○
下村参考人 私から、今度の小
選挙区を主題にしたこの
選挙法の
改正、つまり小
選挙区制を私どもが唱えることになった成り行きといいますか、経過をまずお話ししたいと思います。
言うまでもなく、新
憲法になって
国会の権能が旧
憲法のときよりも著しく強くなって、すでに内閣の首班も
国会議員によって選ばれるということになったのが、いわゆる民主
政治の根底だろうと思っております。ところが、新
憲法になってからの
国会の状態がどうかといいますと、むろん、敗戦のあとでありますから、普通に律することはできませんが、とにかく議会に汚職問題が出る、あるいは乱闘が続く。それで、
国会の状態は、一方でまず社会党は左右二派に分れてしまう、一方でまた自由党には嶋自党というものができた、こうした状態で一体敗戦の
日本がどう再建されるのかということが、私どもの間で問題になったのであります。それで、私の宅へ石黒忠篤、小泉信三、松本烝治、前田多門、村田省蔵の諸君をお招きいたしまして寄り合いを開いたときに、結局、公明
選挙ということによって、一そう
国会の質を向上させようじゃないか、また国民を一そう警醒するほかはないということにきまりまして、大体前田多門と私が世話人をやりまして、公明
選挙運動を続けたのであります。これは皆さん御承知の
通りでありまして、だれも不公明がいいと、言う者はないのであります。ただ、これを実現するのに、さてどうするかというときに、的確なめどがなかなかつきにくいのであります。それで、一時は、公明
選挙によってだれを公明
選挙の候補者に仰いだらいいかという問題も起りましたが、それはほとんどできぬ話でありまして、皆さん御承知のように、私ども公明
選挙運動をやり、そうこうしておる間に、私ども、地方を回りますと、理屈はもうよくわかっておるんだ、じゃだれを出せばいいんだという問題であるということで、結局、中には、そう言う
下村お前が出たらいいじゃないか、まず身をもってその見本を示したらいいじゃないかという声も聞いたのであります。私は、たまたま自分の家が火事で焼けまして、すべての文献を焼いてなくしてしまっております。筆をもって立つ仕事ができなくなりました、そこへ火災の保険金の百五十万円で私が全国区の参議
院議員の候補に立ちました。どこへも所属がないということと、法定の金の中でやったことと、私の至らぬためにみごとに落選したのであります。一方からいうと、一そう私どもは公明
選挙の実をあげたいということから、結局、せんじ詰めると、ただアブストラクトに公明という問題よりも、まずどうしたならば一番われわれの庶幾する
目的を達しやすいのかというので、小
選挙区ということを考えついたのであります。
私は、今まで、大正の末から、
選挙の推薦もすれば応援演説も続けております。ことに、過去四回くらいでありますか、ずいぶん応援演説もいたしました。それも、改進党といわず、自由党といわす、社会党といわず、各方面の候補者に進んで応援を続けたのであります、私が、二十八年末でありますか、この前の前の
選挙のあとで、私の郷里が和歌山県でありますから、紀州の友の会、紀友会というものを東京に作ってあります。私はそれの会長をしておりましたので、和歌山県出身の代議士諸君の当選の祝いの会を開きました。その会の席上で、私が今までの自分の体験した限りでは、
一つ小
選挙区ということにして政局の安定をはかる、小
選挙区ということによって、われわれ候補者としては経費も少く済むし、また回り切れないという広いための体力の問題もあります。これは緒方竹虎君なども数回私に
訴えておったのであります。とても回り切れない。それで行かぬと、おれのところに来ないと言う。これは重労働だと言っておったのですが、どこでもそうだと思います。さらに、
選挙する人の身になるとどうか。候補者が非常に多いのでありますから、その中からだれを選んでいいかということを識別するのが非常に困難であります。今度は、識別できたとして、人本位にやるか、その政党その政策本位にやるかということが、
一つの問題であります。それで、同じ政策、またこの人とこの人を選びたい、
一つの
選挙区で定員が四名、五名とあるとしますと、出したい人が、政策からいっても、その党の人は全部出したいのであります。また人からいっても、この人もあの人も出したいのであります。けれども、一体その札がどう分れるかということは、これは見当はつかないのであります。組織があって、組合があって、その政党に属する人はわかっておっても、浮動票といいますか、政党に属さない札は非常に多いのであります。これがどう動くか、これはなかなかできるはずはないのでありまして、それがために、
選挙する人の身になると、そういうことならこっちに投票するんだった、こうであったというような問題は、いつも起るのであります。のみならず、
