○
高村参考人 そうでございます。
〔
委員長朗読〕
供述書
大阪市東区備後町五ノ八
近江絹糸紡績労働組合
高村 茂
私は
昭和二十七年三月十日
彦根工場保険課に入社、本年一月十四日
大阪本社に転勤と同時に
係長を命ぜられ、爾来
工場長会議工務部長会議を始め
重役室に於ける
係長以上の
訓示等、最高一週間三回
平均一週間一回(
社長渡欧中を除く)をうけてきました。
社長は深夜生産を
中心とする
労働強化、
労働組合問題、労務管理につき重点をおき、たえず指示してきたことは昨日各
参考人より
発言いたしました通りで、その
内容は訓示の際
工場課係員か記録をとり
社長の検閲をうけ訓示要旨としタイプをして各
係長宛配付しておりました。
即ちこれを抜スイすると
二月七日
本店に於ける
社長訓示要旨
一、深夜生産
深夜廻したならよいではやらぬ。少なくとも男子で精紡二十台廻す
女子の三乃至四割仕事をする様にせなければならぬ。男子が一台や、一台半持
つて居ては何もならぬ。現在の男子で全台を廻す様に能率向上に努められたい。
一、
労働問題
全繊関係に於て津、中岡、彦根植村の問題があり彼等を
会社に復帰させることに依り全繊は第二
組合を結成させ
近江絹糸に反対するものであるがこれに関し組長室長に
説明して置くべきである。
会社と全繊の関係を更に研究し
工場長あらゆる手段をも
つて全繊に対抗する。
更に指導組織として
A 職場組織
B 寮関係の組織
C
労働組合を作り教育了解せしめる必要がある。教育指導した半を
本店に報告する。
一、毎月減員計画表の提出
見習工員が現在人員の二、三割増加の見込み
はつきりと減員計画を樹てて提出。
一、当社の速度はきわめて早いから自分の速度を考え
会社に合わせるべきである。
一、労務問題
学卒補充をし男子工員を増さないで腕を延ばし能率を上げる、従業員の不良の者は毎月計画的に整理して行く。
四月四日
大垣工場に於ける
社長訓示要旨
一、人の陰口悪口を言う、こういう人間は
会社より排除せよ。しやべる隙間があれば仕事に全力を揚げて努力する様にしむけられたい。
一、梱当りの人員整理、新入者が入る為反対の方向に進んでいるが、人員整理は何としてもやらねばならぬ、整理表を持
つて来る者が少ない。工員の整理表を毎月十日迄に
人事に提出、整理計画表も提出する。
一、健康
調査を行い不健康者は家で休養させる方法をとる、帰りの旅費くらい負担してよい、余剰人員整理の一方法である。
一、整理具体化の問題、二千人の人間の内から月二人、三人の整理では問題にならぬ、これでは命令されるから致し方なくして居る様なものである、これは根本的に考えねばならぬ。一、全従業員の技能試験を実施する、技術試験は
工場毎に独創的に実施する、全従業員の技術試験は三ケ員以内に完了する。社員工員について行ない科目は各科係に依り異なる、精紡なら糸継ぎ時間とか台掃除とか注意すべき点等を試験科目とする。
一、新入は別として男子工員には一年契約をつづけて作成せよ、当社の男子工員は二、四〇〇人居る、其の内一、二〇〇人深夜番である内四〇〇人深夜専門、八〇〇人が交代番、
従つて八〇〇人が深夜に実働する状態である、A、B、C番が深夜に回ることになると現在の一・五倍の機械が回ることになる、新入を入れて古い人を深夜に廻す、日清紡では全部
女子を使用する、保全を簡単にすれば
女子でも出来る、保全を
女子にして一、二〇〇人の男子をどれ丈深夜にまわすか。
一、メーデーを慰安会とする計画を作れ。
一、社員の入れ替え、富士宮は
女子社員が余るという。配置転換を
本店総務に連絡する。のごときもの、があり、これは単に現在訓示要旨を
組合で保管するもののみであるが、毎回
社長の根本方針としてこれらを強調していたことを認めます。
―――――――――――――
供述書
岸和田市西大路町
近江絹糸紡績(株)岸和田
工場
鷲津 愛子
私はこの
会社に入社して四年八ケ月になり現在仕上科の組長をしています。
女子の超過勤務、深夜業を強制されて参りました事実を具体的に申し述べます。岸和田
工場仕上科のみに於ける最低人員六〇名のところ現在四〇名、それなのに毎日二、三人が退社する等甚しい人員不足にて、ど
うしても深夜業超過勤務を実施しなければ一日の織上
つて来る反物の整理が出来ない。又毎日一回
