日本で民主主義の復活強化をするためには、ただ政治を民主的にするというだけでなく、その政治のよってきた憲法、つまり戦争中は、一たび事をしようとしましても、憲法に違反するとか、あるいは国体に違反するというと、すべて政治がやれなかった。そういう憲法上の制約を撤廃して、ほんとうに国民中心の憲法を作ることが終戦後の日本の再建の道であり、世界の大勢に合致することだったのです。そういうことから、何もマッカーサー司令官によって急にこの憲法改正が持ち出されたわけではないので、当時の心ある者は、みな憲法改正をしなければならないというふうに考えていたわけです。  しかももう少し具体的に申しますと、この連合国司令官が憲法改正を要請したというのは、おそらく近衛氏に対して要請したことなどを言うのだと思いますけれども、当時すでにいろいろな方面で憲法改正の必要がいわれておりまして、それを当時の政府が怠っておりましたために、たまたま近衛氏に会ったときに、マッカーサーがそれを示唆したわけ下す。  それからさらに、今の憲法は、マッカーサーの押しつけた憲法であるとか、あるいはマッカーサー憲法であるとかいうふうなことを軽々しく申しますけれども、そのことは大へん私は間違いだと思います。というのは、この文章としましても、すぐ次で問題になることです。「真に国民の自由意思によるものにあらざることは否定しがたき事実であります。」ということを提案理由にしているのです。果して国民の自由意思によるものでないということをどうして証明するのかということです。  それは、まず先ほどから神川先生の申されるように、マッカーサー原案を出したというところに相当問題があるかに思うんです。ところがこのマッカーサー政府を通じて原案を国会に出したということは、当初からマッカーサーの方で考えられたことではないのです。この点は先ほど申された民政局の日本の政治的再建というあの報告書によりますと、アメリカ側がそのことを明確に言っております。というのは、アメリカとしましては、最初から憲法草案を用意したのじゃなかった。日本政府がいわゆる松本案というものを準備しておりまして、これは公表されておりませんでした。ところが、その占領報告書によりましても、また私自身の記憶によりましても、毎日新聞が当時これをすっぱ抜いたわけです。それを連合国側は見まして、政府改正しようとしている内容はこういうふうな程度の改正なのか——あの改正案、発表されました松本案と称せられるものは、天皇権限にはほとんど触れないで、議会の権限を多少ふやすという程度のものでした。そういうものであるとすれば、これは日本の民主政治の方向に合するものではない、こういうふうにアメリカ側としては痛感したわけです。そこでさっそく政府に、今作っている原案を持って来いということで、アメリカ側がそれを要求したというふうに書いてあります。そこでアメリカ側としては、政府がそういうふうな非民主的な草案を作っているようではいけないからというので、急に民政局が草案を作り始めた。ことにその民政局の報告書の中には、その毎日新聞に発表された政府案なるものに対して、日本の民間側ではいろいろ反対があるといっています。われわれはそれに対して批評し反対したわけです。政党もそれに対して批評したわけです。つまり日本が民主化しようというときに、こんな旧憲法そのままの草案を作っているのではだめだということを批評した。つまりそのことによって、アメリカ側としては、当時の政府にまかせられないということで、初めてそこで草案を作ることを用意し始めたわけです。そうしますと、われわれ国民が民主的な憲法を作れという要求は、松本案よりも、むしろその段階においてはマッカーサー司令部の方がそういう意思を反映してくれたと言ってもいいと思います。先ほどからの神川先生の言論の中に、アメリカ占領下で作ったものはすべて悪い、すべて占領政策だと一方的に断定されますが、日本の民主勢力の中でも、そういう見方がないわけではありません。ちょうど裏返したように、日本に対するアメリカ政策はすべて植民地化政策だ、こういう判断をする見方があります。しかし、それはやはり極端なのでありまして、占領下においてアメリカのやったことには、いいこともあれば悪いこともある。やはりアメリカは、日本に比べますと民主政治という点では先進国でありましたし、ことに戦争中の日本なんかに比べたら、比較にならないわけですから、そういう意味で、アメリカ占領下において日本に教えたものの中には、非常にプラスもある、欠点ももちろんあります。それを、すべて日本を従属させるための政策であったというふうに断定することは、歴史を分析する仕方ではなくして、非常に独断的なものの見方だと思うのです。それでアメリカとしましても、占領下においては、アメリカ本位に日本憲法原案を作っているわけではないので、それだけに今アメリカとしましては、アメリカの都合のいいような再軍備を要求しようとする場合に、日本戦争放棄をした憲法がじゃまになってきたわけです。このことは、アメリカ自分の都合のいいように憲法を作ったのじゃないということを意味しておると思うのです。今改正が持ち出されているのは、まさにアメリカの要求する再軍備のためであります。そういう意味でも、今の憲法が矛盾しているわけです。そういうふうに、憲法の条文の中にはいろいろの要素がありますが、これを、一がいに占領行政の現われだと言うことはできないと思うのです。むしろそういう占領行政の現われだと言って改正を言っている人は、何を言おうとするかといえば、今の憲法の中にある国民中心の基本的人権を尊重したり、国会が中心であったりする、それを改正しようと言うのでありますから、それは、つまり今の憲法の内容があまり国民本位にできている、国民本位にできているということは、これは占領政策だ、こういうふうな非常に矛盾したことを言っているわけです。  さて話が余談になりましたが、問題になっているのは「国民の自由意思によるものにあらざることは否定しがたき事実であります。」こういう断定をどうしてできるのか、当時原案は、確かにアメリカ側から出されましたが、これを日本法制局なんかが折衝しまして、そして一応妥当な線のところまで持ってきた。そしてこれを国会にかけたのです。そしてその国会では、百日余り審議しまして、そして修正すべきところは修正し、衆議院においては四カ条、貴族院においては三カ条の条文を加えました。それから全面的に条文の字句を訂正しております。そういう国会、皆さん方の今属しておられるこの国会、その前身である帝国議会、これは国民の意思を反映するものと見るほかはないと思います。皆さん方の御意見自身が国民の意思を反映するものと思うのであります。同時にまた、当時の帝国議会が国民の意思を反映したものと見るほかはないと思います。当時の議会は国民の意思を反映しなかったのだと言うならば、これは議会そのものを信用しないということでありまして、内閣が議会を信用しないということはわかりますけれども、その内閣の出したそういう理由を国会が承認するというのはおかしいと思います。そして国民の意思というものは、時の国会と違うときもあるでしょうけれども、しかし一応国会に現われたものを、国民の意思と見るよりほかないと思います。このことが憲法においても、国会は国民の代表機関であると言っている理由であります。でありますから、その議会が修正すべきところは修正し、承認した。最後的にはその議会が内容を決定しているのです。まるのみ込みをしたのじゃないのです。しかも審議権そのものを動かされたということではないので、ただだれが原案を出したか、その原案をどういうふうに了解してこれを受け入れたか、その責任をとったのは国民を代表する議会ですから、その意味で、議会が承認したものは国民の意思と言わざるを得ないと思います。また当時の議会は、そのマッカーサー草案と称せられるものを自由に検討したということは——本来旧憲法の手続によって改正するならば、旧憲法の七十三条によりますと、憲法改正案というものは、勅命をもって議会の議にかけるのです。それで、このマッカーサー草案というものは勅命の形で議会にかけられたわけですが、その場合に、旧憲法改正の法的な性質としましては、天皇のみが発議権を持っておりまして、議会側が発議権を持っておりませんために、旧憲法における憲法改正という場合には、議会は新しい条項を加え得ない。出された原案を修正することはいいが、新しい条項をここに加えますと、その部分については天皇の発議権を侵すことになるから、憲法改正の場合だけは、普通の法律案と違いまして、新しい条項は加え得ないというのが、旧憲法の定説であります。ところがあの議会では、相当自由に討論しまして、衆議院においては四カ条、貴族院においては三カ条加える、そうしていろいろな部分の新しい言葉を加えている。そのくらい自由に、いわゆるマッカーサー草案というものを検討しているわけです。でありますから、これを簡単に、国民の自由意思によるものでないというふうに言うことは、間違いであると思います。  それからさらにその次に「過去約九カ年におけるこれが実施の経験にかんがみまして、わが国情に照らし種々検討を要すべき」ものがある、こういうふうに言っております。まず国会としまして、作られた憲法が果して守られているかどうか、こういうことを検討するのが当然だと思いますけれども、その作られた憲法が、いろいろな形で事実守られていない点があるわけです。その守られていないことについて、なぜそういうことになっているのか、そういう憲法違反の行為に対してどうするか、こういうふうな検討を、国会としまして今まで十二分にやってこられ、また内閣がその違憲の事実に対して、九十九条のいうように、憲法擁護の義務から、特に憲法を守っていく、こういうことを十二分にしてきたならいいですが、その逆に、憲法に違反する事実が出てきた場合に、その方に加担して憲法の条文を再検討する、こういうことは、本来九十九条でいう憲法擁護の義務を持っている政府や国会の方々としては、どうもその責任を果しているように私どもには思えない。もともとこの憲法は、日本の民主化のために作られたものです。憲法の基本精神は、この中で言われている通り、民主主義と平和主義とが基調になっている。そういう民主主義や平和主義という点では、日本は、あの終戦までは、軍国主義や独裁主義にわずらわされておりまして、ほんとうに民主主義や平和主義の方向に進むだけの実力を持っておりませんでした。そのために、たまたまここに憲法の力をかりて、そうして民主的な平和的な憲法の示すところに従って、実際の社会の実情をそこまで持っていかなければならなかった、そういう努力をしなければならなかったのです。このことは、憲法制定のときの衆議院の附帯決議の中にも、そういう憲法の条文に沿って日本を民主化することについて、あらゆる努力をしなければならないということを言っている。そのくらいでありますから、実情を憲法に合せるということに努力しなければならないのに、逆に民主化されてない実情の方に憲法を逆行させようとする、そうして、あたかも旧憲法時代に戻そうとするような改正というものは、日本のとるべき方向ではないと考えます。  そこで最後に、この文章を見ますと、この際新たなる国民的立場に立って憲法に全面的検討を加える、こう言っておりますが、新たなる国民的立場とは何か、自主的な国民的立場とは何か。これは、最近アメリカの極東政策に基いて再軍備が要求される、それに基いて憲法改正をして、戦争放棄の規定を変えてしまう、そういうことではなくて、そういうふうな外からのいろいろな要請や圧迫がありましても、きぜんとしてこの平和の憲法を守り抜くということが、新しい国民的立場であると私は考える。その意味からいいまして、この政府の提案理由は非常に矛盾しておりますし、こういうふうな理由でもし憲法改正のための調査会を作るとすれば、末代までその恥を残すことになると思います。  それから調査会の構成の問題ですが、本来こういう調査会というものは、国会が発案——憲法改正の場合でも発案するのが筋でありまして、内閣がほかの法律案と同じように憲法改正の発案をしても、それをもって直ちに憲法違反というふうには私は言えないと思いますが、しかし本来は、やはり国会が国民に対して発議するほどでありますから、改正案を作るという場合でも、国会の内部で調査会ができて、そしてそこで調査や審議が行われる。ある場合にそれが発案されるというようなことが自然であると思うのですが、それをなぜ内閣に置くのか。おそらくその理由としまして、国会に置いたのでは、国会議員だけの構成になってしまう、学識経験者などは国会の委員会だと加えられない、こういうふうに言われるのだと思うのです。ところが学識経経者と申しましても、つい先ごろの小選挙区を審議したあの選挙制度の委員会でもわかりますように、学識経験者全員が反対しましても、強引にああいうふうにして通してしまう、こういうことでは、内閣に調査会を設けて学識経験者を二十名も入れるといいましても、実際はそうした人たちの意見はあまり尊重しないのではないか。今の政府では、おそらくそういうやり方になるのじゃないかと思います。これでは、政府に調査会を設ける理由がないように私は思います。  大体以上をもって私の公述を終ります。(拍手)
  6. 山本粂吉

    山本委員長 次に戒能通君。
  7. 戒能通孝

    ○戒能公述人 現在の憲法マッカーサー憲法かどうかという議論につきましては、私は今論じないつもりでおります。ただし先ほど神川先生のおっしゃったような理屈がもし通るといたしますと、日本天皇は、自分の身の安全をはかるために、日本の国をアメリカに売ったんだという結論になってくるようでございます。私は、そんなふうに考えたくございません。天皇は、自分の身を守るためにみずから国を売ったんだ、アメリカに売ってしまったんだ、マッカーサーに売ってしまったんだ、こんなふうに考えたくはございません。これだけ一つ申し上げたいと思います。  そして私自身がこの法案を拝見してみますと、私には、どうしても不合理であると思われる点がしばしばございます。第一に、純粋に法的な立場から申しますと、なぜ憲法調査会を内閣に置いて、その費用を国費から支出するのか、理由が薄弱であります。憲法改正は、御承知通り内閣の提案すべき事項ではございません。内閣は憲法の忠実な執行者であり、また憲法もとにおいて法規をまじめに実行するところの行政機関であります。従って、内閣が各種の法律を審査いたしまして、憲法に違反するかどうかを調査することは十分できます。しかし憲法を批判し、憲法を検討して、そして憲法を変えるような提案をすることは、内閣には何らの権限がないのであります。この点は、内閣法の第五条におきましても、明確に認めているところでございます。内閣法第五条には「内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出」するというふうにありまして、どこにも憲法改正案の提出という問題は書いてございません。「その他」というふうな言葉がございますが、「その他」という中に憲法改正案を含むのだというふうに言うのは、あまりにも乱暴な解釈でありまして、ちょっと法律的常識では許さないというふうに考えているわけであります。内閣法のこの条文は、事の自然の結果でありまして、内閣には、憲法の批判権がないということを明らかに意味しているものだと思います。なぜならば、内閣は一つの活動体であります。内閣に憲法改正案の提出権がないということは、内閣が憲法を忠実に実行すべき機関である、憲法を否定したり、あるいはまた批判したりすべき機関ではないという趣旨を表わしているのだと思うのであります。憲法改正を論議するのは、本来国民であります。内閣が国民を指導して憲法改正を全図するということは、むしろ憲法が禁じているところであるというふうに私は感じております。しかるにもかかわらず、この法案が、憲法調査会を内閣に置いて、日本憲法を検討させるということは、純粋の法理論の立場から見ましても、はなはだ賛成できないことでございます。元来内閣に憲法の批判権がないということは、憲法そのものの立場から申しまして当然でございます。内閣は、決して国権の採光機関ではございません。従って国権の採光機関でないものが、自分のよって立っておるところの憲法を批判したり否定したりするということは、矛盾川でございます。  第二に、内閣総理大臣以下の各国務大臣は、いずれも憲法自身によって任命された行政官でありますから、従って憲法を擁護すべきところの法律上の義務が、憲法自身によって課せられているのでございます。こうした憲法擁護の義務を負っているものが憲法を非難する、あるいは批判するということは、論理から申しましてもむしろ矛盾であると言っていいと思います。従って、内閣がこのような義務を負いながら、現在の憲法改正するということを前提とするような憲法調査会を置くというのは、間違った考え方ではないかと思います。もし、この憲法調査会が置かれた結果といたしまして、内閣の希望しないような改正案、検討が加えられるということになりますと、内閣は、おそらくその結果を無視するでありましょう。内閣が希望するような憲法改正を行うとすれば、結局内閣そのものが憲法そのものに手を触れることになってしまうのではないか、内閣が国民を動かして憲法改正を指導する結果になってしまうのではないかというふうに感ずるわけであります。憲法改正は、決して国費によって内閣が行うべきものではございません。国民自身が行うべきものであるというふうに感じられているわけであります。従って、形式的にいってみまして、どんなふうにつじつまを合せましても、ともかくこの法案は、趣旨自身が間違っておるのではないかというふうに感じているわけでございます。  第三に、この法案が提出される前に、すでに元の自由党の岸信介氏を主任者としましての改正案要綱のような、試案のようなものが発表され、改進党も清瀬私案という一種の試案を発表するというふうなわけで、すでに多数の改正案、試案というものが公けにされているわけでございまして、これとこの憲法調査会法案との間が全然無関係でないということは、当然予想していいだろうと思うのであります。ところが、今まで発表されましたところの各試案によりますと、いずれも単に憲の立法技術的な改正のみにとどまりません。憲法の根本に触れるような改正を企図していることは明らかであると言っていいと思います。しかもその中におきまして問題になる点は、一体国民の主権をどうするか、主権の存在をどうするかという問題が、第一に出て参ります。そうして多くの憲法学者の通説によりますと——ごく少数の人は別でありますが、通説によりましても、主権の所在、つまり政治的な組織を決定する権限の所在の移行は、憲法改正という手続によって行われるものではない、もし政治体制を決定するような決定権の所在を移行させるような憲法の条文の改正をするということになると、これは憲法改正という観念ではなくて、むしろ革命とか反革命とかいうような観念であるというように説明している書物が多いのであります。これは、ある程度まで正しいのでありまして、法律論としてはともかくとして、観念的、常識的には確かに正しいのでありまして、主権の所在を移行させるような憲法改正ということになると、これは改正ではないのであります。従って、むしろ革命なり反革命なりということになってくると言っていいと思います。政党は、革命をやろうと反革命をやろうと、そんなことは自由でございましょう。特にそれを憲法上の手続でやろうということになるならば、これは自由でございましょう。しかし、それを調査すべきものは政党自身でございまして、決して内閣ではない。内閣は、主権の所在点を変更するような改正案を企図すべき立場にはいないことは、確かだと思います。主権の所在というものを規定する出発点と同様に、その前提といたしましては、言論とか思想の自由とか、いわゆる基本的人権を含めて、つまり法律によっても制限できないところの思想の自由、言論の自由、表現の自由、結社の自由というものを認めなければ、政治体制の決定権が国民にあるとは申せないのであります。従って、主権の所在を変えるのは、当然基本的人権の問題につながっていくわけでございます。基本的人権の所在点を変えて、法律の制限の中での言論の自由、法律によるところの、法律の監視の中での言論の自由、思想の自由というものを認めることになりますと、やはり何といっても、根本的に申しまして、憲法改正ではなくして、むしろ革命ないし反革命ということにならざるを得ないと思うのであります。今まで発表された各種の試案によりますと、言論の自由やおそらく思想の自由を含めてまでも、法律によって制限できるという案が出てきているわけでございます。この案を前提とするような改正論ということになって参りますと、これは、おそらく内閣のもとに置かれるところの憲法調査会の権限をはるかに越えるといわなければならないと信じております。  さらに日本憲法というものは、非常に基本的な一つの政策を持っております。これは、要するに戦争をしないという政策でございます。またこの基本的政策があればこそ、他方におきまして社会保障、それから最低限度ではあるにせよ、健康にして文化的な生活の保障というものができるのでございます。これがなかったら戦争——をすることを前提としたら、おそらく経済的な面、財政的な面から申しまして、社会保障は全然やめなければならないことになるのは当然の話だと思うのであります。少くとも健康にして文化的な生活の保障というふうなことは、言えなくなってくるわけでございます。従って、現在の憲法が持っておる基本政策を変えるような憲法の変更ということになると、これも同じような意味におきまして、憲法改正ではなくて、やはり変革なんだ。従って、これは内閣の所管事項からはずれるというふうに考えなければならないと思うのであります。のみならず、現在すでに内閣総理大臣も、国会の中などで、しばしばはっきり言っておられるわけであります。憲法を変えたい、その憲法を変える内容は、軍備を持つんだということを、しばしば言っておられるようであります。このことは、すでに内閣が、この調査会の人選に当りましても、クリーン・ハンドでなくなっている、いわゆる清き手でなくなっているということじゃなかろうかと思うのであります。すでに自分自身で一つの方向がある、その方向に合致するような委員の選出をすることを前提としているんじゃなかろうかと思うのであります。従って、内閣に憲法調査会委員を置きましても、それは決して公正で、客観的で、純粋に基礎から積み上げていくような改正論を論議するのではなくて、むしろ一定の方向づけられた改革論、改正論を権威づけるための手段になるにすぎないといっていいかと思うのであります。この意味におきまして、現在の憲法調査会法案というものは、それ自身すでにクリーン・ハンドでなくなっていると感ぜられるわけでございます。  第四番目に、憲法改正するとかしないとかいうふうな調査の仕事をするにつきまして、現在の時期ははなはだ適切でないというふうに感じております。ということは、日本の現在の状態は、決して独立した状態ではないからであります。このことは、私自身が申したというのではかえって悪いのであります。自由党の方がおっしゃったのを、私自身がはっきり聞いたのでございます。しかもそれは、国内でおっしゃったことではございません。国外に行かれて、外国の総理大臣の前で言われたことを、私自身聞いているわけでございます。一昨年のことでありますが、私中国に参りまして、議員団の方と一緒に、向うの総理大臣の周恩来氏と会見したことがございます。そのときにその席上で、当時自由党に所属しておられた山口喜久一郎氏が、このように言っておられます。周総理及び日本側の代表も申しました通り、中日両国が仲よく手をつながねばならぬことは、だれしも一致した考えであります。これがどうして早くその希望を達しないかということは、いろいろ故障がありますが、今後は、これを一日も早く取り除いていかねばならぬと、私は国会議員として考えております。たとえば東京から北京まで飛行機で四時間しかかからないのに、わざわざ香港を経由しなければならぬというような隘路があると思います。これについては、中国よりも日本の方に非常な困難があります。と申しますのは、中国はソビエトと今回の大戦ではともに戦い、ともに戦勝国という立場にあります。この関係でいうならば、アメリカ日本とは戦勝国戦敗国の立場にあることは御存じの通りです。ここに中国側よりも日本政府もしくは日本人側に困難があるということを御了解いただきたいと思います。というふうに述べておられます。これを受けまして周恩来氏は、次のように申しました。中国人民は日本政府と平和関係を求めています。しかし政府はわれわれを承認しない。この困難の根本原因は、ただし日本政府にあるのではなく、その頭の上に一人の太上皇帝がいるからだと思います。すなわちアメリカがおるからだと思います。天皇日本を支配しているのではなくて、アメリカが支配している、日本人天皇を尊敬しても、それは自由である、しかし日本天皇の上にアメリカがおる、これがわれわれと日本との関係を妨げておるものである、というふうに周恩来氏は言ったのであります。これは、外国の総理大臣が日本の議員に言った言葉でありまして、非常に失礼な言葉であると私は感じました。しかし、その失礼な言葉に対しまして、そこにおられました当時の自由党並びに改進党の議員は、何ら反駁されておりませんでした。ということは、結果において見ますと、現在の日本が決して完全な独立国ではない、文字通りの独立国ではない。形の上では独立したような形をとっておりますけれども、実際におきまして、独立の状態に達していないということを意味しておると思う。また山口さんも、いかにしたら日本の独立を達成するかということに努力されておるというふうに私は感じたわけであります。現在独立しないのに、あたかも独立しておるということを前提にして憲法改正を論議するということは、私は間違っておると思うのであります。いかにして独立するかが第一でありまして、憲法改正はその次の問題であるということにならざるを得ないだろうと思うのであります。憲法調査会法案というふうなことは、現在の国内の政治情勢から申しましても、はなはだ不当のように感じております。というのは、明日あたり小選挙区法が出るということでございます。私にある新聞記者が話してくれたのでありますけれども、自民党案として前に発表された小選挙区の区割り制度がもし実現されるということになりますと、社会党、共産党、労農党は、前の選挙の経験にかんがみて、おそらく千三、四百万票ぐらいはとれるであろう。しかし確実にとれる議席はせいぜい五、六十にすぎない。しかもその五、六十のうちかなりの議員の人が、まかり間違うと五百票とか千票足りなくて落選をして、ほんとうに確実にとれるのは十人前後かもしれないよと言っておるのでございます。一方におきまして千数百万票もとれる票がある。ところが議席は十だ、あるいは五十だ、他方には二千万票の投票で、しかも議席が四百五十だ、四百九十だというふうになって参りまして、しかもその国会の多数で憲法改正が押し切られてしまうということになって参りますと、一体議会制度に対する国民の信頼というものはどうなるでございましょうか。どなたにしましても、国会においでになっておる以上は、議会制度というものを十分御尊重になり、そうして議会の信頼がいかにしたら保持できるかということを、最も大きな関心の対象にしておられると思います。ところが現在の憲法改正案を作り上げよう、しかも改正案を作るところの原案基礎になる調査会は、これは社会党のいる時分に作った法律だというふうな形で押し切られてくるということになって参りますと、国内の相互的対立が非常に激化することになるのではなかろうかと思うのでございます。従って、かりに小選挙区制度がとられた結果として、投票と議席のアンバランスが消えるために少くともその間の調整のできるまでというものは、憲法改正に手をつけないという立場をとるべきではないかと思うのでございます。これらの意味におきまして、私としては、この憲法調査会法案が否決されることを非常に希望しておるわけであります。(拍手)
  8. 山本粂吉

