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1954-04-26 第19回国会 衆議院 法務委員会 第45号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十九年四月二十六日(月曜日)    午前十時三十一分開議  出席委員    委員長 小林かなえ君    理事 鍛冶 良作君 理事 佐瀬 昌三君    理事 田嶋 好文君 理事 林  信雄君    理事 高橋 禎一君 理事 古屋 貞雄君       花村 四郎君    本多 市郎君       中村三之丞君    猪俣 浩三君       木原津與志君    木下  郁君  委員外出席者         参  考  人         (東京大学名誉         教授法学博         士)      牧野 英一君         参  考  人         (弁護士法学         博士)     小野清一郎君         参  考  人         (東京地方裁判         所判事)    栗本 一夫君         参  考  人         (最高検察庁検         事、法学博士) 安平 政吉君         参  考  人         (評論家)   中島 健蔵君         専  門  員 村  教三君         専  門  員 小木 貞一君     ――――――――――――― 本日の会議に付した事件  刑法の一部を改正する法律案について参考人よ  り意見聴取     ―――――――――――――
  2. 小林錡

    小林委員長 これより会議を開きます。  本日は刑法の一部を改正する法律案すなわち八百板君外百三十四名、社会党左右両派より提出にかかわる法律案につきまして参考人より御意見を聴取することといたします。本日出席予定参考人東京大学名誉教授法学博士牧野英一君、弁護士法学博士小野清一郎君、東京地方裁判所判事栗本一夫君、最高検察庁検事安平政吉君、評論家中島健蔵君の各位であります。  参考人各位には御多忙のところわざわざおいでくださいましてまことにありがたく、お礼を申し上げます。本法律案は、いわゆるあつせん収賄罪に関する法難案でありまして、世間相当議論のあるところであります。本日われわれは各位からその御意見を聞いて、審議の上に参考にしたいという考えでおいでを願つた次第でございます。  まずお一人お一人から御意見伺つて、あとで委員諸君の質疑を許すことにいたしたいと思います。本案の内容は、すでに社会相当論ぜられておるところでありまして、一々どの点どの点について述べていただきたいということは申し上げませんが、どうかひとつ全般にわたりまして各位の御意見を十分述べていただきたいと考える次第であります。  まず第一に牧野英一君に御意見を伺います。牧野英一君。
  3. 牧野英一

    牧野参考人 私はこの法案について、特に実際的な立場から意見を申し述べるだけの用意がございません。世の中からしりぞいておるものでございまして、社会実情がこういう法律を必要としておるものかどうかということについては何とも申し上げるだけの資格はないのでございます。しかし二つのことについてこの法案には関係があります。  第一は、この法案のもとになつたと思われる刑法の仮案であります。刑法の仮案では私は起草委員であります。花井起草委員長のもとに泉二起草委員牧野起草委員とがおもに仕事をいたしましたので、かような立案をいたしたということについては責任を持つわけであります。  もう一つは、長年大学において刑法の講義をいたしておりました関係上、ただいささかのことでありますけれども、外国立法を常に調査をいたしております関係から、かような法律案比較法上どういう地位のものであるかということを申し上げることができるであろうと思います。そしてもしそれにつけ加えて申しますれば、いわゆる概念論理的構成というようなことが、昨今特にやかましくわが国学者の間には唱えられておりますので、かような法律案賄賂罪という概念とはたして矛盾するものなりやいなやということを、この法案について若干の若い学者から最近聞かれましたので、それもつけ加えて簡単に申し上げることができようかと思います。  まず刑法の仮案においてかような規定を設けましたのは、起草委員としてはいたしましたけれども、もとよりその当時においてでも、私は社会実情を心得ておつたのではございません。当時の記録は不幸にして戦災によつて全部焼けましたため、はなはだ怪しげな記憶をたどるだけでありますが、かような規定を起案すべきであるということの起草委員長花井氏からの御趣旨であり、どうしてもそういう規定が必要であるから何とか書いてもらいたいということで、泉二博士と私の手によりこのものができたのであります。それだけのことでありまして、その後賄賂に関する規定は歴代の内閣がこれを参考にしたわけで、いろいろ取上げられたことが議会においてどういうことになつたかということはもうすでに諸君の御承知のことで、私から申し上げるほどのことはございません。  第二に比較法の話でありますが、これも私としては十分徹底的に比較するだけの力もございません。ただこのことはフランスに例があるのであります。一八八八年に代議士ウィルソンという人が勲章世話をした。これは御承知通りフランスでは勲章詐欺の問題がしばしば起ります。私ども戦前留学中にも新聞記事をずいぶん見ましたが、勲章世話をするということがしばしば詐欺罪になつております。それである事件があつて、それは勲章詐欺の方でやられたのでありますが、ウィルソンという人の事件のときには、これは詐欺ではない、どこまでもウィルソンが誠意をもつて勲章世話をした、そうしてそれについてお金をもらつたということで、一八八八年の三月二十六日ということになつておりますが、パリの控訴院無罪判決をいたしました。そのために世の中議論が沸騰いたしまして、翌年の一八八九年七月四日にフランス刑法改正になつて、その第百七十七条にあつせん収賄規定がつけ加えられたのであります。それは代議士選挙によつて地位を持つている者ということになつておりまして、あたりまえの役人は入つておりません。そこでこれを翻訳いたしますと複雑なことになるのですが、勲章、賞与、地位職務その他いろいろ役所から与えられる便宜、その他一般官庁行政機関から利益的な決定という言葉が概括的に最後に用いられておりますが、とにかくそういうことを世話するについて、賄賂を要求、約束、収受した者は云々の刑に処すとあつて、そのほかに何人といえどもこのようなことをやつてはいけないということで、あたりまえの個人でもあつせん収賄というものは犯罪になる。学者の書物を見ますと、あたりまえの役人は、その一般個人に対する規定の適用を受けるべきだということになつております。ところが一般個人について収賄罪規定があるのであるから、やはり役人についてもその規定が設けられてしかるべきであるというので、一九四三年の三月十六日、これはヴイシー政府法律でありますが、新しい規定ができました。これは、今まで選挙によつて地位を持つている者とあつたのを広めまして、いろいろフランス流に列挙をしてありますが、わが国で言えば、公務員一般はこういう処分、それから個人のときにはこういう処分、こういうふうな区わけになつております。それが今度はドゴール政府になつてから、一九四五年の二月八日にかわつております。しかしこれはこまかい点についてのかわり方で、大体同じのものであります。  なおつけ加えておきますが、一八八九年のフランスの第百七十七条、今日では百七十八条になつておりますが、この条文の事柄について、今度は上院議員の方に問題があつたということが書いてあります。これは、先ほど申しましたウィルソン・ケースと違つて名前が書いてありませんが、一九三五年五月十日の最高裁判所判決になつておる事件であります。これは、上院議員にして弁護士であるところの人が、ある裁判事件便宜を与えてもらうためにというので、数人の者から金をとつたという事件であります。そこで上院議員先生は、これは弁護士としてこういう金高のものを受取つたという弁解をしたのでありまするけれども、裁判所では認めなかつた。弁護士としてはただ一ぺん検事会つただけだ、それなのに弁護士社会の習慣から考えてはるかに超過するところの金をとつておるのは、やはり上院議員たる資格を濫用したものに違いない、こういうことで有罪の判決を受けたのであるらしく書いてあります。不幸にして判決そのものまで調査するだけの時間が今日までありません。大学の図書館へ行きますれば、その判決文があるであろうと思いますけれども、普通の刑法注釈書に例としてあげられておるだけの事柄であります。  そういうわけで、フランスではあつせん収賄ということは役人でも一個人でも罰せられる、こういうことになつております。  それからその処罰のことなどについては相当沿革もあり、ややこしい規定ですが、一九四五年の現行法によりますると、役人がやりまするのは二年以上十年以下、個人がやるのが一年以上五年以下、こういうことになつております。それから現に収受したる利益の倍額にして十万フランを下らざる額というようなフランス流規定が設けてあります。さしあたり手元にありまするのは、最近のものとしては昨年の八月四日のドイツの新刑法、これにも特例の規定がございません。それから新しく改正なつたというので、ソビエトの刑法も調べましたけれども、特別な規定がございません。その他手元に到着しておるのがチエコスロヴアキアユーゴスラビアとギリシヤでありますが、チェコスロヴアキア刑法の百八十三条――これはみな最近の刑法で、チエコスロウアキアは一九五〇年でありますが、それの百八十三条に、これはフランス刑法違つてきわめて簡明に規定してあります。公務員の権能の行使の上にインフルエンスを及ぼすことであろうこと、または及ぼしたことによつて利益を要求し、約束をし、収受した者は、一年以下の自由刑または罰金に処す、こういうことになつております。最近の諸国の新しい刑法の中で、あつせん収賄規定を持つておるのがチエコスロヴアキアであります。チエコスロヴアキア草案というものがありまして、私の手元には一九二六年の草案が向うから参つております。これは比較法上重要な資料ということになつておりまするが、それにはありません。そうしますると、これは私のほんの想像でございますけれども、今度のチエコスロヴアキア刑法規定は、フランスの一九四五年の改正からサゼスチヨンを受けて規定したのではないかと思います。しかしながらそういうことに関して的確に申し上げる資料はございません。ただ私が従来の例から考えて想像している程度でございます。繰返して申しますならば、フランスはすでに一八八九年にこの規定を持つており、それがさらに一九四三年に改正になり、さらにまた一九四五年に改正になつておる。われわれはその四五年の改正で論じておるのでございまするが、そういう事柄があるということを御参考のために申し上げておきたい。  第三番目に、相当な連中が来て、収賄ということは自分職務権限の範囲内において賄賂をとることを言う、これはきまつた概念であつて、あつせん収賄ということは概念意味をなさぬ、これはどういうものでしようか、こういうことを言つたのであります。それは諸国の大多数の刑法があつせん収賄規定しておらぬ、今までは、収賄ということは、自分職務権限について賄賂をもらうということで、これは歴史的な概念であつて、決して論理的に確定した概念ではない。その従来の収賄罪というものは比較法的に二つに広がつております。第一は、役人でなくとも、会社の重役、事務員のような者でも、自分職務について賄賂をもらえば、賄賂罪が成立する。これは広く諸国に認められている事柄であります。第二は、役人権限インフルエンスを及ぼすことによつて収賄をする、これはチエコスロヴアキア刑法と申しましても、私はチェコスロヴアキア言葉がわかりませんので、ドイツ語訳で申し上げるのですが、間接収賄罪という名がついております。ミツテルバーレ・ベステツフングすなわち役人をしてそういうことをなさしめるようなことをやるのは、役人に限らぬ、個人といえどもやはりこれは犯罪になります。それでそういうふうに歴史的に成立している概念が、今度は社会の事情の発展変化伴つて、かように二つの方面に概念が広がつておるという法律の進化の形から申しますれば、収賄罪というものはいわゆる概念的、論理的に確定して論ずるということはどうか、こういうふうに考える次第でございます。  以上三点のことを申し上げるだけでございます。
  4. 小林錡

    小林委員長 次に小野参考人から御意見を聴取いたします。小野参考人
  5. 小野清一郎

    小野参考人 それでは私から申し上げます。  ただいま比較立法のことについて牧野先生から十分お述べくださいました。なかんずくフランス刑法第百七十八条のことは、沿革についてまで詳しくお述べくださいましたし、それからチェコスロヴアキア刑法は第百八十三条になつております。それからユーゴスラビア刑法の第三百二十四条というのを今牧野先生がおあげくださいましたが、内容お話くださいませんでした。これは不法なあつせんという名称で規定してございます。公務員がその職務権限外において、その職務上の地位を利用し、対価を得て職務行為をあつせんしたるときは云々――正確な訳ではございませんが、大体そういう意味です。これは二年以下の懲役、よつて不法行為をなさしめ、または相当行為をなさしめざるときは五年以下の懲役、かようになつております。大体フランス刑法がもとになつているのではないかと思いますが、イギリスの一八八九年の――何と訳してよろしゆうございますか。パブリツク・ボデイーズ・コラプト・プラクテイス・アクト、公共団体汚職に関する法律とでも申しましようか、それから一九〇六年のプレヴェンシヨン・オプ・コラプシヨン・アクト、これは汚職抑制法とでも申しましようか、この二つイギリス普通法では、やはり大体公務員権限内の事項に限つているのでありますけれども、この二つの成文法を見ますと、いずれも厳格に自己職務権限内であることを必要としない、自己職務権限外のことにわたつているように読めるのでございます。それからアメリカは、御承知のように、四十何州それぞれ刑法があり、一概にアメリカはこうだということは言えない。合衆国の法典フェデラル・コードの第二百二条から第二百五条まで、これは汚職といいますか、涜職罪に関する規定でございます。これらも大体イギリス普通法の伝統に従いまして、職務権限内のことに限られているようでありますが、よく読んでみますと、どうもそれが厳格には自分権限内のことのみ限らないようにも読めるのであります。ドイツ法律は大体非常に正確というか、はつきりしておるのでありますが、どうも英語の方はドイツほど正確ではないように思うのです。しかもその規定も非常に長い、くだくだしいものでありまして、ここに一々御紹介申し上げる時間がないことを遺憾といたします。  それからこの法案賛成であるか、賛成でないかということになりますと、私は賛成いたします。  わが国における立法沿革についても、ただいま牧野先生から詳しくお話がございました通り昭和十五年のいわゆる改正刑法仮案というものの規定、これは決して一朝にできたものではないのでありまして、十数年を費して、研究研究を重ねた結果できたものなのでございます。それが昭和十六年に一部分それを現行法化するにあたりまして、今のあつせん収賄のことも含まれていたんですが、それが議会でその一箇条だけ削除されたわけでございます。しかし昭和十八年の戦時刑事特別法の中に大体同じような趣旨規定が現われておりまして、これが一応現行法なつた。ただ戦時刑事特別法がありました関係上、終戦廃止に相なりまして今日に至つているわけでございます。何も今日汚職ということが世上の注目を引いているから、それに対する対策といつたようなわけのものではないので、外国にも立法例があり、わが国でも長い間考えられて来た問題でありまして、これは結局は公務員地位に伴う倫理的な義務に基くものだと思うのであります。刑法というものは、結局は倫理的、道義的なものを刑事制裁によつて強化するというような性質を持つたものであると思うのであります。公務員はその地位にある以上は、公務員としてきわめて清廉であるべきことを要求されておるのであります。どこまでも国家公共利益に奉仕すべきものである。個人からある利益を受けて自己職務権限に属する事項を左右するということはもとより許されないが、自己公務員としての地位を利用して、他の公務員職務権限に関する事項にある影響力を及ぼし、それによつて個人からある利益も収受するというようなことは、これはどう考えても公務員たる地位に矛盾するものであます。今まではドイツ刑法自己権限内の事項に限られるようにできており、それが日本にも継受されていたのでありまして、ただいま牧野先生もおつしやられたように、概念として何となく自己職務権限内の事項に関してでなければ賄賂というものはないのだ、こういうような考えになつておりまするけれども、必ずしもそう狭く限定する必要はないということは、実際の実情から見ても明らかであると私は思うのであります。ことにフランス刑法の第百七十八条、これはこの間この委員会速記録ちよつと拝見いたしましたならば、何か賄賂罪とは性質が違うから、別に規定するならしたらどうかというふうなお話もあつたのでありますが、ある意味で別条にしたらそれで十分だと思うのであります。何も章を異にする必要はない。従来の賄賂概念をそつとしておくならば、別に一箇条を設けて――名前もかつて賄賂と言わないで、不当の利益と言つたこともあるのであります。たしか仮案もそうであつたかと思いますが、それでもけつこうだと思う。フランス刑法もコリユプシオンとトラフィツク・ダアンフリユアンス――これは何と訳していいか、前の方は贈収賄でありましよう。それからトラフィツク・ダアンフリユアンスというのは影響力の取引と申しますか、商売と申しますか、つまり公務員地位を売るということでございます。顔を売るわけです。それがいかぬのです。もちろん自己職務権限に属する職務行為を売るということは下都合である、それは従来の賄賂考え方、それに対して他の公務員職務行為なんだけれども、公務員である以上はその地位伴つてある影響力を及ぼし得る場合が多いわけであります。その影響力を及ぼすことを金にかえるという、そういう意味でやはり公務員地位を利用して不当の利益を収受するということ、そこまで賄賂言つても少しもさしつかえないと私は思いますが、もし言葉あるいは概念の上でそれではぴんと来ないというのであれば、不当の利益言つても一向さしつかえない、要するに新たにそういう場合を罰する規定を設けるということは、国民の道義観念の上からいつて今や要求されているし、また実際の政策的にもそこまで処罰しなければ綱紀の粛正ができないというのが実情であるのじやないか、そういう意味で私はこれに賛成いたすのであります。もし今までの賄賂、すなわち自分職務権限内の事項を売つた場合と同じように罰するのが少し重過ぎるというのであれば、懲役三年を懲役二年というふうにややこの刑を低めてもいいのではないか、かように思います。要するに私はこの法案賛成いたすのでございます。  なお私は弁護士ということになつておりますが、これはまだ日本弁護士連合会で正式に決議したわけではございません。そのうちきめるつもりでありますが、私の見ているところでは大多数はこの法案賛成であると見ております。今日私の申し上げましたのは私個人意見でございますので、ちよとつけ加えておきます。
  6. 小林錡