工場の行事として能率品質生産に於ける
工場対抗競技を行い只管対抗意識のみにて生産高を上げることを目的とするのであるが、人間の本能として作業条件の悪い事や給料の低い事を意識せず只、競技に勝つのみと一生懸命になる。而して若し優勝しても、全く大人に玩具を与えるよりも劣る様なわずか五円のうどん券一枚渡す。それも六百名に対し二十枚
程度のものでした。競技に依り強制
労働をさせられておりますので、品質の低下は著しく、必然的に仕上科の仕事を増し、そこに先に述べた如く絶対人員数も割る様な状態で、競技が
終つてもその処理に追われておりました処、一月、二月、三月においては出荷した製品にクレームとなりまして、三千反受取
つた事実もありまして、その修正に未成年者も全員超過勤務、深夜業をし、月に
平均致しますと、私は百十時間(超過勤務のみで)公休も月一回という事も何回もありました。又早出居残りを身体の都合上出来ないと云うと、「組長がそんな事を云
つて誰が整理するのだ」と工務、主任に叱られ、又役目上部下の嫌がるのを無理に順番をきめ、工務主任による一日の処理反数を平日の数倍に増され、それが終らぬ事には寮に帰してもらえず、昨年暮より今年三月ごろ(新入工員が入社するまで)まで人員不足に依り特に
女子の深夜業を強制されて参りました。なお右の深夜
労働賃金は、時間外
労働賃金しか支給されておりません。
以上供述致します。
昭和二十九年七が三十日
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供述書
岐阜県中津川市中津川
近江絹糸紡績中津川
工場
早川 ヒサ
昭和二十八年十月二十日頃、その日の夕方より集団赤痢が発生、その時の模様を供述致します。
最初内田たかね外十二、三名の者が頭痛を訴え、下痢に苦しんでいました。その後同様の症状の者が続出したわけですが、当
工場(従業員一千名)には看護婦一名だけで医師はおりませんから、その一名の看護婦がこま
つたわこま
つたわと走り廻
つて居りましたが、手の付け様もありませんでした。そこで私達は町の医者を呼んで下さいと
舎監に申出ましたが、今
大垣工場の医者に電話を掛けましたからすぐ見えますと言い、町からの医者を呼ぶごとを禁止し、その上外出も禁止してしまいました。又その時松本、柴金
舎監に、食当りでありますから赤痢などとは絶対に云
つてはいけないと固く口止されました。一日一昼夜私達の手によ
つて看護した訳ですが、「苦しいから医者を呼んで下さい」「お母さんを呼んで下さい」と泣き叫ぶお友達を見かねて、
会社のやり方があまりにもひどいと寮長の後藤千世子さん外数十名の人達と相談を致しまして、
舎監をごまかし外出をし、後藤千世子、牧野和子の二名が市役所へ申し出ました。すぐ大井保健所の人が来て下さいました。すると
会社では、今保健所から来たから病人を仏間へ運んで下さいと言われ、内田たかね外百名近い患者を仏間へ運びかくしてしまいましたので、その時見て戴いた病人はわずか八名にすぎません。その事に憤慨し、再び市役所へ「仏間へかくしましたから見て下さい」と申出、又来て下さ
つたのですが、今度は一番苦しんで声をたてている様な人を
舎監高橋事務
部長にせきたてられ、運びかくしました。私達は唯可愛想に愛想にと病人運びながら云
つているだけで何も出来なくてほんとうにすまなく思
つております。又患者がたくさん部屋に入
つている所では、あちこち移動をさせ、その回数も六―八回に渡りました。その度に患者は死んでも良いからこのままにしておいて下さいと訴えていました。私達はこの様に苦しむ友達を見ている事は出来ませんでした。その後は保健所の方と
大垣工場の医者及看護婦の方が来られて幸いに死ぬ様な人もなく、この赤痢患者も二ヶ月に渡る看護の後皆全快致しましたが、なぜ赤痢になる迄食堂管理をほう
つておいたのか、又外出止迄して町の医者を呼ぶことを禁じたのか。
会社は私達をおさえつけ、病気にな
つても手当も完全にしてもらえないほんとうにみじめな生活でした。
社長さんが口ではいつも大慈大悲の仏心と云う半を唱えていながらこの様な事をするにもかかわらず、
組合があまりにも
会社の言いなりにな
つていて、私として市役所に届けでるのが精一ぱいでした。
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大垣市林町五の人