    山本委員長 これにて公述人各位の御意見の陳述は終了いたしました。時間が十二時に迫っておりますので、午後一時から再開し、公述人各位に対する質疑を行うこととし、この際暫時休憩いたします。     午前十一時五十一分休憩      ————◇—————     午後一時二十七分開議
  9. 山本粂吉

    山本委員長 休憩前に引き続き公聴会を再開いたします。  これより公述人各位に対する質疑に入ります。  この際委員各位に申し上げます。委員各位公述人各位に対する質疑時間は、理事会の申し合せにより、公述人各位の御迷惑等も考慮に入れ、質問の重複を避けること、そして一人の質問時間は約十分以内とし、質疑応答はできるだけ簡潔に願うことにいたしましたので御了承願います。なお公述人各位におかれましても、できるだけ要旨を簡単にお答え下さるよう、特にお願い申し上げる次第でございます。  質疑の通告がありますので順次これを許します。石橋君。
  10. 石橋政嗣

    ○石橋委員 私、神川先生に若干御質問をしたいと思うわけでありますが、先ほどのお話をお伺いいたしますと、終始といっていいほど日本の現行憲法マッカーサー、当時の連合国軍によって押しつけられたものであるということに尽きておったと思うわけです。現行憲法の制定の由来、沿革を述べられまして、こういう憲法だから改正しなくちゃならないんだ、自主的な憲法に作りかえなくちゃならないんだというふうなお話であったと思うわけでございますが、残念ながら内容の点について私開き漏らしております。どのようなりっぱな内容を持っておろうとも、そういう経過を経てできた憲法なんだから、何が何でもだめなんだ、こういうお話なのであろうかという疑問を私持っておるわけです。自民党の諸君は、この点若干良心のうずくところがあるというのか、現行憲法が民主主義と平和主義と基本的人権の尊重主義の三つの偉大なる原則を持っておるこの点については、何ら異議を差しはさむ余地がないどころか、何人もこれを不可とするものでないというような断言をすらしておる。これは何を物語っておるかというと、現行憲法の三大原則——これが生命であります。これを是認しておるということは、私たちに言わせれば、どのような成立の経過を経ようとも、りっぱなものではないだろうかという疑問を呈するわけです。従ってまず第一番目に、どんなりっぱなものであっても、そういう制定の由来を持ったものはだめだというふうにお考えになっておるのか。さらに付言いたしますと、これは無効であるというお考えの上に立っておられるか。それならばそれなりに私たち了解できるわけです。ああいった占領統治下に作られた憲法は無効なり、暫定憲法か仮憲法として取り扱うなら私も了解できるわけであります。一つには先ほど申し上げたように、占領権力というものを背景にして押しつけたということが理由の第一、しからば自民党の諸君——先生はどうか知りませんが、講和条約締結と同時に、独立したと称する時期を日してはっきりと無効宣言でもされればいい。その勇気はない、これはおかしい。だから先生がもしこれを無効だといわれるならそういう点で私たち了解する。もう一つ、当時改正の手続として帝国憲法の七十三条に基いてこの改正をやった、これはおかしい。帝国憲法は発議権は天皇にのみ存しておった。にもかかわらずああいった形で制定して、形式だけ七十三条というふうなことを踏んでおるのだから、そういう意味からも無効なんだというならば了解できるわけであります。こういった点につきまして担当国務大臣の清瀬さんもいろいろ意見を述べておられる。清瀬さんの論法でいくならば明らかに無効ということになると私は思うのでありますが、この点についての先生の御意見をまずお伺いいたしておきたいと思います。
  11. 神川彦松

    神川公述人 石橋先生の御質問まことに私が申し述べたいと思うておるところにちょうどよく触れておりますから、私といたしましては、そういう質問があったことは非常に欣快なんです。まず第一に占領中にできた憲法だからもう何が何でもこれはいけないのかどうか、どうもそういう御質問であったと思いますが、程度は先ほどはイントロダタクションだけ申したのでありまして、わずか二十分では内容まで深く入るひまはなかった。今度内容に入るのでありますが、占領中にできたからいけないというのは、つまりその悪法というものがいかに民主主義的にカムフラージュされておっても、また内容から民主主義憲法だといわれておっても、そのほんとうの性格は反対なものであって、これは全く専制憲法であり、植民地憲法だということなのです。これはどうも日本人によく了解されていない。これはつまり無条件降伏だということを了解せず、また軍下占領及び軍事統治というものの本質を了解されていないからであります。もし平穏無事の際にああいう憲法ができたものならば、そうしてほんとう日本人の手で作ったものならばわれわれといえども大賛成なんです。問題は先ほど私が申しましたように、戦勝国軍事占領軍事統治、それは前代未聞の無条件降伏による武力的絶対独政なんです。武力的絶対独政のもとにおいてできた憲法でありまするから、それがデモクラシーのアンチテーゼだということは、先ほど申しましたようにマッカーサーがそのレポートにちゃんと言うておるのです。本国政府に出しました。ポリティカル・オリエンテーション・オブ・ジャパンというテキストをよくお読み下さいますればそのことをうたっている。実際デモクラシーのアンチテーゼなのだからやむを得ないというふうに弁解はいたしております。なぜそれがアンチテーゼかと申しますと、これは釈迦に説法でございますが、およそデモクラシーの第一に大切なことは国民主権ということが存在していなくちゃいけない。これはどなたも御承知通りでありまして、国民主権が事実存在していないのにデモクラティック憲法はできるはずがない。つまり主権内国民が憲法制定権を持っておるということが根本の条件です。ところが遺憾ながら日本軍事占領並びに軍事統治の間におきましては主権を失うておったのであります。これは一方的命令によって主権を剥奪されておったのであります。でありますから主権のない国民が主権的国民であろうはずはない、主権的国民でないものがどうして憲法制定権を行使することができますか。でありますから軍事占領並びに軍事統治もとにおきましては、国民は絶対に主権的国民でなく、また憲法制定権を持たない、持ち得ないのであります。先ほど申しましたように、ローマ法のデベラチオの原則からいっても当然のことであります。そういうわけでありますから、まず第一にかのリンカーンのデモクラシーの定義にありますように、人民のという条件が欠けておる、主体性が欠けておるんです。一体主体性が欠けておる憲法がどうして民主憲法なんということが言えますか。とにかく日本人が堂々たる主権国民であり、事実その憲法制定権というものを行使できなければ民主憲法なんかできるはずはない。ところがそれは先ほど申しましたように、武力的絶対独政のもとにおいては不可能なことなのです。でありますから、要するにこれは占領策が政治権力をもって作った憲法だということを先ほど申しましたが、つまり主体性が占領軍権力にあったわけでしょう。そんなものがどうして日本人憲法と言えますか。民主憲法、いわんや自由な民主憲法と言えますか。  第二は、民主的法律とか民主的憲法というものは自律的、自主的、自治的なものでなくちゃいかぬ。自分の手で書いたもので自分で法律にしたものでなければいけない。ところが先ほど申しましたように、これは連合国のスキャップが書いたものなのです。どこから持ってきたものか知りませんが、とにかくスキャップが書いたもので、日本の力でいろいろ修正したといわれますが、それはほんの枝葉末節の点なのです。最初から根本的原則と基本的形態には手を触れるなという絶対命令があるのですから、従って日本の方で手を触れたというのは単なる枝葉末節の点なのです。いくらいじくったところで枝葉末節の点だけで、実際根本というものは、論より証拠です。このマッカーサー憲法原案をお読み下さればわかりましょうが、基本原則は全部同じことなのです。内容においてとにかく全部向うが言い、また向う裁可したものなのです。問題はだれが決定したかという点にあるわけなのです。まただれが書いたかという点にあるわけなのです。ところがわれわれが書いたのじゃない、事実憲法原案を比較研究すればおわかりになりますように、ほとんど全部向うが書きまた翻訳も、それがきわめて拙訳、誤訳なのですが、それを一々向うが裁可したものなのです。最後の決定権はみな向うにあり、それでよろしいというので現行憲法になった。問題は最後にだれが決定したかということなのですから、だれが言い出したというのは問題じゃない。先ほど中村先生の御意見では、こっちも言うたじゃないかと言われますが、最後の決定権が向うにあったということだけは確かなのです。最後の決定権はどこにあったかということが、要するに主権がどこにあったかということなのですね。最後の決定権が連合国にあったことはだれも疑いないでしょう。最後の決定権が向うにあり、向うが書いたようなものがデモクラシーなんということば絶対にあり得ないでしょう。  さらに第三に民主憲法というものはその国民自身の利益のためでなくちゃならない、国民自身の福祉のためでなくちゃならない、国民自身の目的のためでなくちゃならぬでしょう。ところがこれは連合国の占領政策のためにやったものなのです。占領目的のために、個人政策を実現するためにやったものです。もしマッカーサー司令官が連合国の利益を代表せずして、日本国民の利益のためにやったということならば、これは反逆者ですよ、それこそマッカーサーは連合国から死刑に処せられたでしょう。ところがマッカーサーが実際りっぱに日本でもって統治成績を上げたとすれば、それはマッカーサーは連合国のためにおそらく忠実に尽したからなのでしょう。だれが見て毛そうじゃありませんか。それはそれがために日本が反射的利益を受けることもありますが、しかしそれは単なる反射的利益でありまして、決して向うが意図したものではない、要するにこれは法律上にいう反射的利益であります。権利でもない義務でもないわけなのです。でありますから結局これは連合国の利益のためにやられたものであるということは、また連合国の政策目的のためにやったということは、十分だれにもおわかりだと思う。またどの点からいっても民主主義の要件を備えていないでしょう。それはただ形なり内容だけが民主主義というだけです。ところが民主憲法かどうかということは内容の問題ではない。たとい内容が神様が作ったような神法であっても、その手続がとにかく主権的国民が作ったものでなく、主権的国民が自分の手で書いたものでなく、主権的国民の利益のためにやったものでなければ、それは民主的憲法ではない。専制憲法です。なぜならこれは独裁君主、独裁権力者が作ったものなのですから、従ってこれは独裁憲法なのです。正真正銘独裁憲法なのです。植民地憲法なのであります。でありますから、ただ内容が民主的だということは、これはたまたまカムフラージュされただけのことであります。もしも先ほど申しましたように、三つの要件がそろいますならば、内容は必然民主的になることはきまったことなんですね。内容が民主的に押しつけられたからといって、それが民主的に変るということはないはずなのです。ほんとうに民主的かどうかということは、内容よりは三つの要件がそろっているかどうかということなのです。また三つの要件がそろえば、おのずからにしてそうなるべきはずなのです。ところが三つの要件がそろい——全然骨抜きであるにしても、もらったものでありますから、そのような格好になっておるわけでありますが、ただ形だけのことで民主主義の実はごうもないわけなんです。これがすなわち私がどうしたってこの憲法は内容を改めなくちゃならぬというわけのものであります。これはおわかりだろうと思いますが、内容がいいから従ってこの憲法はいいじゃないかというほど非民主的な考えはない。遺憾ながら私はこれは中学生くらいの質問だと思うのです。中学生でもわかるだろうと思うのです。その点は実際の内容だけの問題でなく、三つの要件が問題ですから、内容がよければいいというなら、これは専制君主だって内容のいいものを出すかもしれないです。ですから内容というのはおのずから来ますが、決してそうではないと私は断言するわけであります。
  12. 山本粂吉

    山本委員長 公述人にちょっと御注意申し上げますが、答弁と質問とで一人十分しかない約束でございますから、どうか答弁はなるべく結論を要領よく一つお願い申し上げます。
  13. 神川彦松

    神川公述人 それで石橋先生の第三の質問にお答えいたしますが、もしそういう占領時代にできたものならばそれは無効じゃないか、これはもう一刀両断にやってもいいのだというなら筋が立っていいというお話でありますが、これは私はもう数年来主張いたしておることでありまして、これは国際法の点から申しますと、すでにもう効力を失しておると言ってよろしい。国際法の最も確立した原則の一つはいわゆるポストリミニアムの法理であります。いわゆる戦後原状回復と日本では訳されております。このポストリミニアムの法理によりますと、およそ軍事占領中にやったところのすべての法令とか処分とかというものは、占領が終了しますと当然失効するというのが原則であります。でありますから実際軍事占領中にできましたものは事実失効したのであります。日本におきまして軍事占領中に作りましたところの法令とか政令とかというようなものはもうほとんど全部失効いたしました。十八カ月だけは猶予を置きましたけれども、占領中、占領幹部の指令によりまして作ったところの法令とか処分とかいうものは全部——例外はやはり戦争法規、国際法規に従って当然軍司令官がやられることだけは効力を持続することもございますが、しかしながら原則といたしましては、占領中すべての法令とかあるいは処分とかというようなことは失効いたしておるのであります。これはもう日本の裁判所でも認めております。ただひとり憲法のみが残っておるのであります。しかしながらこの憲法といえども国際法のボストリミニアムの法理から見て当然失効しておると申してよろしいのであります。これが近代国際法における最も確立した原則であります。また世界のいかなる学者も認めておるのであります。およそ国際法におきまして、これほど確立した原則はないといってよろしいのであります。でありますから私はずっと以前から国際的には日本マッカーサー憲法も失効したものといわなければなりません。なぜならばそのほかのものもほとんど失効したのだから、なぜ憲法だけを残しておるのか。しかしながら国際法上の失効するということと、国内法上の失効するということは全然別のことでありまして、国内法におきましては、やはり国内法として失効させるだけの手続をとらなくちゃならない。その失効させるところの手統につきましては、私はいろいろ方法があると思います。しかしながら二つなり三つなりの方法がありますが、とにかく国内法において失効の手続をとらぬ限りは有効でありますが、国際的にはすでにこれは失効したものである、こう考えております。
  14. 石橋政嗣

    ○石橋(政)委員 一つ簡潔に御答弁を願いたいのです。あなたの言われるような憲法なら無効とお考えになるのかどうか、この点だけでけっこうです。
  15. 神川彦松

    神川公述人 私はその点はドイツのボン憲法のように百四十七条というものがあれば非常によかったと思うのです。そうすれば初めから問題にならずに新しい憲法を作れば当然失効なんですから問題にならないのです。それがつまりわれわれが一番困っている点なんです。でありますからそういうものがない以上仕方がありませんけれども、一つの方法は私は日本の国会においてマッカーサー憲法占領憲法であり、これは国際法上無効のものであるから失効するという宣言をしてよろしいと思うのであります。国内法上そういうやり方によりまして確かに失効すると思うのであります。しかしながらマッカーサーのような人もそういうような乱暴なやり力をとらずに、明治憲法七十三条というようなものを引っぱってきて、実にむずかしいリーガル・テクニカリティを適用いたしました。これは非常にポリティカル・タクトだと思います。ですからマッカーサーのような人ですらあれだけ驚くべきことを断行しておきながらやはり明治憲法の七十三条を引っぱってくるのですから、従ってやはりわれわれもマッカーサーの故知にならいまして、やはりそう一刀両断的な処置をとらずに憲法九十六条の手続に従ってやった方が穏当だ、こう考えておりますが、法理から申しますならば、日本の国会がとにかく日本の国民の憲法制定権を代表しておるのですから、日本憲法制定権を代表している日本の国会が無効の宣言をし、そうして続いて国民投票について一応念のためにやってみて、日本の国民投票の大多数が大賛成といえばそれは私はよろしい、こう思うのであります。
  16. 石橋政嗣

    ○石橋(政)委員 どうやら理論の矛盾をみずから露呈されたようです。民主主義の一つの生命はやはり形式を重んずるということにある。従って事実はどうあろうとも帝国憲法七十三条の手続を踏んでいるんだから無効を宣することはできないということは、これは実質的に現憲法をお認めになっておることになるので、押しつけられた内容であるならばどんな手続をとっておろうともそんなものはだめだとはっきり言ってこそ筋が一貫すると私は申し上げておるわけです。それを手続だけはちゃんと踏んでいるから無効ということはできないというのは、いささか理論が一貫しておらないと私は申し上げなくてはならない。それから先ほど押しつけられた民主主義はだめだと言っておられるけれども、民主主義に二つも三つもあるのか、少くとも現在民主主義を奉じておる世界各国のどこの国を見たって、自分のところ独特の民主主義というものはそうあるべきものではない。本質の流れておるものは一つだと思う。アメリカ十三州の独立宣言あるいはフランスの人権宣言というものに由来した、一貫した思想というものが私は民主主義憲法の中には流れておると思う。国民はそれをひとしく迎えて現行憲法に賛意を表しており、現憲法として今まで立ててもきておる。現在天皇、内閣、われわれ議員はもちろんすべてが現行憲法順守の義務を九十九条で負っておる。その現行憲法は押しつけられたものであろうと何であろうと、あなたがお認めになっている民主主義に一貫しておる。これ以上一貫しておるものはないということは先ほどほかの先生方が御説明しておる通りです。従って私は内容がとやかくでないという先ほどの御説明は、これは話が一貫しない理論だと思うのですが、この点であまり時間をとりますまい。あなたがおっしゃるように、もし現行憲法が押しつけられたものであるならばという前提で話を進めたいと思うのでございますが、私たちは押しつけられたものだと思っておらない。もし押しつけられたものありとしいて言うならば、それは現行憲法ではなくて日本の国民が憲法制定をする権利を確保した、このことが押しつけられたのかもしれない。なぜならば帝国憲法には国民主権というものは御承知通り認められておらなかった。それが認められたのはいかなる機会かといえば日本ポツダム宣言を受諾して無条件降服をしたそのときに由来しておるわけです。だから占領軍に押しつけられたとどうしても言わなければ気が済まなければ現行憲法を押しつけられたというのではなくて、国民主権を押しつけられたというふうに解釈すれば、これまた筋が通ると私は思う。あなたは占領軍権力で押しつけた押しつけたとおっしゃるけれども、しからば占領軍権力というものはどこに由来して与えられたのか、先ほど申し上げたようにポツダム宣言受諾というところで発生しておる。日本無条件降伏したことによって初めて占領軍権力というものを確保したわけだ。ところがわれわれは無条件降伏をした、それと同時に連合国軍もまたこのポツダム宣言というワクにはまったわけだ。なぜならばポツダム宣言受諾のときにその内容を両者とも守るということをちゃんと約束しておる。ポツダム宣言の内容を今さら私がここであなたに読み上げて御説明するまでもないと思いますけれども、その中でポツダム宣言を受諾するときに日本政府天皇の大権、統治権をそのままにしておいてもらいたいと言ったけれども、それは一笑に付せられた。そして何と言われたかというと、結局国民が自由な意思で日本政府を形成する憲法を制定する権利を持つようにしなくてはならぬのだということが、向うの最後の要求であった。従って連合国軍もこのポツダム宣言受諾に際して発した内容を、結局みずから順守しなくちゃならない義務を持っています。  明文をここで読み上げますと、最終的の日本国の政府の形態は、ポツダム宣言に従い日本国国民の自由に表明する意思により決定さるべきものとす、というのがポツダム宣言受諾のときの第二番目の条件になっておるわけです。連合国みずからもこのワクの中にはめられておるわけだ。またさかのぼっても連合国軍として、はっきり守らなくちゃならないものがあった。それは何かといえば、大西洋憲章です。清瀬さんはこれをちゃんとあげて、マッカーサーは大西洋憲章に従わなかったんだということを言って、やはり無効説に近いものを吐いておられるけれども、連合国軍は、はっきり日本人が自由に表明した意思で憲法を制定し、国家を形成することを要求しておった。この要求に基いていろいろその後指示を与えておる。ところが日本の当時の反動勢力は、何とか現状を維持しようというあがきを見せた。だからたまりかねて、なぜポツダム宣言受諾のときの……。
  17. 山本粂吉

    山本委員長 石橋君に御注意申し上げます。どうぞ質問をおやり下さい。あなたの質問時間だけでも、すでに十分を超過いたしております。     〔「それは質問じゃない」「議論だ」「質問をやれ」と呼ぶ者あり〕
  18. 石橋政嗣

    ○石橋(政)委員 それで連合国軍も、結局ポツダム宣言受諾のときの条件の拘束を受けておった。それを、しからばあなたのような論法でいくならば、マッカーサーポツダム宣言を無視したとあなたは言い切るのか、その点だけそれではお伺いしましょう。
  19. 神川彦松