選挙区が多いために、候補者の数も多くなり、また自然小党分立ということができるのであります。これは皆様には、釈迦に説法でありますけれども、とにかく、イギリスやアメリカは、一人一区という小
選挙区になっているために、その間に政局が安定して、一貫して
政治がとれるのであります。最もひんぱんに動いているのはフランスであります。これは、小党が分立しておるために、どの内閣でも、四つ五つのものが手をつながなければ議席の過半数を占めることはできない。そうすると、これは、どうしても、その間の交渉を進めるために、時がかかる。今度はできても、寄木細工であるから、なかなか進行は困難である。すぐまたつぶれる。かくのごとくにして、終戦以後、フランスは、すでに二十回以上政変がある。一年二回の政変があるのは御承知の
通りであります。だから、私どもは、この小
選挙区ということによって、一人一党での小党の分立を避け、これによって政局の安定をはかるほかはないんだということで、小
選挙区の運動を始めたのであります。
ゆえに、今の紀友会の席上でその旨を述べて、諸君は、政党政派を超越して、どうか社会党の諸君は左右が合同してほしい。また改進といいましたか、民主といいましたか、自由との間にどこに違いがあるのか、これは合同してほしい。ところが、事実は社会党は両派に分れている、保守党も分れている、こういうことじゃいけないんだという希望を、私は同志を代表して申したのであります。そのときは大体においてみな賛成でありましたが、片山哲君は、これに対して、それは、社会党としては不利であるから、即答できぬということでありました。これは、後日になって、片山君から、
一つやろうじゃないかという話がありまして、これが私のこの運動を始めた起りであります。片山君は小
選挙区に賛成であります。今日のこの問題にどうこう言って片山君に私は言うんじゃないのであります。私どもは、促進会という会を作って、小
選挙区をやるときの
理事であります。私どもこの人たちとみな寄ってやったのであります。この今日できた案がどうとか、また今の
政府の案がどうとか、それは別問題であります。とにかくそうした
意味で私ども始めた。また私どもの同志の古い新聞人の毎月寄る会があります。この会の席上で、今度小
選挙区の運動をやるんだということを申しまして、ここで諸君と議論を戦わすんじゃないんだ、もし反対の人があれば反対と言ってくれと言った、ときに全会みなこれによるほかはないんだということで、この紀友会という新聞人の会で集まったのが、この会のできた起りであります。
それで、私どもは、前申したように、現行のやり方ではとにかく
選挙区は広過ぎるんであります。広過ぎるのみならず、不自然であります。これは、極端な例ではありましょうが、たとえば佐渡の島と新潟市と西蒲原郡が
一つの区であります。あるいは、長崎県の第一区は、長崎の市と島原の半島と諌早、大村方面と、それにさらに佐賀県と福岡県へきて、海上七時間かかって壱岐と対島が
一つの区であります。そんな区は私どもありようはないと思うのであります。無理であります。そうしたこの広過ぎるものを、とにかく、小
選挙区ということによって、候補者も親しくみなに接して
意見を述べることができる、
選挙民は、
選挙民で、甲乙その間の識別ができる、こういうことにしたい。ことに小
選挙区はかえって金がかかるということを近ごろよく聞いております。もちろん、一票当りにすると、現在の
選挙区よりも小
選挙区の一票当りは高いかもしれません。けれども、四人、五人出るところで全体の
選挙民に運動するのと、小
選挙区の定員一人のところで運動するのでは、前者の方が、
選挙の事務所を置く数にしても、方々回り、通信なりあるいは交通、すべての費用と、あらゆる点において金がよけいかかるのは当然であります。ただ、今までの小
選挙区では、ことに運動が非常に激烈になる、買収も盛んになる、そのあまり競争がひどいということを、今までの小
選挙区制の例で言うことを私どもはよく聞くのであります。この前の小
選挙区の時代にも、私はやはり応援演説をしております。事実当時の小
選挙区の運動は確かに苛酷でありました。私どもが、兵庫の若宮貞夫君から、今度は金沢の永井柳太郎君と、
山本条太郎君は福井で応援したのであります。けれども、わずかに二千ぐらいの投票のところで、
山本条太郎君と松井文治郎君との間の競争が非常にきつかったと思うのは、私がいよいよ今晩一晩で金沢へ移るというときに、今行かれちゃ困る、今確かに十票ぐらい負けている、それでもう
一つふんばってくれ、永井君が出るのはきまっておるから、もう一日延ばしてくれというので、私は延ばしましたが、私が延ばす延ばさないという問題よりも、その一日の間に非常に熾烈な運動をしたと見えて、これで辛うじてかれこれ四、五票は勝つだろうというて、ふたをあけると、確かに五票違っておったのであります。そのくらい