近江絹糸紡績労働組合大垣支部
池尾 昇
仲川 衛
私達は
大垣工場人事課員として勤務中、上司より
信書の
開封を命ぜられ、これを実施したことについて具体的に次の通り申し述べます。一、まず郵便物が本人に届く迄。
(1) 郵便局よりの
手紙を庶務課にて、
会社宛と個人宛のものを男
女子寮別に分類し、事務
部長に全部提出する。
(2) 事務部
員長は
(イ)
会社宛(当然の事乍ら
開封してある)の
手紙は検閲の上各係に配布する。
(ロ) 個人宛の
手紙も全部宛名、
発信人を調べ、不審な点の(後述する)あるものを別にし、
人事課に廻す。
(3)
人事課に廻された個人宛の
手紙は、再度、宛名(受信人)
発信人を調べる。次に不審と思われる
信書を
開封し、
内容検閲後は元通り密封し他の
手紙と共に寮へ廻す。尚、
人事課員は事務
部長より直接
開封する様命ぜられ
開封したことがある。
(4) 寮、事務所にては、各寮(桜寮とか梅寮とか)に分類すると同時に、再々度
一つ一つ手紙を調べてその後本人に渡る。
二、不審に思う
信書の判定規準について。
(1)信管
開封の目的は、寮生(工員)の動行を事前に知る事であると思われるが、
大垣工場にては、主として転職(
近江絹糸を辞めて他社に就職する事)防止であ
つたと思う。故に既に他社に転職した者より
大垣工場の工員宛に来た
手紙はほとんど
開封していた。
(2) 次に
開封の規準になるのは無断退社(正式の退社届を提出せず他社に就職する事)した者からの
手紙(よく、
発信人住所は鹿児島県とか宮崎県でありながら
消印は
岐阜局とか
大垣局とかにな
つていた)である。
(3) 異性から来た
手紙の
開封については、
人事課は殆んど関係しなか
つた様で、寮事務所にて行われていた。
三、この
信書の
開封の事実は、相当以前から行われていたもので
一つの習慣的業務とな
つていたか、すべて上司よりの命に依るものである。
四、尚、工員の中には「
信書は
開封される」とい
つた考えが一般に持たれている。
五、
人事係では一月
平均二、三通
開封しました。(寮事務所でも
開封します。)
六、具体的実例
(1) 本年二月二十日、
発信局
大垣、
発信人信子、受信人小串敏子の
手紙を
発信局が
大垣であることに疑義をもち
開封したが、二月二十二日スポーツ・センターで三時の待合せの
手紙であ
つたが、これを密封し
女子寮に廻したが、小串敏子は四月十一日津
工場へ転勤を命ぜられました。尚、今回のスト決行後本人に聴聞しましたが、この
手紙は受取
つて居らないと云う事が判明しました。
(2) 村上恵子(
大垣工場より川島紡へ転職)より能美ヒデ子宛の封書を
開封した所、
川島紡績の事について話し度いからとの
内容であ
つたので、その予定時刻に鹿児島屋(
大垣工場前の雑貨店)で張り込むよう上司より命令をうけ、村上恵子他五、六名の話し合
つているのを聴取し、その
内容を詳細に報告いたしました。
―――――――――――――
結婚の自由及別居生活の問題について
大阪市東区備後町五の八
近江絹糸紡績労働組合
西島恒雄
私は
昭和二十八年三月入社致しました。
会社は勿論正面より結婚するなとは云いません。然しそれを違
つた言葉で表す事により、事実上結婚出来ない様に心理的圧迫を加える処に、彼等の巧妙さがあり、知能犯と云われる所以があります。結論として
社長の考え方は、「結婚すれば能率が下る」と云うのが彼の根本的な考えであると云う事は間違いありません。即ち独身の社員に対しては寸したミスを見つけて、或は女の事を考えて居るのと違うか、下らない事を考えるからだとか、又既婚者に対しては、君は近頃どうかしている、女房を貰うと急に伸びなくな
つた等、事毎にあたりちらし、又これを独身社員の前で公然と口にし、あげくの果てには転勤を余儀なくさせられる状態です。現に高馬常務を始め、池原、舟橋重役及び
工場長の殆んどが、別居生活を営んで居る現状を見ると、到底当社では結婚出来ないとの考えを余儀なくさせられます。又
労働の強化の面より見ても、現状では結婚出来ないと云う感を益々強めるばかりです。(
本社では
平均退社時間が夜八時頃の現状です。)特に
本社に於ては本年三月、従業員は未知のうちに、
会社の指名せる
労働者代表と「