    神川公述人 石橋先生の御意見にお答えしますが、御議論が非常に多岐にわたりましたので、それに詳しくお答えしておりましては、どうしても一時間やそこらはかかるのでありますが、一時間も御説明しておるわけにいきませんから、やむを得ず簡単に御説明申し上げます。  まず第一は私の言うたことに矛盾がある。私がとにかくこの憲法を認めていないにかかわらず、この憲法を無効にしちやいかぬというような意見を言うたという。これはどうも私の言うたことをよく正解していただけなかったためだと思うのであります。私が申しましたように、たとい国際法上当然無効であったとして毛、国際法の領域と国内法の領域はおのずから別であります。従って国内法の領域において、それを無効にする法律上の手続をとらない限りは有効なんであります。でありますから私は、国内法上において無効になったとは申さなかったのでございます。国内法上においては、当然有効なんでありますから、有効である問は、日本国民としてだれでもそれを守るべき義務があることは、われわれも当然認めている。であればこそ私はそれの効力を十分認めておるわけなんでございます。議会が無効官許をするとか、あるいはまた第九十六条の手続によって改正するということと、この憲法が有効の間はすべての日本国民は——これは国務大臣や国会議員や官吏には限りません。あの九十九条の書き方はきわめて不完全なんです。こんな不完全な書き方はほかの国にはありません。この九十九条の規定をまつまでもなく、日本国の国民たる以上は、だれでもこれを順守する義務がございます。これは言うまでもないことなんです。これが第一の点であったと思うのでございます。  それからまだいろいろお尋ねになりましたが、もう一つどうしても誤解されておるという点は、ポツダム宣言やあるいは降伏文書合意だとおっしゃったことですね。これは思うにアメリカの公文書というものを、お読みにならぬところからくるわけでございます。このことはアメリカの公文書が実に明確に申しておるのでありまして、占領の年の九月六日にアメリカから、マッカーサー元帥へ通達いたしました最高司令官権限に関する通牒というものがあるのであります。そのうちで、日本アメリカの関係は決して契約関係でない。契約的な基礎によるものじゃないということを繰り返し言うておるんです。これはコントラクチュアル・ベーシスによったものではないとか、あるいはコントラクチュアル・リレーションズじゃないということを繰り返し繰り返し言うておるのであります。ですからこの文章をお読みになるならば、たとい表面ほどうでありましても、あるいは合意だとか受諾だとか書いてありましても、法理上の意味はないのであります。法理上から申しますと、一方的の命令でありまして、外国の目から見て日本占領統治というものは、マッカーサーのディクティトだといわれておりますが、実際その通りでありまして、マッカーサー権限には実は何らの制限がないのです。ただ、一応そういう文章で表わしておりますから、道徳上の効力はありましょうが、法律上の効力はないのです。コントラクチュアル・ベーシス、コントラクチュアル・リレーションズがないということは、繰り返し繰り返し言っておるのです。これはごく皮相の見解で、すなわち無条件降伏というものの性格をよく正解されないためでありまして、無条件降伏というものは、そういう契約的基礎の上に立つものではないのです。契約関係ではないのです。でありますから、連合国の方で義務を負ったということはないのであります。それだからある意味においては法律上アメリカが、あるいはマッカーサー元帥が、日本に対し約束を破ったということも言いにくいのです。それは道徳上は言えますよ、しかし法律上は遺憾ながらそういうことが言い切れないような状態になっておるのであります。  またもう一つの点、これだけはどうしてもお答えしておかなければなりませんが、民主主義は一つである、どこの国の民主主義でも同じだ、なるほどアメリカの民主主義というものはそれは大体において同じものでありましょう。しかしながら民主主義というものは、とにかくどこの民主主義でも、もしそれの名に値しますならば、主権的国民が自分で行い、また主権的国民が自分の手で書き、自分の利益のためにやる政治でなければならないということは確かだと思います。ところが日本憲法というものはそうでなくて、先ほど申しましたように、アメリカが作った、アメリカの作ったデモクラシーなんです。そんなデモクラシーというものはどこにもないのです。これば無条件降伏で初めて起った現象であるから、そんなデモクラシーはどこにもない。これが日本デモクラシーは違っておると私が申すゆえんであります。でありますからデモクラシーの本質そのものは変りはありませんが、日本デモクラシーというものは決してそういうものではない。よその国のデモクラシーとはまるで違ったものなのです。遺憾ながらその点が違っているのです。でありますから、これをどこの国のデモクラシーも同じだということで片づけられることは、デモクラシーの本質そのものを理解されないところからくるのではないかと考えるのであります。とにかくこれだけお答えしておきます。
  20. 石橋政嗣

    ○石橋(政)委員 ますますもって私はわからないのです。第一に憲法の九十九条に、国民に憲法順守の義務が課せられてないのはおかしい、そんなものは世界のどこにもないと言われるけれども、結局国民主権で国民が作った憲法なんです。それを国民が守るのは当りまえだから書いてないのです。事実国民主権というものははっきりしておりましょう。  それからまたアメリカに押しつけられたのだとあなたはおっしゃるけれども、草案はマッカーサーの方で書いたかもしれぬが、あなたが認めておる手続を経ておるじゃないですか。そうして日本憲法として今生きてぴんぴんしておるではありませんか。そうしてその中には、民主主義の精神が流れておるじゃないですか。それを押しつけられたものだからいかぬ、押しつけられたものだからいかぬと言うが、押しつけられたかどうかしらんけれども、ちゃんとあなたのお認めになっておる手続を経ておる。ここに私は問題があるということをさっきから申し上げておるのです。  それから、この点はわれわれだけが言っておるのではないのです。先ほど戒能先生もちょっとお触れになりましたけれども、天皇も前後四回にわたって勅語を出しておる。それを一々ここで読むひまもありませんけれども、第一番目、三月六日に憲法草案要綱の政府発表があったときに勅語が発せられた。その中で「朕曩にポツダム宣言を受諾せるに伴い、日本国政治の最終の形態は日本国民の自由に表明したる意思に依り決定せらるべきものたるに顧み……」云々として「乃ち国民の総意を基調とし……」と書いてある。またその後六月二十日にも出ておる。十一月三日にも出ておるのは御承知通り。前後四回にわたって勅語をお示しになっておる。あなたはこれも天皇が地位の安泰をはからんがために、国民がどうなろうと、国かどうなろうと憲法がどうなろうとこういうふうに書かされたのだとおっしゃるのですが、戦争中には軍閥官僚にあやつられ、占領中には占領軍にあやつられ、今後はだれにもあやつられないという保障がどこにありますか。あなたは押しつけられたのだとおっしゃるけれども、日本の国民は明治憲法もとにおいては、主権は与えられておらぬし、この憲法制定を契機として現にわれわれ国民は主権を確保しておるのじゃないですか。こればポツダム宣言に従ってわれわれが確保することができた。どんな理屈を述べられようとも、現に生きておる国民主権の憲法というものを認めるのは当然です。あなたも認めると言っておる。それば正規の手続を経ているからです。その点を私は矛盾しておると申し上げたおけです。  それで質問に移りますが、草案が向うに書かれたのだからいけない。この点もほかの先生方から御説明があった。明治憲法だって伊藤博文が書いたことはちゃんと御承知通りです。そうすると、この理論を裏返しますと、草案を作るということが非常に大切だということは私たちも大賛成です。しからばもし今度憲法改正しようとする場合に、どこでだれが草案を作るかということが非常に大切になってくる。この点はお認めになりますか。
  21. 神川彦松

    神川公述人 石橋先生の再三の御質問にお答えいたします。私は急ぎまして、言葉を略しましたが、御質問の趣旨はよく心得ておるのであります。その第一点は九十九条は当然のことではないか、むろん当然のことを書いたものであります。しかしながら諸外国憲法を見ますと、こういう当然のことはあまり書いていないのでございまして、もし書くとしますれば、およそその市民というものはすべて国家の根本組織法である憲法というものはよくこれを守らなければいかぬと書いてあるのが普通であります。であるから国家の官吏とか、国会議員とかいう人が憲法を守らなければならぬことは当然でしょう。職責上当然のことでありまして、そういうことをここに書いてある。ただ抜けておるのはそういうことを書くくらいなら、本来なら日本国の市民というものはすべて憲法というものを順守しなければいかぬ、こう書くのが当然なことです。それが書いてないのが外国憲法と違っている点です。これはおそらく進駐軍マッカーサー司令部が思うところあってこういうふうに書いたのだろうと思いますが、とにかく外国憲法と違っておるという点を指摘いたしたのであります。それからまたもう一つ、国民主権というものは日本外国が与えたのじゃないか——私は一体国民主権というものはみずから戦い取るべきもので外国からもらうべきものでないと考えるのです。もらうような国民主権というものはあろうはずがないと思うのであります。もらったようになっておるけれども、自分のものにならないということは現実の事態が証明しておる。およそ権利だろうが、自由だろうが、自分の力で戦い、取らない限り自分のものになりません。その点において非常な誤解があるわけです。外国から押しつけられてもらった権利は自分のものになりません。やはりもらったものはありがたくない。じきそれを失ってしまうのと同じでありまして、もらったものを国民主権だと考えることが国民主権というものの本質を理解されないことだと思うのです。主権というものは革命の力によって、自力で戦い取らなければならぬものです。ところが日本国民というものは、その折革命も何もできませんでした。外国の統治ですから、植民地日本ですからどうして革命ができますか。今でもそうです。植民地そのものです。(「今でも植民地か」と呼ぶ者あり)今だってそうだと思っている。でありますから、他人から押しつけられたり、他人からもらったものはただ形だけなんです。それを自分の力で戦い取って初めて自分の国民主権になることは当然じゃないですか。ですから私はまだ日本人ほんとうに国民主権というものを理解してないと思う。遺憾ながら石橋先生がああ言われるところを見ると、そう思わなければならない。ほんとう自分のものにならない。主権は実力です。それは他人からもらったのではできるものではない。自分から戦い取って初めて国民主権になるのです。ですから私はそんなものは国民主権でないと思う。もう一度自分たちのものにしなければならぬ。かりにもらったものはそれでもよろしい。自分の努力で自分のものにしなければならない。そのする手続が抜けている。だからそのする手続をやらなければならぬ、こう申しておるわけです。
  22. 山本粂吉

    山本委員長 石橋君に申し上げますが、結論をお急ぎ願います。
  23. 石橋政嗣

    ○石橋(政)委員 私の質問に対してその分だけきちっとお答えになればそんなに時間がかからない。今の点でも、草案が大切で、特に憲法を作る場合に、草案をどこでだれが作るかということが大切だと思うが、先生もそうお思いになりますかという質問です。それに対して答弁が長過ぎるから時間を食うのです。そのところだけお尋ねいたします。
  24. 神川彦松

    神川公述人 それは原案を書くことの必要なことはだれでも申し上げるまでもないでありましょう。しかし同じ原案を書くにしましても、だれが書くかということが大切です。どこで書くか、だれが書くか、どういう権力が書くかということが必要です。私はマッカーサー権力が書いたのはいかぬと申したのでありまして、これは当然のことと思いまして、私は説明しなかったのであります。
  25. 石橋政嗣

    ○石橋(政)委員 真に民主的な憲法を作ることは私も大賛成です。そうすると、もし現行憲法改正しようと思えば、国民のほんとうの自由に表明した意思の結集されたものが作られなくてはならない。そういう意味で草案をどこでだれが作るかということが何よりも非常に重要である。特にあなたのように、手続やら形式やらを重んぜられる方はこれを大切にしなくちゃならぬと思う。だからほんとうに国民の自由なる意思を代表する者はだれか——日本の場合においては現在それはだれか、どこかというと、私たちはそれは代議士であり、国会であると考えておる。だからあなたの理論をまっすぐ押し進めていくならば、もし現行憲法改正しようと思えば、正当な選挙を経て出てきておる議員によって構成された国会で、それこそ慎重に草案を作って初めてりっぱなあなたの讃美してやまない憲法を作る最初の第一段階ができ上るという御結論になるだろうと思う。そうすると、今政府が出しておるような内閣の中に作ることは——しかもあなたもお認めになっておるように、日本はまだ完全な独立国でない、アメリカの制約を受けがちな内閣の中に、しかも議員以外の方をも含めて草案を作るようなことをなさいますと、再び当時のわだちを踏むことになりはせぬか、そういう意味でお尋ねをいたしておるのです。
  26. 神川彦松

    神川公述人 私は実はこれについては席を改めて詳しくお話ししようと思っておった点なのでございますが、今石橋先生から御質問を受けましたから申し上げますが、これは今日の憲法調査会法案と直接関連してくる問題でありまして、実に重大な点でございます。またこの点につきましては先ほど戒能先生からも詳しい御議論がございまして、私はそれに対して実は詳しい意見を発表したいと考えておったところでございますが、石橋先生との議論がだいぶ長くなりますからその点ではなはだ困るのでございますが、一言お答えいたします。この憲法改正あるいは全面改正をどういうふうにやるかということは、実はいろいろなやり方があるのであります。民主国の建前といたしましては、確かにまず憲法制定権の主体である国民が主体になって、そして盛り上げるというのが正当の手続であります。でありますから、そういうことができ得る国におきましては、どこの国でもまず民間にいろいろの憲法改正委員会というものができるのであります。これはいつでもそうでありますが、ことに戦後のフランスの憲法ができた場合、イタリアの憲法ができた場合の例を詳しく説明してみますと、憲法をどういうふうに改正するかという研究会、委員会というものが方々にできる。ところがそれは専門家の集まりであります。憲法は国民が作るのだといっても、国民がすべて憲法学者でありませんから、やはり専門家が研究して委員会というものを作らなくちゃならない。それがフランスのごときは至るところにできたのです。またイタリアなんかでもできました。ところが日本におきましては、遺憾ながらそれができませんから、私はやむを得ず四年前から憲法研究会というものを組織して、十数人の憲法学者とともに研究して参ったのであります。ところが遺憾ながらそういう憲法研究会が、日本ではどういうわけか方々にできないのです。これはいろいろ理由がございましょう。そういう委員会がたくさんの案を立てて、それをどこかで集めて、そしてその最大公約数をもって議会に持ち込むというのが、普通の手続でございましょう。いずれにしろ、こういう調査会とか、委員会というものは、専門家の集まりでなくちゃいけない。でありますから、私は今提出されておりまするこの憲法調査会法案の組織には反対でありまして、この組織によりますと、議員諸公が三十名、それから学識経験者が二十名ということになっておりますが、私はそれは賛成しないのであります。なぜならば、これは要するにほんとう専門的な調査研究なんですよ。今の憲法というものを学問的に再検討し、学問的にどうしたら改善できるかということをほんとうに研究する会ですから——それは議員諸公の中にも専門家がたくさんあるでしょう、ですからそういう専門家が入ってもらうことはけっこうですが、この衆参両院議員のうちに三十名のそういう憲法専門家が得られますかどうか。もし三十名得られまして、そういう人をみなその調査会に振り込むのなら私大賛成です。遺憾ながらそれだけなければ、そんなに三十名も議員諸公から選ぶ必要はないんじゃないかと思うのです。でありますから、もし組織を問題にしますならば、私はむしろ全部学識経験者であって欲しいと思うのです。そうでなければ、ほんとう専門委員会の価値はないです。ですから政治家としてはえらいかもしれませんが、しかし憲法専門家として天下の権威だといわれる人が、そうたくさん議会におられますかどうか、そこを私は疑います。どこの国でも、そういう委員会というものは学術専門家なんです。また国会議員というものは、そんな専門家委員会に入る必要はないのです。結局国会がそれを決定して、そして国民に対して発議するのですから、議会は幾らでも議論し、幾らでも意見を出せるのですから、国会は国会にきてからでいいのでありまして、だからその前にいろいろの天下の学者を集めて、天下の経験者を集めて、そうして理想的な案を作るというのが憲法調査会です。ですから五十人の知識経験者を集めるということは、私けっこうと思うのです。しかしそのうち三十名が議員であり、二十名が学識経験者である。私は反対だと思うのです。三十名が学識経験者で二十名が議員諸公というふうなら、まだ私はいいと思うのです。あるいは私は議員諸公は、ただ議員諸公であるがためじゃなしに、憲法専門家だという資格で入っていただきたいと思うのです。それならば二十名でも三十名でもけっこうです。それでなければ意味がないわけでしょう。そういうような憲法調査会というものが、いかなる民主国でもできるのであります。とにかくフランスにおいてもでき、イタリアにおいてもでき、アメリカにおいてもできるのです。アメリカにおきましても、憲法改正をしますのには、まず政府なりあるいは政党なりあるいは議会なりが、専門家を集めて、ちょうどやはりマッカーサー司令部でこの憲法を作ったのと同じでありまして、一応専門家を集めるのです。マッカーサー司令部はできませんでしたけれども、専門家をたくさん集めまして、そうして案を作らせるのです。それを政府が議会に提出するという段取りをアメリカもとるのです。アメリカの各州もそういうふうにやることがあるのです。みなやるとは限りませんがね。でありますから、日本でももしほんとうにわれわれが作ったような憲法研究会がむしろ所在に起りまして、理想的な案をどんどん出して、そうしてその最大公約数を求めるというだけなら、私は議会でもできるかと思うのであります。しかしながらそういうことは全然行われていないのですから、仕方がないから、政府が音頭をとって、政府が天下の学識経験者の権威者を五十名なら五十名すぐり抜いて、何年かかってもりっぱな理想的な案を作る。そうしてそれを議会に発案することは、これは当然しごくなんだと思うのです。私はそういう意味におきまして、ことに日本のようなところで大きな委員会を作るとすれば、すぐ何百万、何千万円の金が要るものですか、遺憾ながら貧乏な日本ではそんな金が出るところがない。やむを得ないから予算から出す。われわれも自腹を切って憲法研究会をやっておるのです。ほんとう憲法調査会を作れば、これに書いてあるように一千万円くらいは要るでしょう。この金は民間のどこから出ますか。議会で、政党でこれが、できますか。できればけっこうです。ところが日本の国情におきましては、なかなかむずかしい。それは理想的なやり方ではないかもしれませんが、外国にも例があるのでありまして、日本のような国情ではこういう方式によってとにかく、天下の権威者を五十名集めて、そうして世界中どこに出しても恥かしくないようなりっぱな憲法を作ることは、これはやってしかるべきことだと考えるのです。
  27. 石橋政嗣

    ○石橋(政)委員 ただいまの御説明も納得いかないわけです。いかにして民意を反映させ、自由な国民の意思を反映させてりっぱな憲法を作るかということで御説明願えると私は思ったのですが、学識経験者、専門家でやらにゃいかぬのだ、そういうものでこういう調査会など作らにゃいかぬのだという御理論には、私納得できない。そういう専門家でやればいいんだ、そうして草案を作ればいいんだ、国会には最後の手続だけとればいいんだというお考えならば、その草案がマッカーサーによって作られようと、伊藤博文によって作られようと、だれによって作られようとかまわぬ、最終的に国会の手続さえ経ればいい、こういうことにならなければおかしいと私は思う。これを言っておりますと、また時間が長くなりますから、ほかの議員さん方から御質問を願うことにして、一応私は憲法調査会法案に反対だという、これだけをおみやげにして終ります。
  28. 山本粂吉

    山本委員長 次に山崎君。
  29. 山崎巖

    ○山崎(巖)委員 きわめて簡単に中村先生及び戒能先生にお伺いをしたいと思います。その前にちょっと両先生に申し上げておきたいと思うことは、憲法調査会法案の内容、あるいはこの立案の趣旨、また自由党時代にできました憲法改正に関します要綱、あるいは改進党の要綱、こういうものにつきまして、だいぶん両先生におかれましては誤解があるような感じを持ったのであります。戒能先生のお話の中に、国民主権の所在を変更するような憲法改正は限界を越すというような御所論があったようでありますが、自由党時代の憲法改正にいたしましても、また改進党の憲法改正の要綱にいたしましても、主権在民の原則は堅持をいたしているのであります。私どもは提案理由の説明に申し上げておりますように、民主主役、平和主義、並びに基本的人権の尊重ということ、この現行憲法の長所はあくまで貫いて参る考えであります。そういう考えであるにかかわりませず、主権在民の原則を変えるがごとき根拠のもとにこの法案をごらんになりますことは、私はまことに遺憾に存じます。  また調査会法につきましても、先生方の今までの御所論を聞いておりますと、かつての自由党の、あるいは改進党の、憲法改正についての考え方をこの調査会を通じて権威づけるための調査会である、こういう御所論のようでありますが、これは私は誤解もはなはだしいものと考えます。今回内閣に私どもが調査会を置きましたのは、国会にこの種の調査会を民間人と同列に置くことが、法律的にも疑問があるし、また従来の慣例もなく、むしろ内閣に置くことが適当である、こういう趣旨のもとに内閣に設置することにいたしているのであります。調査会の法案の内容をよく御検討願いますと、今度の調査会は、内閣には置きますけれども、内閣は調査会の一種の世話役にすぎないのでありまして、調査会自体が運営もいたしますし、結論も出すことに相なっております。きわめて民主的な運営をはかることになっているのであります。そこに両先生には私は誤解があるような感じを持ちましたので、この点をまず申し上げて、それから質疑に入りたいと思います。  私どもがこの調査会法を出しました理由の第一点は、先ほどからだんだん御議論のありました制定の経過にかんがみまして、自主的な憲法を持ちたい、この点でございます。この点につきましては、すでに三先生から詳細な御議論を承わり、また後刻同僚の議員からも御質問があるはずでございますから、この点には触れたくないと思います。中村先生のお話でございましたか、過去九カ年の実施の経験にかんがみて云々というような提案理由になっておるけれども、そいつはあまり意味がないのじゃないか、改正をすべき点はないじゃないか、およそ現行憲法の三原則を尊重するならば、別に内容を変える必要はないじゃないか、こういう御所論であったように存じます。私はそれは非常な間違いだと思う。先生方は毎日々々憲法の内容を御検討になっておりますので、私は内容的に一、二の点について伺ってみたいと思います。  前文の点はしばらくおきまして、第一章の天皇の章について、両先生どちらかでもけっこうでありますからお伺いをしたいと思います。私どもが天皇の章について改正を要すると思いますのは、主権在民の原則を変えるとか、これに制限を加えるとか、こういう意図の毛頭ないことを、まずもって申し上げておきたいと思います。しかるに現行憲法におきましては、一体日本国を代表するものが、天皇であるのか、総理大臣であるのか、その点すら私どもは解釈上はっきりしないと思います。そこで日本国は共和国であるとか、あるいは元首なき民主国であるとか、こういう珍説すら学界に出ておるような次第であります。およそ独立国にして国の代表者のはっきりしないという国がありますかどうか。あるいはまた現在の憲法において日本国を代表するものはだれであるか。あるいはまた日本国は共和国と先生方は言い切られるかどうか。この三点について、まず伺いたいと思います。
  30. 中村哲