    小林委員長 次に栗本参考人にお願いいたします。栗本一夫君。
  7. 栗本一夫

    栗本参考人 ただいま私東京地方裁判所におりますが、元来涜職事件はさして多く担当したことはないのでございまして、あまり御参考になるようなことを申し上げる知識もないのですが、ただ本日出て参りましたのは、裁判所におきましてあつせん収賄に関する事件が何かあつたかというようなことのお尋ねじやないかと思うのであります。その点につきまして今両先生からもお話になりましたように、戦時中あつせん収賄罪規定が一時設けられまして、戦後ただちに廃止になつておるのでありますが、きわめて短い期間でありました関係上、純粋のあつせん収賄罪につきましては、ほとんど事件がなかつたのじやないかと思つております。もちろん正権な統計その他を当つて参る余裕もございませんでしたので、正確なことは保証いたしかねますが、とにかくこの規定がきわめて短期間しかなかつたというから、現実のあつせん収賄罪事件はほとんどなかつたように思つております。ただ現在東京高等裁判所に係属中の昭和電工事件におきまして、多少あつせん収賄に関することが判決に書いてございますので、そのことでも御参考に申し上げて責めをふさがせていただきたいと思つておるのであります。これは御承知の方も大分おありのことかと存じますが、芦田被告人外務大臣終戦連絡中央事務局総裁地位において収賄をしたということで起訴されたのでありますが、この点につきまして、一審は御承知通り無罪になつております。芦田被告人はなおこの収賄のほかに、公正証書原本不実記載及び財産税法違反、この二つ事件もあつたのでありますが、公正証書原本不実記載の方は収賄罪とは何も関係ございません。それから財産税法違反事件は大赦によりまして免訴になつております。これらの点は除外いたしまして収賄罪二つになつております。岡被告人と、梅林被告人との二人から金をもらつておる、しかも自己職務に関する――職務と申しますと、外務大臣終戦連絡中央事務局総裁たる職務、こういうことになつておるのでありますが、この点につきまして梅林被告人の方の件は職務に関しないのだということで無罪になつております。それから問題になりますのが岡被告人からの収賄の件でありますが、この件につきましては、判決はあつせん収賄になるのだというような認定をいたしております。もちろん当時あつせん収賄罪という規定がなかつたものでありますから、処罰はいたしておりませんので、もちろん無罪になつておりますが、純然たる収賄ではなくて、あつせん収賄と認められるというようなことが判決に書いてございますが、これはすなわちその金は芦田被管人外務大臣終戦連絡中央事務局総裁としての職務には関しない。しかしながら他の公務員職務に関してあつせん収賄したのだ、こういうことになるのでありますが、他の公務員と申しますと、栗栖被告人等のことかと思われるのでありますが、そのように書いてございます。そういうようなことで、判決といたしましてはここまで書くことがよかつたかどうかということはもちろん問題になるのでありますが、とにかく現実の問題といたしましては、判決に堂々と書いてございますので、あえて申し上げてもさしつかえないかと思つて申し上げたのであります。あつせん収賄罪になる――そういう規定が現存すればあつせん収賄罪になる、しかしながら、現在はあつせん収賄罪がないから無罪だ、こういうような結論を下しておるのであります。これが非常に大きな事件で、しかもあつせん収賄のことに触れた一つの例かと思うのでありますが、それ以外の点につきましては、ただいま申し上げましたように、私自身あまり涜職事件の大きなものを扱つたことはございませんので、とやかく申し上げるだけの知識もございませんが、ただ一般に私個人として、こういうような規定を置くことがいいかどうかというようなことになりますれば、これはまつたく裁判所の意向とは何ら関係がないのでございますが、私個人意見として申し上げますれば、刑事事件その他を通じて考えた結論でありますが、やはり置いた方がいいのじやなかろうか、結論といたしましては、この案に賛成いたしておるのであります。簡単でございますが……。
  8. 牧野英一

    牧野参考人 委員長ちよつと……。今小野博士からの説明がありましたから、それについてなお私の申し述べたことをちよつと補足いたしておきます。この法案の理由書によつても、公務員職務の厳粛性を害するという意味で、公務員があつせんをする場合というふうに限つてありますが、比較法的に申しますと今小野博士の言われましたように、フランスでは影響力の取引、それからチェコスロヴァキアでは間接収賄ということになつております。個人といえども役人の行動について影響を及ぼすというようなことはいかぬ。それから個人といえども影響力を利用して、役人をしてある行為をなさしめることがいかぬというので、個人といえども犯罪になるのだ、その点が比較法上われわれの特に注意すべき点であると思うのであります。そこまで広がつておるということだけをさらに加えておきます。
  9. 小林錡

    小林委員長 これにて参考人よりの意見の陳述は終了いたしました。  これより質疑に入ります。鍛冶良作君。
  10. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 私はおそく来て、牧野先生の御陳述は承らなかつたのでありますが、ただいまお述べになりましたことを小野さんの説明から聞きたいと思つてつたのです。そこで牧野先生及び小野先生に伺いたいのは私は多年事件に携わつておりますが、いまだにはつきりした概念がつかめないのは賄賂とは何ぞやということであります。賄賂ということは自分公務員として職務権限を持つてつて公務員としては当然国家奉仕のためにやらなければならない。それにもかかわらず何らかの利益を得る、こういうことが国家公益のために非常に悪いということであろうとは考えますが、この点ひとつこの機会に明瞭にしていただきたいと思います。従いまして私の今言うようなことから申しますと、公務員がその職務に関することでなかつたら賄賂という概念は出て来ないのじやないかと思います。これは賄賂以外だというのなら別ですが、私がまず聞きたいのは、賄賂とは何ぞやということを牧野先生から伺いたいと思います。
  11. 牧野英一

    牧野参考人 概念というものはもとよりあるものは論理的にきめ得るでしようが、多くのものは歴史的に発展して行くものであります。そこであつせん収賄ということは、歴史的にだんだん賄賂罪の中に入れて組み込まれるようになつて来ておりますので、今あなたが自分職務権限に関しなければ賄賂罪という概念考え得ないというようにおつしやいましたのは、比較法的には今くずれつつある。先ほどフランス刑法第百七十八条のことを申しましたが、もう一つ百七十七条の問題があるのであります。職務権限の外においても、その職務権限便宜になつておる事柄について賄賂をもらえばいかぬということになつております。それはあつせん収賄――次の百七十八条とどういう関係になるのか、私どもとしては外国人としてそこのところの理解に骨の折れる問題でございますが、とにかく当初職務権限内のことについて、こうあつた規定が、職務権限を越えても便宜を持つておる場合においてやれば収賄罪になる。ところが、それを越えて今度は影響力を利用するというところまで行つた。そうしてそれはこのコラプシヨンすなわち収賄のチヤプターの中に規定してあります。比較法的にはだんだんコラプシヨンという考えが動いておる。そうして先ほども申し上げました通り役人ばかりでなしに会社の事務員にも及ぶのですが、今度はまつたく他人たる者が役人を動かす場合も、この場合には犯罪になる。ここまでだんだん動いておる。この概念の進化というものに私どもは興味を持つて研究しておるので、論理的に、いわゆる概念法学的にきめてかかるのはたいへんむずかしいのではないか、こう思つております。
  12. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 それでは小野さんに伺います。私の聞くのは今の法律ではなく、賄賂とは何ぞやということなんですが、これはやはり職務を持つておる者に金銭その他の利益を与えてその職務権限を利用して、自分利益のようにやろうということが始まりだろうとこう思います。その点から考えると、賄賂によつて動かされたのでなかつたらできないのじやないか。こういう考えが第一番に出て参ります。ところがその次にさらに広げてみると、やる、やらぬにかかわらず、公務員を動かそうとして金をやつた、利益を与えた、こういうことがいかぬのだ、ここまでは考えられるのじやないかと思いまするが、それ以外に賄賂という観念が考えられるのか。こういうものを入れることがいいか悪いかは別なんですが、いわゆる涜職罪、もしくは収賄罪ということにそれ以外のものが入るのかどうか、この点をひとつお聞かせを願いたいと思います。
  13. 小野清一郎

    小野参考人 私はどつちかというと論理的に考える場合の方が多いのでありますが、しかし物事の論理ですから、歴史的、社会的な事象をとらえての論理として、今牧野先生のおつしやるように、だんだんと賄賂という概念が拡張されて来つつあるというこの事実、牧野先生のお言葉では進化というこの事実、これはまず認識していただかなければならぬと思うのです。それがやはり近代の社会における実際の必要を反映しているわけなのです。そういう歴史的、社会的な動きの中に現実の必要がこもつている。そこからわれわれは現実の必要を見てとらなければならない、こう思うのでございます。  そこで、しからばどういうふうに論理的にそれを把握するかということになるのでありますが、私は一応賄賂というものは公の職務関係した不法の報酬である。こういうふうに考えます。もちろん自分職務権限内の行為について金をもらうということは、これは公務員として清廉なるべき義務に反しております。公務員はもつぱら国家、公共の利益に奉仕すべきものである。その生活は国家から受ける報酬があるのでありますから、それ以外にピース・ワークみたいに、たとえその行為が何ら不当、不正の行為でなく、当然やるべきことをやつたにしても、それに関係して報酬をもらうということは賄賂になります。ところが今度は、今の場合はややこんがらがつて来ておりまして、甲の公務員がある職務権限を持つておる。乙の公務員がある職務権限を持つておる。ところが乙の職務権限に属する事項について、甲が自分公務員たる地位を利用して、ある影響力を及ぼす顔をきかす。そのことによつて地位権限は別々でありましようけれども、ひとしく国家なり公共団体なりの事務なんですから、そういう意味で、結局事務そのものは同じなんです。同じ国家公共の事務なんです。そういうことに関して公務員という地位を持つている者が、いやしくも自分の直接取扱う事務ではなく、他の公務員の取扱う事務にもせよ、それに確かにある影響力を持つということ、これはもう明らかなことなのですから、顔というものがきくという筋は確かにあるのですから、その顔をきかす、影響力を及ぼすということ、そうしてその及ぼした結果がたとい当然のことであろうとも、当然その公務員の乙なら乙のなすべきことであろうとも、それをあつせんしたことによつて、いやしくも公務員たるものが報酬を受けたら、それはやはり賄賂という概念になるのじやないか。そこまでは私はどうしても――すなわち今回の法案に出ている限りは、賄賂という概念を、今までの既成の概念をそんなにひん曲げないでもそこまでは延びて行く、こう思うのでありまして、今度の法案には「賄賂ヲ収受シ」とはつきり書いてあることもまたわかる。ただその点について幾らか既成概念との矛盾があるものでありますから――さつきちよつと仮案と申しましたのは間違いです。仮案にはやはり賄賂と書いてあるようであります。ところが戦時刑事特別法改正法律の第十八条ノ三、そこでは「不当ノ利益」とこうなつておるのであります。不当の利益、それは要するに普通の概念に対する妥協だろうと思うのであります。不当の利益といつても、結局は報酬であれば私は賄賂といつて――ことにこれは「官公署ノ職員其ノ地位ヲ利用シ他ノ官公署ノ職員ノ職務ニ属スル事項ニ関シ斡旋ヲ為スコト又ハ斡旋ヲ為シタルコトニ付不当ノ利益ヲ収受シ、要求シ又ハ約束シタルトキハ収賄ノ罪ト為シ」と御丁寧にもそう断つておる。幾らかあなたの持たれるような疑問はあるけれども、概念をそこまで延ばして「収賄ノ罪ト為シ」とこうやつたのであります。初めから「収賄ノ罪」といつてもいいのでありますが、人の頭というものはそう急に切りかえはできないものでありまして、そこで「不当ノ利益ヲ収受」した者は「収賄ノ罪ト為シ」とわざわざ断つたわけであります。これはこのとき一時現行法なつた。そこで今度の法案では、これは議員立法されるのでありましようが、社会党側のようでありますが、ともかく初めから「賄賂ヲ収受シ」とか、こういうふうに書いてあるのでしよう。それは私は概念の変遷というものは必然的にそうなるのだと思う。それを今度はまつたく何でもない公務員たる地位を有しない者、これは今は問題ではないのですけれども、そういうことも考えられる。現にフランス刑法の第百七十八条はそこまで行つているのです。現在は公務員たる地位を有しない、たとえば政党の幹部とかそういう人たちが通産省なら通産省、あるいは検事局なら検事局に顔を売る。そういうことになれば、これはいやしくもたといそれが現在公務員地位になくても、国民の道義観念はこれを承知しないと私は思うのですけれども、そこまで今何も立法しようといつているのではないのでしよう。そのときはまたそのときで不当の利益であるということを言えば、事は済むのです。そうしているうちにそれも賄賂になるのではないか。そうすることが牧野先生が今おつしやつた概念の進化なのでして、それも私に言わせるとちつとも論理に矛盾しているのではないのであつて、国家のことというのは、国家から報酬をもらう者がみずから国家に奉仕する。そうして清廉であるべきものだ。清廉であるということはどういうことであるかというと、ピース・ワーク的に報酬を個人から受取つてはならない。そういう不法な受取つてはならない報酬を賄賂というのである、私はこう考えるから、そこまで行つたときには、すなわちフランス刑法も現在ではコリユプシオン・エ・トラフィツク・ダアンフリユアンス、贈収賄影響力の取引、こう二つ名前をつけておりますけれども、広い意味ではコリユプシオンの中に入る、こういうふうに考えられているわけです。ですから、それは今の問題ではないし、ここは学校ではないから、そんなことは申し上げる必要もないけれども、将来そこまで広げる必要が起つて来るかもしれないと私は思う。そのときはそのときで一時不当の利益といつてもいいし、やがてそれがまた賄賂ということになる。それも論理の筋道が違えばあくまで別個の概念になるでありましよう。しかしながら筋道からいつて私は論理的にも――その論理というのは実体の論理なんです。形式の論理じやない、形式の論理というのは初めから職務権限内の事項に関して報酬を受けることが賄賂である、こういうふうに一応きめてどこまでもその形式でがんばつて行き、水かけ論になつて賄賂である、ないといつたつて、それは要するに自己概念をどこまでも固執することである。しかし歴史的、社会的の事象はもつと流動して行きますから、それに従つて実体に即して概念も動いて行く。しかしその実体の論理にはちつとも矛盾しないと、私は学者としてかたく信じております。
  14. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 大体あなたのお考えはわかりましたが、私はまだ疑問を持つておる。昔から賄賂は袖の下と言われている。袖の下というのは職務を持つておる者に隠した利益をやる。私はどうしてもその観念は離れられない。今あなたのおつしやつたように、この戦時刑事特別法においては「収賄ノ罪ト為シ」と書いてある。これは収賄とみなすという規定としてもよいのです。  そこで私はもう一つ疑問がある。厳格なる概念では収賄にはならないのだが、収賄と同様に取扱つた方が社会秩序の上によいという考えなのか、それとも収賄というのはよろしいんだ、論理上もさしつかえないのだということであるか、この点をもう一ぺんお聞かせ願いたい。
  15. 小野清一郎