女子が結婚した場合は退社しなければならない」と就業規則を変更し、
基準局に提出しました。こればかりは
基準局もひどすぎると云う事で、
会社側に撤回を求め書類を返却したのですが、そのまま争議に入
つてしま
つたので、
会社は訂正して書類を提出したかどうかについてはわかりません。
―――――――――――――
供述書
静岡県冨士宮市
近江絹糸紡績労働組合富士宮
支部
岩原利子
昭和二十八年十二月三十日午後六時頃、長野県出身の菅沼美佐子さん、が病気の為部屋で床についていました。そこへ仕上の
係長が出勤する様に呼び出しに来ましたが、「病気の為に出られません」と
はつきり拒絶しましたが、「倒れるまで働け」と暴言を吐かれました。此の様なことは私の
工場では数限りなくあり、その為、少々気分が悪くても出勤しなければならない状態がしばしばです。又個人別生産高競技が実施されますが、これは課別に行われ、吾々を酷使する一番苦しい競争です。この為に、先番の時は朝の三時半から出勤して(普通の時は五時から出勤)機械を廻し各自の成績を挙げねばなりません。もしも成績が悪ければ、台付の者(実際に機械を運転している者)が他の係へまわされたり、ひどい時は管理係(美化班とも言い、掃除及び雑用係)へ廻されて首きりの対象とされるので、致し方なく一生懸命働いて居ります。
また二十八年度の一月から三月頃までの渇水期には、日中は停電が多く生産が挙らなか
つたことが有りました。この時
会社は「工員の収入が少くなるのは気の毒だから」と言
つて、
女子、未成年者の区別なく深夜運転をさせられました。このことは、長浜
工場でも同じ理由でやらせられたと友人から聞いて居ります。
―――――――――――――
供述書
近江絹糸紡績岸和田
工場
中前研二
私は
昭和二十五年七月岸和田
工場に入社以来、仕上
係長として今日に至りましたが、当
工場では爾来タイム・レコーダーは全く使用されず、残業手当に関しては、同二十五年暮より繊維業界の不況に依り社員の残業手当は
遠慮して貰いたいとの
社長よりの通達で、その月から社員の時間外手当は一切支給されず、そして工員に於ても毎週先後番の交代日に於て(毎週日曜、先番者は午前五時より午前九時迄と更に午後五時四十分より午後十時三十分迄の勤務である。後番者は午前九時より午後五時四十五分までの中、昼
食事に四十五分の休憩がある。)此の場合、後番者は一斉休憩をして居らず、尚先番者にありては、八時間四十五分就業して、而も休憩は全然なく、八時間の給料しか支給されて居らぬ状態である。毎月末に中間
調査と称し、十五日及び三十日に行われる原糸の棚卸しの時には、午後十時三十分作業終了後に於いて、約三時間
女子に深夜
労働を強制されて居り、更に毎週一回美化デーと称する機械掃除を、先番勤務後三十分
程度年少者の区別なく全員強制的に服務せしめられており、これらに対する残業手当は全く支給されず、この状態は争議以前迄継続されておりました。
又
工場の食堂にては一間も離れぬ所に便所があり、しかも不潔極まりなく、
食事中に悪臭気が吹込み、それを防臭するでなし、繩も食堂内に入り、全ての食物にたかり、甚だしい時には食物の中に入
つて居る様な状態で、非衛生極まるものであります。福利厚生施設に就いては、募集時に岸和田
工場は野球、庭球、排球部もあり、寮ではミシンが何台もあり、自由に使える、又就学したい者は
会社に学校があり、誰でも勉学できると云う様な条件で、
写真入りの募集ビラを作り、それを真に受け入社して来たのでありますが、
工場へ来て見れば、何もその様な設備がない点に全員憤慨し、その改善方を何回となく申し入れましたが、何らなされることなく今日に至りました。
―――――――――――――
専門炊事婦について
大阪市東区備後町五ノ八
近江絹糸紡績労働組合
三輪美智子
私達
本社の通勤以外の
女子事務社員は全て堂島寮(
社長の自宅)及び豊中寮の寮生ですが、いずれも専門の炊事係がおかれていない状態ですので、一週間ずつ交替で寮当番と称して各寮の炊事、掃除、風呂わかし等一切の寮責任を負わせられます。わけても堂島寮の当番の如きは、
社長の身廻り整理すら行わせられている現状で、しかもこの当番は日曜から土曜迄とな
つているので、公休すらとれない有様であります。当番は終り職場に帰れば、一週間分の仕事がたまり、この面から