    ○中村公述人 今山崎さんから御質問のありましたことに対してお答えいたします。  最初の問題ですが、これは必ずしも私が申したことではありませんが、一言申しておきたいと思うのですが、主権在民の原則憲法の調査を進める結果改正の対象になるのじゃないかということです。これは戒能さんが特に言われたのですが、私は国民主権そのものが直ちに改正されるものとは考えませんけれども、実際には国民主権の事実が、ある修正を加えられるというふうには考えます。それは一番問題になるのは、基本的人権の問題でありまして、午前中申しましたように、人権が法律によって制限し得るようになりますので、そうすると、そのときそのときの国会の情勢により、政治的考慮から人権が制限され得ることになりまして、これは全体として主権を持っている国民、その国民の個人的な権利が、そのときそのときに制限され得ることになりますので、これは基本的人権という概念に矛盾するわけです。基本的人権というのは、法律によっても国家権力によっても制限されないというのが基本的人権で、こういう強い人権の思想というのは、一方において国民主権という原則があるからこそ、その主権者である国民の人権は、国家権力によっても制限されないという連関性がある。従って基本的人権がそのときそのときの法律によって制限し得るというような、戦前の権利の思想と同じになりますと、国民主権がある程度制限されることになるのじゃないか、戒能さんの申されたことについても私はそう思います。  それから第二の、調査会ができまして、そこで実際にどういう改正案ができるかということですが、これについては、私は詳しいことは知りません。しかし調査会が現実にできますと、国会議員が三十名、学識経験者二十名ということでありますが、その国会議員もおそらく自民党が中心となることはいうまでもないので、これは何人もそういうふうに想像されると思います。そうしますと、その自民党はかつて改進党であり、自由党でありまして、そこではすでに改正案を具体的に持っております。従ってそれらが中心となることは当然想像されるし、現に読売新聞でありましたが、日にちは忘れましたが、大体今まで出ておる自主憲法期成同盟、改進党及び自由党の案を大体調整して、その辺にしぼっていくということを書いておりますので、私はやはりそういうふうに想像しますし、国民も大体そういうふうに理解しておることと思います。  それから次の、私が午前中申しましたことで、九年間の実績に基いて憲法を検討する必要があるのではないかということが提案理由の説明になっておりますが、私はそういうことよりも、まず憲法原則がいかに守られなかったか、つまり憲法違反の事実を検討することの方が重要ではないかと申しました。と同時にまた実際の実情に照らして、憲法の条文の欠点もおそらく多少はそこにあります。ありますけれども、それは現に運用をもって解決しておることであります。たとえば国会の解散権だとか、あるいはその他私立学校に対する国庫の援助とか、こういうような問題については、事実上の運用で済んでおることなんです。そういう小さな欠点について改正するというのでなくて、実はそういうことを理由として、むしろ今まで問題になっていない全面的な改正をしようとする、たとえば国会の権限を制限するとか、緊急命令の制度を作るとか、非常事態の宣言をするとか、それから地方自治を訂正して中央集権的な官僚統制にするとか、こういうことはすでに自由党、改進党の素案として出ておりますので、そういうことから想像しまして、単に九年間の実績にかえりみてではなくて、実は旧憲法時代に戻すかのような改正をしようとするところに、私はやはり問題があると思うのです。そういうことであります。  それから最後に天皇の問題でありますが、天皇が象徴であるという現在の憲法の解釈、この象徴という概念は、従来の憲法ではほとんど使われておりませんために、象徴という概念の解釈については、最近やや定説ができようとし始めておる段階です。その場合に象徴という概念は、法学的にいえば、つまり象徴という観念は代表という観念とは違う。つまり代表というものは政治的な意思に関連していうものですが、象徴というものは政治関係の間で言われておるものではない。従って政治関係において、たとえば条約を締結するというような場合、これは政治的な関係でありますから、この場合には天皇が代表者で一国を代表すれば、天皇条約を締結するわけでありますけれども、現在は天皇は象徴でありますから、政治的意思を代表しないから、内閣総理大臣が条約を締結するということになるので、そういう意味から天皇は、象徴である限り、国の政治的な意思を代表しない。これは憲法の第四条にも言っておるように、天皇は国政に関する権能を有しない、パワーには関係しないのだというのはその意味であります。それで私は何ら不自由はないと思います。ところが、天皇を元首にしようという改正考えられておるようですが、天皇が元首になるとどうなるかといいますと、現在内閣総理大臣の名において行われたりするようなことがすべて天皇の名で行われる。ことにこの天皇制の復活と関連して再軍備が行われますから、軍隊の問題はすべて天皇の名において行われる。非常事態の宣言であるとか、あるいは緊急命令であるとか、あるいは軍法会議なんかに関連しても、天皇の権威をもって言われるということがあるのではないかと思うのです。そういうふうなことになりますと、今でありますと、単に内閣総理大臣が政治的意思を代表してやっているわけですが、それをどうして天皇の権威によって権威づけようとするかといいますと、それは対国民の関係において、つまり内閣よりも国民に対して権威づけるために、天皇というものが利用されるわけです。実際の意思決定は、これは改正派の人たちだって、天皇が実際の意思決定をするとは考えておられないと思う。旧憲法時代においても、天皇は実際の意思決定はやらなかった。内閣が、国務大臣が輔弼の責めを負っていたわけですが、しかし形式的には天皇の名においてすべてが行われた。そういうことを再び行おうというのはどういうことかといいますと、国民に対して天皇の権威で上から命令しようということなんです。そうなりますと、主権者である国民に対して、何かそれを上から押えるような権威づけるものを強化しようということであって、そこに私は非常に問題があると思う。そういう意味から現在の象徴である天皇を元首に変えるということになると、やはりそこで、国民主権という原則が一方においていわれておっても、事実上はある程度の修正を加えられる。この意味において、戒能さんが言われたように、国民主権が制限を加えられるというような疑いが出てくるのじゃないかと思うんです。以上であります。
  31. 戒能通孝

    ○戒能公述人 私も中村さんがおっしゃった通りに理解いたしております。現在のこの憲法調査会法案は、旧来の自由党なり改進党なりの案とは、全然別ものだというふうにおっしゃいました。しかしおよそ政治の関係から申しますと、両者が全然別ものだと考えることは、これはまさに白痴の考え方だと思います。一応ともかく案が出ております。そうしてその案を出したところの政党が、現在国会の多数を占めている。こういう状態から申しますと、それが一つの基礎案になるということだけは、これは常識として受け取る以外にないと信じております。そうなると、国民主権という概念の規定の仕方、理解の仕方が非常に問題になってくると思います。この自由党案によりますと、「天皇日本国の元首であって、国民の総意により国を代表するものとする。」という、ここに代表という観念が入ってきているわけであります。代表という観念は、すでに国民主権というものを半分だけ取っているということになるのではないか。なるほど言葉の上では、国民の総意によりとおっしゃるかもしれません。しかしそれはすでに国民の全部というものを残しているわけじゃないのでありまして、代表という概念の中で、国民主権というものが事実上侵害されてくることは確かだと思います。  第二に、自由党案その他によりますと、基本的人権に関する規定のところに持ってきまして、総則的規定を置いて、公共の福祉のために法律で制限できるものとするという一般原則を置こうという点が明らかにされております。ところが、言論とか思想とかいう一番政治体制の決定に影響すべき基本的な諸権利になると、法律で決定されるのは困るのであります。これは基本的人権と申すことができないのであります。つまり国家から完全に自由である、自分自身の良心に対してだけ責任を負うという、この原則がくずれてしまうのであります。従って国家は、少くともクリアー・アンド・プレゼント・デンジャーと申しますか、明白にして、現在の危険がない限りにおきまして、国民の思想、言論の自由というものを完全に保障しなければならない。しかるにもかかわらず、一般的な条項を置きまして、そして言論、思想の自由に対しましても制限を置こうという考え方になって参りますと、基本的人権というのはやっぱりくずれてくる、基本的人権がなくなるという結果になってくるわけであります。従って、こうした案というふうなものを目の前に置きまして、基本的な人権というものが全然侵害されないというふうに考えられるということは、ちょっと不可能だと思います。しかも国民主権という概念と基本的人権という概念は離れ離れになっているのじゃなくて、両者不可分のものであります。もし言論の自由もなく、表現の自由もなく、結社の自由もないということになって参りますと、国民自身がいかにして政治体制を決定するかということは、実際不可能になって参ります。従って法律でこれを制限するということになって参りますと、これは基本的人権じゃなくなると同時に、国民主権でなくなるという結果になっていくことだけは明らかだと思うのであります。この点で、私は誤解はしていなかったつもりでございます。  さらに、憲法改正する者はだれかという問題もございます。先ほどからお話がございました通り憲法改正する者は、やはりあくまでも必要ありと認めたら、国民でなければいけないという結果になっていくわけでありますが、国民に向って憲法擁護の義務を課していないのは、これは当然でございます。国民は憲法改正の発案権を持っているわけでありまして、また改正の提案をすること、論議をすることは自由であります。必ずしも憲法擁護の義務がないことは、これは自然である。公務員であればこそ、現行の憲法を擁護し、現行の憲法を守って、それを動かさないようにする努力が必要であります。しかし国民自身には、憲法擁護という義務はない。むしろ改正案を出してもいいじゃないかということにもなろうかと思っているわけであります。そうなりますと、この国民を中心として考えてみますと、各政党は少くとも改正案の準備をする権利があるのじゃないかと私は感じているわけであります。しかし国会とか内閣とかいう国家機関がこれを準備すべきじゃなくて、政党自身が準備すべきものじゃないか、政党自身の責任において、自分改正案というようなものを検討すべきじゃないだろうかと思っております。お金のないというようなお話を神川先生はおっしゃいましたけれども、金がある、ないということは全然別問題でありまして、一千万円もらいたいから政府にくっつける、内閣にくっつけるというような根性で憲法改正されたら、大へんなことになると私は感じております。
  32. 山崎巖

    ○山崎(巖)委員 私は、時間に非常に制約されておりますから、きわめて簡単にお伺いいたします。今両先生のお説でも、まだ十分誤解が解けていないように思います。今回の憲法調査会は、決して旧自由党なりあるいは旧改進党の草案を押しつけるとか、そういう趣旨でないことはきわめて明瞭であるし、また現に自由民主党ができまして、新たに憲法調査会を党内に設けて、ただいま、戒能先生のお話の通り政党としては十分に研究いたしております。現に旧自由党あるいは改進党の草案を、さらに再検討いたしております。たとえば元首の問題のごときも、これを明文に表わすかどうかというような重大な問題についても、検討を続けている段階でございます。そういう政党の案をこの調査会に押しつけるという気持は毛頭ないのでありまして、今回提案します場合にも、特に社会党の御協力を求めたというようなことも、将来この調査会ができました場合には、ぜひ先生方のような反対の立場にあられる学者の方々にも、また従来——私はそれは誤まっていると思いますけれども、そういう主張をされております民間の方々も、あるいはまた社会党の皆さんにもぜひ御参加を願いたいということを、心から私は熱願しております。ぜひそういうふうにありたいと思っております。そうして各階層の、あらゆる方面の御意見を慎重に伺って、ほんとう憲法改正を必要とするという結論になりました場合には、共通の広場として、この調査会を利用していただきたい、これが提案者のほんとうの趣旨であります。その点を一つ誤解のないように、あらためて申し上げておきます。  次に、こまかく内容に入りますともう時間が切れますので、大きい問題の一、二を簡単にお尋ね申し上げたいと思います。憲法九条の問題は、もとより憲法改正の場合に重要な問題の一つであると思います。私どもは独立国として自衛権を持ち、自衛権に伴う自衛力というものを持つことは、憲法違反にあらずという解釈を従来とっております。そこで今日の自衛隊は、憲法九条二項に違反するものにあらず、こういうふうな議論を私どもは堅持して今日まで参っているわけであります。しかるに従来国会の議論を通じましても、また学者の間にも、現在の自衛隊は憲法違反なりと断言しておられる方々がございます。先生方はこの問題についてどういう御意見でございますか、この点をまず伺っておきたいと思います。  もう一つは基本的人権の問題でありますが、現在の憲法では、憲法十三条と二十二条だったと思いますが、これだけに限って「公共の福祉に反しない限り、」こういう文句がございます。しかるに学者の通説と申しますか、多数説と申しますか、それ以外の条文にも、公共の福祉に反せざる限りという文句はないけれども、そういう趣旨であるというのが多数説のように私は考えます。そこに私どもは非常に疑問があると思う。私どもの基本的の考えとしては、現在の基本的基本的人権を制限するというような考えは毛頭ございません。むしろますますこれを尊重して擁護していかなければならぬ、こういう立場に立って検討をいたしておるわけであります。そういう点につきましても先生方からお教えをこいたいと思います。その他解散権の問題でありますとかあるいは予算増額修正の問題でありますとか、いろいろ問題がございますけれども、大きい問題としてこの二点だけを中村先生と戒能先生から伺っておきたいと思います。
  33. 中村哲

    ○中村公述人 調査会ができました場合にあらゆる立場の人を網羅されるということですが、その場合に改正反対派の者を半分以上入れるというようなことがあり得るかどうか。やはり実際には、改正する立場の人を過半数入れて初めから改正を可能なようにされるだろうと思うのです。もしそうでなくて改正派と改正反対派とを同じ数くらい入れる、そうして中間的な立場の人をまた同数入れるというようなことであれば、あるいは公平に行くかと思いますけれども、しかし従来のあの選挙制度の委員会を見ておりましても、やはり初めからある政治的意図を持って行われるということは、山崎さんの主観的な意図にかかわらず客観的にはやはりそういうことになるというふうにわれわれは感ずるのです。  それから御質問になりました第一の九条のことですが、九条では言うまでもなく戦争を放棄しておりまして、ことに戦力を禁止しているという点では明白でありまして、自衛隊が戦力であることは言うまでもないのであります。従ってこれは違憲の問題として当然最高裁で取り上げられなければならない問題であると考えておりますし、自衛隊法のできるときにも私は国会に呼び出されたときに違憲だと申しました。その点は少しも変っておりません。  それから第二の基本的人権の問題ですが、今山崎さんのおっしゃったのは公共の福祉による制限を認めてもいいんじゃないか、確かに二十条には居住権の自由その他について特に「公共の福祉に反しない限り、」と書いてありますが、それ以外の条文ではすべて十二条によりまして公共の福祉によるある程度の制限というものがかかってくるわけです。それは当然なんでありますけれども、今改正論者が言われているのは、公共の福祉による制限というのじゃなくて、公共の福祉を名として法律で積極的に制限していいという、つまり法律事項にしたという点、これは明治憲法の場合と全く同じだということです。つまり今の基本人権という考え方は、法律をもっても制限できない権利ということなんです。それが世界の共通した基本的人権という観念なんです。ところが法律で制限し得るという立法事項と申しますか、法律事項になれば、どういうふうにでもそのときの国会の意思によりまして統制法を作ることができる。これでは戦時中と全く同じ、言論や思想の統制が行われる。そうなれば人間の奪うことのできない権利じゃなくて、そのときそのときの政治情勢で人権が制限されていくということになりますので、それが問題だということであります。ですから公共の福祉による制限というよりも、むしろ形式の上で法律事項になるというところに問題があると思います。
  34. 戒能通孝

    ○戒能公述人 山崎先生のおっしゃった通りに、もし憲法調査会というものができまして、それが従来の自由党あるいは、改進党の案と全然関係なく、純粋にまじめにそして客観的に公正に憲法を検討してみるということを私も心から望むものでございますがしかし、それにもかかわらず——私をひょっとしたら入れてやるというお話もありましたが、私はこれによって内閣の辞令を受けることはお断わりいたしたいと思うのです。内閣は何と申しましても憲法もとにおける行政機関でございます。従って内閣が憲法をいじくり回す、あるいは検討するということ、内閣総理大臣の主管下に置かれるような憲法調査会組織というふうなものは、私は憲法改正の検討機関としてはちょっと肯定できない感じがするわけであります。  第二の点といたしまして、先ほど軍備の問題が出て参りました。私もやはり中村君と同意見であります。国の交戦権を放棄して、交戦手段も放棄してある。しかし自衛権はもちろんある。従って自衛権というふうなことを考えますならば、たとえばゼネストをやる、あるいはまた政府自身が、かつてフランスがザールに進駐したときにドイツがやったような意味で、公務員に対して職務放棄を命ずるというふうなあらゆる手段をとることができるというふうに感じているわけであります。しかも先ほどから神川先生なんかは、日本はまだ植民地だとおっしゃいましたが、日本を植民地にしておるものは何かと申しますと、これはどうもアメリカだということになるのであります。しかもアメリカから装備を受けたところの自衛隊が、植民地としての日本に置かれておるという事態は、事柄自体としては矛盾を持ってはいないでしょうか。もし日本が植民地であることをお認めになるならば、日本の自衛隊をもってアメリカ軍を撃退せしめることができるかというと、これはやはり無理な話だと思うのであります。従ってこうした意味におきまして政治的な議論は真実性というものが少くなって参りますので、あえて議論したくもございません。  しかも第三の問題としての基本的人権は、これはやはり何と申しましても法律で制限できないということ、国家がやむを得ない、必然的な、みずから存続するにはこのことをやる以外にないという一種の超法律的な、超憲法的な制限の場合は別でございます。明白に危急なる場合におきましては、言論に関する制限が起ってくる。基本的には何といっても制限しないということが原則であります。原則である以上、この原則を変えて法律のもとでできるというふうにすることがやはり基本的人権を変えることになってくると思います。先ほど山崎先生は自由党案と別に関係はないと仰せになりました。しかし自由党の案では「基本的人権の主要なものを列記して保障の原則を明示する。」第二項に各条に列記したものその他の「基本的人権は社会の秩序を維持し、公共の福祉を増進するための法律をもって制限しうる旨を規定する。」という条項が出ておるのであります。公共の福祉を増進するための基本的人権の制限という観念はありません。やはり公共の福祉そのものというよりも何か危急存亡だからやむを得なくて言論の自由を制限する、超憲法の問題になることでありますので、あえて議論したくもおりませんが、しかし自由党の考え方というふうなものとは私どうしても一致した意見を持つことができないのであります。
  35. 山崎巖

    ○山崎(巖)委員 実はもう先ほどの質問で終るつもりでありましたが、両先生のお話の中でどうしても伺っておかなければならぬ点が出て参りましたので、その点だけをお伺いいたしたいと思います。  調査会の性格につきましては、私るる述べましたので、もう大体おわかり下さったように思います。今戒能先生が内閣総理大臣の辞令をもらうからいやだ、そういう小乗的な考え方でこういう憲法問題を扱われるのはまことに遺憾に存じます。これは別に申し上げる必要はないのであります。ただ両先生のお話に、自衛隊は憲法違反だ、こういうふうに断言をせられたのであります。私どもは決して現存の自衛隊が憲法違反だとは思いません。しかしながら両先生のような学説が憲法九条二項をめぐりまして世上いろいろございますからこの検討を加えたい、これがわれわれの考えであります。憲法違反であればどうしても憲法改正しなければ自衛隊は置けぬ、これが当りまえであります。これは非常に矛盾であります。その点は一つはっきりさせておきたいと思います。  それからもう一つ、中村先生の今の御説明の中で、自衛隊法ができたときに自分は最高裁判所に提訴すべきものであるという考えを持っておったとおっしゃいますが、一体国会は国の唯一の立法機関であります。この国会がきめましたものを、現在の憲法下において裁判所に提訴することが私は憲法違反なりと思う。現在の憲法改正しまして、裁判所というものを憲法の中にはっきりうたった場合にはそういうことはできましょうが、現在の憲法の条文から、国会が議決をして公布した法律を憲法違反なりとして最高裁判所に提訴することができる根拠はどこにありますか。その点ははっきり一つ伺っておきたいと思う。
  36. 戒能通孝

    ○戒能公述人 簡単に申し上げたいと思いますが、私、内閣総理大臣の辞令をもらいたくないと申しましたのは、憲法調査会だから申し上げたわけでございます。もし別な話でございましたら、私も喜んで辞令いただくことができると思います。現に私も文部省の著作権審議会の委員で、文部大臣の辞令をいただいております。しかし内閣というものは憲法改正というものに対して関係すべからざるものだと私は信じておるわけであります。その意味で、内閣が憲法調査会を置くということは誤りだというふうに感じているわけでございます。  それから次に自衛隊の問題でございますが、自衛隊という一つの基本事実を認めてしまって、それを認めなくちゃならぬから憲法改正するというような話になって参りますと、もうすでに憲法改正の方向が作られてしまっておるのでございまして、先ほど山崎先生がおっしゃった、自由に、客観的に、公正に検討するという御趣旨とは反対になってくるように思います。
  37. 中村哲

    ○中村公述人 自衛隊法に関連しまして、最高裁にそれが違憲であれば提訴するのは当然だと今、申しましたのは、憲法の八十一条が認めていることでございまして、その点が旧憲法とも非常に違うのです。つまり今の憲法では、一方において国会は国権の最高機関だという建前をとっておりますけれども、しかし同時に最高裁には、その国会が違憲の法律を作ったような場合にこれを判定する権限憲法自身が認めています。  これはどうしてそういうことになるか。もう少し基本的にいえば、今の憲法の一番の中心は国民が主権者であるということです。つまり国民の声を反映する限りにおいて国会は最高の権関であるが、国民の主権を反映しない場合があるときには、その疑いのあるときには、最高裁で判定を求めるというところから、一方において国会は国権の最高機関でありながら、最高裁に憲法八十一条が違憲審査権を認めているわけです。そういう構造を憲法は持っているわけです。  自衛隊法のことは戒能さんから申されましたから、その点は……。
  38. 山崎巖

    ○山崎(巖)委員 今の最高裁判所の問題について、私どもは絶対ただいまの意見に承服することはできません。先生のお説は学界においてもきわめて少数意見だと思います。それだけ申し上げて、私はこれで終ります。
  39. 保科善四郎

    ○保科委員長代理 片島君。
  40. 片島港

    ○片島委員 私は短かく簡単に神川先生にお尋ねいたしますが、占領中はもちろん日本は植民地みたいなものである、今でも植民地である、こういうようなことを言われたのですが、どういう点で現在の日本が植民地でありましょうか。これは憲法改正について非常に重要な問題ですから、事例をあげて御答弁願いたい。
  41. 神川彦松

    神川公述人 片島先生にお答えいたします。  これは純粋の法律論ではございません。政治論でございますが、日本がなぜアメリカの植民地であるかということは、講和条約と安保条約、それから行政協定からくることなのであります。それは講和条約、安保条約、行政協定によりまして、日本日本全土において無制限の軍事基地を提供し得ることになっておるのであります。そして現に今七、八百の軍事基地がございます。およそ世界広しといえども、外国の軍事基地が七、八百もあるという国は遺憾ながらどこにもないのであります。フィリピンのごときではわずかに十数カ所です。ただ法律上二十何カ所までは使えるようになっております。しかしながら現に使っておりません。またインドシナのごときもフランスの軍事基地はごくわずかなのであります。ドイツはちょっと例外になっておりまして、ドイツにおきましては全国土に七、八百の軍事基地がある。これは法律上もっとふやせるのであります。法律上限定がないのですから、今までは七、八百作るというので、必要があればこれまたもっと拡張ができるようになっている。  ところで、もう一つ悪いことは駐屯軍なのであります。日本は安保条約、講和条約によりまして駐屯軍を置き得ることになっておる。現に今十万近い駐屯軍がおるのでございます。そういうように外国の軍隊が他国の領域内におるということは、以前には多少例外がありましたが、こういうような大きな例は終戦後初めてであります。全くドイツ日本に限るといってもいいのです。ほかにはごくわずかな軍隊がいる場合もございます。しかしながらその基礎が違っております。日本のようにいわば一方的の条項で、と申しますのは、講和条約でも安保条約でも占領中にできました条約でありまして、遺憾ながらほんとう条約とは言いかねる。また行政協定にしてもそうです。この三つの条約とも占領中に調印した条約でありまして、日本が自由の意思を持っていないのに調印しましたから、遺憾ながらほんとう条約とは申しかねるのであります。  また行政協定によりまして、日本はどこの国も持たないほどの、裁判管轄権その他主権の制限を受けているのであります。昔の治外法権なんていうのは何でもないことで、実に無限定にまた実にたくさんな人間が治外法権を受けてしまった、この治外法権という言葉を通俗な意味で使ってですが。そういうわけで、主権に非常に制限を受けております。  また国内においてこれほど外国の軍隊がおり、またこれほど全土に外国の軍事基地を提供しているような国はほかにはないわけでありまして、これは国際通念上遺憾ながら独立国ではない、独立国でなければ植民地か属邦なのです。ですからそういう事実について申し上げるわけなのでございます。
  42. 片島港