    小野参考人 それではあなたも法律家ですから、ひとつ伺いましよう。刑法の二百三十五条に「他人ノ財物ヲ窃取シタル者ハ窃盗ノ罪ト為シ十年以下ノ懲役ニ処ス」とありますが、これは窃盗でない者は窃盗とみなすということですか、これを伺いたい。
  16. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 それは概念上当然のことです。
  17. 小野清一郎

    小野参考人 それだからこれも概念上当然なんです。
  18. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 私はそこをお聞きしておるのです。
  19. 小野清一郎

    小野参考人 概念上当然だというお答えを申し上げます。
  20. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 そこがはつきりしておれば、それ以上議論をしてもしようがありません。そこでお聞きいたしたいのは、今おつしやつた概念社会秩序を保つために罰しようというならば、先ほど牧野先生がおつしやつたように、公務員なるがゆえに罰すべきものではない。公務員の仕事に影響を与えた。そうしてそれによつて利益を得たということ、これがいわゆる法律でなけれでならぬ。公務員職務に影響を与えた、それによつて金をとつた、こういうことでなければならぬ。そうしてみると、この法律によつて目的とせられるものは公務員に限るということは、理論上合わぬと思いますが、牧野先生公務員でなくともとおつしやつたが、小野先生はどうお考えになりますか。
  21. 小野清一郎

    小野参考人 私はさしあたり公務員に限るがよいと思うのであります。先ほど牧野先生がおつしやつたように、フランスにおいてこういう規定ができてだんだんと発展して来たのも、やはり公務員の道徳的にどうかと思われるような行為無罪なつたりしたところから発展して来たのであつて、さしあたりは公務員というものに限定する方がいいのではないか。しかし広くしたいという御希望ならばそれはそれも私は考える余地はあると思う。普通刑法というものは私は道義観念に基くものだと思うが、やはり道徳と法律とはそう一緒にならないのであつて、道義的に許すべからざる行為にあるわくをはめて、それが構成要件なんですが、法律規定をしてそれだけはということを示しておいて、そうして罪刑法定主義でありましてそこまでしか罰しない。ですから今までの刑事事件でも栗本さんのおつしやるように、実際遺憾ながら無罪とした例はあるのです。これは見方の違いで、それは当然無罪になるべきものを無罪だというのが罪刑法定主義の立場からいえば当然なんです。そういうふうに規定してある以上は……。しかし実体的に国民の道義観念からすれば、どうしても罰しなければならないようなものがのがれている場合もなきにしもあらず、私は個々の人をさすのははなはだいやでありますが、そういう場合もなきにしもあらずであつたということだけは認めなければならないと思うのであります。現在もまたそういう事態が起りつつあるのです。これは遡及効はないのですから、その点はそういうことを御心配になる必要はちつともないのじやないか、これからそういうことをしろということでありますから、何もそういうことを御心配にならぬで一応公務員のところにやつていただきたい、こう思うのであります。それからなおせんだつて委員会速記録ちよつと飛び読みしました、全部拝見してはありませんが、何か甲乙とあつて、乙の職務に関して甲の公務員収賄するということは、乙の方の公務員収賄の予備であるとか、そこへ共犯の理論などを持つて来られて、私はとんでもない見当違いだと思うのですが、その予備が教唆くらいになるのをまた新たに罰するという規定を設けることはファツシヨ的だということをどなたかおつしやつていたように思いますが、これは見当違いだと思います。これは全然見当違いでありまして、予備でもなければ、また教唆でもない。また予備や教唆だつて罰する必要があれば特別の規定を設ければ、その点は牧野先生ちよつと見解を異にするのでありますが、必要に応じてそういう罰刑法定主義ではつきりした規定を設けて罰するということなら私はさしつかえないと思う。ほんとうに現実的な必要があるならば……。現実の必要がないところまで拡張するということはいけないというのが私の考えであります。いわんやこれは公務員なら甲もまた公務員なんだ。これは清廉なるべき義務を持つている。その清廉なるべき義務、そこで第三者の場合とはやはりたいへんな違いである、公務員でも何でもない人とは違いがあつて公務員はひとしく清廉でなければならない。国家公共利益にもつぱら奉仕しなければならない。だからたとい自分のなわ張り、自分職務権限の外にある国家の事務といえども、自己地位を利用して、それからそれに影響力を及ぼすこと、そうしてそれを取引の材料にする、それがフランス刑法のいわゆる影響力の取引なんであります。そういうことはたとい直接に自己職務権限内に属しないにしても、あくまでもこれは公務員の清廉なるべき義務に違反するということだけははつきりしている。私は法益論というものは決して無視はいたしません。だから大体法益というものに現実の侵害、または危険がある場合に処罰するのだと思いますけれども、しかしおよそ行為をなすべきかなすべからざるかは、これは道義の問題であり、倫理の問題である。ですから問題は公務員の清廉なるべき義務に違反しているかどうか。そうしてまたそれが処罰に値する程度の義務違反であるかどうか、こういうように考えていただきたい、こう思うのであります。
  22. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 なかなかむずかしいと思いますが、またもとへもどるようですが、なるほど公務員たる者は清廉潔白であらんければならぬということはこれは何人も認めます。認めまするが、賄賂という観念に入るにはそれによつて職務が動かされるという危険がなければ賄賂にならぬのじやないか、こういうことなのです。私は別にあなたの説に反対じやない。そういう疑問を持つのです。
  23. 小野清一郎

    小野参考人 よくわかります。
  24. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 自分職務に影響を与えるということが賄賂になる、収賄になる、従つて法律を制定しようとしても、職務権限のない者でも、その職務に影響を与えるようなことをした、これでなくては私は収賄罪として罰せられないのじやないか、こう思うのであります。これは牧野先生おつしやつたように、従つて影響力があればそのかわりあつたもの全部を罰しよう、こういうならば論理が一貫しますけれども、この点の疑念が先ほどのあなたの説明ではどうしても解けないのですが、ここはいかがでしようか。
  25. 小野清一郎

    小野参考人 大体解けかかつて来ておるように思います。もう少し話せばわかると思いますけれども、あなたのお考えはやはり在来の賄賂という概念、すなわち自己職務権限内の事項を売らなければならぬのだ、こういうふうにお考えになる。ところが今回の法案では、他の公務員職務権限に属する事項を売らせることもまたいかぬのだ、こういう考えなのですね。そこにひとつの開きがあることはもちろん確かでありますから、もしどうしてもあなたの概念を満足させることができないならば二つの道がある、一つは拡張すること、一つフランス刑法のところまで拡張してしまう、いやしくも公務員たる地位にある者であるといなとを問わず。但し申し上げておくが、フランス刑法の第百七十八条も第二項がありまして公務員の場合はひどく重いのです。それはとても重いのです。たしか二年以上十年以下、重罪です。それから第一項の普通人だれでもが、ツー・ペルソンヌというこの場合には、一年以上五年以下、または罰金でもいいのです。だから私は罰金を考えることも一つのいいことだと思う。日本刑法はあまりにきゆうくつに、犯罪らしい犯罪はみな懲役、禁錮にしちやうのです。これは英米、ことにアメリカの最近の立法はアンドそれから線を引いてオアとしてあるのです。及び、またはというわけですね。それだから文書の上でここに斜線を引いてあるのです。そこで罰金を賦課してもいいし罰金だけでもいい、こういう場合がかなり多いのです。そういうようにしてもし刑の三年以下が重過ぎると思われるならばさつき私は二年以下と修正したらどうかということを提案したのですが、さらに、または、またはでもいいのです。ほかに賦課の場合は藏物罪だけですから、またはだけでもけつこうで、十万円以下の罰金に処す、こうすれば懲役に行かないで済むから御安心ですから非常にいいと思うのです。罰金がいいですよ。それから広げて、つまり一般人と公務員とを区別するか、あるいは狭くするならば、もう一つ、さきの戦時刑事特別法のように、「不当ノ利益ヲ収受シ、要求シ又ハ約束シタルトキハ収賄ノ罪ト為シ」、これをもし擬制だと、みなすんだという意味に御解釈になるなら、それでも少しもさしつかえないので、「収賄ノ罪ト為シ」、こういうように、賄賂という言葉をばあとにくつつけて、賄賂と初めから言わないで、「不当ノ利益ヲ」云々、こういうようにされるのがちようどよろしいのではないか、これでも御納得が行きませんでしようか。
  26. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 あまり議論してもあれですから、もう一つだけ最後に私はこういうことをお聞きしたい。公務員職務に影響を及ぼすということが悪いから本法を設定するんだ、こういうことであれば、まず先生のおつしやつたように、職務権限に影響を及ぼすその全体を取締るにあらざれば目的が達せられない。もう一つ考えで、公務員たる者は、清廉潔白でなければならぬ。自己職務であろうが、だれの職務であろうが、公務員になつておりながら国家から定められたる俸給以外にとるということはいけない。これをば罰しよう、こういうのならば、これは別の観念である。本法を制定していいという理由はそのいずれでございましようか。
  27. 小野清一郎

    小野参考人 本法の提案は私がいたしたわけではない。社会党の諸君が御提案になつたので、私は社会党でないということをまず第一にはつきり明言しておきます。私は社会党には属しておりません。それだけはあなたも知つておられるはずなんです。ところが社会党であろうが、自由党であろうが、わが国立法の歴史におきましても、少くとも二十年これで問題になつて来ておる。フランスでは、千八百八十何年からですから、もう百年に近からんとしておる。そういう事実をまず認めていただいて、私としてはこの出された法案賛成か不賛成かといえば、これは賛成せざるを得ない。学者的良心において賛成するのです。しかしあなたが、いつそのこと、しからば広く何人たるを問わず、こういうところまで持つて行くか、影響力を及ぼして金をとつてはいかぬということにしたらどうかとおつしやるならば、これも私は賛成いたします。但しそうならば、公務員である場合については、フランス刑法の第百七十八条のように第二項を設けまして、公務員の場合には、これを特に重くするというところまで行かないといけない。なぜいけないかというと、やはり公務員たる者は、一般市民以上に特に清廉なるべき義務を負うている。その清廉ということは、必ずしも自己職務だけに限らぬのです。これは天下の常識なのであります。それを天下の常識と言うか、道義観念の普通の社会通念と言つても何と言つてもいい。そこまでそれを無視することはできないので、もし広くなさるのならば、公務員の場合は、特に加重する規定を設けていただきたい、こういうのであります。
  28. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 よろしゆうございます。
  29. 小林錡

    小林委員長 高橋禎一君。
  30. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 私は刑法の専門次ではないのですから、えらい奇想天外だと思われるような質問をいたすかもしれませんが、ただ一応断つておきますが、参考人の方は委員に対して質問権はないわけですから、私に質問なさつても私は答弁いたしませんということだけあらかじめ申し上げておきます。  そこで問題は、先ほど鍛冶君の質問しました最後の点、これを明らかにすることは、本法の審議に非常に重大な影響を持つと思うのであります。この点についても私は最後にお尋ねをすることといたしまして、その問題を解決する準備として二、三お尋ねをいたしたいと思います。  第一には、私は近ごろこの刑罰法規のついた法律、まあ実質的な刑法というものがやたらに制定されて行くという実情を見まして、実はある意味においては遺憾に思つておるのです。こうまで刑法をやつぎばやに制定して行つて、国民を刑罰法規でもつて取締るということが国の政治の大きな行き方だということになることを憂えておるわけでありまして、でき得るならばりつぱな政治をして、あるいは行政措置を適当に考慮して、刑罰法規なんかは制定しないでも、いわゆる法は法なきに帰するといつたような方向に向つて漸次行くようにしなければならぬと考えておるわけですが、しかし現実が必要やむを得ないということであれば、これも一時しのぎにしかたがないと思いますが、こういう根本的な考え方はどういうものであろうか。刑法専門の先生方は、非常に研究の対象がふえて御多忙になられるわけだと思いますし、(笑声)それから検察庁も裁判所も、あるいは弁護士もいろいろ仕事はふえるでしようが、しかしこれは国家のためには嘆かわしいことではないかと思うのであります。そこで立法の必要性ということです。日本国民を非常に疑つて、そうしてとうてい将来この国民は救う余地のないもので、刑罰でもつて臨まなければどうにもならぬ国民だというふうな考え方で、まあ今はさしあたり必要ないのだけれども、将来こういうことをやるかもしらぬ、ああいう危険もあるというので考えて行くことが、これもいわゆる立法の必要だという中に入るものであるかどうかということ。あるいはまた一面、できるだけ道義の高揚なりあるいはまた行政的な措置なりを講じて、どうにもこうにもこれではいかぬぞという段階において刑罰法規を制定して行くのがいいのか。その点についてまず第一に小野先生、それからまた牧野先生の御意見も伺えればけつこうだと思うのであります。
  31. 小野清一郎

    小野参考人 ただいまの御意見には全然賛成いたします。刑罰法規の濫造ということは深くこれを戒めなければならないのであつて、そういう意味で近来いろいろ保守政党の――私は決して社会党じやない、どつちかというと保守系ですけれども、しきりにこの刑罰法規を濫造される傾向にあることを深く憂えております。全然御同感であります。ただ今回のこの法案に限つては濫造でないということは、私先ほども申し上げましたように十何年もかかつて研究し、しかも公の機関で刑法並監獄法改正委員会というものが設けられまして、そうして朝野の司法実務家、学者をあげて研究したものなんで、それから出発して来ているということをお考えくだされば、決してこれは当面の――社会党の諸君はどういう気持でお出しになつたか、それは私のあずかり知らざるところでありますが、この問題は淵源するところ非常に遠いのでありまして、当面の汚職問題などとは全然関係のないものとして私は賛成しておるのであります。
  32. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 次にお尋ねいたしたい点は、近ごろ賄賂罪に関して収賄者側の、すなわち公務員職務権限が、判例等によつても漸次拡大されて行つておる傾向にあるように思うのでありますが、時間もありませんからもう長いこと申しませんが、この傾向は一体どういう思想に淵源しておるものであるか、その点をひとつ御説明願いたいと思います。
  33. 小野清一郎

    小野参考人 これはやはり国民の道義観念が基本に動いているからであると思います。しかるに刑法そのものの規定は、職務に関しと限定してあるものでありますから、どうしてもきゆうくつな感じを受ける。裁判官がこれをだんだん、一歩々々拡張する方向に向つているのは、国民の道義観念の要求を反映しているものである、こう私は解釈しております。それでむしろ今回のような規定を設けることによつて、実は今回の規定によつてカバーされるようなことを、あれで幾分やろうとしているわけなんです。それでかえつて今回の規定を設けて、この法を軽い罪である懲役――まあ法定刑はあまり当てになりませんけれども、向うは二年、請託を受ければ五年でしよう。これを二年としておけば、それによつてかえつて無理に範囲を拡張しないで、あれはあるところで食いとめてそしてこの法で行く、こういう点があるから司法官としてもまことにやりよいし、また実際の国民の気持もその方が満足するのじやないか、こう思うのです。
  34. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 先生の御答弁というか御意見といいますか、今私も共鳴する点が多いわけです。いま一つ、今の問題についてはつきりといたしておきたいと思うのですが、いわゆる純粋の、まあ古い概念における賄賂というものは、厳格に職務に関して、そしてそれは職務の神聖と申しますか公正を守るためのものであつたが、しかし漸次国民の道義観念の変動と申しますか進歩によつて公務員はひとり厳格なる職務の神聖ということを確保するだけでなくして、公務員の立場においては不純な、職務に関するとか関しないにかかわらず不純な、すなわち不当な利益なんかを収受するものではないのだ、職務執行に専念しなければならぬのだ、そういつたような道義観念というものを尊重して、現在の法律ではその気持を表わすためには、漸次これを拡大して行かなければならぬのだ、そういつたような考え職務権限に関する範囲が漸次拡大されつつあるのだ、先生のお答えもそういうふうだと思いますが、それに間違いございませんかどうか。
  35. 小野清一郎