選挙区が狭いと熾烈になるということは事実であります。けれども、そのときの小
選挙区の区域なり投票の数というものは、今日とは問題にならないのであります。そのときの小
選挙区は、市になっているところはみな独立
選挙区になっておった。独立
選挙区になっておって、その市では、中には票数千に満たないところさえあったのであります。そのくらい少いのであります。多くのところは二千、三千、四千くらいのところで競争するのでありますから、熾烈にもなり得るのでありますが、今では、市の人口そのものは、市が非常に太ってきた。のみならず、
選挙権も年齢がだんだん低下してきた。さらに戦いのあとは婦人が参政権を得て倍になっている。かつては千以下あるいは二千以下で勝敗を争ったのと、この小
選挙区はとにかく人口からいっても十八、九万を一区当り平均にしておるから、今日とはほとんど問題にならぬ。とても問題がなくて、元のような熾烈なる競争は起り得ず、また買収するとかどうするとかいうことは、手もなかなか回らず、金も回らず、警察の取締りもむろんあるが、何よりも、その時代よりも国民全体が目ざめておると、私は確信しておるのであります。
それで、私が小
選挙区を唱えております根底は、何といっても同士打ちを禁じたいということが、もう私の問題のすべてのもとになっております。私どもが
選挙区を今まで回った事例からいいましても、互いに戦っておるのは、反対党ではなくて、むしろ味方であります。反対党の札というものはとれるものではないのであります。浮動票なり、いわゆる味方になるかどっちともきまらぬものをお互いに争っておるのであります。そうすると、前申したように、その間に地割りをしなければ、なかなか札の割り振りがつかない。その地割りというものが、それでは厳重に理想
通りいくかというと、なかなかうまくいかない。こんなことを諸君に言うのははなはだ逆でありますが、そういうことを世間で言っておるのでありますが、この地割りをするが、その
通りいかないということを、私は至るところの応援演説で実見してきたのであります。従って札をあけてみて、それではこっちへ投票するのだった、それではこっちへ投票するのだったということが、必ず比々として起るのであります。ちょうど今参議院の
選挙がこれから始まりますが、定員の二人というところに、候補者が、社会党なりあるいは保守党の方から、どっちかが二人出す、どっちかが一人出すということが、一番普通起るのではないかと思います。そのときに、その二人の票を合せてみても、どっちにしても一人々々にしかならない場合と、二人とも出得る場合と、その二人がまた相戦わねばならぬという場合が起ります。札をあけてみると、その札のあんばいがよろしきを得れば二人出れたのだけれども、一人の札が行き過ぎたために、結局二人出るところが一人しか出ないということもむろんあり得るのであります。現在の第一区でも、鳩山一郎君は三人前の札をとったのであります。とり過ぎておるのであります。とり過ぎてその札が死票になることも少くないのであります。しかし、問題は、今申したように、どう札を振り分けていくかということができないために、見込み違いの結果が出るということは、古いときには、政反会の総裁の
鈴木喜三郎君は、神奈川県の第二区でありますが、これで落ちておるのであります。遠からずに河上丈太郎君は兵庫県の第一区で落ちております。神奈川県の第三区で片山哲君が落ちておるのであります。私は、河上君なり杉山君を応援しているときには、私ごとき者が応援したから、せぬからといって、河上君や杉山君が落ちる落ちぬ、そんなことではないのであります。いつでも
訴えているが、なぜ君たちが
一つにならぬか。束になって
一つになっても過半数占めないきとに、なぜ小異を捨てて大同につかないのか。
日本の政局を高めなければならぬ。これがためには、大
選挙区になっておって札が割れたり、またしからずんば、見込みが違って、今申したように思わぬ河上君なり片山君なりが落ちました。宮城県でたしか内ヶ崎作三郎君が落ちたのもそうであります。まるで予定が狂うということが起るのであります。私は朝日新聞に十六年おりました。
選挙のときには、もう皆さん御承知でしょうが、あの人は見込みないと書かれたら、これは明らかに見込みないのであります。けれども、見込みありと書かれるのもよしあしであります。ちょうど当選の線上を上下しているということを書いてもらうと、一番都合がいいのであります。地方ではどうか知りませんが、東京では、かつて、東京で大きな