    ○片島委員 ただいまのお話によって、日本占領中に一方的に作られた講和条約、安保条約、行政協定に基いて今政治的に自主性を持たない。憲法改正というものは政治的な配慮に基いてやるのでありまして、政治的に自主性を打たない国、というのはほかの国から大きな政治的な圧力を受けている、支配を受けているということでありますが、そういうところに先ほど先生が強調されました国民の総意に基く自主的な憲法ができるものでありますか。また講和条約なり安保条約というものは占領中にできたものであり、一方的に押しつけられたものであるということならば、やはり現在でも日本は自主的な憲法を作ることにはまだ情勢ができておらぬと思うのでありますが、この点はいかがでございますか。
  43. 神川彦松

    神川公述人 ただいまの片島先生の御質問にお答えいたします。  なるほど日本はまだほんとうに独立国にはなっていないのであります。しかしながら占領中とは相当違うのでありまして、占領中は事実上も法律上も一応全く主権を待たなかったのであります。ところが少くとも講和条約が発効しましてから後は形式的には主権国になっている。これは事実上主権国でないというだけで、法律的には主権国として通るという情勢になっておるわけであります。従って日本は少くとも内政上におきましては、相当の自治権を回復いたしております。これは占領中の比ではございません。でありますから、占領中にはもとより憲法なんというものはできょうはずはないのです。でありますから、フランスの憲法でも占領中は憲法改正はしてはならぬということがうたってあります。でありますから、また日本でも美濃部先生は占領中に憲法改正ということは無理であるということを、占領中に言われましたことを御承知と思うのであります。占領中に憲法改正なんということは——占領中にやったから私はいかぬと言うわけです。ところが今度は、なるほどほんとうの意味においては独立国ではございませんが、ある程度とにかく内政上において自主権を持っておることはこれまた事実であります。またそれをやらなければほんとうの独立国になれないという実情があるわけです。いつまでも今の状態ではいつまでたっても日本は独立国になれない。ところがそういうふうにだんだん自主独立の体制を整えれば、やがてアメリカといえども手を引く、やがて軍隊も撤退する、軍事基地もなくなるということにならざるを得ないと私は思うのです。でありますから、どうしてもほんとうに自主独立を得るためにだんだんそういうような改良をやっていかなければならない、こう申すわけであります。
  44. 片島港

    ○片島委員 アメリカが今日本に駐屯軍を置いたり、またああいう条約日本に押しつけておるということは、やはりアメリカ日本のためによくなるようにと考えておるのじゃなくて、アメリカアメリカ目的でやっておるのだと私は思うのであります。何も日本を何とかしてよくしてやろう、日本をりっぱな国に育て上げなければならぬという熱意は私は持たぬ、こう考えております。そうしますと、今憲法を書きかえればアメリカ日本政策、極東政策というものは変るものでございましょうか。今の憲法を見て、アメリカはどうも憲法にこう托いてあるからどうだということでなくして、憲法日本が書きかえる書きかえぬによらず、アメリカとしての極東政策世界政策、また対日本政策というものを持つのじゃございませんでしょうか。これは国際法の権威であります神川先生に私は念を押しておきたい。
  45. 神川彦松

    神川公述人 重ねて片島先生の御質問にお答えいたしますが、申し上げるまでもなく、アメリカの国策というものは日本の利害とは関係ございません。これはアメリカの利害の命ずるところに従ってやられますことは申すまでもないのでございます。また日本憲法改正することについてアメリカが果して好意を持つか悪意を持つか、これは普通はアメリカ憲法改正させるのだというようにとられております。果してそうであるかどうかということについては疑点はございます。しかしながら、私はアメリカとして、憲法改正をするかどうかということはほんとう日本が民主主義的になったかどうかということの試金石だと思っていることは確かだと思うのであります。なんとなればほんとうデモクラシーを解する、デモクラティックな改革をやる国民ならば、今の憲法をいつまでも守っているはずはないわけなんです。これはアメリカも認めておる。またアリソン大使が国務次官補をしておったときにそう申しました。日本戦争中の憲法や何かを全部手続的にやり直すことは当然しごくのことで、これは民主主義の命ずるところであります、でありますから、アメリカとしてはそれは歓迎する、しかしながら、マッカーサー憲法の中にもいいところもあるから、いいところはなるべく保存してもらいたい、こういうことをアリソン大使が申したのであります。でありますから、その限りにおいてはマッカーサーでもだれでも、また世界中のだれでも、ほんとう日本人が民主主義的に覚醒し、また民主主義的政治を行う実力があるなら、きっと、憲法改正するに違いないと思うから、そのことは歓迎するだろうと私は思います。また日本憲法改正したからすぐアメリカの極東政策なりあるいは対日本政策なりが変るかということがすぐくるかどうか、そう直接関連があるかどうかは私はわかりません。しかしながら、とにかく日本がだんだん自治の体制を整え、つまり経済的にも自立いたし、また軍事的にも自立いたし、また政治的な自立をすれば自然今日本に対してとっておるような、そういう軍事基地政策だとかあるいは駐屯軍政策だとか、あるいはまたいろいろ日本に対して治外法権を持つような政策だけは、だんだん改善するだろうということを期待しておるわけであります。
  46. 片島港

    ○片島委員 だいぶアメリカの善意を信じておられるようでありますが、私はアメリカの要人が憲法改正したらいいとかせぬがいいとか言ったというようなことは、日本として配慮する必要はないと思います。これはやはり先生の力説される日本国民の総意に基いてやる限り、アメリカの不利になることであっても、アメリカがどんなに悪意を持っても、日本国民に善意のある憲法を作ることが私は日本の自主憲法だと、先生の先ほどからのお話では信じておったのでありますが、ただいまのお話で、私は先生の前からの御発言をあまり信用ができぬことになりました。アメリカが軍事基地を引き揚げ、いろいろな日本からの勢力を撤退するというのは、憲法の苦きかえの問題でなく事実上の問題であって、国民の総意がそこに結集をする、たとえば草市基地は反対であるという大きな国民運動が起って、その国民の感情、国民の精神、そういう思想の統一、そういうものが初めて国際的に非常な圧力を持ってくるのであって、ただ向うの方が憲法を書きかえることを期待しておる、それで憲法を苦きかえたところで、その善意を信じて向うは撤退をするであろうということは、ちょっと私は危険ではないかと思うのであります。その点をもう一回納得のいくような御答弁をいただきたい。
  47. 神川彦松

    神川公述人 お答えいたします。ただいまの御質問は、私が午前中に申しましたように、われわれの自主憲法というものは日本日本人日本にするというのが目的であります。決して日本アメリカのための日本にしようというような考えは毛頭持っておりません。でありますからその点は私の午前中の陳述によりまして御了解下さったことと思うのであります。またアメリカ日本に対して今後どういう政策をとるかということは、これは憲法を変える、変えないということと直接関連はないのです。これはアメリカ日本に対して持っておるところの根本的な国策からくることでございまして、それと直接関連はございませんが、憲法に限らずとにかく日本が自立体制を立てれば、おのずからこれはアメリカといえどもそう長く日本に軍事基地をたくさん置いたり軍隊を置いたりすれば、日米関係の感情上のもつれをいろいろ生ずるということは、非常に政治的に敏感なアングロサクソンがわからぬはずはないのです。でありますから、一日も早くそういうことはなるべく変えたいと考えておるのに相違ないと私は考えておるわけでございますから、おのずから変ってくるだろうと期待するわけであります。
  48. 片島港

    ○片島委員 その点はそれだけにして、もう一つだけお伺いしたいと思います。憲法が形式的にいかにデモクラシーを取り入れておっても、占領中にアメリカが作ったマッカーサーが作ったということでは、もう根本的に民主主義というものはない、こういうお話で、私もそれについては一点の疑点を残しながらもやはり了解できるところがあるのでありますが、そういたしますと、日本の自衛のためと称してできました今の自衛隊が、御承知通り、警察予備隊として出発をいたしましたが、警察予備隊は、御承知のように、占領中にマッカーサー指令に基きましてできた。これはアメリカがやったことであります。日本の安全を保つためという、ほんとう日本のことを考えて作ったとは、この憲法に対して先生が考えておられるように、そう考えないのです。それだけアメリカの善意を私は信用しないわけです。ところがそれがだんだんとふとって今日自衛隊となった。自立日本の独立を守るための自衛力である、これをやはりこの憲法にこのたび入れたいというのは、憲法上疑いがないけれども疑いを持っておる者があるから入れたいというお話でありますが、あなたの論法をもってすれば、憲法向うの御都合で作ったのですが、そうすれば自衛隊も向うの御都合によって作ったものなんです。これを自主的な憲法の中に取り入れて合法化し、日本ほんとうの自衛力に持っていこうといたした場合に、果してほんとう日本の自主憲法に盛り入れるだけの日本的なものであり縛るかどうか、この点の先生の御見解をお伺いしたいと思います。
  49. 神川彦松

    神川公述人 片島先生の最後の御質問は、また非常に重大な点に触れまして、私もこの点については自分の見解を以前にもかつて公聴会で申したことがございますが、今日もぜひ申し述べたいと思っておりましたから、少し時間が片島先生との問答としては長くなりますけれども、どうぞ一つお許し願いたいのでございます。  憲法第九条につきましては、まだ歴史的研究とその法律学的、政治学的の研究が足りないと私は思っております。今まで日本で出ました第九条に関する法律家の見解や、またその他の学者の見解というものは、当を得ていないと考えておるのであります。でありますからこの第九条については、まだまだほんとうに真意をはっきりさせなければならないのであります。ところが第九条は、実は何段かの変化をしてきておるのです。でありますから、第九条のこの条文ができますまでには、何回か変化をしてきておりますが、その最初はマッカーサー自身が書きおろした条項なんでございます。マッカーサーホイットニー憲法草案を作れという命令をしますに、マッカーサーは三カ条の条項を書きおろしまして、これだけは全然手を触れてはならないぞ、こういう命令をいたしたわけなんであります。そのうちの第二項というのがちょうど第九条に当るわけであります。でありますから、この第九条というのはマッカーサーが最初に書きおろした三条のうちの第二でございます。そうしてそれからきておりますから、どうしても第九条というものがほんとうにどういう意味を持っておるかということは、やはり沿革的に調べないとわからない。その最初は、ただいま申しましたように、マッカーサーの書きおろしの第二条でございまして、それは今の第九条のテキストとは違っておるのであります。どういうふうに違っておるかと申しますと、第一に第一項において違っております点は、自衛のための戦争というものを最初は禁止しておったのであります。マッカーサーの最初の書きおろしによりますと、自衛のための戦争もいかぬということが書いてある。これは大体御承知かと思いますが、国家の主権的権利としての戦争を廃止する。それから日本は国家の紛争の解決のための手段としての戦争、これは普通よく使われる言葉です。これは一九二八年の不戦条約以来絶えずこの言葉が使われるのでありますが、国家の紛争の解決のための手段としての戦争、これはいけない。これは現に不戦条約でもそういうふうに認めたのであります。それからその次に及び、自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する、こう書いてある。ここが実に新しい考え方なんです。ですからマッカーサーは初めの考えではもう自衛のための戦争も禁止する、こういうことをはっきり書いておったのです。つまり正当防衛戦争です。正当防衛戦争もいけないということをはっきり書きおろしてあったのです。ところがこれは基本人権の考えと正面衝突するわけであります。この点はよく御了解願いたいのでありますが、基本人権の考えと正面衝突するのです。それでマッカーサーは困った。なぜならば、基本人権の第一は生命を維持する権利なのであります。従ってまた生命を維持するために正当防衛する権利なのであります。これはなるほど今の憲法にははっきりうたっておりませんが、しかしながらこの憲法が基本人権というものをやかましく言うております以上は、それは第一に掲げられるべき当然の権利なのであります。生命、身体の安全をはかるというのが基本人権の根本であることは、これはアメリカ憲法を見ればだれでもわかることなのであります。また日本におきましても、憲法においてこそ規定いたしませんでしたが、民法や商法におきましては、はっきり自衛権、正当防衛権、それから緊急状態行為というものを認めておることは、御承知でありましょう。でありますから、基本人権をやかましくいえば、個人の基本人権というものを認める限りは、国家に自衛権を認めないということほど矛盾はないのであります。実にこれほどおかしなことはないのでありまして、いかなる文明社会におきましても、個人は正当防衛権を持っていなければ生存できないというのが、遺憾ながら事実なんです。文明社会において個人が個人の正当防衛権、すなわち自衛権を持たなければ生存できなければ、今日のような非常な野蛮な幼稚な国際社会において、自衛権がなくてどうして生存できるでありましょう。でありますから国際法においては、国家の正当防衛権と緊急状態行為というものは、国家の基本的権利であるというふうに認めておるわけなんであります。これはどこの国際法学者も国家の基本権利として自衛権を認めておる、これは当然のことなんです。ところがマッカーサーは国内で基本人権、すなわち個人の正当防衛権ということをやかましく言い、国際法では自衛権を禁止するというのですから、これほどの矛盾はございません。どうにも行き詰まってそれだけはぶいてしまった。でありますから今の第九条は自衛のための戦争というのは許すということになっておる。要するに最初の案と比較研究しますと許すということになっておる。すでに自衛のための戦争を許す以上は、戦争放棄したところで、それは要するに攻撃戦争のための権利を放棄したということを意味するのが当然でございましょう。また事実いかなる国の憲法も、また国際法規もそういうふうに書いてあるのでございます。正当防衛のための戦争を禁止するなんて憲法はどこにもないのであります。いかなる国の憲法だろうが、国際条約だろうが、正当防衛のための戦争というものは当然国家の基本権として認めておるわけでございましょう。でありますから結局この第九条というものが、自衛権を認めることだけはこれは間違いないのであります。これはマッカーサー原案と変った点なのであります。  すでにそうでありますれば、この第二項におきましては、やはり違った解釈というものが出てくるわけなのであります。もしそういうふうに解釈しますなれば、この第二項の規定というものは矛盾するわけなのであります。ところが自衛権は持っておるけれども、日本陸海空軍及び戦力は持ってはいけない。また国の交戦権も持ってはいけない、こう書いてありましょう。これは実際はマッカーサーは初めそういうふうに書きましたが、第一項を直したにかかわらず、第二項だけはそのままにしておいたのであります。ここに非常な矛盾があるわけであります。しかしながら第二項はともかくそのままにいたしておきまして、そうして日本陸海空軍及び戦力は持てない。また国の交戦の権利は持たない、こう書いたのであります。でございましょう。ここに実は矛盾があるのでありますが、しかしながらこれはマッカーサー原案通りなのであります。マッカーサーの最初のノートの通りに書かれまして、結局明文をもってすれば、日本陸海空軍並びに戦力、こう書いてある。戦力、ウオー・ポテンシャルを持たない、こうはっきり書いてあるのですね。でありますからもしマッカーサー原案通りの意味ならば、無論一切陸海空軍戦力も持てないという意味に相違ないのであります。しかしながらとにかくマッカーサーが第一項におきまして自衛権を認めておりながら、第二項においてその自衛権のために必要な、手段である陸海空軍及び戦力を禁止するというのでありますから、ここで自家撞着に陥ってしまったわけであります。それからさらに第二項において国の交戦権も認めない、これが果して何のことかわからないのであります。つまり交戦権、戦争権を認めないということは、第一項にうたってあるわけであります。従って第二項における交戦権というものは幾ら考えましても、交戦者の権利という意味しか出てこない。国家の戦争権、クリーグス・レヒトと申しますものは第一項に規定してある。これは今申しましたように攻撃戦争はできない。ただ防衛戦争はできる。(片島港君「失礼ですが自衛権のことを聞いておるのではない。自衛権はわれわれも認めておる。」と呼ぶ)そうしますれば本来ならば自衛のための手段である陸海空軍も、また戦力も、また交戦権も認めるべきはずだったのであります。ところがそれだけは直さずに、やはりアメリカの根本的な占領政策に従って、陸海空軍は全部いかぬ、戦力はいかぬ、交戦権もいかぬというふうにしてしまって、ここに本来矛盾があるわけなのであります。ところがこういうふうな第二項というものはいまだかつてどこの憲法にもないのであります。これは確かにこの文字の通り解しますならば、実に世界にもないような憲法なのであります。これこそはアメリカ戦争政策占領政策眼目として実現されたところでありまして、アメリカとしてはそれを初めから実現しようと願っておったところなのであります。ところが今日の世の中において、果してそういう自衛の力を持たずに国家として成立し得るかという問題があるわけなのであります。とにかく何人も軍備撤廃し、そうして世界平和を永遠ならしめるということは、だれだって敬虔なる念願でありましょう。しかしながらほんとう軍備を必要ならしめる、また戦争を引き起すような実際的原因がある限りは、そうやたらに戦争がなくなったり、また平和が維持できるはずはない。何しろ原因、結果の法則というものはいつでも働いておりますから、やはり必要があればこそ軍備も持つ、戦争の起る原因があるから軍備を持つ必要があるのに、軍備がなくなる、戦争がなくなるということはあり得ない。それでありますからこそどこの国でもこういうような憲法は採用しないのであります。     〔保科委員長代理退席、委員長着席〕 でありますから実際戦力も待たず、陸海空軍も持たないというのは世界においてリヒテンシュタインとアイスランド以外には絶対ない。リヒテンシュタインとアイスランドだけはなるほど軍備を持たない。ところがリヒテンシュタインはわずかに人口が一万三千人であります。またアイスランドは十二万人なのであります。でありますからこういうふうならばそれは軍隊を持たなくてもよいかもしれません。しかしながらおよそ人口八千万、九千万という国で軍隊を持たないという国は世界にないのでありますから、およそ国家として成立するためには、憲法第九条というものは絶対に変えなければならない、こう確信しております。
  50. 片島港

    ○片島委員 私の言ったのは、警察予備隊というのはアメリカの作ったものである。アメリカ自分目的のために作ったものであるが、それが太って自衛隊になってきておる。またアメリカが現在指導しておる。憲法だってアメリカのために作ったとおっしゃるが、予備隊だって自衛隊だってアメリカのために作ったものだ。それを今度作ろうとしておる日本憲法にそのままぺろっと差し込んで、それで自衛ということがいえるかどうかということだけを私は質問しておるのです。あなたは、アメリカが作った憲法だから内容がよくても民主的じゃないと言うが、自衛隊もアメリカ日本を守るために作ったと弁解しても、アメリカのために作ったものである。それをあなたの唱える自主憲法の中にぺろっと差し込んだだけでほんとうに自衛的なものになるかどうかということだけを聞いておるのです。
  51. 神川彦松

    神川公述人 今の点は、私の今申しました根本理論からすぐ出てくるわけなんでございますが、確かに日本の警察予備隊というものは、一九五〇年の六月二十五日に朝鮮動乱が起りまして、そして日本におりました十数万の軍隊が一夜にして朝鮮半島に移ったのであります。従って日本の内地はからになりました。でありますから、日本の国内の治安を維持する道がなくなったのであります。そこでマッカーサー自分が主張しましたところの原則と矛盾しますけれども、直ちに警察予備隊なるものを作って、実際の軍隊を作ったわけであります。確かに、これは実際の軍隊でありまして、再軍備なんです。ですからマッカーサー自分で、再軍備を禁止しておきながら、結局は自分の手でもって再軍備をやった、実に矛盾撞着したことをやったのであります。でありますから、それは確かにアメリカ日本国内の治安を維持するために作った臨機の処置に相違ないのであります。しかしながらとにかく日本として、アメリカ軍隊に全部治安の責任を持たせない限り、やはり日本としてはある程度まで軍隊を持つということは実際上の必要でありますから、だんだんそれが太って今日にまでなってきたわけであります。今日はまだすべてのことがアメリカの指図を受けておりますから、従って日本の軍隊というものは確かにほんとう日本の軍隊になっていないかもしれません。しかしながらやがては日本アメリカの支配を脱しますれば、それば必ず日本臣民の……(笑声)日本公民の軍隊というものがいつの日か必ず現われるということを期待するわけであります。現に今日の軍隊がそうであるとは申しません。
  52. 受田新吉

    ○受田委員 議事進行について——三時半から約二時間本会議が行われるわけでありますから、二時間本会議をやり、また続行するということになれば先生方にもご苦労をいただかなければならないので、大へんお気の毒だと思うのですが、ただいま本委員会の進行状況を見ますと、まだ三人しか質問が終っておりません。あとに続く者十数人、この全部の人が、現状をもって進行するならば、どうしても本日中には困難だと思うのでありますが、この点いかに取扱いをしたらいいか、委員長においてしかるべくお取り計らいを願いたい。本会議終了後はお忙しい先生方にお残りいただく御都合がつくかどうかも問題だと思う。本会議にいく前に適当な結論を出していただいて本委員会の通常を正常化せしめていただきたいと思います。
  53. 山本粂吉

    山本委員長 了承いたしました。なお時間がありますから、質疑を続行いたします。眞崎君。
  54. 眞崎勝次

    眞崎委員 時間もありませんし、ごく簡単にまず神川先生にお伺いたしたいと思います。この現行憲法の制定が先生の御指摘のような経緯によってでき上ったことは明瞭だと思います。しかるに私は国際法には暗いけれども、占領軍というものは占領政策実行に必要なる緒法規は設定し得るけれども、国の根本法である憲法を作る権能はないということを聞いておるのですが、まずこの点いかがでございますか。
  55. 神川彦松

    神川公述人 眞崎先生の御質問にお答えいたします。アメリカ軍事占領軍事統治というものは、従前の国際法のあらゆる規則またあらゆる国際慣例を打ち破ったものであります。だから単にそれはヘーグ陸戦法規を打ち破ったくらいのものではございません。従来のあらゆる国際法規あらゆる国際慣例を打ち破ったのでありまして、私はそれを超法的行為と考えております。超法的行為でありますから、従来のあらゆる国際法規や国際慣例を打ち破っておるのであります。でありますから戦時、占領中のことをきめましたヘーグ条約、すなわち陸戦法規条約といわれておりますものには、むろん正面衝突するわけでありまして、占領軍としてはできないあらゆることをやったわけであります。これけちゃんとマッカーサーのレポートに書いてございます。ヘーグの陣戦法規条約ではできないことだけれども、とにかくやったのだということが書いてございます。
  56. 眞崎勝次