    小野参考人 裁判というものは、実際の必要を反映して行くものでございます。それで立法相当わくをはめられていることはもちろんでありますけれども、そのはめられたわくをできるだけ国民の道義観念に適合するように、また実際の必要――国民の道義観念というものはただむやみに広く罰することを決して望んではいない。やはり実際の必要でございますね。現実にその処罰の必要があるという事態が起つて来るものですから、そういうものに対して、裁判官としてはやはり何としても聴従せざるを得ないことになるのです。それが自然に拡張して来た次第である、かように存じております。
  36. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 そこで次にお尋ねいたしたいのはいわゆる戦時特別法、戦時中に先ほどいろいろ御説明のございましたあの特別立法が行われ、それを実施されたあの必要といいますか、目的と申しますが、それについて一応御説明を願いたいと思います。
  37. 小野清一郎

    小野参考人 それでは私の知つている限りを申します。これはすでに先ほど来申し上げているように、昭和十六年にこれよりも広い規定が提案されたのですけれども、それが否決されたのです。しかし十八年ごろになりますと経済統制が非常に進行して来たわけです。経済統制が、役人考え一つでどうにでもなるような場合があるところから、いわゆるさつきのそでの下というものがそこここに行われて来る傾向が見えたということ、しかも戦時においてこれはあるべからざることだという、そこには何と申しますか、全体主義的な考え方もあつたと思いますけれども、ですからこの場合は、公務員全体でなしに、官公署の職員だけに限定して処罰規定を設けたのであります。
  38. 高橋禎一

    ○高橋(禎)委員 もう一点だけでありますが、ここで先ほど鍛冶君の質問いたしました最後の点と若干重複いたすわけでありますが、結局本法律案の審議の重要なポイントのように考えるのですが、すなわち公務員に関する賄賂罪というものを設けた目的は、公務員職務の神聖ということを守るために、それを法益としてそれを保護して行くという立場から出発したのでありまして、そうすると、他の職務権限のない公務員の場合はもちろん、一般人の場合においてもいわゆる職務権限を持つ公務員職務執行について、悪い影響を与えるもの、もしくは与えるであろう危険のあるものについては、これは相当の取締りをしなければならぬ、こういうことになるわけであります。つまり職務権限というもの、職務執行ということを守るためには、これは一般人のところまでも拡大して行くべきじやないかというりくつが起つて来ることは、先生お話なつ通りでありますし、私どももそう考える次第であります。それから、単に今度は職務権限の行使を守るというのでなくして、一般公務員というものは国民から不純だと思えるような行為をなすべきものではないのだということでもつて、従来は官吏服務紀律とか、ああいつたようなものをもつて適当な措置を講じておつたのであるが、それらをもつてはどうにも弊害を一掃することができないというような段階に達すれば、ここで刑法を制定して、そうして取締りをしなければならぬ。こういうことになると思うのでありまして、問題はもう現実問題として、行政措置等ではどうにもならない段階に達しているかどうかということが一つ、いま一つは、今の公務員制度というものが、公務員というのは御承知のように非常に範囲が広いわけです。それを無制限に公務員全体に及ぼすべきかどうか、せんだつても郷里に帰りまして、日雇い労務者の方と懇談会をいたしましたところが、われわれも特別公公員だと言つておりました。まあ法的根拠をはつきり聞きませんでしたけれども、何しろ公務員の範囲というものがやたらに広いわけです。今の制度で認められておる公務員全体に、一体こういうふうな刑罰法規の制定を望んでいるのか。あるいは戦時刑事特別法のごとくに、官公署の職員というふうに、公務員の中でも一部限定をしてやつて行くのがいいのか、そういうことも考えられると思うのでありますが、それについて先生の御所見を伺いたい。
  39. 小野清一郎

    小野参考人 第一点は行政措置ではもはやどうにもならなくなつたというのであろうかというお尋ねでございますが、私も実はその実情については、ただいまここで十分の資料を持ち合せない。刑法学会におきまして、今贈収賄の実態調査というのをやつております。来る五月二日、三日の学会におきまして、これは場所はたしか日本大学になつていると思いますが、その実態調査の結果――急いだもので、ある程度までのことしかできないと思いますが、裁判に上つたのはよくわかりますが、上らない実態調査までを、一橋大学の植松正君が主任になつてつておりまして、その結果が発表されることと思います。たとえば、ある業者のごときは、今これからあるお役人さんを連れて熱海に行くところだと電話で言うのだからねというふうなことまで二、三日前私は聞きました。ともかくそういう事実があるのです。つまり裁判に現われない贈収賄の実態というものを調査しなければいかぬ。それを科学的な立場でやろうとしまして、刑法学会で現在やつておりますから、その結果が出ましたらば、またそのときには何しますが、今私の知つているだけでも、やはり行政措置で行く、懲戒とかその他の処分で行ける範囲はもちろんあると思いますが、事柄は重大でありまして、それだけでということは、ちよつと今の場合弱過ぎるのじやないか、これが第一点に対するお答えであります。  第二点でありますが、これはすでに先例もあることでありますから、官公署の職員に限るという考え方も一応は考えられると思います。これは言いかえれば官公吏ということなんです。ところが終戦後官公吏という概念が崩壊いたしまして、――これはまた崩壊の一つの例なんです。すべて概念というものは、社会的な事象、実態が観念されるものでありまして、これは官公吏の観念が崩壊しちやつたのです。ですから、今官公吏、官公署の職員というようなことをいいましても、第一にそれこそ概念が非常に不明瞭なものになるのじやないかということを私はおそれるのです。もう一つは、私は率直に申しますが、国会議員とか地方議会の議員、こういう方々にひとつ清廉なる態度をとつていただきたいというのが、国民の願いであると思うのであります。実際昔の官公吏と違いましていろいろ費用もかかるでありましようし、それは同日の談でないことは十分よくわかりますけれども、しかしそれにしても、それはまたそれで、選挙の粛正とか、他の方法によつて費用のあまりかからないようにという方法を考えるのが、ことに貧乏な日本としては当然なことなんです。顔をきかせて、そこから入つて来る収入で政治家として立つということは、もはや国民は承知しない、私はこう思います。
  40. 林信雄

    ○林(信)委員 小野先生にたいへんまた御迷惑をかけますが、簡単なことを交えまして三点お考えをお伺いしたいと思います。先刻来御意見を承りまして、先生のお考えのありますところは大よそ肯定いたすのであります。それに関して若干の疑問と、ある一部についてはさらにお考えを願う余地があるのではないかという点のわずかのものがある。従いまして三点でありますが、最も簡単であると考えますことでお教えを願いたいのであります。  先生のお考えのように、刑罰法令は、万般の社会事象を基調としておのずから概念ができ上つて来るというところで、具体的に収贈罪について現在そこまではとうていお考えになつているとも言われませんし、われわれもそうだと思いますが、何人を問わず、その主体の資格を論ぜずというところには行つておらないのでありますが、かりにその主体を何人を問わずという点に例を引くといたしますれば、この場合、法益論をとるといたしまして、その具体的刑罰法令の法益は、どう説明することが一番適当であるのでありましようか。これはとらわれた概念でなく、それならばおのずからなる説明があるに違いないのでありますが、その説明はどういう言葉をもつて表現することが一番よいのでありましようか。
  41. 小野清一郎

    小野参考人 それは結局は国家または公共団体の作用が公正に行われなければならないということが根本で、それですから、公務員はもつぱら公正であることのために清廉でなければならない、かように私は考えます。従いまして、何人を問わず、これは今の問題ではございませんけれども、かりにそういうふうになつたといたしましても、矛盾ではないと思いまのすは、その国家も作用の公正ということは、国民としてやはり何人も心がけなければならないことであるから、公務員に対する影響力を働かせてその影響力を得るということになれば、これは不当な行為である、こういうふうに考えて行くわけであります。
  42. 林信雄

    ○林(信)委員 そういうところであろうかと意見しておりましたし、たいへんありがとうございました。  第二点は、あなたはこの法律の成立することに一応御賛成の御意見がありまして、それは刑法仮案としてもすでに発表せられており、しかもその結果が出ましたことは、刑法並びに監獄法改正調査委員会というものが十数年の長きにわたつて研鑚を試みられて、その結論であるという御意見がございましたが、その結論は、刑法に関する処罰規定におきましてもその他のものもなおあると存じます。これは言及せられた言葉でないのでありますが、それらのもののうち特に優先してこの法律がまず成立しなければならないというほどの御意見なんでありましようか。その点に至るというとこれは別個の問題で、別に考えてなお急を要するものあり、決してこれを最優先するという考えではないといつたような、そこにウエートの差異をこれはおのずからお持ちになつてお述べになつておることなんでありましようか。これだけを特に取立てて重要にして、しかもすみやかなる成立を企図しなければならない、そういう見地にお立ちになつておるのでありましようか、それをひとつ承りたい。
  43. 小野清一郎

    小野参考人 改正刑法仮案において規定されましたことは、次から次と実現して来ておるのでございます。すでに終戦後にも一度ならず二度も三度も、刑法の一部改正が行われておりますが、それはことごとく牧野先生などのお骨折り――私も実は委員の末席に連なりましたが、この花井、牧野、泉二諸先生の立案されたもの――もちろんその当時ずいぶん大勢幹事の方々が外国立法例を取調べ、骨を折つたものなんです。その結果できたものでありますから、さしあたり、アンブロークンに、全体として現行法には遂になることができないで今日までおりますけれども、その急所々々はだんだんと戦時中及び戦後、また二回、三回とそのままでないにしても、大体その趣旨が実現されて来ておるのでございます。ですから私はこれについて、特に社会党の諸君が提案された気持は、大体お察しの通りみなよくわかりますが、これも実はそういう当面の政治問題や当面の司法問題をまたないでも、これはやはりおそかれ早かれ解決すべき問題なので、ここでこれだけを取上げることが何か非常に不自然であるかというと、そうではない。私といたしましては提案者でないから、ここに出されたものをしばらく賛成いたしますと申し上げるにすぎない地位にあるのでありますから、その点御了承願います。
  44. 林信雄

    ○林(信)委員 それでは最後にお伺いしておきますが、しばしば御意見に引用せられまするこの刑法仮案、その改正点というものが現われましたことも、おそらく御説明のような、その時代における社会事象をとらえ、道義性を基調といたしましておのずから必要性が認められて、結論が出たものと存ずるのであります。従いまして、その道義性というものが時代の変遷によつて変化して来ることも想像、いなこれはいなみ得ないのであります。そこで思いまするに、通義のことは私より申し上げるまでもなく、これは単なる倫理性の問題ではなくて、大きくは政治体制というようなものの変化、これが基調をなして行くことも、これはいなみ得ない。そこで思いますることは、仮案はおそらく昭和十五年の所産ではないかと思うのでありますが、当時は私が申し上げるまでもなく、いまだ大東亜戦争も勃発していない。ああいう苛烈な戦争をいたしまして、わが国は一敗地にまみれまして終戦と相なりました。そうして起つて来りましたものは、政治的には一般にいわれておりまする民主主義の政治と相なつた。これは法律論ではないから、あるいはかつてな言い分になるかもしれませんが、同じく立憲政治でありましても、従来の憲法下の立憲政治と、新たに設けられましたる、通常新憲法と申しておりまする日本憲法とは、おのずから趣を異にいたしております。民主政治という言葉そのままをかりに使つて参りますならば、従前はあるいは上からの政治であつたといつたようなものが、民主政治は下から盛り上る政治だというようなことにも相成ります。国会にいうものが最高の政治機関といたしまして、責任ある政治をするということにもなつて参りました。さような民衆から見ましても、あるいは政治に携わる議員の関係、あるいは行政事務に携わります公務員関係よりいたしましても、これは下からというよりは、上下一体をなしまして、新しい気分でその政治行政に当つて行かなければならない。そこに気持の融和せられたものがなくてはならない。その基調をなしますものは相互理解であり、まず正しい事実の把握であるというような点を考えて参りますると、今日われわれも悩まされております問題ですが、あながらこれを非難し得ない陳情の問題です。これはお互いに関係事項について、事を知る上についての便宜は確かにあるのであります。これはあながち抑えられないものがあるわけであります。そう相なりますと、簡単に申しまするが、要はその当該の公務員に対しまして、正しく事実を知つていただく、的確に知つていただく、そしてそれをその人の職務執行に反映してもらいたいということにならなければならぬし、必ずしもそれを非難し得ないと思うのであります。かような事態の変化は、いわめる道義の変化である、あるいは社会事象として大きくこれは取上げられなければならぬと思います場合に、たいへん不遜な言い方かもしれませんが、昭和十五年当時の妥当性の問題がこのまま維持されなければならないということは、少しくとらわれ過ぎるのではないかと考える。しかしなお必要があるということも考えられましようし、あるいは必要なしということにならないとも限りませんし、先生に申し上げますのは、この点からしまして、現在の政治に関しまする事象が変化しておりますることに対して、一考すべき価値は少くともあるのじやないか、これをお伺いするわけなんです。
  45. 小野清一郎

    小野参考人 政治の事情がかわつているということは、お説の通りと思います。ただ終戦後の政治機構というものが、非常に何か木に竹を継いだもののように思われるのもどうかと思います。つまり戦前の制度とても、やはり憲法政治であつたことは間違いないことで、ただそれがドイツあるいはプロイセンの憲法の脈を引いたものであつたけれども、その後ことに第一次世界大戦後におきまして、ちようど刑法改正の問題が起つたころから、急激に第一次世界大戦後に民主主義――その当時はまだ遠慮して、これも概念の問題でございますが、民主主義と言うことをみな躊躇して、吉野作造博士なんかも民本主義と言つていた時代なんですが、それがだんだん大つぴらに民主主義と言えるようになつたのです。そういうふうに民本主義ということだつたら第一次世界大戦後すでに盛んに唱道されましたし、事実一般社会の気持といたしましても民主主義、自由主義に傾いて来た。ことに昭和十五年の改正刑法仮案というものは、各国の立法例の最新のものをことごとく参考しておる。ですから第一次世界大戦後における世界の刑法改正の趨勢というものを反映しております。しかも第一次世界大戦後における世界の刑法改正運動というものは、いかなる方向に向つておつたかというと、明らかに自由主義的な方向に向つてつたのです。それが今の昭和十五年の仮案に一応まとまつたわけなんです。しかもあれがなぜただちに立法化されなかつたかということには、私は原因があると思う。あれはその当時はあれだけの自由主義をまだ一般社会は入れなかつたのではないか。もちろんあの中にあるたいていの規定は、実は現行刑法とあまりかわらないのです。かわつたところは次から次に実現されて来ているのです。あの改正仮案を、私も関係者の一人でありますが、固執するつもりは毛頭ございませんけれども、あれが戦後の刑法の、英米法の影響を受けた今日の政治機構というものと、全然ちぐはぐなものであるとまでは私は思わないのです。英米法も実は古い点も多々あるのでありまして、根本は御承知のようにコモン・ローでありまして、判例法の集積でありますから、一方には非常に新しい思想や新しい制度もありますが、また司法制度なんというものは、大陸以上にかなり古い考え方もないではないと私は思うのであります。ですから一概に言えないのであつて、やはり個々の制度について検討してみなければならない。むろん憲法は、旧憲法と新憲法との間には非常に飛躍的な変遷がありますけれども、しかしながらやはりおのずから近代の政治機構の線を通つて来ているのであつて、木に竹を継いだというようなものではなくして、やはり自然の趨勢をたどつて来ているとも考えられるので、少くとも刑法に関する限りこの仮案の価値は、第三者から見ても、相当高く評価されていい、こう私は思うのであります。  それからなお実際政治の局に当られる方々が陳情を受ける、選挙区の方からは陳情を受けるでありましようし、またそれを関係省とかそういう方面にいろいろ取継がなければならない場合がある、正しく事実を知つてもらう必要がある、こうおつしやることも、私も全然その通りだと思います。ただそういうふうに国会が国家の最高機関となつた今日において、最高機関であればあるほど、議員の方々には自重をしていただかなければならない、相なるべくは純粋に道徳的に自制していただきたい。しかしこれは人間でありますから、何もロンブローゾが言つたように犯罪人という定型があるわけでなくて、いつ何時私もひつかかるかもしれないのでありまして、つまり絶えず人間というものはそういう危機に臨んでいるものである、こういう人間観を私は持つております。ですから議員諸君はこの危機の頂点にお立ちになつているわけです。ですから私は、むろんやぼな同情のないことを言つているつもりはちつともないのでありまして、満幅の同情をしつつ、なおかつそういう重要な地位、ポストであるがゆえに、これだけの刑法のわくをはめておくことがやはり必要である。これは国民の信頼をつなぐという上からも非常に必要である、かように思うのであります。
  46. 小林錡