労働量が増大し、残業をしなければならないことになります。尚現在男子社員寮の炊事係の人達は家事見習という名目で、採用されながら、朝は六時頃から起き朝食の準備をし、昼は
会社に出て昼食の準備、夜は又寮に帰り
夕食の準備を行い、就寝するのは午後十二時頃となり、ま
つたく女中同様の扱いをうけている。(又毎晩風呂をわかすのも寮の一切の掃除をするのも日課とな
つている)
―――――――――――――
供述書
滋賀県彦根市西馬場町
近江絹糸紡績彦根
工場
下村宏二
私は二十四年七月二十六日入社した者でありますが、今から丁度五年前、
近江絹糸の経営する近江高校の別科に入学しました。これは週三日、一日二時間勉学できる制度でありますが、その
内容たるや新制中学の復習
程度で、数学に至
つては新中の本を教える状態で、私達は滋賀県立東高校定時制に通い勉学することを決意し、二十六年三月二十三日に受験し、合格したものは当時五十数名おりましたが、葉室
舎監及び近江高校校長より、外部の高校に行く者は首にするとおどかされ、現在四年経過した今日にあた
つては、
昭和二十七年三月津
工場建設に当り殆んど全員が転勤を命せられ、或は故意に運転番にまわし通学を妨害する等、不当な扱いにより解雇せられ、又自らやめざるをえない様にしむけられ、現在私の同級生は種々と妨害を受け、白眼視され、毎週水曜日には連絡日と称し、仏間に強制的に上げさせられ、オキヨウを読まされたり、真剣週間と称し掃除を徹底的に強制される、又
工場長の訓話、僧侶の法話を強制され、仏間に上げさせられる等、外出は自由に出来ない為、学校には勿論行けない状態が続いて来たのであります。
最近の例を申し上げますと、本年の四月私を含めた十数名
大垣工場に転勤又は出張を命ぜられ、私達はその時理由を追求した所、君等外部の学校に行くるのは
会社の方針に従わない者であるからだとか、又事務
部長は技術の交換だと申しました。なおわれわれは
大垣出張中、私は台つけを
行つておりましたが、同行の他の方は撚糸台のすえつけ工事人夫がわりとして、ハツリ(穴掘り)を行わせられる等、技術指導は何ら受けていず、新聞にこのことが報ぜられるや、単に数日の出張でしがなか
つたということで
工場に帰されました。
出張先の
大垣工場谷口
工場長のごときは、われわれに不良学生であると、
女子従業員に伝える等、いやがらせを行い続けました。しかもこの出張は技術交換と言われておりながら、彦根
工場現場
係長が、この出張をよく知らなか
つたことは、われわれに対する通学妨害以外の何ものでもないことを立証するものであります。
仏教強制絶対反対の項目に関連し、二十六年六月二日の二十三名圧死
事件の事実を伝えます。
事件発生と同時に現場に負傷者救助に当
つたのでありますが、八十数名に上る負傷者に対し、医者一人看護婦三人ではとうてい看護できないにもかかわらず、外部の医者より応援を求めたか
つたため、二十三名に上る多数の犠牲者を出したのであります。
医療設備の不備に原因があ
つたのも事実であるが、この件に関して争議以来明るみに出たことでありますが、二十数名の犠牲者の中には、まだかすかに呼吸している者もありました。そのような者に対して、まるで豚の子でも死にかか
つているかのごとく、これもだめ、これもだめと言
つて、白い布をかぶせて行
つたのであります。またこの
事件の裁判のときには、私の同僚に偽証を強要されたので、
会社の仕打ちをおそれ、偽証せざるを得なか
つた事実があり、
会社が仏教の精神、宗教の根本を知り、真の宗教に通ずるものであれば、このような非人道的な行為はできなか
つたはずであります。
労働強化を強制する各種対抗競技を廃止せよの項目に対してであるが、
工場(現場)又は寮において、糸切り競技とか清潔整頓競技等と、いろいろ競技をさせられるわけでありますが、特に寮における掃除の競技でありますが、
工場で疲れた身体を引きず
つて寮に帰り、一体みしたいのでありますが、ただちに掃除を徹底的にさせられ、その競技に負けたら最後、
係長並びに担任より罵声を浴びせられるこわさのあまり、からだを無理して掃除したために、多くの犠牲者を出しております。
密告者報償制度、尾行等、一切のスパイ活動及びスパイ活動強要をやめよの項目に関連し、去る六月六日