    眞崎委員 次にはたびたび問題になりました第九条でありますから、要点だけ伺いますが、交戦権などというものは双務的なものであって、国内法だけで決定し得ない性質のものじゃないかと思いますが、その点いかがでございますか。
  57. 神川彦松

    神川公述人 眞崎先生にお答えいたします。第九条第二項の交戦権と訳しております言葉——ライツ・オブ・ベリジェレンシィというものを、そういう意味で使った例は国際法にもないのであります。これは、おそらくしろうとが作った言葉だと思います。でありますから、何のことかわからないのです。もしそれがほんとうに交戦する権利という意味ならば、第一項に放棄するということが誓いてあるから、ライツ・オブ・ベリジェレンシィ——しかも複数になっておりますが、そういう複数のライツ・オブ・ベリジェレンシィなどということは書く必要はない。でありますから、学者はみな交戦者の権利と解釈しておるのであります。これはやむを得ないのです。交戦の権利というものを第一項に書いてあるのですから、同じことを同じ条項に書くはずはないのでありますから、交戦者の権利——交戦者ならばベリジェレンツなんであります。従ってライツ・オブ・ベリジェレンツならわかるのであります。そう解釈するとおかしいことになる。日本外国戦争しても、戦時国際法規の利益は何も受けないで、みずから辞退するのだ、常に日本人は、戦争すれば戦時重罪を犯したことになるというわけで、実におかしなことです。しかしながら、そんなことにはならない。なぜならば、国際法上におきまして、交戦者の権利はちゃんと保障されておる。すなわち正規の軍隊に属するもの、不正規軍隊でありますところの民兵、義勇兵団に属するものはもとより、ルベ・アン・マッス、すなわち群民蜂起に属しますものも、すべてみな国際法上ちゃんと権利を保障されておる。権利を保障されておりますから、いくら国内法でそれを伏せたところで、いよいよ戦争となれば主張することもできるし、また外国がそれを犯せば、これを責めることもできるのであります。でありますから、国際法上当然認められておるようなことを国内法で放棄したことになるわけでありますが、実にこれは不合理なことでございまして、学者が非常に解釈に苦しんでいるところであります。それで、これはおそらくはしろうとの書いたものであろうというふうに判断しておるのであります。
  58. 眞崎勝次

    眞崎委員 次に、戦力ということについてでございますが、大体現代戦の様相を大部分は取り違えて理解しておると思うのであります。すでに思想戦という言葉が用いられておるように、現在は、武力戦は最後にとどめを刺す方法として考えられておるのでありまして、三千年前に孫子が戦わずして勝つような作戦を主としてやり、そして外国に自壊作用を起させるように仕向けております。さような意味におきまして、いわゆる国家のありとあらゆる有形無形のもので、一つも戦力でないものはございません。そうしますと、戦力を否定するということは、国家自身が自分の存立を否定するという意味になって、私は非常に危険な表現であると思いますが、この点はいかがですか。
  59. 神川彦松

    神川公述人 眞崎先生の御質問にお答えいたしますが、この陸海空軍その他の戦力を禁止するということは、これは第一次世界戦争後初めて使い出した言葉であります。第一次世界戦争以前におきましては、いつも陸海空だけを問題にしておりました。ところが国際連盟における軍縮委員会におきまして、陸海空軍だけを制限したり禁止したりしても、とにかくポテンシャル、戦力をそのままにしておいては、一朝事ある場合にどんな軍隊でもできるから、意味をなさないだろうから、そこでフランスの代表者が、いつでもウオー・ポテンシャル、ミリタリー・ポテンシャルというものを禁止しなければならないということを言い出した。それがもとでございます。それから国際会議だとか、あるいはその他の方面におきまして、陸海空軍及び戦力、ウオー・ポテンシャルといううちには、お説の通りあらゆるものが含まれるわけであります。今日の戦争は、言うまでもなく総力戦でありますから、あらゆる分子を含みます。それを一綱打尽に撤廃させるということをアメリカはうたったわけなのであります。もしそれを今日ほんとう日本が実行していくならば、日本は国家でなくなるわけであります。国家でなくなり、植民地か属領でございます。でありまするから、もしそれをいつまでも守り続けるならば、それはいつまでも外国の植民地にしようという考え方なんでありまして、どこまでも占領憲法であるということに変りはないのであります。
  60. 眞崎勝次

    眞崎委員 次には、六十六条の文民云々ということでございますが、この新憲法の大精神である基本的人権とは非常に矛盾した表現であると思います。そうしてまた、実際こういう取扱い方で、今日国家が非常に損害をこうむっております。さっきから、ほんとう日本のためになる自衛隊ができるかという疑問を持たれるが、その重大な欠点は、文民云々などという考え方に基く点が一番大きいと思いますので、この点に関して先生のお考えを伺いたいと思います。
  61. 神川彦松

    神川公述人 お答えいたします。この文民という原語は、シヴィリアンなのであります。また外国話が出ますが、どうもやむを得ません。原語外国語でありますからやむを得ません。シヴィリアンという言葉、これは、憲法草案の討議が議会で行われておりますほとんど最後になりましてから、極東委員会から指令してきたことなんであります。これも最近わかりました。極東委員会の決議でもって、どうしても日本の内閣の大臣というものは文民でなくちゃいかぬ、シヴィリアンでなくちゃいかぬ、こういうことを極東委員会で決議いたしまして、そうしてマッカーサーの手を通じて日本政府に要求し、日本の議会に要求したのであります。これは一つの例でございます。ところが、極東委員会がシヴィリアンという言葉を使ったのはどういうことかと申しますと、これはおそらく私は、極東委員会が誤解したのだと思っておるのでございますが、アメリカで使っておるのと大体同じ考え方で使ったのだろうと思うのであります。アメリカでは、どういうものか、簡単に申しますると、現役軍人でないということなんであります。現役軍人はミリタリーでありますが、ミリタリーでないものはシヴィリアンである。でありますから、アメリカにおきましては国務大臣、大統領、その他国家の高級官吏というものは、みなシヴィリアンでなくちゃいけません。しかしながら、それは現役軍人でないという意味でありまして、マッカーサーだって、軍服を脱げば大統領になれまするし、マーシャルだって、軍服を脱げばすぐ国務大臣になれる。そういう意味で、おそらくは日本へ押しつけたのだろうと思います。ところが向うが気がつかなかったのは、すでに日本には軍隊がない。従って、シヴィリアンというのは意味をなさない。従って、日本はどう解釈すればいいかという問題が具体的に起りまして、法律家の議論がそちこちにあるようであります。しかし私は、そういうこまかい法律の技術には立ち入りませんが、とにかく日本が軍隊を持たない限りは、それは結局軍人以外の文民、シヴィリアンという意味になるのだろうと思いますが、もし軍隊を持てば、しこうしてまた現に実際は、日本は自衛隊という軍隊を持ちつつあるわけでありますから、だんだんこれも変ってこなければならぬと思うわけであります。結局は、アメリカで使うシヴィリアンというような意味に解釈されるように将来はなるのだろうと考えております。
  62. 眞崎勝次

    眞崎委員 大体民主主義というばく然たる考え方で日本が混乱に陥ったことは、今度が三回目であります。いわゆる鹿鳴館時代の民主主義流行、それから第一次大戦後の思想混乱と今度が三回目であります。民主主義というのは、私の見解では、日本の伝統にのっとった民主主義でないと国家を破壊するようなことになると思いますが、この点についてはいかがですか。
  63. 中村哲

    ○中村公述人 民主主義というのは、人類の一員としての人間の自覚の上に立った表現でありますから、先ほどもお話しがありましたように、世界的なもの、そういう世界的な視野に立って人間性を自覚するということが日本の国民にとっては特に重要なわけで、そのことが、初めて戦争をした結果自覚されてきたわけでありますから、そういう民主主義というのは、まさに世界の歴史の方向であって、憲法改正に関連しますと、およそ憲法改正ということは、どういう憲法でも規定しております。しかしそれにはおのずから限界がありまして、そういう歴史の方向に向って民主主義に進むために改正するということを前提としておるので、その民主主義を否定して、日本憲法改正運動のように、旧憲法時代に戻すような改正をするということは、改正そのものの意味することではないと思う。まさに今の憲法は、そういう民主主義の内容を持っておるがゆえに、われわれはこれを尊重するのです。民主主義そのものの説明は、どうもこれ以上詳しくするのも時間がありませんから、どういう点を特に言うのですか。
  64. 眞崎勝次

    眞崎委員 民主主義ということをはっきり言わぬがために、勝手な解釈のもとに民主主義をやっておる。その民主主義というものは、どこまでも日本の伝統、民族性にのっとった民主主義でなければならぬと、こう私は考えるわけであります。
  65. 中村哲

    ○中村公述人 それは、日本的民主主義ということもいわれますけれども、民主主義は、そういうふうに日本の特殊な民主主義というのではなくて、基本的にやはり世界に共通したもの、そういう点が今の憲法ではことに強調されていまして、民主主義というものはそういうものだと思います。ただその現われが、日本の場合にどういうふうに現われるかという現象面では、民主主義はいろいろありますけれども、民主主義そのものは、まさに人類的なものですし、世界的なもの、こういわなければなりません。
  66. 山本粂吉

    山本委員長 眞崎さん、本会議が始まりましたから、どうぞ……。  それでは暫時休憩いたします。     午後三時三十八分休憩      ————◇—————     午後四時二十三分開議
  67. 山本粂吉

    山本委員長 休憩前に引き続き公聴会を再開いたし、質疑を続行いたします。辻君。
  68. 辻政信

    ○辻委員 私は眞崎委員質疑に関連をいたしまして、中村先生にちょっとお尋ねいたしたいと思います。  中村先生け、戦争中約十年にわたって台湾の大学で憲法の講義をなさっていらっしゃったそうでございますが、そのときに、旧憲法というものはあなたの学者的良心に一致したというお考えもとに学生に講義をなさいましたか、それとも、旧憲法は、あなたの思想に合わぬというようなお考えを持っていらっしゃいましたかをまず承わりたいと思います。
  69. 中村哲

    ○中村公述人 当時の大日本帝国憲法は、解釈によりまして、あれを天皇機関説的に解釈する立場もありましたし、また天皇主権説的な立場で解釈する立場もありました。私は、本来天皇機関説の立場の系統の学問をしたのですが、しかし旧憲法を客観的に見た場合は、やや天皇主権説的な構造をやっぱり持っておると思います。そうして、そういう天皇主権説的な構造を持っておる憲法は、私としては必ずしも賛成ではありませんでした。しかし、旧法の学問としましては、そういう憲法の特徴を述べることが学問的でありましたので、私は、明治憲法の保守的な面を客観的に述べました。そういう経験に基きまして、ああいう明治憲法があるのでは、民主主義はやはり阻害される、こういうふうに考えました。そのために、終戦後においては、どうしても憲法改正すべきだというふうに考えたのであります。この点、私は美濃部先生の系統の学問をしたのですが、美濃部先生は、むしろあの明治憲法が客観的にも美濃部先生の考えられるように自由主義的な要素を持っていると考えられていたために、改正する必要がない、つまり政治が悪いのであって改正する必要はない、運用さえよければいいんだというふうに解釈されておりました。思想的には、私は美濃部先生の思想に立っておるのですが、しかし、どうも旧憲法は、美濃部先生の言われるようにはできていない、むしろあの憲法の制定の精神からいって、穗積、上杉憲法的な要素がかなり多い、つまり原案は伊藤博文の作ったあの憲法については、穗積八束博士の見解というものに相当近いというふうに考えたのであります。そういう憲法は、やはり改正すべきであるということで、戦後は、民主的な憲法を作らなければ、日本が再び誤まったコースをとるというふうに考えたわけです。
  70. 山本粂吉

    山本委員長 公述人にお願い申し上げますが、時間が非常に短かく詰められておりますので、どうか直截簡明に一つお答え願います。
  71. 辻政信

    ○辻委員 台湾大学の教授をなさっていらっしゃるときに、その当時の憲法は必ずしも適当でないというお考えを持っていらっしゃったというように承わりました。  そこで次にお伺いしますが、昭和十六年三月の改造という雑誌に、あなたは「政治の現実と政治の責任」という論文をお書きになっておる。その中で「帝国憲法日本国家の永遠の根本規範であって、告文に「皇祖皇宗及皇考ノ神佑ヲ祷リ併セテ朕カ現在及将来ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラムコトヲ誓フ」とある如く、その永遠性は聖慮によって明確にされるところである。」とお書きになっております。また続いて昭和十六年九月の日本評論に「政治力の条件」という一文をお青きになっておるはずでございます。それを読んでみますと「日本の国家はいかなる理想目標に向って進むべきであるのか。その内在的な理念が明らかにされなくてはならない。それは日本の国体がつねに、宜明し来った一君万民の統治を実現することであって、聖徳太子の十七条憲法のいうように「君云ひて臣承り上行へば下靡く」政治を実現すべきであって、これこそ日本の国体の根本理念にもとづく政治力の結果である。」というように、かつて一君万民を讃美し、国体の根本理念というようにたたえられた、これに誤まりございませんか。
  72. 中村哲

    ○中村公述人 それは誤まりございません。
  73. 辻政信

    ○辻委員 そこで、次は敗戦後七年たって昭和二十七年の七月の改造に、あなたは「天皇は大元帥として統帥権を握ることによって、問答無用の独裁権を有したのであった。だから、明治憲法は、国民の政治的参加を認め、その権利や自由を保障したようにみえるけれども、その実、天皇制絶対主義をこれによって制度的に確立したのであった。天皇制というものは、君主の賢明さとか温情とかを生かすような制度でなく、全くの独裁機構そのものだということになる。」こういうふうに発表なさっていますね。これに間違いございませんか。
  74. 中村哲

    ○中村公述人 間違いございません。
  75. 辻政信

    ○辻委員 そこで、私が最後に結論として申し上げたいことは、学者というものは権力におもねらず、利益に誘惑されないで、おのれの信念というものをあくまで持つところに学者というものの尊厳があると思う。いかに敗戦という事態にぶつかったにしても、十年間にあなたの学者的良心がかくのごとく百八十度転回されたということについて、どういう心境の変化からそうなられたか、それをまず簡単に承わりたい。
  76. 中村哲

    ○中村公述人 今、辻さんが言われましたことは、私の戦争中に書いたことと、その後に書きましたことで、それは私としては一貫しております。旧憲法というものは天皇中心の憲法であり摂して、その当時におきましては、天皇にまっ正面から反対するということは、これは公立大学として、また普通の教授としても非常に言論の制限があった。そこで私は、旧憲法の中で可能な限りの民主的な主張をすべきだ、こう考えましたので、そこで、たとえば今の一君万民というようなことも、つまり天皇制のもとで最も可能なデモクラシーの主張をするには、その天皇制といえども国民を無視しては政治はできないのだ、こういう点を強調すること、これがせい一ぱいであるというふうに考えました。それからデモクラシーの問題と、もう一つは軍の問題でありますが、私は、戦争中国防会議論というものを中央公論に書いておりました。それも、軍の独裁を抑えるには、憲法の制約がありまして、天皇自身にある程度において、つまり天皇の政治的な面で軍を、抑えるほかないというふうに考えまして、そこで統帥権において、天皇の御前会議というようなところで政治の力で調整すべきである、こういうことを主張いたしました。その考え方が妥協的というか、そういう憲法もとで主張する主張として最も適当であったかどうかという点については、本来はそういうことは批判すべきであった、つまり天皇制そのものを批判すべきであったというのかもしれませんけれども、私は、そういう限りで極端な政治が行われないように、可能なデモクラシーの主張をしたつもりであります。そこで、そういうことをしたけれども、やはりそういう天皇中心の憲法もとでは、幾ら可能な主張をしても、それはだめなんだ。そこで終戦後は、憲法を変えなければならぬ、こういうふうに私は痛感いたしましたので、それを書きました。
  77. 辻政信

    ○辻委員 そうすると、あなたは、学者的な良心において旧憲法に必ずしも同意でなかったが、当時の政治的な圧力といいますか、環境のもとにその礼賛をやらなければならなかった、礼賛という言葉はひど過ぎるかもしれませんが、あなたがほんとうに学者としての良心があれば、こういうことを筆にお書きになるものではない、そういう感じを持つのです。  いま一つ、それではさらに突っ込んでいきましょう。それでは最悪の事態、共産党が日本に入ってきてブルガーニンが君臨したときに、その強大な政治的圧力で共産主義的な憲法をあなたに要求したときに、あなたはその権力に屈して、今度は赤旗のお先棒をかついで得意の変節をやるかどうか、これについて承わりたい。
  78. 中村哲

    ○中村公述人 共産党の力によって日本にそういう社会主義政権ができるというようなこと、外の力でできるものではないと私は思いますので、どうもそういう仮説が理解できないのですが、その前に、今、辻さんの言われた点で、つまり一方においては憲法の制限があり、そういう中で可能な主張をするということはどうしたらいいのかということで、たとえば私が左翼運動をやっておるものなら、まっ正面から天皇制を批判したでありましょう。しかし、そういうことは私にはもちろんできない。従って、そういう天皇制のもとにおいて可能な主張をするということでありまして、これは天皇制を基礎づけることでなく、天皇制の中で一番民主的なものは何か、つまり従来の天皇の詔勅なんかで相当民主的なものがある。たとえば大化の改新のときの詔勅とか、こういうものを使って可能な主張をしようとしたが、そのこと自身が誤まっていたのではないかとは思いますけれども、天皇制を基礎づけるために主張したのではない。しかし、結果においてはそういうふうに見られるというのであれば、やはりそこに問題があると思います。
  79. 辻政信

    ○辻委員 天皇制のもとで、可能な範囲において、あなたは学者的な発言をなさったとおっしゃるが、しからば、将来共産主義政権ができたら、共産主義政権のもとにおいて、可能な範囲であなたの言論を学者の良心としてお述べになるつもりか。私は、昔から学者というものを非常に尊敬している。われわれがいわゆる軍部におって権力をとっておったときに、軍に反対した学者に私はほんとうに敬意を表したものであります。あの薄給でもって何にも誘惑されないで……。今の御時世において、あなたはどうして権力の可能な範囲においてお曲げになるか、もう少し強くなっていただきたい。これ以上あなたの答弁は要求しませんが、学者の影響というものは近ごろ非常に大きい。あなたも大学の教授です。あなたの思想はそのまま純真な学生に入っていく。何でもない人の言うことと違いますよ。あなた方は戦争中の有名な花形論客ですよ。その意味において、あなたに御自重をお願いします。御答弁は要りません。
  80. 中村哲

    ○中村公述人 というのは、戦争中は、私なんかには権力を徹底的に批判するというまでの態度はなかった。それがやはり間違いであったということを私は考えております。現在憲法改正とか、アメリカの要求する再軍備であるとか、こういうことに対しては、やはり権力そのものに対しても屈しないようにしなければならないということで、私は行動しておるわけです。それですから、その点においては、むしろ戦争中の、自分の可能な主張を反省する形で進んでおります。
  81. 辻政信

    ○辻委員 発言せずにおこうと思いましたか、御答弁がありましたから、つけ加えます。あやまちを改めることは決してとがめません。あのときあなたが敢然として主張し得なかったことを後悔しておりますから、そこであなたの将来に期待することは、もし日本に独裁的な赤の政権ができた場合に、今度こそほんとうにそれに屈しないように、あくまでも民主主義を守っていただきたいということを希望して、私の発言を終ります。
  82. 山本粂吉

  83. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 皆さんがたくさんお聞きになりましたので、私はあまりお聞きすることはないんですが、一番最初に神川先生にお願いをしておきたいと思うのです。と申しますのは、先生から非常にたくさんのことをお話しいただきましたが、先生の、現行憲法は、結局するところ占領軍命令にすぎないというお説は、これはりっぱなお説として私は同感はいたしませんが、尊敬をいたします。ただしかし、いろいろそういうお話がありました中で、私たちどうしても納得できないというよりは、むしろ先生のために惜しむような事実がありましたので、一つお願いをして、そういうことのないようにお願いをしたいと思います。まず第一は、占領中にできた法律、政令、そういうものはみなどんどん失効していく、こういうお話がありましたが、これは政令三百二十五号のようなものだけがなくなっておるので、刑事訴訟法とか民法の中の親族相続法とか、そういうわれわれの生活を規律している法律は少しもなくなっておりません。それですから、何でも論理の飛躍をさせて、占領中のものはみなだめになってしまったなんというおっしゃり方は、僕らのようなしろうとならいいのでありますが、説得力のためにもおよしをいただきたいと思います。  それからもう一つ考えましたのは、この憲法は、元来ならば国会が無効宣言をする方がいい、それが正しいというお話でありました。しかし、これも、国会は現行憲法に対して無効宣言をする資格はないと私は思っております。と申しますのは、現行憲法の上に立っておる国会ですから、みずからの存立の基礎に対して無効宣言をするなどということは、ちょっとできないことじゃないか、こう考えるのであります。これを先生は、平然と無効宣言をするのがよろしいとおっしゃったのでありますが、こういうことも、非常に小さなことではありますが、大勢の人々を誤まりますので、ぜひお供しみをいただきたい。はなはだ無礼な言い方でありますが、こう考えます。しかも無効宣言をすべきこの現行憲法改正するに当って、またこの無効宣言をすべき対象である憲法の九十六条を利用して改正する、こういうお話でありましたが、これまた非常な矛盾じゃないかというふうに私たち考えるのであります。こんな点三つ、四つ感じましたので、一つ御考慮をいただきたいと思います。  そこで、私の伺いたいと思います第一の点は、さっき中村先生がお申し述べになった点ですが、現行憲法の制定をいたしますに当っては、先生のおっしゃったように、あるいけマッカーサー元帥の方から草案が出たのかもしれませんが、その草案は少くとも国民に周知されておりました。これは新聞にも出ました。国民はこの草案を知る機会を十分に持ったわけです。しかも、その草案を国民が見ましてから総選挙が行われました。国民はこの草案を十分に検討するいとまを与えられ——現実にしたかしないかは別ですが、いとまを与えられて総選挙が敢行せられ、総選挙の結果新たなる議会が召集をせられて、この議会の中で現行憲法の審議が進んだわけであります。もしそうだとすれば、私たちはこの憲法の審議について、議会は国民の負託を受けておった、こう考えてよろしいのじゃないか、こう考えるわけです。神川先生も、事実ですからお認めをいただけると思います。そこで進んで、それではそうした国会の審議に対してどれだけの干渉があったのか、どれだけ議員が議会の中における言論を制約せられたのか、このことを一つ伺いたいと思います。これは何といっても、憲法が制定をせられる場合に、制定意思というものは国民の意思であるはずです。マッカーサーから問題が出たということだけを強調することによって、今申し上げたように草案を知り、その上に総選挙があってできた議会の意思を無視することはできないはずです。そこで、マッカーサーの方から出たということを強調なさるのならば、同時に、これを審議した国会にどのような制約が与えられたか、こういうことまで考えていただきませんと、この憲法占領軍命令だとは言い切れないと思うのです。そこで、国会に対して具体的にどのような干渉があり、どのように議員が言論を制約せられたかということを、私たち不幸にして知りませんので、お教えをいただきたいと思います。
  84. 神川彦松