    小林委員長 木下郁君。
  47. 木下郁

    ○木下委員 大体聞きたいことは済んだようですが、私は立案者の一人として、今度のこの改正案には公務員だけに限つて一般個人を入れない。ところが一般個人の中にも今実際、ことに右翼の人なんかは何回も刑務所に行つた経験のあるような人もたくさんおつて、口がかたいとかいうようなことで商売が成り立つているのが現実に出て来ている。そういうことがありますので、行く行くは公務員だけでなくして、この改正案をまた一歩進めて一般個人を入れる線まで行くのではないか、また行くべきではないかというふうに私は考えております。そこで牧野先生参考として伺つておきたいのは、この刑法の仮案のおできになつたときには公務員だけになつておりましたか、そのときはその個人を入れるというような問題は全然問題にならない程度でありましたか。それともやはり相当考えられたけれども、そう飛躍してもというようなことで、仮案のときには一般個人は省かれたのでありましようか。その審議のときの内輪の様子を伺つておきたいと思います。
  48. 牧野英一

    牧野参考人 一つは理論の問題と、一つは事実の問題にわけてお答え申し上げます。  収賄罪というものの成立には二つの要素があります。行為者の、主観的な心理状態、公勝負としての清廉潔白性を害するということが主眼として考えられるのと、第二は客観的に、公務員職務執行が直接または間接に財産上の利益によつて影響を受けることがあつてはならぬ、こういう考え方であります。それが普通には結びついております。今まではむしろ公務員をやつつけろという方面で、主観的な要素に重きを置いて考えられつつあつたのが、比較法的には客観的な要素の方に重きを置くということになりつつありますので、お説のごとくこの規定がひとまず成立するといたしまして、この次にこの規定改正せられるというときには、お説のごとくなるべきものだと私は思つております。そこでそういうことになりますとずいぶん広くなるではないか。また今日の公務員にしても、それでは何のあつせんもできないじやないか、こういうふうな御懸念がおありになるのであろうかと先ほどから拝聴いたしておりますが、これはわれわれ学究的な問題でありまして、フランス刑法にはその影響力を濫用したものということが書いてあります。アビユーメという言葉が書いてありますので、あつせんをするにしましても、結局健全な社会の常識において許されるものならば、それはさしつかえないことになる。われわれが通常学問的には、行為の違法性ということを申しますが、行為の違法性を欠くところの行為犯罪にならない、のみならずたとえば議員というような方々は、こういう世の中になりますれば、ますますあつせんをしてくださらなければならないことになるだろうと思います。あつせんが悪いという刑法規定はないのでありまして、それによつてお金をもらうことが悪い、こういうことになりますので、要点はあつせんにあらずしてお金にある、こういう点をひとつよく誤解のないようにお願い申し上げておきたい。そういう点からお金ということに重きを置いて、そうして職務の公正が金によつて害されることのないように、無用の影響力に煩わされることのないようにということになりますれば、どうしても収賄罪の観念が主観的な要素を越えて客観的な性格を持つようになる、こういうことが比較法学上の進化であります。私は先ほどから進化という言葉を使いますが、これは御案内でございましよう。私の法理学は法律の進化ということを常に原理として考えておりまするので、そういうことになるであろうと思います。このことは、私ども起案をいたすときに十分研究しませんでした。一体どれほど収賄罪について研究したかというと、実は一通りでした。フランス刑法のこともある程度までは存じておりましたが、しかしそのときに問題になつたのは、要するに公務員があつせんをして金をもらうのが悪い、こういうことでありましたので、まずそれとこういうことで、先ほども申しました通り、私の記憶に誤りがなければ、花井起草委員長世の中実情に明るい立場から、特別の首唱をされたのがもとで、この規定をつくつたと私は心得ております。特に個人関係は排斥するとか、積極的にその問題は論及いたしません。さしあたり実際必要なるものを規定する、こういう趣旨でやる、従来の概念からあまり遠ざからないようにそこを穏やかにやつて行こうというぐらいのことであつたのであります。しかし私個人として申しますれば、最近チエコスロヴアキア法律を見たときに、ははあ、いよいよこれをやつた、これは今後だんだん広がつて行くだろうと思いました。そういうところから、昨年八月四日のドイツの新刑法にその規定がないかと注意をして見ましたが、ドイツの新刑法にはその点について何ら変更がございません。旧来のままになつております。事実この点をわれわれはえらく論争いたしたことはございません。
  49. 木下郁

    ○木下委員 もう一点だけ、これは小野先生に伺いたいと思います。この法案とは直接関係なく、うらはらの関係です。この贈収賄の実態調査をなさつているそうでありますが、この贈収賄事件の実相の中には、積極的に贈賄者側から働きかけたものと、贈賄者側がそういうことはしたくないのだけれども、収賄者側がなぞをかける。ことに最近の官界の姿では、当然やつてよいことがなかなかひまが行く。これはなぞをかけられているのだろうと思つて、金のありもしない者が、非常に危険を感じながらも自分のあたりまえの仕事をやらなければならぬために、贈賄ケースが起ることがたくさんある。また、これは少し方面違いですけれども、現に裁判みたようなところでも、昔の行政裁判所では、結審してから判決が三年も五年もかかるのがあたりまえで、長いのは十年を越す。もう言うことはなくなつて、ただそれを判断するだけになつておりながら、五年も六年も考えるというようなことが実際行われておつた。そういうものについては、公務員法に罰則規定も何もありません。ただあまり熱心にやらぬからとかなんとかいうようなことで、うやむやになつたことが非常に多い。公務員自分職務に線を引くことは非常にむずかしいと思いますけれども、単に行政的にこれを取締るというだけでなく、やはり刑罰的に少し取締ることが現実の姿では必要ではないかと私は感じておるのでありますが、さようなことについて何かまとまつた立法の計画でもありましようか、学界の方で、官吏で、常識的に考え自分職務を極端にサボつておる者を刑罰的に取締ることを一つの制度として考えられておることがありましようか、そういう点を伺つておきたいと思います。
  50. 小野清一郎

    小野参考人 ちよつと今日の問題からはかけ離れておりますが、つまり官庁の事務が渋滞しているので、いや応なしにそれを促進してもらうためには、何かを提供しなければならぬというようなはめに陥る場合がある、こういうお気持だと思います。実際公務員の事務のとり方については、それぞれ行政的な監督もあり、また懲戒というような制度もあるわけでありましよう。ただいま例として、行政裁判所判決がかつては遅れたということを御引用になりましたが、現在では、行政裁判所は御承知のようにない。あたかもそれにかわるものは最高裁判所でありますが、最高裁判所において事件が著しく渋滞している、これは、一つは大審院時代と違いまして、非常に裁判官の数が減じているからやむを得ない点もあると思いますが、私どもはそれに対して、ぜひ最高裁の機構を改革しなければならないということを申しておるわけであります。しかしながら遅れたからただちにそれをどうするというわけに行かぬ。ことに最高裁である以上、やはり相当慎重におやりにならなければならない場合もあるし、一概にその責任を問うわけに行かぬと思つております。実際また事務の多過ぎることに苦しんでおられるように思います。日本の裁判官は比較的公正であつてイギリスなんかのコモン・ローでは、裁判官に対する賄賂というものが一番重いのです。特に日本は裁判官を特別扱いはしておりませんけれども、裁判官もむろん公務員であります。裁判官が収賄したというようなことはまずない。また実際清廉であると私は見ている。ところが行政官庁となるとどうしてもそうは行かないのでありまして、これは実態調査をいたしましても、事実はみなお互いに秘密の取引でありますから、容易に実態はつかめないと思います。しかしできるだけやつてみたいと思つておりますが、その結果によつてはまたいろいろ考えなければならぬこともある。役人の方から要求する場合には、その情状はむろん重いのであります。その場合には実務においても常に重く罰せられていると思います。しかしいわゆる魚心に水心と申しますか、言わず語らずに要求した、しないということは、実際の具体的な場合に、どつちが要求したのか、要求しないでいたのかわからない場合が多いのではないでございましようか。露骨な要求がなくても、顔色でも、魚心があれば水心というように、なかなかこれはデリケートな問題でありますが、まあそこは具体的な情状によつてしかるべく裁判されている、こう思いますので、法律の上で特に要求を重く規定した立法例もございますけれども、今の場合そこまで考えなくても、あとは裁判にまかせておいていいのではないかと思います。
  51. 木下郁

    ○木下委員 今私が申し上げたのは、裁判の事例を思い出して伺つたのですが、行政庁から森林法によつて禁伐林に指定されると、区画の七割に対して年五分の補償をするというような規定がある。これによつて補償金を求めたけれども、調査するといつて、私の知つているケースでも十八年もその金を決定しない。金を決定しさえすれば、その金が不服なら訴訟ができるけれども、それもできぬというのがある。経験の浅い私でもそういう事例を一つ体験しているのですが、それに準ずるような事柄が非常に多いのではないか。ことに今の官庁では、常識的に当然許可なら許可をすべきものを、いつまでもその書類は伏せて置いてあるようなかつこうになつておる。そして陳情するとかしなければその事務が運ばぬというのがある。常識の域を越えて何年も机の引出しにしまい込んであるというのは、単に公務員法のあの罰則規定だけではゆる過ぎるという感じを持つておるものですから、それを何か取締るようなことの御研究があるかどうか、また外国でもそういうことがあるかどうかということを伺つたわけであります。
  52. 小野清一郎

    小野参考人 ちよつと今調べておりません。なお考えます。
  53. 小林錡

    小林委員長 猪俣浩三君。午後の参考人が一時に来ますから、簡単に願います。
  54. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 私は提案代表者としまして、お三人の先生方に感謝の意を表します。そこで問題は多々ありますが、もう時間がありません。ただこれは昭和十六年の提案が貴族院で通つたのが、衆議院で握りつぶされました原因は、本罪に対しまする法益いかんということについて、どうも政府当局の説明がはつきりしないという点にあつたのではないかと思われるのでありますから、先般当委員会におきまして、自由党の佐瀬委員の質問に対しまして、私は法益の説明をいたしました。きよう先生方のお活を聞きまして、大体私は自分の説明が当を得ておつたと意を強うしたのであります。ひいてはこの問題は、公務員がその地位を利用するということと、範囲いかんという問題にからみまして、具体的な問題としていろいろな問題が出るだろうと思うのです。たとえば弁護士代議士の人間が報酬を得て検察庁なり警察に交渉した場合に、一体それはその地位を利用したのであるか、弁護士としての職務であるかというような問題につきまして、範囲とからみましていろいろ問題が出て来ると思う。そういうことにつきましては、今日時間がありませんので、詳しくお導ねすることもできなかつたのであります。なおまた栗本判事につきましては、判例の傾向というものが、私の貧弱な研究からいたしましても、ほとんど刑法第百九十七条の職務に関するというものの拡張解釈の極点、これ以上の解釈はもう許されない最高度に達しており、それが本法の改正案を出さなければならぬ一つの動機だと私はにらんでおるので、その判例の傾向等に対してお聞きしたいと思いましたが、これも時間がございません。  なお小野先生につきましては、日本の国有法、古い今までの徳川時代あるいはその前にさかのぼつた日本法律において、あつせん収賄的な社会事象に対しまする何か処罰規定があつたかどうかというようなこともお尋ねしたいと存じましたが、これも時間がありませんから、ただお礼の言葉にとどめておく次第であります。  なお小野先生ちよつとお尋ねいたしたいのですが、五月三日の日本刑法学会の発表であります。実は私も案内を受けておるのでぜひ出たいと思つておりますが、ちようど旅行いたしますので、出られるかどうかわかりませんけれども、この発表に何か文書か何かで御発表いただくのですか。ただ行つた人が聞いて帰るだけのことになりましようか。
  55. 小野清一郎

    小野参考人 あとで刑法雑誌に発表されると思いますけれども、雑誌が出るのはあとでございますから、ちよつと今回のお役には立たぬと思います。それでお許しをいただいて法益問題だけ一つ申し上げておきたい。こちらの職務権限とこちらの職務権限とを全然別個の法益と考えるようなことは、あまり法益に狭くとらわれ過ぎて考えているのじやないかと思うのです。これはひとしく国家の法益だ、国家の作用は公正に行われなければならないという点では、甲の公務員の仕事であろうが、乙の公務員の仕事であろうが、もし法益を言うならば、それはもう法益は同じなんです。その点だけ一つ簡単に。
  56. 小林錡

    小林委員長 午前の分はこの程度にとどめておきます。参考人各位には、長い時間にわたり御意見を聞かせていただきましてありがとうございました。午後一時から午後の参考人各位が来られますが、一時というのはちよつと無理でしようから、一時半から再開することにいたしますが、皆さん定刻に御出席を願います。  それでは休憩いたします。    午後零時四十分休憩      ――――◇―――――    午後一時四十八分開議
  57. 小林錡

    小林委員長 休憩前に引続き会議を開きます。  八百板三君外百三十四名提出にかかる刑法の一部を改正する法律案を議題となし、午前に引続き参考人各位より御意見を聴取することにいたします。  ただいま御出席の参考人最高検察庁検事、公判部長安平政吉君、評論家中島健蔵君の御両君であります。  御両君にはまことに御多忙のところ、わざわざ時間をおさきくださいまして、御出席くださつたことに対して深く感謝いたします。御承知のごとく、この法律案はいわゆるあつせん収賄行為処罰せんとする法律案でございまして、わが国にこの法律を制定すべきやいなやは相当議論のある問題だと思います。ことに民主政治がしかれて、民意を暢達するという意味で陳情等のことが相当盛んになり、公務員もまたこの間に介在して相当民主政治の暢達のために努力する必要性もあるのでありまして、こういう方面からも御勘案くださいまして、御両君の識見また経験上から、いわゆる政治の立場からも忌憚のない御意見伺つて、われわれ委員の審議の上に参考にしたいと考えておる次第でございます。一応御意見を十五分あるいは二十分くらいの時間で骨子を述べていただきまして、御両君の意見の御陳述が終つたあとで、委員諸君の質疑に入ることといたしたいと思います。  まず安平参考人から御意見を伺います。安平参考人
  58. 安平政吉