組合結成前夜、私は夜業に出たのでありますが、君は今日仕事をしなくてもよいからさつさと帰れ、私は何も理由なしに帰る必要がないと言
つたら、山田担任、友成、前川の三氏に引きずられて工務室に入れられ、藤田副
工場長より、貴様はきよう男寮で何を話していたかとおどかされ、それから
重役室寄りの工銭の部屋に午前二時まで入れられ軟禁状態にあり、その内夏川
工場長遠藤事務
部長より、
組合を結成するな、また母親が心配するとか言
つて、私の精神状態を混乱に陥れたのであります。
―――――――――――――
供述書
岐阜県中津川市中津川
近江絹糸労働組合中津川支部
鈴木 六郎
二十八年十月五日、工員久保田清子は松本初枝
舎監に呼び出され、「長野県松本市から
速達郵便が来ていたが、紛失して見当らないから、あなたの、心当りのところへ
手紙を出して下だい」と言われた。早速彼女は心当りの松本市万国福音協会の百瀬
先生のところへ問合せの
手紙を出してみたところ、折返し百瀬
先生から返事があり、「聖会があるから都合をつけて来て下さい」ということでした。此の時は松本
舎監が直接久保田清子の所へこの
速達の返事を持
つて来た。ところがその時はすでに聖会の開催日は過ぎていた。
それから十日ほど過ぎてから、松本
舎監が久保田に対して、「なくな
つていた
速達が
舎監室の私の机の下から出て来た」と言いました。
久保田は故意にこのような処置に出たのではないかと言
つております。なぜならば
会社は仏教を強制し、他の宗教を出来るだけ排撃しているから。又もしこれが父母の病気を知らせる便りだ
つたとしたらと今で患いますとはらはらすると言
つている。
―――――――――――――
供述書
大阪市東区備後町五丁目日労
労働会館内
近江絹糸労組
大阪支部
西島恒雄
昨年末項
本社営業部勤務の山口克昭が日曜の日直をしていた。彼がその日の夕刻来翰の整理をしているところへ西村貞蔵専務(夏川
社長実弟)がや
つて来て、各課毎に分類した
手紙を見ていたが、その中に当時
本社人事課勤務の塚本泰三宛の
手紙があ
つた。それは親展の
手紙であり、差出人は現在
大垣工場男子寮
舎監西口(当時鹿児島出張
所長)であ
つた。西村専務は山口にはさみをとらせ、その場で
開封して読み、それを自分のポケツトに入れて立ち去
つた。当日塚本はおらなか
つたので、帰
つて来るとすぐ山口は彼にその由を伝えた。塚本が出社すると、予想通り
重役室に呼ばれ、
手紙のことで叱られた。
手紙の
内容は、西口が
会社の不平を述べてあ
つたらしい。
もしその
手紙が親展でなか
つたら専務は
開封しなか
つたろうと思われる。
会社は社員の行動を厳重に監視するためである。
なお前掲の塚本泰三は現在信越出張
所長をしている。
―――――――――――――
供述書
内田秀雄
昭和六年九月四日生
近江絹糸大垣工場勤務
労働強化について
社長等の重役は
基準法はアメリカが日本の産業復興を恐れて作
つたもので、占領政策の名前で日本がいつ迄もこれを守
つていては、世界の産業界から取残されてしまう。敗戦国民はもつと働かなければいけない。戦勝国においても
女子が深夜業をや
つているところがあるという訓示が再三行われた。有休(有給休暇)も
工場の都合の悪いときは支給しなくてもよいということにな
つているのでとれないのである。一人の欠員があ
つても作業に支障を来すものとしている。又人員が多くても新入生が多くて欠員をカバーできない状態にあります。欠員でもその運転に支障ないときはその人は不用な人であると訓示されます。
さらに最近二、三年は次のような競技が相次いで行われ、
労働強化に拍車をかけています。すなわち
一、出来高競技
二、品質向上競技
三、クレーム絶滅競技
四、糸切減少競技
五、清潔整頓競技
六、保全競技
等が、
工場対抗、科別対抗、番別対抗、班別対抗で行われる。
出来高競技は一ヶ箇月を通じて行われ、一〇%向上目標が出され、次の月はまたその一〇%というようになるので、何回か後には、どのようにしても目標に達せなくなる。
工場には「必勝
大垣の面目を死守せよ」「打倒彦根」等の文字が赤字で張り出される時があり、後日
基準局から注意があり監督官の来る日は外されることもある。この競技は生産を上げるものであるため、時間外
労働をしたり、種々の違反が行われている。一例として二十八年の二月ごろには、先番の