    神川参考人 飛鳥田先生の法律家という立場から御提出になりました幾つかの点につきまして、私はすべて先生の御意見には賛成できませんから、そのことを申し上げます。飛鳥田先生は、占領中にできたものでもまだちゃんと残っているものがあるじゃないか、全部一網打尽になくなったわけじゃないじゃないかと言われましたが、それは当然なことなのでございます。たとい国際法上当然失効すべきものであっても、国内法上それを失効さすかどうかは国内法上の問題なのでありまして、国際法上の問題ではありません。でありますから、日本政府なり議会なりが占領中にやった改正でも、それを直す必要がない、そのまま踏襲していいと思えば、むろんそのままちゃんと有効なんでありまして、それを国内法上の手続で変えない限り有効であるということは、最初に私が申し上げたわけでございます。つまり、国際法上は当然ポストリミニアムの法則で無効なんだけれども、しかしながら、国内法上の手続でそれをすぐに無効にするかどうかは、これはまた別個の問題でございます。これは法律家の飛鳥田先生には釈迦に説法と思いますけれども、その点で一つ誤解のないようにお願い申し上げたいのであります。  いろいろ問題がございましたけれども、また、なるほどマッカーサーの方で作ったのかもしれぬけれども、しかし、憲法草案としては民衆にも知らされ、また議会にも付託したではないか。それは日本の議会が主権的な議会であったか、ほんとうに独立の立法権があったかどうかという法律問題であります。もしも日本の議会が主権的な議会であり、主権的な国民の代表であったならば、そうした権利がございましたでしょう。しかしながら、遺憾ながらマッカーサーの絶対的武力独裁制のもとにやった議会でありますから、そういう非常な制限があったわけであります。すべてのことはマッカーサー司令官が決定した。議会が議会であるかどうかは、最後の決定権があるかどうかの問題であります。幾ら議会が議論したところで、最後の決定権はスキャップの意見できまり、こちらできめる権限は何にもないというのでは、実際法律上から言えば無価値ではありませんか。なるほどやったでありましょう。しかしながら、現にそのやったことが伏せられているのです。衆議院において特別委員会というものができたでしょう。そのうち十四人の小委員会ができた。なぜその小委員会記録というものは発表しなかったのです。発表するのは当然なことです、いやしくも民主議会とかなんとかいう看板を掲げている以上は。なるほど特別委員会の議事録は出ていましょうが、小委員会の議事録というものは発表されていない。そして、聞くところによると、そういう議事録というものは、二重帳簿だそうです。何でもマッカーサーの方へ出したのとこっちへしまってあるのは違っているそうであります。これは聞いたのでありますから、果してそうであるかどうか知りません。二重帳簿のような議事録を作らなければならぬ議会が、どうして独立の議会と言えましょう。ですから、なるほどそういうようなカムフラージュをやりました。そうしないと、日本をだますわけにいきませんから、カムフラージュはやりました。しかし、幾らカムフラージュをやったところで、とにかく主権的権限を持っていない、決定権がない議会というものは、議会の尊厳がございません。そこです、私の言うのは。だから、果して当時の議会にそういう尊厳があったかどうかという問題でございます。これが最後の問題でございます。  もう一つ私に注意しろと言われたのは、何でしたでしょうか。
  85. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 いや、それはけっこうです。今の先生のお説によりますと、その当時の議会はすべて主権がない、こういうお話でありますが、主権のない議会の作った法律に、私たちは、今まで拘束されて参りました。こういうことは、逆に言えば、日本国民を非常に侮辱なすった御言説だと思うのです。私たちが主権のない議会の作った法律のため拘束されるなんて、そんなばかな話はありません。私たちは、ここに日本国民の意思があったことを認めないわけにいかない。ただ、国際的な関係においては制限を受けておった場合もあり得るでしょう。しかし、部分的に国際的な関係において制約を受けておった事実をとらえて、全般的に国会の持っている主権性をすべて奪ってしまうような御議論は、いささか論理の飛躍がありはしないか。ここで直接占領してきたやり方と間接占領をしてきたやり方との違いまでも一切無視して——それは同じ占領という言葉になるかもしれませんが、しかしその間のニュアンスを抹殺してしまっていく御議論は、少し乱暴に過ぎはしないか、こういうふうに私は思うわけです。今お説のありました秘密議事録、これは私が先頭に立って公開を要求いたしております。しかし自民党の諸君は、絶対に公開して下さらないわけです。きっと自民党にとって不利なことがたくさんあるでしょう。そう私たちは想像しております。少し横道にそれますが、私たちは一切の資料を見て吾を決したい、こう願っておりますので、その資料を故意に遮断しようとしておられる自民党の態度に、今お叱りをいただいて非常にうれしく思います。どうぞ自民党の諸君が神川先生のお説に従うように、お願いをしたいと思います。ともかく、そうした形で、この国会が何らの意思を持ち得なかったという御言説に対しては、私たちはうなずけないものがあるわけです。かりに、もし先生のようなお説でありますならば、占領中の一切の法律の無効宣言をしなければならぬのじゃないか。それが、先生のお説に従っておりますと、やむを得なかったのだ、だから暫定的に有効性を認めようというような御議論のようですが、その辺の法律的な論理的な見解を伺わしていただきたいと思います。
  86. 神川彦松

    神川参考人 飛鳥田先生の御議論、私は法律的に見て承服できないのであります。なるほど議会がいろいろの議決をやったことはその通りでございます。従って、その当時の法律が果して御議論のように無効かどうか、そういう議論がありますが、私が申したのは事実を申したのでありまして、事実がその通りであったから、私はその方の専門の研究家という立場から申したのでありまして、事実だけのことです。事実を曲げるわけにはいかない。事実その通りなんでありまして、遺憾ながらマッカーサーの絶対的軍事独裁制のもとにおける議会というものは、ある意味においてはナンセンスでありまして、そこでどんなことをやられたか知りませんが、それは独立国の議会とはまるで違ったものなんでございます。だから、この事実はいかんともすることができない。ただ事実を私は申し上げたのです。ですから、私は決して侮辱も何もいたしません。当時の日本としては、それは絶対不可抗力なものであったでございましょう。それは事実です。決してそれがために軽蔑なんかいたしません。ただ学者として客観的事実がそうだということを申し述べるだけのことでございます。ところが、その議会でやったことを保存するかどうかは、その後の議会なり政府なりの態度いかんによるわけでありまして、また政府なり議会なりで、これは占領中にやったものではなはだおもしろくないから再検討しなければならぬ、これはやはり作り変えなければならぬ——私はそう思いますが、そういう御方針ならば、それを議論をされた方がいいと思います。私ならば直していただきたいと思っております。ところが、今まで憲法すら直さなくてもいいというのでありますから、憲法付属の法律やその他には全然手をつけていないのは当然であります。まず憲法を直さなければ、こういうものを直すことはむずかしい点が多々あります。ですから、私はまず憲法を直して、そして憲法以下の法律というものは漸次御検討を願いたい、こう考えておるわけであります。でありますから、これはただ日本人が怠慢なんです。日本人が、まだ占領治下にあってやったことがほんとうの独立国の議会でやったことと同じだという錯覚に陥っておるから、そう考えておるのでありまして、だから、その錯覚を訂正さえすれば、なるほどこれはやり直さなければならぬ、たとい同じものを作るにしても、とにかくもう一ぺんほんとうの議会でやり直さなければならぬ、こう考えるのが民主主義でございませんでしょうか。そういうことをやらずに、ただ占領中にできたもので、大体差しつかえないからこのままにして置こう、それこそ封建的な考え方です。自分ほんとうに決定権を持たなかった、みんなこれはスキャップが決定したのです。問題はそこです。最後の決定権が日本の議会にあったかスキャップにあったかの問題ですから、最後の決定権がスキャップにあったことだけは、だれが何と言おうと間違いないことです。そんな最後はスキャップの許可によってきまったような憲法は、われわれが作った憲法ではないのです。またそういうわけでありますから、ある意味におきましては、議会というものはとにかくやろうと思えば何でもできるのです。何でもできるのにやらないのです。また議会がそういうことができぬと言われれば、それは議会が憲法制定権を放棄することです。それこそおかしなことでありまして、議会がやらずにだれがやりますか。議会というものは、国民の総意を察し、また国民のためにやるのが当然です。それが国民主権、それが民主主義ではございませんか。ですから、私は今の議会は怠慢だと考えておりますし、民主主義の立場からいって、一日も早くそれをやらなければならぬと考えております。ところがそれをやらずに、こんなことは議会でできぬというのは、みずから議会の権力を放棄し、民主主義を放棄するものです。ですから、飛鳥田先生が幾ら何と言われても私は承服できません。
  87. 山本粂吉

    山本委員長 飛鳥田君、どうぞ結論をお急ぎ下さい。
  88. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 どうぞ一つ先生、政治的な問題と、純粋に法律的な問題とを分けて御説明をいただきたいと思うのです。私のお伺いいたしておりますのは、第一にお伺いいたしましたのは、占領軍の指図によってその縁由が作られたということならば、これを議定いたしました国会に自由意思があったかなかったか、もしあったとすれば、それは有効だと言わざるを得ないと思うのです。なかったというならば、現憲法は無効だと言わざるを得ないと思うのです。それを、今この国会がどう処理するかということは政治的な問題です。でありますが、もしそういう意思の自由のないところにでき上ったものだとするならば、先生は、占領軍命令だと規定をなさるか、それでなければ、憲法として無効だとおっしゃるか、この二つしか私はないように思うのです。私も法律で飯を食っておるのですが、意思の自由のないところにほんとうの法律行為というものはないというように教わって、そのまま覚えておるつもりですが、いかがですか。
  89. 神川彦松

    神川公述人 それは飛鳥田先生、自由意思とか意思表示の自由というものは、占領中はございません。占領中は、たびたび申しましたように、武力的絶対独裁制でございまして、あらゆるものはスキャップが規律いたしているのであります。でありますから、実に空前の厳格な検閲制度をやりましたことは御承知通り。とにかくいかなる日本政府も、いまだスキャップのような検閲制度をやったことはございません。昭和二十三年ごろに至りますまでは、あらゆる出版物事前検閲をする。飛鳥田先生も御承知でございましょう。新聞だろうが雑誌だろうが、あらゆるものは事前検閲なんですから、スキャップの意思に反するものが出ますかね。また外国のジャーナリストもそれに非常に反対しまして、実に日本ほど言論の自由のないところはないと言って憤慨した。そういう憤慨をした人は、わずかに三日なり一週間で退去させられてしまった。でありますから、占領中の日本ほど言論の自由のないところはなかった。現に私などは、追放を受けておって、全然言論の自由はなかったのです。ですから、そういうような言論の自由というものは、ほんとうの言論の自由ではございません。言論の自由というものは、いかなる権力の制限も受けないものでなくてはならぬ。ところが絶大なる権力の制限を受けておるのですから、それでドイツの国民というものは、とにかく占領下においては、自由な意思表示だとかなんとかいうことは絶対にできないから、民主憲法はできないといってはねつけた、それがほんとうではありませんかね。とにかく自由意思が……。
  90. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 先生の御意見は、私たちはもうかなりよく伺いました。私のお伺いしているのは、結論として、現行憲法占領軍命令にすぎないとおっしゃるのですか、それとも無効の憲法だとおっしゃるのですか。その点だけをお伺いしておるのです。
  91. 神川彦松

    神川公述人 私はたびたび申しましたが、国際法上は無効であると思っております。ただ国内法上はまた別の問題であると考えております。
  92. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 国内法的には、それでは占領軍命令ですか。
  93. 神川彦松

    神川公述人 国内法的には、むろん占領軍命令ですけれども、それをどう取り扱うかということは、日本政府なり、あるいは議会なりの方針によるわけです。
  94. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 国際法的には無効であり、国内法的には占領軍命令である、こういう御結論をいただいたわけですが、そういたしますと、その上に立っているこの議会などというものも、占領軍命令の延長でしょうか。
  95. 神川彦松

    神川公述人 私は、さっきから申しましたように、まだ日本は、占領状態をほんとうには脱していないと考えております。そういう占領中の法規をすべて改正されませんから、そういうものを全部改正されたら、私はほんとうの議会だと思います。
  96. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 大へんありがたいことで、私たち憲法による議員たることを先生から否認をせられたところでありますが、最後に、第二の問題としてお伺いしておきたいのは、この憲法に対する改正論は、ニクソン副大統領が日本にやって参りまして、日本にこういう憲法を持たせたのはアメリカの間違いだった、こういうような声明をいたしました。続いて国務省の方から、一九五四年は憲法改正準備の年、一九五五年は憲法改正の年、こういうようなプログラムが出されて参りました。こういうようにアメリカの意向が変って参りますとたんに、日本国内における憲法改正論が、あたかも解き放たれたようににわかに出て参りました。こういう点から考えて参りまして、私たちは現行憲法改正については、うわべにおどり出ていろいろ議論をなさっておる改正論者よりも、もっと奥に、日本憲法改正せしめようという何者かが動いていると見ざるを得ないわけです。また先ほど先生も、アメリカも喜ぶだろうというお話でありましたが、こういうところにむしろ重点がありはしないか。日本昭和三十五年度に三十五万の軍隊を持たなければならないというような約束をしてきたそうであります。こういうことを実現いたして参りますためにも、またアメリカが最近日本に対する戦略的な方向を変えて参りました点から見ましても、私たちはそう推定せざるを得ないわけです。先ほど来先生のお話を承わっておりますと、非常に先生の個人的な純粋なお気持から、いわゆるナショナリズムの立場から改正論をお唱えになっておるようですが、しかし個人がいかに純真にナショナリズムの立場から改正論を唱えようとも、実はそれは客観的な大きな流れに逆に利用されていくんじゃないかというような危険を私たちは感ずるわけです。先生のお説も、意図するとしないとにかかわらず、結局はアメリカ製の憲法改正論の手助けをなすっているという結果に終りやしないかということを、私たちはおそれます。そういうような点についても、先生ほどお考えになっていらっしゃいますか、伺わせていただきたいと思います。
  97. 神川彦松

    神川公述人 飛鳥田先生のような、そういう心配を持っていらっしゃる方がたくさんあると私は思います。でありますから申しまするが、少くとも私は、昭和二十六年追放解除と同時にやり出したのであります。まだマッカーサーもおったのです。マッカーサーは五一年の四月十六日に日本を去りましたが、私は、マッカーサーがおるころからやり出したのです。それからリッジウエーの時代を通じまして、猛烈に私はやったのです。今の憲法というものは占領憲法だ、実はそういうことを言い出したのは、日本において私が初めてなんです。日本人はそのことを知らなかったのです。ですから、私はアメリカのためにするとかなんとか、そんなことを考えたわけでは決してないのです。のみならず、一体アメリカのニクソンであろうがだれであろうが、とにかく初めは日本の軍隊を禁止し、またやがて必要があれば軍隊を作ってくれなどというようなことは、非常にステーツマンシップがないと思う。私は今度ダレスが来ますから、そういう注文を出しておきました。アメリカ人は、もう少しステーツマンシップを持て、私は、その点アメリカ人は確かにはなはだけしからぬと思う。しかしながら、われわれは、決してアメリカのために再軍備するとかなんとかいうようなことは、全然考えておりません。むしろ僕などは、とにかく日本は再不備をしなければ国家にならない。いつまでも植民地、属国だから、とにかくそれを脱却するには、どうしたってまずみずから守らなければいけない。ですから、アメリカの勢力を排撃するために私はやっておるのであります。いや、その結果は排撃にならない、かえってアメリカの勢力に屈服することだという御意見ですが、私はそうは思いません。今の状態のままで続いていったならば、いつになったらアメリカがのくか、いつになったらアメリカの軍隊の基地が解放されて独立日本ができまするか、実は、それを私はお聞きしたいのであります。私は、とにかくそんなことでは日本は水久にアメリカの植民地であるから、何としてもそういう境遇を一日も早く脱却したい、そういう念願から行うわけなんであります。
  98. 飛鳥田一雄

    ○飛鳥田委員 今お説を伺って、先生のお説はよくわかっておるのですが、現にその危険を私たちは感ぜざるを得ない証拠を持っているわけです。たとえば、鳩山一郎さんが自由党の憲法調査会に御出席になりまして、憲法改正の必要を論ぜられた中で、こういうことを言っておられます。アメリカ日本はいつまでも緊密な関係を保っていかなければいけない。ところが自分の見るところでは、最近この関係は下り坂である、冷却に近づきつつある。従って、アメリカとより親密になるために一刻も早く憲法改正しなければなら、ないとおっしゃっているわけです。これでは、まるで失われていく愛情を取り戻そうとするために厚化粧をする娼婦に似ていると思うのです。先生は、個人としてナショナリズムの立場に立って憲止改正を唱えられている。だが、現実に一国の責任ある方々がこのような考え方に立って今憲法改正を行おうとしているのです。もしそうだとすれば、先生の良心的におっしゃることが、実はそういう方々のお手助けをなされる結果に終ってしまいはしないか、こういうことを私たちは哀心からおそれます。はなはだ恐縮でありますが、最後ですから述べさせていただきますが、いろいろな憲法改正、あるいは憲法改正を否とする考え方、こういうことを述べます場合に、それがどういう効果を生むか、国内的に国民にどういうものを与えるかということを一つ慎重に御考慮をいただいて、お述べをいただきますようにお願いしたいと思います。もちろん私たちの社会党も、そういうことを十分考慮して述べるつもりでありますが、どうぞ一つこのことを最後にお願いをいたしまして、僕の質問を終ります。
  99. 山本粂吉

    山本委員長 次に大坪君。
  100. 大坪保雄

    ○大坪委員 私が尋ねたいと思いました事項は、大体同僚の委員の諸君から尋ねられましたし、特に神川先生によってきわめて明快に、私のお尋ねしたいと思います事柄等についても解明をいただきましたから、神川先生にお尋ねしようと思っておったことは、もうこれで私がこれ以上お尋ねする必要はないように思います。ただ、神川先生もお述べになりましたが、中村さんや戒能さんの御発言の中で、少し私疑問を持つところがございますから、それらの一、二の点についてきわめて簡明に一つ御両所にお尋ね申し上げたいと思います。  まず中村先生に対してでございますが、現在の日本憲法の制定のいきさつから、自主性を持った立法であったかどうかということが今問題になっておるわけであります。先刻中村さんの御発言の中に、今の日本憲法も、国会が承認したのだから、これは国民の意思があったと見なければならぬ、こう仰せられました。もちろん手続上国会が承認したということは、その通りでございます。そこで、お話の中に、今の憲法マッカーサー憲法と言うなら、明治憲法は、明治憲法と言うのでなしに、井上毅憲法と言った方がむしろ合う、こういうようなお話があったので、実は私お尋ね申し上げたいと思うのであります。私どもは、今の憲法はどうしても改正しなければならぬ、これをこのまま昭和の時代にできた憲法だといって残すことはとてもできない。将来私どもの子孫から笑われることのないように、私どもは間違いのない憲法だとして将来私どもの子孫に残せるものを作りたいと思っておるわけなんです。そこで問題は、今の憲法占領中に制定されたということは間違いのない事実である。占領軍というものはどういうものかといえば、戦勝国がその戦勝の効果を確実にするために、戦敗国の領土に侵入して、戦敗国の軍隊を撃擁して、戦敗国政府政治権力というものを排除して、そうしてみずから戦敗国の領土において政治を行うこと、それが占領軍であり、占領軍占領政治であると思うわけであります。日本の戦敗の状況について見ましても、御承知のように、ポツダム宣言をそのまま無条件に受諾して、占領軍が入ってきて、そうしてマッカーサー元帥は上陸第一歩に、おれはこれから天皇及び政府を通じて占領政治を行うのだということをはっきり声明しておる。そういう事態であって、かつ先刻神川先生も仰せられましたように、多数の者を追放しまして、言論の自由を抑圧した。そういう状態のもとにおいで、できた憲法である。そこに私どもは問題があると思うのです。私どもの自由な意思、自由な発言、そういうものなしにできた憲法である。だから、先刻神川先生も仰せられましたが、同じ内容の憲法ができても、独立した以後の今日においては、われわれが自主的に自力で日本国の憲法を作り直そうという気持なんです。占領中に無理無体に押しつけられた、こういう印象のあるような今の憲法は、後生大事にして子孫に伝えるに忍びないというような気持なんです。  そこでお伺い申し上げたいと思いますが、一体占領中には十分な主権があったかどうか。これはお尋ねをする必要のないことだと私は思うのですが、その点について、主権はあったかなかったか、あったとしてどういう程度の主権であったか、そこを中村先生の御意思として一つお答え願いたいと思います。
  101. 中村哲