    安平参考人 それでは僭越ながら意見を申し述べます。  今次の刑法の一部を改正する法律案におきまして、「涜職ノ罪」の章に、公務員のあつせん収賄罪、これを処罪する規定、案文にいたしますと、第百九十七条の四になりますが、かような規定を設けられんとせられますことにつきましては、私は趣旨として原則的にこれに賛成の意を表したく思う一人であります。但しこの案文をながめまして多少不安もしくは疑問に思います点が一、二ありますので、これを率直にこの席で申し述べてみたいと思うのであります。  その第一点は、あつせん収賄行為法案のごとく比較的広く処罰する趣旨は、これはまことにけつこうであると思うのであります。ただ一つ心配になりますのは、かような規定がもし法文化いたしまして、それが実際の法律として運用されるあかつきには、はたしてどういう結果を生んで来るであろうか、何人が、またいかなる範囲において多くの人々がこの法律によつて制裁を受けなければならぬことになるのであろうかというその点に思いをいたしますとき、いささか不安なきを得ないものがある。一口に申しますと、これは処罰の綱を相当範囲に広げることに相なりはせぬか、この点をまず第一に不安に思うのであります。と申しますのは、現に今回のこの法案と同じような案文が、去る昭和十六年の衆議院において論議の対象となりましたときにも、衆議院におかせられては、かような規定の適用範囲が広過ぎるというような懸念がありはしないかという角度から、相当に案文に対して質疑が出ました。それがためにその当時におきましては、この案文はものにならなかつたということが過去の歴史にあるのであります。それはその昭和十六年の当時と今日とわが国社会情勢は相当に変化を来しておりますけれども、なおかつその根本基調においては、同じく不安とすべき基調が残念ながら今日の日本国民の文化一般に照して解消していないのじやないか、そういう点を一つ不安に思うのであります。  次に第二点として私の多少疑わしく、なおまた明確を欠くように思いますのは、かような本罪を立法することによりまして保護しようとするところの最後の法益、これは一体どこにあるのか。語をかえて申しますと、この案の立法の最後のねらいどころとするところは、依然として公務員自己地位を利用して他の公務員にあつせん行為をなすというようなことは、ひいてはその依頼を受けた公務員にある一つの影響を与えて、それがために依頼を受けた公務員職務の適正執行ということを阻害し、あるいは阻害する危険性を導いて来るという点にあるのでありましようか、それとも、いやそうじやなくして、今度のこの立法はその点を大いに考えてはおるが、しかし最後のねらいどころは、一体公務員というものはその仕事に対して金を取つちやいけないのである、公務員は正規の待遇を受けておるからして、合法であろうが非合法であろうがとにかくなしたところに対して対価を得てはならない、のだという、いわゆる公務員を金によつてあがなつちやならない、かようなことがあつて公務員の廉直性が疑われて来る、そこのところがねらいだという点に最後の目標が置かれておるのであるかどうか。なるほど今度提案せられておる法案の理由書を拝見いたしますと、はつきりこの点が書いてある。要するにこの立法は「公務員の廉潔を確保し、綱紀の粛正を図るため、公務員がその地位を利用して、他の公務員職務に属する事項に関しあつ旋をなすこと又はあつ旋をなしたことにつき賄賂を収受する等の行為及びかかる賄賂を供与する行為処罰する」云云、かようにあります。この理由書を拝見いたしますと、今私の疑問にしておるような事柄は二元並行的に考えられておるのだと思う。理由書には一応はつきりと書いてありますけれども、はたして二元並行というようなことになるのでありましようか、私は実際問題で賄賂罪というものを考えますと、どうしても物事には最後のよりどころの一つの基本原理というものがはつきりしていなければ、これは立法の際においてもいろいろの質問を受けますし、それが成文化いたしまして運用する段階においては、はつきりとその基調というものがわかつておらなければいけないように思うのです。この点二元並行というようなことは、これは机の上で言うべきことでありますが、諸国立法を見ましても、実際としてはどつちが主、いずれが従というような関係にあるように思われるのでありますが、この点一体どういう関係になるのでありますか。まつたく算術通りに二元並行というのでありましようか、いやそれはあとの方の公務員の廉直性の維持が主なんで、公務の適正行使に影響があるというようなことは従ということになるのでありますか、逆に前の方になるのであるか、この点をはつきりしていただきたい。かように思うのであります。さような見地からいたしまして、私はこの立案につきまして今申しましたような二つの不安の点がありますので、多少広きにわたる立案修正する意味におきまして――たとえばあつせんというようなこともなかなか意味が広いのであります。またあつせん行為のうちにはいい意味のあつせん行為考えられますから、これは先走つたことのようでありますけれども、もしその間に修正あるいは案をいま一応勘案するという余地がありますならば、あつせんというようなことのかわりにあるいは請託、すなわち法文を改めまして、他の公務員に対しその職務に属する事項に関し請託をなすことまたはなしたことにつき、というようなことに改めるのも一策ではないか。すなわちあつせんというような漠たるやや広きにわたる事柄をさす言葉のかわりに、いま少し、それを締めくくりまして違法性に近い方の言葉、あるいは概念を縮小する意味におきましてあつせんということのかわりに、職務に関する事項に関して請託をなすことあるいはなしたること、というようなことに条文々改めるのも一策ではないかとこう思います。それからいま一つ地位ヲ利用シ」ということでありますが、その地位の利用ということにもいろいろの意味がありまして、あるいは地位による威力を示すというようなことにもとられまのすで、これももちろん「其地位ヲ利用シ」という本来の意味は、私の次に考えているような意味かとも思いますけれども、漠然と「地位ヲ利用シ」ということを少し違法性に結びつけて締めくくりをつける意味におきまして、あるいはくどいようでありますけれども、その地位による影響力というものを利用してというような文句に改めまして、この条文のあまりにも広きにわたる運用を制限するのも一策ではないか、かように考えている次第であります。  なお参考のために一言申しておきますが、かようなあつせん収賄行為賄賂罪一つの態様として処罰する立法英米あるいはドイツフランスその他を見ましてもこれはあまりないのでありますが、しいてこれに接近した最近の傾向立法を探しますならば、一九五〇年の七月十二日のチエコスロヴァキアの刑法にあるようでありますが、これは世界の立法が非常に今日の文化に遅れているのであるかもしれません。しかし考え方によりましては、これを立法するというと犯罪人がたいへんにふえるというような点をおそれて、まだこういう立法をしないのであるかもしれません。ともかくもかような立法は今までは世界にはあまりその例を見なかつた。これは今日この立法をする段階におきまして、大いにいろいろの角度から考えてみなければならぬ一つの点ではないか、とかように思う次第であります。  まだ述べたい点もありますけれども、時間が来たようでありますから、私の意見はこれで終ります。
  59. 小林錡

    小林委員長 それでは中島参考人にお願いをいたします。
  60. 中島健蔵

    中島参考人 私はこの刑法の一部を改正する法律案の文面についてはともかく後に申し上げますが、立法趣旨に対しては賛成するのみならず、これをぜひやつていただきたいと申し上げたいのであります。  ただいま安平先生が言われたように、この文面を見ますと、しろうとしてはかなりあいまいなところがあるようでありますが、しかし今日の現実のさまさまなできごとを頭に置きますときに、このような立法が必要であるというその趣旨は、あえて説明するまでもなく国民全体にわかるのではないかと思うのであります。これはなぜわかるかと申しますと、これはやはり日本独特の一つの現象ではないかと思うのでありますが、俗に申します顔というものがあるのであります。そして顔を利用して何か口をきいてもらえばかなり困難な問題でも解決するという場合が非常に多いのであります。ところで私はこのようなあつせん、つまりこの条文の文章によりますればその地位を利用してあつせんするわけであります。そういうあつせんが全部悪いとはあえて申しません。これが善意に属し、かつまた公正な判断による必要からなしたものならば、これもまたさまざまな点から必要かもしれません。しかるにこのあつせんによつて賄賂を収受し、これを要求もしくは約束したということになりますと、これはきわめて重大な問題になると思うのであります。この百九十七条の四と新たになるはずのところの改正案を拝見いたしますと、「公務員地位を利用シ他ノ公務員職務ニ属スル事項ニ関シ斡旋ヲ為スコト又ハ斡旋ヲ為シタルコトニ付」というところまでは別に処罰の理由でも何でもないと思うのであります。ただ現実として考えますとこういうことが非常に行われている。これは外国でもそういうことがあると存じますが、しかも特に日本では公務員に限らず直接その責任にない者でも何かそれにつながりのある者が口をききますと、非常にうまく行くという場合が多いのであります。このうまく行くというのはいい場合はたいへんけつこうなんでありますが、よくない場合にはこれはうまく行くところではなくして、それによつて第三者あるいは国そのものが非常な損害を受けることがあるという事態を、まず言いたいと思うのであります。これにつきましては具体的にどういうことがあるかということを一々申し上げるだけの材料は持つておりません。しかし新聞その他の報道によりましても、また日常のわれわれの会話の中に出て参りますいろいろな話から想像いたしましても、こういうことは事実たくさんあると思うのであります。私自身の経験から申しましても、何かある事柄をやろうとするときに、もしもそれが公務員職務に属する事項であつた場合には、なかなか正面から行つてもまつすぐに通らぬという事実もあると思います。と申すのは、やはりこの了解を求める場合には私自身が出向きまして、これこれこうであると説明し、それで足りなくて、その職務に直接関係はないが、先ほど安平先生が言われたような影響力のある他の公務員にわけを話してこういうわけだといつて説明をしてくれというような要求をして、それが通れば非常に早く行くということは、これは事の是非を問わず今の日本実情であると思うのであります。ところがこれに対して「賄賂ヲ収受シ又ハ之ヲ要求若クハ約束シタ」という事柄を結びつけて考えますと、これをやられては国民はたまらないのであります。結局まあ口をきいてやるけれども幾らか出せ、あるいはその目の前に金を持つて行つた、それを何ということなしにあつさりとつた、これでよろしく頼むということになれば明白でありますけれども、何となくそれをとつた。その場合にそういう目的ですなわちあつせんの目的で行われた会合であつた場合には、これは明らかに問わず語らずのうちに、そういうことがあると思うのであります。もちろんそういう話が全然出なければそれは証拠にならぬのでありましようがとにかく出ないということはあまり考えられない。さらに目の前で金品を収受すること以外に、ここに「之ヲ要求若クハ約束シタルトキ」ということがありますが、私はこれを非常に強調していただきたいと思う。すなわち、その場ではともかくこれをやつてやるがという言葉じりによつて、これはそういうことに関係する場合に脅迫を受けたと同じような印象を得るのであります。そうして何か自分の思い通りに事を運びたいがためにかわされる会話をやや文学的に申しますならば、どうも今の状態で金は出したくないが、何の何がしに幾らか包むとどうやらうまく行くらしい、どうしよう、弱つたものだ、しようがない、幾らか包もうではないかというような会話は、私は全国津々浦々に行き渡つている日常的な現象だと思うのであります。この文章につきまして私は、「公務員地位を利用シ他ノ公務員職務ニ属スル事項ニ関シ斡旋ヲ為スコト」云々の文章で常識的にはよくわかると思います。従つて私はこの条文を特に変更する、こうしたらよかろうというようなことは申し上げませんで、このままでけつこうでありますから、これはぜひお通しを願いたい、これは私一個人意見であると同時におそらく私と同意見の者が非常に大勢いるであろうということを申し上げます。もちろんこの第百九十八条のつまり贈つた方も処罰するということも必要であります。これは悪循環でありまして、もらう人がいるから出す人がいる、出す人がいるからもらう人がいるというので、これは当然両者を同じように処罰すべきである、こういうように考えます。法律的には大して意味がありませんが、常識としてはまず私はこのような意見をかたく自分で信じているのであります。
  61. 小林錡

    小林委員長 これにて両参考人意見の開陳は終りました。この際両参考人に対し御質疑があればこれを許します。
  62. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 安平先生にお伺いしたいのですが、今あなたの疑問にせられましたところでほぼ推察はできますが、私は一番疑問に思いますることは賄賂罪とはどういうものだということなんです。われわれは多年弁護士をやつていましてこういう事件にぶつかるのでありますが、賄賂罪とは何ぞや、かようなことが賄賂の範疇に入るかどうかということは非常に疑問を持たれるわけであります。まあある程度の抽象的のことは相当わかりまするが、具体的になりまするとずいぶん疑問が出て参ります。そこで私は第一番に、賄賂というものは公務員たる職務権限のある者にその職務を左右してもらいたい、こういうことで金品を贈る、利益を与える、これでなかつたら私は賄賂という範疇に入らないのじやないか。その影響いかんはこれは別でありますが、賄賂というからは、昔から俗にいうそでの下というからには、職務のある人に対してその職務自分の思うようにしてもらいたい、これによつて金品を収受する、これでなくては賄賂という観念にならぬのではなかろうかと考えるのであります。この点は先ほどあなたもお触れになつたようでありまするが、その点を明瞭におつしやつていなかつたのでありまするから、この点をまず明瞭にしていただきたい。
  63. 安平政吉

    安平参考人 ただいま鍛冶委員の御質問でありましてたいへんむずかしいと思いますが、私二点からお答えいたします。但しこれは御質問になつ趣旨にはたして明確に答えるかどうか疑問でありますが、一応お開きを願いたいと思います。  賄賂ということは、たとえばドイツ刑法なんかではゲシエンク、贈りもの、日本のように何らかくさいものに包まれたような賄賂という封建的なにおいのする文句は使つていなくて、ドイツでは日本賄賂相当するゲシエンク、贈りものという言葉を使つております。英米なんかではやはり何らかの利益、どんなものでもいい、何らかのヴアリユー、社会生活上価値を持つているというところの利益というようなきわめて科学的な用語であるわけであります。日本は昔から賄賂、そこで外国はしばらく別問題としまして、わが国賄賂とは何ぞや、これは涜職罪、ことに賄賂罪とは何ぞや、今日広く英米のコラプシヨン、汚職という言葉で、今までわれわれは涜職罪という言葉を使つておつた、こういう用語になつておりますが、それよりももつと範囲を狭めまして、特に賄賂罪、一体賄賂罪の本質は何かという点から、やがて賄賂とは何かということにもなるのであります。御承知のごとくこれは多くの学者、それからドイツ学者がもう何十年も前から繰返し議論しておる点でありまして、今日に至るも容易になぞは解けない点であります。最初賄賂をとつても罪になるということは、人類の一番初めにおいては考えていなかつたのであります。次第々々にローマ法時代からこれが問題になつて参りまして、結局官吏階級というものが十八世紀この方地盤を固めますと、賄賂罪というものはその色彩がますます濃厚になつて来たのであります。第一番目に現われましたローマ法時代においては、涜職罪の本質というものは、役人というものは、国家から正規の待遇を受けておるので、それ以外にその職務について金をとつてはいけないのだ、つまり金で役人地位あるいは仕事というものを曲げるということがいけないのだというので、一口に申しますれば、涜職の本質は、これは公務員を金によつてつてはいけないという原則に反するからというきわめて主観的な懲戒的なものが涜職罪の本質、すなわち賄賂罪の本質になつておるようであります。ところがその後御承知のごとくゲルマン法、ドイツ法時代に入りますと、だんだんこれから少しそれまして、やはりそれはいけないというのは、官吏の職務を適正に行使するということについて賄賂などを贈ると仕事がひん曲げられてしまうというようなことで、ただいま鍛冶委員の御指摘になりましたように、この賄賂罪の本質というものは、結局役人が仕事をまつすぐにすべきことをしないというそういう危険を利益によつて導かせる、そういう意味でいわゆる職務の適正行使というものを阻害する、これが賄賂罪の本質である、そういうふうに規定されまして、フランス刑法、それから独法を輸入しましたわが国刑法規定を見ましても、大体において条文の外見上のコンストラクシヨン、構成というものは、涜職罪、特に贈賄罪の規定の本質というものが結局金、あるいは利益賄賂などを出すと、公務員職務の適正行使というものを曲げて来るというそういう職務の適正行使という点に難がある、これが賄賂罪の本質であるというふうに考えられて参りました。今日このローマ法よりもむしろどちらかと申せば、わが国刑法の解釈あるいは運用の面におきましては、あとの方のゲルマン法的な職務の適正行使の阻害ということが賄賂罪の本質として考えられておるようであります。しかしこれはもちろん考え方の相違でありますけれども、さればといつて公務員を金によつてあがなうということがいけないという初めのローマ法的な考え方が今日全然清算されておるわけではないのであります。その点はわれわれは今日はつきりと考えて行くべきである。どちらかと申せば、結論から申せば、賄賂罪は、大体現行法規定その他沿革に徴しまして、職務の適正行使をどこまでも確保したいということが主たるものであるので、あわせてこれを補充するのに従として公務員を金によつてあがなうことはいけないのであるというローマ法的な思想は補充的に残つておる、こういうふうに考えておりますので、従つて賄賂ということもただいま鍛冶委員の御指摘になりましたように大なり小なり、これは職務の適正行使ということに基調は結びついておる、あわせて正規以外の待遇あるいは利益を、その仕事に対して公務員というものに与えてもいけないし、とつてもいけない。公務員を金によつてあがなうべからざるところの原則も、やはり今日においては従として、少くともそれが存在しておる。その二つが結びついた物体、利益社会的価値、これがわが刑法のいう賄賂、こういうふうに私は考えております。
  64. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 どうもよくわかつたようですが少し疑問が残ります。今おつしやつた金によつて公務員をあがなうということはどのように御解釈になるのでしよう。公務員をあがなうということは人間をあがなう。人間をあがなうということはあり得べからざることで、公娼や何かなら別ですが、やはり公務員をあがなうということは職務をあがなうことではないか。職務のない人間に金品を与えたからといつて、あがなうという観念は出て来ないのじやないかと思います。また公務員をやつておるからといつて、女房の親から、お前の家がないから、かわいそうだから家を建ててやつたといつて、これはどうも賄賂という観念にははまらぬ。そこでやはり賄賂と言われるのには職務に何らかの関連がなくてはならぬのじやなかろうか。単に公務員に金品をやる、公務員が正規の待遇以外のものをもらつてはいかぬのだ、そういう観念だけでは通らぬと思います。全然職務に関しない、だれが考えても問題のない贈りものがあり得る。刑罰の対象にはもちろんのこと、社会的の非難をもこうむらないものがあるので、社会的の非難をこうむる、これを取締らなければ法益は守られない、こういうからには職務というものを離れては成り立たぬように思いますが、いかがでしようか。
  65. 安平政吉