女子が三時半ごろから出勤したり、後番が十一時ごろまで居残
つたりしたが、
会社は従業員が勝手に就業したのだと取合わなか
つた。が幹部は承知しており、時間外にまわすことを強要した。
監督署に発見されると、
組合の名で取消したり、うそをあえで言うことを強要した。又毎週美化デーがあり、先番終了後十五分から三十分は強制的に美化作業を行わせしめた。
始業、終業は五分前に始め、終業時間後五分を経なければ台を出ることは許されない。また就業中における
食事も交代にやるため、四十五分の休みも十分とることもできません。寮に帰れば
舎監より、草取り、地ならし、れんが、コンクリートのかけら等を片づける作業を各部屋に割当ててやらせる。やらなければ成績が悪くなり、昇給にも影響する。また寮においても競技は部屋別、寮別、
工場別等で行われますが、項目は次の通りです。
一、整理整頓競技
二、真剣週間
三、美化競技これらの競技に勝
つても、当
工場においては一度カツ丼が当
つたことがあります。
―――――――――――――
供述書
岐阜県
大垣市林町六の八〇
近江絹糸紡績株
大垣工場
用度課 林 玲子
私は
昭和二十七年三月
大垣工場に入社しました。私たちの寮は「
清泉寮」と称する
会社の外部にありまして、二階には夏川
工場長、谷副
工場長がおり、一階には
女子事務員である竹内富枝(
人事課)、上野金子(貯金係)、有賀敦子(営業課)それに私の四名品が(二つの部屋に)生活しておりました。普通の日は朝五時半起床、六時まで三十分間掃除、六時半までに身仕度して事務所へ出勤する。勤務後寮においては掃除当番を一人ずつ一日交代に定めてありました。しかし勤務後とい
つても、四時半に終業のベルが鳴るのですが、実際に仕事を終えるのは早くて六時で、それから当番は
清泉寮に帰つで、お風呂仕度、各部屋の掃除をするわけですから、これを全部終えると八時ごろになります。当番以外の人は普通
平均して九時ごろに寮に帰
つて来ます。しかし
工場長の帰りが十一時、十二時とおそくな
つても当掛は起きて待
つていなければなりません。またときには
警察とか
労政事務所等を招待したこともありましたが、そのときは私たちは勤務が終
つた後、六時ごろから
饗応の仕度等女中と同様に
接待をしました。こ
うした宴会はおそくなるのは当然で、夜の十二時、一時ごろにな
つて跡始末をし、掃除をして、またお風呂へ入
つたりしていると一時半、二時と深夜に及ぶことになります。こ
うした来客はやはり社用である以上、また私たちの部屋をも使われるのだから「早く休みなさい」と言われても休むことはできないのです。このような宴会等の翌日でももちろん通常の時刻に出勤します。このように休む時間が減少されると事務能率に関しても妨げになるのは当然です。このように私たちに与えられた自由な時間はほんとうに少いのです。現に四月末に竹内富枝さん(
人事課)は寮での
労働と事務多忙とに無理をされて一週間
程度病気で休まれた事実もあります。
右供述いたします。
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岐阜県
大垣市林町
近江絹糸紡績大垣工場
菅家泰子
外出の自由について
大垣工場では門限は八時で五分でも遅れるとそれが三回で一週間の外出禁止また無断退社の出た部屋は部屋長以下全員が一ケ月の外出禁止になります。
普通の日は一応外出は自由ということにな
つていますが、行事が非常に多く月、火、金、土曜は和洋裁。水曜は趣味教育。木曜は報恩行事。日曜は交代日でそれぞれ強制的に行わせられるので、自然外出は公休日以外はできないようにな
つています。
また
寮母も「
女子は一週に一度外出すれば十分です」と常々申します。お経を唱える日は外出禁止。メーデーも外出禁止とな
つております。
有給休暇、生理休暇について
私は入社して三年になりますが、生理休暇はもら
つたことはなく、また有給休暇は一日いただいただけです。
私が入社のとき、生理休暇、有給休暇は完全もらえると
安定所では聞いて来ましたが、一年過ぎて有給資格があ
つても「忙しいから」とか「人が足りないから」とい
つてま
つたくもらえません。こつそり
係長に「なぜ有給休暇をいただけないか」とい