選挙区へ出るときに一番見込みないといわれた蔵原惟郭君が、最高位で出たことがあるのであります。その意は、浮沈しているというか、もう少し出たら当選する、ちょうど危ないところにあるということがいいという、前申したようなことを裏から証明していると私は思います。それで、地割りとして見込み違いになるとしても、まだお互いに無理をせぬうちはいいのでありまするが、どうしても、追い込みになって、これは危ないということになれば、その地割り等のお互いの約束は守りがたいのであります。かくのごとくにして、どうしても、いざとなると約束を破って、いわゆる泥試合、内輪試合をします。さらに、私どもが、この前の
選挙のときでありましたか、ある県の立会演説会では、与党が自分の仲間の人身攻撃すらあえてするのであります。私は、そういうことをせねばいかぬという候補者を、非常に気の毒というか、苦々しく思うと同時に、そういうことを言うことが、ある場所では受けるような、まだそういう
日本国民の
程度であるのかということを、非常に私としてはつらくいまだに感じておるのであります。
それで、私は今皆さんにいろいろ申し上げたい点もありまするが、海外の
事情は、皆さんも御承知でありますが、アメリカとイギリスは、お互い御承知のように一人一区である。そうして政局を安定しておる。フランスは前に申したようにいけない。そのイギリスが、私どもに言わしむれば、
選挙の腐敗とか弊害ということは、ずいぶん過去においてはひどかったのであります。少くとも今日のように、イギリスはそんな戸別訪問だとか買収だとかいうこともなくなった。ほとんど違反が起らなくなってきた。これは少くとも五十年以後のことで、最も
選挙が腐敗して、これではいけないというので、連座制を設けるとか、その他国民の目覚めによって、少くとも五十年の歴史を経て今日になっておるのであります。今度こういう
改正をした、だからもうすぐよくなる、そんな甘いことは私は申しません。またあり得ないのであります。一回の
選挙、二回の
選挙、その間に、ことに婦人が
選挙権を得ておるのであります。そういう国民が、全体の
政治に対する認識を深めるというか、それに関する関心を高めるといいますか、こういうことによって、相当
選挙の粛正公明というものがだんだんできてくるものである。イギリスのようなことは
日本じゃ無理だとか、
日本人にはどうだといって諦める必要はないので、かすに時をもってすれば、一回一回よくなっていく。漸をもっていくということを私は申したいのと、それから、私は、社会党の方にもよくお話をしておったのですが、とにかくイギリスで自由党と保守党が前に相対立しておった。それが、後、労働党が出てきまして、労働党が、まず当選の数が四十人だ五十人だという
程度でくすぶっておったのは、相当長かったのであります。けれども、あるときに、がぜんとして、そういつまでも保守党じゃない、自由党でないというある時期がくると、一九二三年でありますか、一挙にして百九十八人の議員を得て、マクドナルドの最初の内閣ができたのであります。次の
選挙で二百九十二の定員を得ています。それで、今度は、戦争でイギリスはチャーチルによってともかくも勝ったのだけれども、戦後チャーチルは退いて、アトリーの労働党内閣になっておる。これから先、年を重ねるに従って、われわれ、また私のような年寄りはお先へみな死んでいくのであります。毎年新たに
選挙権を得るのは若い人であります。これから一回一回やっていけば、今日二人とか三人とか四人ということによって、じりじりといいますか、はっきりしないよりも、一人一党で戦って、はっきりアブソリュート・マジョリティ、そういうことによってまず政権を確実にやるということで、天下回り打ちで、この前の片山内閣とか芦田内閣というような寄木内閣ができるということでは、私は、その党のためではない、
日本のためにこれは好まないのであります。
問題はいろいろありまして、申すまでもなく、連座制あるいは公営、その他いろいろな問題が相待っていきますが、すべての根底は、まず小
選挙区にして、二大政党の、対立にする。これによって
日本の政局の安定が得られる。すべてはまずそれからの話だ。この小
選挙区にするために、あるいは
選挙区割りとかその他にいろいろ
意見はありましょうが、これはそれぞれ論議されていくことであって、とにかく与党が絶えずお互いに戦うということになっておって、そこで同士打ちをする。裏切ったというように、みぞのできたことは、東京のようなところではあまり気がつきませんが、地方ではやはり人心の上にあとでみぞができて、その土地土地の地方行政、その他社会の上に非常な悪化をもたらすのじゃないか。いわゆるモラルの上からこれはどうしても除きたい、そういう余地を少くしたい、これが私の小
選挙区を唱えてきたゆえんであります。
なお御
質問がありましたら、私の存ずる限りは申し述べたいと思います。