    安平参考人 そもそもこれは昭和十六年に衆議院でたいへん問題になりまして、その点の考え方が違つておりまして、いろいろ論議されて、そのときにあつせん収賄の点が流産になつたのであります。と申しますのはかりに鍛冶委員のおつしやる通り職務の適正行使の保持が唯一の賄賂罪立法理由だということになれば、今問題になつておるのはあつせん行為であります。あつせん行為は依頼する公務員が依頼される他の領域の事柄についてお願いをする、たとえば税務署なら税務署の実際税務事務を担当しておる者に対して、税務を担当していないほかの役人が甲のためにこういうことをやつてくれないか、こういうことを頼む。ところがそのあつせん収賄処罰する理由は、現に租税のことをやつておる仕事それ自体の適正行使ということではなくして、世話した、あつせんしたということでそれを処罰するのでありますが、この場合に税務の適正行使というものがあつせん行為によつて、どれだけ阻害されるかということを考えて参りますと、これは場合によつて違いますけれども、極端な場合を想像しますれば、ひとつこういうことをしてくれないかといつて、税務署に勤めておる者に頼んだというだけでは、その税務行為それ自体は必ずしもひん曲つて行くとはきまらない。そうすると結論から申せば、あつせん行為常に結果として税務なら税務という仕事の適正行使というものを阻害するという結果には必ずしもならない。語をかえて申せばあせつん行為それ自体は他の公務員職務の行使ということとは直接のつながりがないわけであります。そう考えて参りますと、あつせん行為処罰立法理由が、職務の適正行使のみが重点だということになりますと、時と場合によりましては職務の適正行使に直接支配力を持たない場合は罰する必要がないじやないか、こういうことになつて来るのであります。現にそういうような議論が繰返されて、この前の昭和十六年のあつせん行為処罰罪は、少くとも衆議院ではそこのところの被害法益がはつきりしないというので流産になつてしまつたようなわけであります。私はそういうふうに考えますから、少くともあつせん行為処罰するねらいどころは、なるほど原則的には職務の適正行使ということに影響を持ち、あるいはそれに危険を及ぼすようなものであるけれども、なおそれのみの原理でなしに、要するに公務員というものは廉直でなければならぬ。疑惑の金をふところに入れるようなことがあつてはならないというので、公務員の廉直性というものもあわせて保護するというのが、特にあつせん収賄処罰する場合には濃厚にその気分が現われて来るのだ、こういうふうに考えておりますので、今鍛冶委員のおつしやる、これはどこまでも原則的に職務の適正行使だけかということは、これは一般涜職罪についてはごもつともでありますけれども、特にあつせん行為処罰する立法の際には、それだけに尽きるものではないのだ。廉直性――公務員というものはどこまでも身を正しくして、そうして社会一般の信頼というものをかち得なければならぬ。たまたま世話したからといつて金をとると、その廉直性が疑われて来る。そういうことのないようにしたいというのが、あつせん行為処罰一つのねらいどころである。かように考えて参りますと、客観的に職務の適正行使という一原理のみに尽きるものではない。あわせて、少くともその補充として公務員の廉直性維持という原則がやはり浮んで来る、こう思うのです。
  66. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 私が今あなたに質問をいたしておりますのは、あつせん収賄罪のことではないのです。先ほどあなたは賄賂罪というものは何かの概念がなければならぬとおつしやつた、その点なんです。賄賂とは何ぞやということを私は聞いておる。もちろん公務員の廉直性は大原則でございましよう。それだからこういうことが始まるのでありますが、いくら廉直性が原則であつても、公務員は給与以外のものを一切もらつてはいかぬのだということではなかろう。職務に関連するがゆえに問題になるのであつて職務に関連しなかつたならば問題にならぬのじやないか。これなのです。先ほどあなたがおつしやつたように、なるほど職務が曲らなければいいじやないか、こういうこともありますが、それは曲ろうが曲るまいが、職務に関してやつた場合には、やはり曲るかもしれぬという危険性はありますから、これは曲げようが曲るまいが、やらなければならぬと思うが、どうも単に給料以外の、正規の手当以外のものをもらつたという一点で、公務員なるがゆえに処罰の対象になるとは考えられない。そこにやはり廉直性は大原則であるが、これが職務に関しておるがゆえに刑罰の対象になるのだ、こういうものでなかろうか、こういうことを考えておりますので、このあつせん収賄罪ではなく、賄賂罪という原則について伺いたい。
  67. 安平政吉

    安平参考人 その点につきましては、いずれにしましたところが、わが国の観念としましては、単なるドイツなんかの贈りものというだけではなくして、やはりその点は何らかの不正の要求とか依頼とか請託、そういうことがある。請託は職務に関することでありますから、わが国賄賂という問題になりますれば、もちろん現行法の問題としては、鍛冶委員のおつしやつたことには反対する趣旨はないのであります。
  68. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 そこで私は、このあつせん収賄罪に移つて行きたいのですが、この改正案を見ますと、「公務員地位ヲ利用シ他ノ公務員職務ニ属スル事項ニ関シ斡旋ヲ為シタルコトニ付賄賂ヲ収受シ」とあつて賄賂罪としての範疇においてこれを設けんとしておられるのであります。あつせんの対象になつたその公務員職務がございます。あつせんした者は何らの職務もない、あれば普通の賄賂罪で行くのですから。全然職務関係のない者が収受したということで、学問的に同一の賄賂罪の範疇に入れ得るものかどうか、これが第一の疑問であります。まだ疑問がありますが、まずそれから伺つておきたいと思います。
  69. 安平政吉

    安平参考人 今の職務関連性という原理ばかりを考えて行くと、まさしく鍛冶委員のおつしやる通り職務と何ら関係のない者をこの場合にどうして賄賂ということが言えるか、結びつけられるか、こういう疑いが起つて来ますし、他の半面から申せば、もしその依頼した方が何らかの職務に関連しておりますれば、何もこんな立法をしなくても、今までの賄賂罪規定職務に関するという判断がつきますから、あつせん行為もその限度で処罰することができるのであります。現に旧大審院当時におきましても、また最高裁判所の時代になりましても、一脈そういう点を認めまして、あつせん行為といえども職務連関関係の一脈だというふうに考えますならば、こんな新しい立法を設けなくてもあつせん行為処罰しておるということは御承知通りであります。しかるに今度特にこのあつせん行為処罰されますゆえんは、ある条件はつきますけれども、今までのしきたりの、公式でありますところの職務――その公務員が持つております職務と連関関係がなくても、ある条件のもとに金をとつたという行為を罰しよう、そこにこのあつせん収賄行為処罰せんとする今度の立法のきつかけがあるのでありますから、そういうふうに考えて参りますと、事少くとも今度の新立法に関します限りは、今までの賄賂なり涜職罪の本質を考えるときに、職務と一脈のつながりを持つということだけでは、その合理的根拠を説明することができない。少くともある場合におきましては、今までの大審院その他の判例におけるところの、職務に関し、あるいは職務に関渉するというような判断がつかなくても、あつせんした、しかもその地位を利用してあつせんした、そのために金銭その他のものをとつた、この三つを結び合わして新しく処罰しよう、ここにその立法上の合理的根拠がある。これは今までのような客観主義的な職務の適正行使がゆがめられるという原理のみによつては説明がつくものではない。何らかの事柄を条件として――役人の無報酬の原則あるいは不可買収性とか学者がよく言つていますが、何らかの因縁をつけて、あるいは全然因縁をつけずに金をとつたからして、常に罪になるという意味ではありませんが、たとえば地位を利用するとか自分の権勢を利用するとか、あるいは友人、第三者に対して要求するとか、そういうことがあつて、よしんば相手方の依頼を受けた人間が職務をひん曲げることがなくても、その結果として金をとつたということを罰する、これは今までのような涜職罪一般の原理原則でありますところの職務の適正行使ということとは、必ずしも因果関係はないのであります。そこにまた立法のねらいどころがある。しからずんば何もこんな立法をする必要はない。職務連関行為なら今までの規定でもつて処罰することができる、その線をはずしまして、必ずしも今までいうような、職務と連関関係がなくても、公務員の担当している職務をひん曲げることがなくても、そういう一種の角度から公務員の廉直性を力強く保護して行こう、ローマ法にいう不可買収性の原理を深めようというところに今度の立法のおもなねらいがある。またこれはそうあつてほしい、こういうふうに私は考えます。
  70. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 そういたしますと、賄賂というものの範疇以外に、公務員の廉直性を要求するためにこの法律がよろしい、こういう結論になりはせぬかと思いますが……。
  71. 安平政吉

    安平参考人 そういうふうなことにもなると思いますが、しかし、鍛冶さんと私の考えちよつと違うのは、鍛冶さんの方では賄賂ということを初めから独断しておられるのでありますが、もともと賄賂罪ということの本質については、二つの原則につながつておるものだというふうに考えます。賄賂というものは必ずしも職務の適正行使のみというふうに考える必要はない、職務の適正行使を害すること、並びに公務員の不可買収性の原則につながつている。しかし、どちらかと申せば、もちろん職務の適正行使をひん曲げるということにつながる色彩の方が濃厚だと思います。
  72. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 結論として、そこまで参りますと、職務関係なくともと言われるが、公務員といえども給与以外のものは一切もらつてはいかぬとは私は考えません。だれが見てもそういうものをもらつてはいかぬというものでなければいかない、それが賄賂なんだ、それを私は言うておるのです。そこで、公務員の廉直性ももちろんありますが、問題は、職務関係があるということになりますと、その地位を利用し何とかということは、その地位によつて職務を左右するとまで行かぬか知らぬが、先ほど中島さんがおつしやつたように、よいことも悪いこともありましようが、とにかく自分の思うようにさせようということが入らなければならないと思う。それがなくては私は問題にならぬのじやないかと思う。そこで私は承りたいのは、もしそういうことを罰しようとするならば、公務員に限るべきものでない、先ほど中島さんは顔がきく、それによつてその顔の代償をもらうということがいかぬのだとおつしやつたのですが、それならば、世上顔によつていろいろやる人は、あるいは公務員以上に数が多いかもしれません、またそれ以上のきき目があるように世間は思つておる、そういう者を除くとはどういうわけでありましよう。そういう者が運動して歩きます。そういう者が報酬をとつてもいいのか、こういう疑問が出て参りますが、あなたの御意見はいかがですか。
  73. 安平政吉

    安平参考人 私は鍛冶委員の御質問ごもつともだと思います。それは、たとえば何も涜職罪に関する賄賂罪として処罰しなくとも、あるいは恐喝ですか、たとえば地位を利用して、そうして何するということになれば、時と場合によれば、恐喝面で取締ることもできます。だからほかの方で、もしその線が事実として非常に濃厚に出て参りますならば、たとえば親分なら親分、あるいは先輩なら先輩、その他の何で特に地位その他ではぶりをきかす。そうしておどかし的に何をとるということになれば、時と場合によれば、恐喝というような線も出て参りましよう。私は、でありますから、何もそういうような点は公務員涜職罪として罰しなくても、大体公務員というものは身分犯ですから、身分がなければ問題にならないのでありますが、もし社会的にそういう人間を処罰する必要がありますれば、あるいは恐喝の罪のところをもう少し細工するなり、そうしておやりになればいいのです。ただ幸か不幸か、公務員涜職罪というのは、身分犯でありまして、事の起りは、やはり国家の事務、公務を担当しておるという、こういう一つ地位、ポスト、身分を持つておる。これを前提としての一つ犯罪でありますから、その身分がなければ、いくらそういうことをやつてみたところが、ここのところで罰則を設けるのが、いささか場所を得ないんだ。あるいはそれとも国会の方で、いやそれも一極の準じてするのだから、ひとつここのところで何とかそういう立法をしたい、こういうことなら、もちろんこれはけつこうだと思います。そこはむしろあなたの方にお願いいたします。私の答弁すべきことではないと思います。
  74. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 これは中島先生はどうお思いになりますか。あなたは、顔にもの言わせるとおつしやつた。これは非常に重大だ。これによつて公務員職務に悪影響を及ぼすということになれば重大であります。それによつて金品を得たということになれば、容赦はならぬと思います。そこで顔でその職務に関することをやるというのならば、ひとり公務員だけでなく、ずいぶんあると思います。私はそう言つたからといつて、俗に言う親分やそういうことではありません。堂々たる紳士であり得ます。あの人はさきに何々をやつておつたから、このことをあの人に頼めばよろしい。弁護士になつてつても、あの人はさきに何をしておつたから、この点はあの人に向ければいい、これは世上たくさんあります。たとえば顔にものを言わせてやるということになれば、公務員でなければならぬということはないように思います。その点は中島先生はどう思つておいでになりますか。
  75. 中島健蔵

    中島参考人 これにつきましては、常識から申せば、明々白々なんであります。と申しますのは、ある役人をしておられた方、いわゆる公務員ですが、これがおやめになつて弁護士を開業された。この弁護士さんが、元の役所の筋をたどつて、そこに行かれた。そうしていろいろあつせんなり何なりをせられて、手数料をとられたという場合に、これは何も問題にすることはないと思います。  今度は顔の問題になりますが、顔の問題になりますと、やはり今安平先生が言われたように、私も公務員という身分について考える。これは普通の自分の直接の職務に関して何か賄賂をもらつたということなら、これはもうすでに改正も何も必要ないので、明々白々でありますが、そうでなくて、「公務員地位ヲ利用シ」というものが入つて、いわば法律的に申しましても、なかなか解釈がむずかしいというようなことが必要になつたところには、やはり私は公務員というものがあると思います。これは道徳的な問題だけでなくて、事実公務員は、公務員以外の者よりもその地位を利用し得るという考えが常識では入ると思います。と申しますのは、弁護士さんがある公務員に何かあつせんを頼む。そうしてこれがうまく行かなかつたので、そのあつせんをしてくれない公務員の悪口を言つて、わつしよわつしよ騒ぐ。あるいはその上長さんに向つて、あいつはけしからぬやつである。あんな者は首にしてしまえと言つても、これは実効がないのであります。あればこれは非常に特別の問題が起りますが、大体において、そう脅迫することにならないと思います。それはその聞いた上司というのが直接の上司、あるいはその他の人たちが、いやまあ御趣旨はよくわかるが、あれもなかなか気骨のある男で、ついお気持をそこねるようなこともあろうというようなことで済んでしまう。しかるにそうでなくて、同じ役所の中にいる役人が、直接に監督の地位でなくても、あるいは直接にその職務関係なくても、これは役人だけに限りませんが、いわゆる公務員というものの間ではかなりそういうことが可能であるという事実は、法律的でなく常識的に認めなければならぬと思います。そういう点から、従つて直接に指揮命令を受ける必要がないはずであると思われる公務員が、やはりそこで地位的に十分影響を受けるであろう。これは法律をことごとくきちようめんな法理論でやるということになりますれば、いくらか疑いが起ると思いますが、私はやはり「公務員地位ヲ利用シ」というところに問題があるのであつて、たとえばボスがいて、そのボスが金をもらつてあるあつせんをする。そうして公務員に働きかけるという場合と、ある公務員が、直接監督の任にないかもしれぬし、あるいは同僚でないかもしれぬが、これがその地位を利用して――これは解釈はいろいろあると思いますが、法の解釈はやはり常識に従うということが原則であるとするならば、「其地位ヲ利用シ」という言葉通り、何かそういう条件をつけて公務員に働きかけるということがやはり事実としてあるのではないか、そうしてこれに対して、むずかしく言いますと、今のように顔によつて公務員でも何でもない者が自分関係ないところへ行つて顔をきかしたということと、それからある役についておる者、これは非常に広い意味公務員でありましようが、そういう人たちがたとえば名刺を出す、自分はこれこれこういう者だがと言つて名刺を出したことも、すでに私は非常な偉力を持ち得ると思う。それだけならいいのでありますが、そのときに、おれが名刺を渡してやるから幾らかよこせということは、明々白々として何か犯罪的な要素がある、こういうふうに私は考えております。こういうような区別は、法解釈的な定義から申しますと、なかなかごたつくと思うが、一歩前進して社会実情を見ると、これはほとんど疑いないのではないか。つまりそのすれすれの場合はずいぶんありましようが、すれすれの場合を特に取上げないで、ある現われた通りの顕著な事実についてお考えくだされば、私としてはまずそこには疑いがないように思われる。もしもどうしても疑いがあるとおつしやるならば、専門家の安平さんが言われるように、影響力その他というような言葉をお入れになるのもけつこうであります。常識といたしましては私はこの条文でよくはないか。私は法学者でございませんので、法解釈学というようはむしろほかの立場で申し上げますが、しいて申上げるならば、法社会学的に考えまするならば、これはいろいろ制裁も不文律――不文律と言つては語弊があるのでありますが、法社会学的に考えまするならば、今の顔に対する問題もまた別個の扱いをしておるということが言えると思います。それでよろしうございますか。
  76. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 わかりました。
  77. 小林錡