    ○中村公述人 まず今の憲法制定の経過から問題になるわけですが、私は当時の議会がこれを承認したという点を強調いたしました。その強調したということは、もちろん最後的に当時の占領統治下におきましては、スキャップがこれを承認しなければならなかったわけですが、しかし憲法の審議、内容を確定するということについては、国会がいたしまして、その国会がこういう内容を確定したということについては、当時の新聞などに公表されておりまして、国民はこれをよく知っておるわけです。そうして占領行政の仕方として、少くとも表面上は国民の自由なる意思で憲法を作るという形をとりましたために、新聞などに国会の意思でこういうふうに内容がきまったというふうに公表されている限り、それを後にスキャップが否認する、許可しないというふうなことはやはり当時としてはできなかった。こういうふうに実は占領行政自身が民主主義の立場をとっているために、みずから制約があったと言わざるを得ない。でありますから、神川先生はスキャップが最後に許可しなければ憲法はできないのだと言われるけれども、その内容はまさに国会で決定した通りなんです。そういう点で、私は国会の承認ということを重視しました。そうしてまた現在の憲法学者が、ほとんどこぞって今の憲法を民定憲法と解釈しているのは、その点なんです。形式の上では旧憲法の七十三条の手続なんかによる改正でありますために、ある場合には旧憲法の延長であるかのような——旧憲法が欽定憲法であるとすれば、何かその手続によったかのごとくに見えますために、一種の欽定憲法なんだ、こういうふうな解釈もできないわけじゃありませんが、しかし学者がこぞって民定憲法として解釈している根拠は、まさに国会の意思によって内容が確定したという点にあるわけです。そういう点で、私は国会の承認ということに重点を置くわけです。そのことは、また同時に、憲法の制定の手続ということよりも、内容に重点を置くということを意味するわけで、今大坪さんがおっしゃった、将来今のような憲法で悔いを残さないかと言われますが、その問題は、つまりその内容について問題になることで、形式的な手続については第二だと思うのです。そういうことから、やはり今の憲法が民主的であるということ、この点に重点を置くわけです。これに対して、また今具体的に改正の問題が出ておるわけですが、その改正の諮問題を見ておりますと、これは何といっても民主主義を逆行させ制限させるものであるということは、先ほどからわれわれが申しておる通りなんです。従って、ただ抽象的に憲法改正がいいかどうかじゃなくて、今の情勢において憲法改正が問題にされたのは、まさに民主主義を逆行させるために、民主主義を制限するために改正が行われようとしているために、特にこの改正に反対だということを印しておるのであります。一般的、抽象的に改正していいかどうかといいますと、私どもは、長年の憲法の講義で、いいところも悪いところも知っておりますが、今の改正がまさに民主主義を逆行させるという点、そこで反対しているわけです。今日の日本憲法擁護運動もまさにその通りなんです。民主主義の擁護、民主主義というものは、まさに国民の立場というものを擁護するということです。  それから先ほどの御質問の中に、憲法が制定されたときの主権の問題はどうかということでありますが、国際法的に問題になります国家の主権という意味においては、当時の主権は制限されておりました。マッカーサー総司令官の権限もとに天白、及び日本政府はありましたし、マッカーサーは超憲法的な権限をも持っておりまして、当時の主権は制限されておりました。しかし、そのことと憲法問題として重要な国内関係における主権の問題としましては、国民主権ということが明瞭にされているわけです。今憲法を問題にしていったわけでありますから、その意味で、国家としての主権は制限されていたけれども、そこで作られた憲法の内容は、まさにポツダム宣言以来の日本の国民の意思を尊重する……。
  102. 山本粂吉

    山本委員長 同一事項に対する御説明は簡単に願います。
  103. 中村哲

    ○中村公述人 従って、国民主権ということを確立するという立場をとっております。
  104. 大坪保雄

    ○大坪委員 どうもこれはやはり堂々めぐりになると思います。あなた方と私どもと、どうも世界が違うようだから、これは仕方がないと思うのです。そこで、これ以上その点は私はお尋ねいたしません。これはもうはっきりしている。  それで、次にお尋ねいたしたいと思いますのは、これはもう松本烝治博士とか、今の憲法を作るとき御参画になった方々の、当時のいきさつをずっとお述べになったものがございますが、そういうものを見れば、日本人として、ただ平然として見過ごすことはできないものだと私は思うのです。ほんとう日本人の気持に返れば、とうてい今のままで平然としておれぬと思うのです。しかしこれらのことは申し上げません。先刻中村さんは、マッカーサー司令部から押しつけられたとは言っても、しかしながら明治憲法改正しなければならぬという気持は、国民の気持でもあるのだ、だから、われわれ日本国民の中から改正をしようとしたのだ、ところが当時の内閣から出された改正草案というものは拒否された、それはその通りのようです。それもあまり言うと何ですが、それから先刻のあなたの御発言の中に、日本政府から案を出しましたけれども、それはどうも民主的になっておらぬようだ、だから、日本政府にはまかせられないというので、マッカーサー司令部から原案を出した、こうおっしゃいました。私どもから見ますと、当時どういういきさつであったにしても、日本政府というものは私どもの国の政府であり、私ども国民の政府であります。それにまかせられぬからというので、マッカーサー司令部の出した案がいいのだ、こういうようなことで、その案を尊重する方がよいのだ、こういうあなたのお気持の発言のように思われる。これは、私はとんでもないことだと思うのです。たといどういうことであったにしても、日本人日本政府を信頼せずして、そうして強力なる軍隊をもって抑圧してきておる占領軍の意思がもっと正しい、民主的である、それが民主主義にかなうことである、こういう考え方は、私どもはとうてい常識をもっては判断のできない考え方のように思うのです。これはどうしてもえらい卑屈な、強大な勢力には屈服する事大主義の思想に基くのでなければ、こういう考え方の表示というものはできぬものだ。日本政府が作った案は信頼ができない、それで強圧なる占領軍の出したのが信頼できる、だからそれは民主的であり、賛成できるのだということは、日本人としてはえらい卑屈千万なる発言ではないかと思うのですが、その点はいかがでございましょうか。  ついでにもう少し申しますが、先刻神川先生もお話しになりましたし、同僚の諸君からもお話しになりましたが、私も実は当時追放中だった。今の憲法ができるときなんかは、やはり憤激にたえなかった。学者でなかったから、意見の発表の能力なんかなかったわけですが、占領が終了して独立したら、当然われわれ自身がこれでは憲法改正しなければならぬと思った。ところが、そこで私ども思いますのは、今のフランスの憲法や西ドイツ憲法について、西ドイツ憲法と言わないで、基本法と言っているようです。こういうように、当時の国会議員の諸君なり、あるいはあなた方のような勇敢なる学者が、こういう条件でもつけろというぐらいな勇気のある発言なりをされたらどうだろうと実は私は思った。強大なる当時の占領軍の圧力にただ文句なしに屈して、文句を言うと追放になる、追放がこわいからでしょう、文句なしに屈して、こういう西ドイツやフランスのような憲法の条百項も入れ得なかった。これは、私は非常に残念だったと思っているのです。その点について、あなたは、日本憲法もせめて西ドイツのような制限規定や、フランスのようなこれを拒否するような規定があった方がよかったのじゃないかというようにお考えになりませんかどうか。今の二点をお伺いいたしたい。
  105. 中村哲

    ○中村公述人 私自身の戦後やってきましたことを申し上げますと、私も多少関係あるのでありますが、私どもは終戦後民主的な憲法を作るべきだと主張し、そういうことを主張した団体、あるいは政党も相当ありまして、そうしてその意見マッカーサー側の草案というものはかなり近かった、これは先ほど申しましたように、マッカーサー政策の中に、一面占領行政的な要素、つまり植民地化的な要素と、もう一つは、世界の民主主義の大道を歩もうとする、その二つの要素がマッカーサー占領政策の中にあったと思うのです、その民主化政策とわれわれの主張とは共通するものがある。そういう点で、このマッカーサーの出した草案というものの大部分を私どもは支持していいという感じでありました。しかしおそらく日本で、憲法の草案のできましたときに、これはマッカーサー草案だと私が最初に申しました。それは、日本タイムスにあの翻訳というものが出ましたときに、それを私が日本文と対照してみますと、日本タイムスに発表されたものの方が条文が多い。そこで、私次の日すぐそういうことを新聞に書きました。でありますから、マッカーサー憲法だということを言ったのは、マーク・ゲインじゃなくて、私が一番早かったと思うのです。その後国会でも、私の問題にしましたそういう個所を取り上げていった方もおられましたし、私は、そういう意味で、マッカーサーがこの憲法を作ったのだということをもちろん敢然として申しましたし、そうして、だからと言ってそれを無視していいと言ったのではないのです。私は、そのマッカーサー草案と称するものに対して、もっと民主的にしていいのじゃないか、たとえば戦争の放棄の規定なんかについては、日本の国民が個人として志願兵の形で外国の軍隊に従軍するということを禁止する、こういうことを明確にしなければ戦争放棄は徹底しない、こういうような意味で、マッカーサー草案と称するものを批判しました。そういう立場から、今の憲法原案となったものよりも、もっと民主的にすべきだということを主張したわけです。従って、今の憲法に対しても、もっと民主的になることはいいと思うのです。しかし今の改正は、その逆でありますから、私は反対しておるのです。今の憲法改正するかしないかという問題は、まず第一に世界の民主主義の問題に連なっているわけです。われわれは、民主主義を擁護するために、今憲法を擁護しなければならないというふうに考えているわけです。
  106. 大坪保雄

    ○大坪委員 今あなたのお話では、今の憲法改正の意図は、現内閣及び自由民主党の計画しているであろうところの改正の意図は、民主主義に逆行すると仰せられたけれども、それは、自由党ではかって発表しておりません。まだ党議がまとまったわけでも何でもありません。一部のものが調査をして印刷をしたというだけの話なんです。改進党のことも私は知らない、おそらく改進党でもその程度だろうと思う。自民党にはまだそういうものはございません。これから憲法改正草案の研究を調査会に委任してやろう、こういうのです。逆行するか逆行しないかということはまだわからないのです。東に行くか西に行くのか、汽車ならちゃんときまっているからわかるのですよ。それで、まだどっちに行くかもわからぬのに、初めからあっちに行くであろうといって反対することは、私どもにはわからない。だから、調査会というものができれば、先刻戒能さんは入らぬ、こう仰せられたけれども、私は、調査会というものが設けられて、国会議員も何人か入りますが、学者もお入りになる。それで、学者でたとえば中村先生のような反対論をお持ちになっておられるであろう方にもお入り願おうということでもあれば、お入りになって、あなたが御心配になっておるような、たとえば強力なる再軍備をしようということを極力拒否する、あるいは基本的人権を乱そうとすることがあれば極力拒否するということをさるべきであると私は思うのです。まだどっちのものかわからぬというようなものに、初めから反対するという立場をとられるということはいかがかと思うのですが、かりに調査会に招請されれば、あなたはどうされますか。おやりになって敢然と反対しますか、そういうお気持がございますかどうか、これは面接関係がないようですが、お伺いしたい。
  107. 中村哲

    ○中村公述人 今のところ、憲法調査会はまさに改正のために発足されようとしておりますから、私はそういう意図を持っておる限り入りませんけれども、しかし今大坪さんがおっしゃったように、必ずしも改正するのでなくして、改正反対派の意見も十分尊重する、十分という意味は、ある場合には改正しないというような結論も出すような、そういう調査会であるとすれば、私は入ってもいいと思います。問題はどういう調査会ができるかということです。
  108. 山本粂吉

    山本委員長 大坪君にお願いしたいのですが、もうすでに二十五分になりますから、簡単にして下さい。
  109. 大坪保雄

    ○大坪委員 四十分の例があります。簡単にやります。
  110. 山本粂吉

    山本委員長 例はありましても、与党ですから、御猶予願います。
  111. 大坪保雄

    ○大坪委員 もう一つ、憲法学者ですから、中村なんにお尋ねしたいと思いますが、私どもは、半独立みたいなものであるけれども、一応平和条約を結んで独立国になったと思うのです。独立国には自衛権がある、こう私は思います。自衛権があるということに御異論はなかろうと思う。ところが、自衛権というものはどういうものであるかということが問題になると思うのです。私どもは、自衛権というものは、現実にわが国に対して急迫不正な侵害があった場合に、国土なり国民なり、あるいは国民の財産なりにそういう不正の侵害がある場合には、実力をもってこれを排撃するというのが自衛権だろうと思うのです。私もそう思う。それがなければ権利といって権利でない、何ものでもない、それは単なるお経みたいなものである、自衛権というものは、この急迫不正の侵害を現実に排斥するという力だろうと思うのですが、いかがでございましょうか。
  112. 中村哲

    ○中村公述人 自衛権というものの規定でありますが、人間の生命を守るという意味での、基本的人権に連なる意味での自衛権であるとすれば、これは当然憲法上も認められるわけです。しかし、だからといって、そのために武力を行使するというようなことは、今の憲法は禁止しておりまして、その武力行使というものの限界であります、自分たちの生命が危険にさらされるようなときに、それを防衛するというような場合の正当防衛的なものは、もちろんあります。しかしそういう自衛権の名をかりて近代的な武装をしたり、また戦争類似の現象を起す、そういうことを憲法は禁止しておるわけです。
  113. 大坪保雄

    ○大坪委員 そういたしますと、私どもは、急迫不正の侵害があったらこれを排撃する力がなければいかぬと思うのでありますが、中村先生のお考えでは、急迫不正の侵害があって国土を荒らされ、国民は暴行を受け、凌辱される、財産は略奪される、殺戮される、そういう事態が起ったときにも、正当防衛的なものならできるというのか。それなら竹やりでも作って、荒木大将みたいにこれを防げというのでございますか。何か少しは準備をして、日本の国といえども、ただずらずらとだれにも入ってこれないぞ、少しはだれか守るものがあるぞという態勢をやはりとっておくのが、自衛権を確保するゆえんだろうと私は思うんですが、敵が来たら、こんな竹やりでも作ってやるのが自衛権でございましょうか。具体的に一つ御説明を願います。
  114. 中村哲

    ○中村公述人 今日の緊急防衛権に関連しますが、つまり最小限の警察権であると思います。それは軍隊というふうな規模のものではないと思います。ただ問題なのは、つまりそういう侵略を前提として今の憲法は作られておりません。この点は憲法の性格、考え方が甘いと言われるかもしれませんけれども、ちょうどこの憲法のできました当時は、国際情勢としまして、軍国主義や侵略主義の日本ドイツが敗北して、そして民主主義諸国の間には——ソ連やアメリカ考え方は違うにしても、軍国主義や侵略主義に対しては、共同に反対して戦ったという共通の線から、世界の民主主義諸国の考えは違っていても、両立し得るという前提をもって今の憲法が作られた。ただその間、朝鮮戦争その他インドシナ戦争なんかが起りましたときに、ややそういうことがほんとうに国際上守られるかどうかということについて、多少疑問がありましたけれども、しかし現在の世界情勢は、ますますアメリカもソ連も平和共存の可能性を信じ、また原水爆時代においては、そういう国際紛争というものは、従来のような形では起り得ないということの見通しがついております。こういう国際的な見通しの中で今の憲法が意味を持っているので、ただそれを観念的に、外国から侵略された場合はどうかというようなことを問題にすることは、世界の大勢に合致しないと私は考えます。
  115. 大坪保雄

    ○大坪委員 その点は、私もあまり議論になるようなことは避けますが、ただ、たとえば李承晩ラインという問題がある、これで日本人の生命財産が侵略されておる、これに対して何らの防衛の力もない、やるかやらぬかということは政治論ですよ、しかし私どもは侵略されておると思う。これは自衛する権利が当然あり、また力もなければならぬと思う。ですから、今の原水爆ができたような時代には侵略がないなどという考え方は、とんでもない考え方だと思う。しかしこれは議論になるおそれがあるから、やめます。  次に、もう一点お伺いしたいと思いますのは、実は、これは社会党の諸君にはお気の毒ですけれども、数日前の新聞によりますと、社会党声明というものが出ております。それの一節に、国の安全と生存権の保持は、あげて平和を愛する諸国民の公正と信義にゆだねらるべきである——これは憲法の前文に赴いてありまして、それをその通り御引用になっておる。そこで私は、非常に疑いを持つのですが、御承知の美濃部達吉先生の新憲法概論には、自力をもっては国の生存権を推持することを得ず、国際信義に信頼することによってのみその生存を保つことを得るのは、独立国たるの実を失ったものである。これは、私は美濃部達吉先生の御議論に服します。私もそうだと思う。だから私の解釈では、社会党のこの間の声明は、日本国は独立国でないということをうたっておると思うのです。この点について、先生の御意見はいかがでございましょうか。
  116. 中村哲

    ○中村公述人 竹島問題をお話しになりましたので私も申し上げます。竹島問題について一言申しますと……。
  117. 大坪保雄

    ○大坪委員 それはいいのです。今の独立の点だけでいいのです。
  118. 中村哲

    ○中村公述人 美濃部先生の書かれましたものに、そういう言葉があるということを今お聞きしましたが、美濃部先生の書かれた憲法概論は、先生がなくなられます直前に書かれたものでありまして、まあ先生としては晩年のものでありまして、しかも旧憲法時代の憲法撮要だとか、憲法精義というようなものの持っていた体系性の精彩を持っておりません。従って私どもは、もうあの新憲法時代には、美濃部先生は、現役の憲法学者でなくなりつつあったというふうに思い、また私の先生では、ありますけれども、私は美濃部先生の憲法論を批判して参りました。従って、先生がそういうことを言われておるとすれば、その点において、すでに先生の考え方は相当古くなっておったというふうに考えます。私は独立国家であっても、国際的な仁義を守り、国際社会の平和を守っていくのは当然であると思います。
  119. 大坪保雄

    ○大坪委員 私のお伺いしておるのは、自分の生存権を他国にゆだねておるのは独立国じゃない、こういうことを美濃部先生は仰せられておる、私もそう思う。自分自分の国を守り得ずして、他国に自分の生存を守ってもらうというような自主心のないことじゃいかぬ、独立の国家じゃない、独立国である以上は、少くとも自分の国は自分で守るだけの自衛の力を持たなければならぬ、こういうことです。
  120. 中村哲

    ○中村公述人 一国が他の国の保護を受けようとする場合には、これは独立国じゃありません。ところが世界は国際社会のもとで国家が存立しておりまして、従来の主権国家という概念についても、国際社会が発展するに従って考え方が変っていきつつあるのが、むしろ国際政治の常識であります。つまり、一国が他の国に従属することは独立国ではありませんけれども、国際社会に対して一国がその生存を信頼するということは、独立国家、それから国家の主権を害することではないと思います。
  121. 大坪保雄

    ○大坪委員 もう一点。それは……。
  122. 山本粂吉

    山本委員長 大坪君に御注意申し上げます。あなたはすでに三十分以上になります。簡単に結論を願います。
  123. 大坪保雄

    ○大坪委員 あなたのお考えになっておるようなことでは、やはり集団安全保障のような方式でないと守れぬという意味だと思うのです。その場合に、自分の方は全然ゼロであって、みな人に守ってもらうということがあり得るかと言うのです。日米安全保障条約は片務条約だといわれておる、私もそう思う。これは、日本がゼロであって、アメリカが十か百であるからです。これは間違いないのです。将来集団安全保障という方式を日本がとるにしても、日本自体も幾らか自分自分を守る力を持たなければ、こういうことはあり得ないと思うのですが、そういう点はどうでしょう。
  124. 中村哲

    ○中村公述人 それは、集団安全保障の形式がどういうふうになるかという問題もありますけれども、むしろ日本としては、国連の中で自分たちの保障を考えるというのが正道であると思うのです。ところが国連加盟については、ある程度の警察軍を持たなければならないということをよく言いますけれども、これは、ややこじつけでありまして、昨年日本の国連加盟が問題にされたときに、たまたま台湾の国民政府がああいう態度に出ましたために、国連加盟ができなくなったのでありますが、そういう問題が起ったときに、日本には警察軍がないから国連に加入させないということは、少しも問題にならなかったのです。つまり、日本に警察軍があろうとなかろうと、そういうことに関係なく、日本の国連加入が問題にされてきたわけです。その意味から申しましても、日本は特別に軍隊を持たない国であるということは、国際社会において認められるものと思っておりますし、現に認められていると思います。
  125. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 神川先生に質問を予定しておりましたが、お帰りになりましたので、その点はやむを得ませんが、一つ二つだけ中村先生でも戒能先生でもけっこうでございますが、お聞きしたいと思います。それは、ただいま本会議の緊急質問でも問題になったのでありますが、鳩山首相は、本委員会やその他の会合において、たびたびこういうことをおっしゃっているのであります。自衛隊は、自衛隊法ができる前は憲法第九条に違反しているというふうに考えておったが、一度自衛隊法が制定された以上は、自衛隊法によって認められたのだから、従って憲法には違反しない、こういうことをおっしゃるのです。それで、ただいま本会議場で同僚の佐竹晴記君が緊急質問に立ちまして、この点について痛烈な質問をしたのでありますが、やはり鳩山総理は同じことを言っておる。私は、このことは非常に重要な内容を持っておると思うのであります。現在の憲法の無視はもちろんでありますが、もし憲法の条項の内容が、国会の多数によって決定される一法律によっていかようにも変更されるということは、明らかにいかなる憲法も無視するという態度がはっきりするのであります。このことはいかように弁解しましょうとも、鳩山首相並びに鳩山首相を頂点とする自民党の諸君の中に、一つのファッショ的な考え方が非常に残っておるからです。先ほど神川先生や大坪保雄君などは、追放ということについて中されておりましたが、私はあの戦後の追放は当然だと思うのであります。私どもは戦争中、当時の治安維持法というあの悪法によって、ちょっとこいということで三年も四年も刑務所につながれ、あらゆる拷問を受けて参りました。こういった善良な人民を悪法によって縛り、これを痛めつけてきた。こういったことをやった諸君は、死刑になるのはもっともなくらいで、追放等は当然であります。こんな連中が寄って憲法を作ったら、これは役に立たぬ、従って私は、大坪君その他が追放になったのは当然の処置であって、これは、日本が今日民主国家として立つためには、追放が大きな貢献をしておると思うのです。その点、私の立場としてはっきり申し上げる。さらに自民党の諸君は、当時の議員として、何とか課長に見舞われて何ら改正できなかったという。もしこんな議員ならば、責任を負って辞職すべきだと思う。そういう議員がこの議場にあるならば、私はまことに不幸なことだと思う。それはそれとして、今申しました鳩山総理の、法律によって憲法の内容が変えられるということは、私は重大なものを持っておると思うのです。これは神川先生にも聞きたいと思っていたのですが、もしこういった思想が憲法改正の中に流れておるとすれば、よしどんな憲法を作っても、憲法は死文化して、時の政権を取った与党によっていかようにも変更できるということを、ここにはっきり暗示しておるのでありますが、この点に対して、簡単な言葉でけっこうですから、憲法学上からはっきりしたお答えを願いたいと思うのであります。
  126. 戒能通孝

    ○戒能公述人 私も、やはり憲法は、法律で変えることはできないと信じております。もし法律で憲法が変ったという御説明だったら、やはりこれは問題であろうというふうに感じております。
  127. 中村哲

    ○中村公述人 憲法は、その制定の手続から申しまして、普通の法律と違いまして、特別多数の議決によって、国会がこれを国民投票にかけるというような厳重な手続をとっております。そういう厳重な手続をとっておる形式の法が、国会の単なる多数決で決定されるような法律によって修正されたりするというようなことは、法の秩序を乱すものであります。ことに今の憲法では、もしそういう憲法に違反するような法律ができた場合は、旧憲法時代と違いまして、最記載が最終的な決定をするという制度を八十一条できめております。従って、自衛隊が違憲であるかどうかということについては、法律ができたからといって違憲でなくなったのではないので、その問題は、最終的には最高裁によって法的に決定されるべき問題で、それまでは、その自衛隊法が違憲であるかどうかということは、国民の間でも国会においても、自由に問題にされるのは当然であります。
  128. 茜ケ久保重光

    ○茜ケ久保委員 いろいろ質問がございますが、質問相手の神川先生がいらっしゃいませんので、これは後ほど自民党の代表者に質問いたしますから、質問を保留して、私はこれで終ります。
  129. 山本粂吉

    山本委員長 これにて公述人各位に対する質疑は終了いたしました。公述人各位におかれましては、本日は長時間にわたり御出席いただき、終始真撃なる御意見を陳述されまして、本案の審査に寄与せられましたことに重ねて厚くお礼申し上げます。  本公聴会はこれにて散会いたします。     午後五時四十七分散会