つたところが、「担任者にしかられるからがまんしてくれ」と言
つていました。
生理休暇はま
つたくもらえず、私も三年間勤めて一度もと
つたことはありません。新入教育にも教えず、
工場全員が生理なぞでは休めないものと思
つています。
舎監に言えば「だれもがあることで、それで休んだりするとくせにな
つて休まなくてはいけなくなるからがまんして出なさい」と言われます。また
大垣では病気欠勤は
工場内の医者の証明がなくては休めません、だから生理とははずかしくて言えず、無理して出ることになります。
外出の制限について
富士宮市大宮
近江絹糸紡績労働組合富士宮
支部
岩原 利子
私たちの私生活は別表のごとき日課表により一応自由な時間があるようにはな
つていますが、実際はこの間に自治会の行事等(
会社が指示します)のために拘束されているのがほんとうです。
例えば先番勤務を
終つてから
食事をしますが、退場と同時に社歌を唱え体操をしてから昼食をとり寮に帰り、各自分担の掃除を一生懸命させられ、これが
終つてからでないと外出は許されません。特にこれが寮対抗の特等は、時間をかけて徹底的にやらせられ、これのみでもすでに相当の時間が削られますが、また
日曜 洋裁 和裁
舎監か昔のままを教えます。
月曜
工場訓育各科の打合せ、その他品質、増産について、現場責任者が注意します。
火曜 連絡日
舎監等から日常生活についての注意
水曜 お茶、お花社外より
先生が来て指導
木曜 報恩行事 鑑手帳の正信念仏偶を唱えさせられる。
金曜 舞踊 外部より
先生が来る交代日 先番と後番の交代日となり、さらにこれ以外に所持品検査、小使帳検査、寮長、部屋長
会議が行われ、これらに不参加は許されません。また他の名目で外出止めを申し渡される日がたびたびあります。
行事の際に外出することは、例えば和裁を習うために社外に出ようとすれば「
会社が高い経費をかけて皆さんに教えてあげようとするのに、外で習うとは何ということですか」等のごとくいやみを言われ、言行の日に外出した者は門衛で記帳され、
女子寮に連絡される等、その後の処置は
会社にいたたまれなくするようでした。しかし趣味教育も設備の不十分な中でやれというところにも無理があると思います。
又就寝時間は八時三十分とな
つていますが、毎日七時四十五分から自治会がありますので、(わが誓願を読みます)これに遅れれば以後一週間から一ケ月の外出止めの処分を受け、場合によれば本人のみならず部屋員全員に対しても行われ、その理由についての弁解は許されません。
もちろんこのことはただちに各自の成績に影響します。
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滋賀県長浜市七条町
近江絹糸紡績長浜
工場
木下 順二
私は
昭和二十五年十月に入社し現在の職場は準備施糊部に勤務しています。
一、
女子深夜業について
昨年六月深夜逆転を実施するにあたり、男子約五十名を織布工として採用いたしましたが、織布工として未経験の者ばかりですので、約二週間養成期間として指導を行
つた後、ただちに深夜専門に配置しましたが、一時ごろになれば大半の機械がストップし生産が上らないので、
会社は
女子の経験工を出して指導すればどうかということになり、さしあたり荒尾久仁子外二、三名が選出されました。
このとき
女子の深夜業は違反なるため、もし
監督署が来て発見されてはまずいからという理由で、
女子も男子と同じ帽子をかぶらされ、男に変装して仕事をするよう命令され、操業を続けました。
一、十二時間
労働について
現在糊付機械はホットエヤーとスラッシヤーの二台ありますが、スラツシヤー・サイジングの方は十二時間
労働で午前六時から午後六時まで、午後六時から朝六時まで二交代制とな
つており、現在人員は男子六名、
女子二名、計八名で作業を
行つています。休憩は糊付に限り一時間とな
つていますが、一台につき最低人員二名とな
つている関係上、一時間の休憩なぞとれません。その交代は一週間交代にな
つているが、そのうち二名ないし三名は、二週間に一回公休をいただくだけです。
仕事場は百五度が常温とな
つており、その上窓の開放厳禁で非常に疲れがはげしい。
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