    小林委員長 木下郁君。
  78. 木下郁

    ○木下委員 午前中にちよつと参考人に伺つたことですけれども、私はこの立法の提案者の一人なんですが、これが一般個人をのけて、公務員だけにした。フランス法律では一般個人も含めておいて、そうしてその一般個人については罰の方で手かげんをして怪く罰しておるというようなこともあるのでありますが、われわれとしてはさしあたり、将来のことはともかく、この際あつせん収賄罪一般個人まで入れるということは少し飛躍する危険があるというような意味公務員だけに限つたわけであります。ところが実際日本実情の中には、ことに右翼の方面の人たち、監獄の経験なんかはもうりつぱに卒業しておるというような人たちが、その過去の経験と人柄から口がかたいというようなことが一つの信用の基礎になつておる。そこで商売が成り立つて個人的にあつせん等をやつておるという事例も相当出ておる。社会的にもこれは批判もされ、また将来の立法の上では考慮されなければならぬと私は思つておりますが、そういう点について安平さんに伺いたいのですが、公務員に対してあつせん収賄罪の罰則規定を制定するくらいなら、この際公務員でない者にも――今の恐喝になるとか、ならぬとか、これはまた非常に範囲が狭くなりますので、恐喝というところまで行かないでも、この法律案と同じ程度のものにも一般個人も含めたがよろしかろうか、あるいはまたそれをこの際含めるのは少し飛躍し過ぎている。つくるとか、つくらぬとか、御賛成になるとか、ならぬとかは別問題としまして、この際はこの程度の方が立法の段階としてはよろしいのじやないかというような意味で、その点に関する御意見伺つておきたいと思います。
  79. 安平政吉

    安平参考人 よくわかりました。まことにごもつともな御意見であります。この席で私繰返し皆様委員の方にお願いいたしておきたいのは、ともかく今度のあつせん収賄の点は、中島さんからもお話がありました通り、ぜひひとつ物にしていただきたい。先ほどいろいろと修正的のことを申しましたけれども、これは老婆心から申したのでありまして、この法案趣旨、それから基調には、むしろわれわれの方からお願いせんければならぬ点があるのでありますから、ぜひひとつ立法をしていただきたいと思うのでございます。それにつきましてただいまの点でありますが、ひとつ思い起しますのは、こういう事実があるのであります。これはたしか刑法の文書偽造罪の規定のところでありますが、そのうちの公文書偽造――この公文書偽造は、申すまでもなく、公務員が文書を偽造する場合の規定でありますけれども、たしか間接無形偽造というのがありまして、公務員でなくても、公務員に対して虚偽のことを一般通常人が申して、結局公務員の作成する文書の真正を害するような書面を記載せしめた者はこれは処罰する。つまり、本来公文書というものは公務員が作成して、その罪を犯すのでありますけれども、たしか公務員じやなくても、虚偽の事実を申告するという意味の罪を認めた規定刑法にあるはずです。もしそういう理論を本件の場合に応用して参りますと、なるほど公務員じやなくても、公務員に対して今おつしやつたような事柄をなした者は、結局これは社会的に見れば同価値である、処罰すべき価値が同じだということになりますれば、今申しましたそういうような技術を利用して立法されるのも一策であろうと思うのでありますが、しかしこれははなはだ失礼な言い分でありますけれども、そこまで広げてこの点を立法なさるというようなことになりますれば、いらぬものがくつついたために、おそらく一番大事なこの条文までも問題にされて来るという危険性があると思うのです。結局変なものをおつけになつたために、元も子もなくしてしまつて、この立法がおじやんになつてしまうという危険性があるのじやないかと、私僣越でありますが、思います。従いまして、おつしやるような立法技術も多少考えられますけれども、それはなかんか通りにくいと思いますので、せめて多くの人々がこの限度ならば輿論も支持するしという線でお固めになりまして、少々間口が狭くても、むしろ通す可能性があるようにお仕向けになつてやられた方が賢明じやないかと思います。これは立法の委員の方々にわれわれの容喙する限りでありませんけれども、ただ社会の常識人として、いたずらに間口を広くしてそうして審議を進められましても、たままた変な間口が広くなつて行つたために、本来通るべき、よいところの間口もさしさわりが生ずるというようなことになつてはどうかと思いますので、私は率直に申しまして、輿論の支持します確実な線でひとまずお通しになつて、またその立法の必要がありますなら、あとからでもいいじやありませんか。その方が賢明じやありませんか。私はそう思います。これはたつとぶべき国会の皆さんのお考えでありますから、われわれの容喙すべき範囲でありませんが、しいて御質問がありますならば、私は一個の社会人としてそう考えます。
  80. 木下郁

    ○木下委員 なお一点、これは直接この法案関係のないことでありますけれども、この裏に当る事柄です。現に涜職事件がたくさん起つておる。その中を二つにわけると、収賄者の側から要求して受ける場合と、贈賄者の側から積極的に行つた場合と二通りになると思う。そうしてそれが官紀の紊乱に従つて収賄者側から、当然通るべき事柄がなかなか通らぬ、なぞをかけられるというような意味で、それで贈賄者側は、出したくもない金、そうしてまた非常に危険を感ずる金ではあるけれども、何と言うても収賄者側の方が職務をがんばつてつて動かぬというので、やむを得ずやつたというケースがたくさんある。それに関連しまして、この公務員自分の当然やるべき職務を執行しないでほつたらかしてひまを入れるやつがたくさんある。午前中も私自己の体験した事例を申し上げたのですが、森林法で個人の持つておる山が禁伐に指定され、切ることができないということになる。そうすると、その山の木材の値段の七掛に対して年五分ずつ毎年補償するという規則になつておる。それで禁伐林に大きな山が指定されたので、補償金をきめてくれということを役所に言うた。ところが、調査してその価格をきめる、その上で補償金をきめるからと言つてつて、それが十八年もひつぱられて、役人が禁伐林に指定したとかいうようなことで、そういう大きな問題に自分はかかわり合いたくないというので、責任を果さないでぐずぐずひつぱるという事例が多いのです。現に最近の保全経済会の問題にいたしましても、大蔵省の銀行局長、あるいは大蔵大臣、それから法務大臣等が、あれは匿名組合かどうかわからぬ、法の盲点だというようなことを言うてぐずぐずして来たことが、今日何十万という出資者に迷惑をかけることになり、社会問題にもなつております。これはなぜそういうことがあるか。法の盲点なんということは、責任ある地位役人にはあつてはならぬことである。あり得べからざることである。高禄をはんでいる、責任の地位にある役人が、自分の所管事項に対して、法の盲点だからと言つて判断をしないで、一年も二年もほつたらかす、これは裁判所一つの事例をとつても、法の盲点だからといつて裁判所判決せぬで、三年も四年もどつちにしていいかおれはわからぬというようなことを言われるものじやない。それで高い責任の地位にあつて社会的にも尊敬され、また高禄をはんでいる以上は、自分の識見において法の盲点というようなものをあらしてはならぬ。ところが行政官庁ではそれが非常に多い。今申し上げました私の体験した事例についても、十八年ひつぱつておる。これが決定した一箇月後に、不服な場合は訴訟を起すということになつておりますが、決定しないと起せない。最近はその道が開かれましたが、昔はそれが起されぬ。そういうような事例がある役人自分職務を遂行するのについて、これは悪意でなくても、自分の保身という意味から、常識はずれにサボつておる人に対しては、やはり刑罰的なおきゆうをすえられる方法を講ずべきだ。国家公務員法の罰則なんかを見ましても、そういう点に対して考慮が欠けております。単純なる行政罰の点が少しあるだけです。だからそういう意味で、この刑法改正案であつせん収賄罪というようなものが処罰される、これは社会的要求であると私は考えておりまするが、その反面において、やはり官吏のあまりに常識をはずれた職務怠慢に対しては、もう少し厳格な処罰規定でもつくるべきではないかということを私は考えております。そういう点について、きよう突然出た問題かもしれませんが、もし御意見が伺えましたら、聞かしていただきたいと思います。
  81. 安平政吉

    安平参考人 ただいまの木下委員の御意見は、私平素から個人的に考えておるのですが、まつたく同意見です。これは具体的には申しませんが、大体におきまして今までのわが国の刑罰法規、それから諸国の刑罰法規、ことに法律問題というものを見まするに、積極的の作為ある行為をなしたという、積極的な面が非常に取上げられて、ほとんどこれが八、九十パーセントを占めておる。逆にネガティヴの方のしないという場合が、ほとんど不問に付せられておつたということが、言い得られるのではないかと思います。現に涜職罪なんかに関する規定を見ましても、さすがにドイツ人なんかでは、これは日本と違いまして、積極的の賄賂罪、それから消極的の賄賂罪という規定形式になつております。積極的の賄賂罪というのが、わが国の贈賄罪、消極的の賄賂罪というのが収賄罪であります。さすがにドイツ人なんか賄賂罪考えるについても、積極的、消極的、二つ考えておるのであります。日本だとかフランスなどにおきましては、きわめて常識が発達しておりまして、自然的に物事が考えられる。それから人の行動というものが罰則の対象になるのでありますが、これは多くは積極的な活動の方面が取上げられておりましたから、今まではほとんど罰則と言えば、今木下委員のおつしやいます通り、積極面である。ところが最近になりますと、ある政党なんかをとつてみますと、そこのところをねらいまして、消極的な、すなわち表面上は合法のごとく装つて、ねらいどころは違法をねらうというような、――たまたま資本主義の国が主として対象としておりますところの積極の面は、ここのところに突き当ると違法になる、しかしネガティヴの方は規定していないのだから、そこのところをつけばこれは法律にひつかからないというので、実質上積極的行動と同じような事柄が、裏の何事も知らぬという形式によつて行われる場面が、たいへんに広くなつて参りました。いわゆるサボタージユというのも、一種のそれであります。そういう情勢でありますので、ヨーロツパなんかの学界におきましても、ことに刑罰場面におきましては、最近は不作為犯、何事もしないが、なすべき義務がある。社会的、一般的に見れば、まさしくそのときになすべき義務がある。にもかかわらずあえてしない。しかもそれはある一つの違法の結果をねらつておる。そういう場合には、積極的にある意図をもつて積極的なる活動を演じたと同じように、不法性の価値は、社会的に見てイコールなんでありますから、こういうような悪意をもつて違法をねらうところの消極面、不作為、それをもう少し掘り下げて検討して、そうして罰則その他においてこの欠陥を防いで行かなければならぬという傾向が、非常にヨーロツパその他において濃厚になつておる。下作為犯というものがそれであります。おそらくは今後の罰則その他におきましては、やがてわが国立法におきましても、この方面の立法がたいへんに進んで来る、また進ませなければならぬと思つております。その例がたとえば届出をしないということに関することであります。現にある法律なんかにおきましては、こういう不作為に相当に重く罰せられることになつておりますので、これはわれわれ社会人といたしましても、どしどし違法性の不作為の面は取上げまして、積極的な作為の方面と同様、罰則その他によつてこの点の社会的欠陥を是正する必要が大いにあると、かように存じておる次第であります。
  82. 小林錡

    小林委員長 猪俣浩三君。
  83. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 安平先生ちよつとお尋ねいたします。それは法益論に関することであります。一体刑罰をもつて臨む行為というものは、国家生活あるいは社会生活上、道義的に非難さるべき行為である。しかしそれを刑罰をもつて臨まなければならぬくらい高度の非難性のある行為であるということは、申すまでもないのであります。病理現象があつて、刑罰法規ができて来る。ところがあまり、法律に熱中いたしまして、法律概念を分析し、総合して研究しておると、われわれ錯覚に陥つてて、法律上の概念をもつて社会現象まで律しようとする本末顛倒の観念に陥るのであります。現行法百九十七条の賄賂罪における賄賂なる定義によつて社会現象までも判断しようというような間違いを起す。鍛冶君の議論相当そういう点があると思う。このあつせん収賄なる事実につきましては、相当古くから社会現象としてある。先ほど小野清一郎牧野英一先生の説明を聞いたのでありますが、もう数十年前から刑法学者間に熱心にこれは研究せられた問題である、その納品が昭和十五年の仮案となつて出現した、さような説明がありました。しかるべきことだと考えておるのであります。ところが昭和十六年にこのあつせん収賄罪規定が貴族院を通過したにかかわらず、衆議院でこれが握りつぶしか何かになつてしまつた。その直接の動機は、この法益論で何かつまずいたらしいのであります。しかし真実は、法益論というものは、これは口実でありまして、こういう議員までも処罰の対象になるような法律案には反対であるということが真実であつた。それに口実を与えてしまつたという形であります。昭和十八年の戦時刑法におきましても、そういういきさつがありますために、議員だけ抜けたのであります。しかし議員を含めますることは、これは申すまでもなく必要なことである。われわれのこの提案動議も、国民から疑惑の目をもつて見ておられまするわれわれ議員の威信を存置し、国会の権威を高めたいという一つのねらいから出て来たことは明らかである。そこで法益論でありますが、一つ法律の法益が必ず一つでなければならぬという原則はありません。法益は、一つ法律によつて二つの法益、三つの法益を保護してさしつかえない。しかし上位概念と下位概念がありますがゆえに、だんだん上位概念に到達するならば、それは一つになることもございましよう。さしあたつて法益として考えまする際に、必ず一つでなければならぬという原則はないと思う。そこであなたは先ほどそれに触られて、二元並行の点に対して疑惑があると言われましたが、私はそれに対しては何も問題がないと思う。先般自由党の佐瀬委員の質問に対して、百九十七条の法益は、公務の執行を公正にするということが第一義、ひいては公務員の廉潔というようなことが第二義、今度提案するところのあつせん収賄罪ば、公務員の廉潔と申しますか、威信の保持と申しますか、あるいは国民の信頼と申しますか、公務員全体の自粛、自戒の意味、これが第一義の法益であり、ひいてまた第二義的には、公務員の公務執行の公正をはかるということに相なるのであつて、現在の刑法の贈収賄罪と、今のあつせん収賄罪と本質において何も違わざるものである、私はそういう答弁をいたしました。なお、本日午前中の牧野、小野両氏の説明を聞きましても、私のこの信念は間違つておらないと考えておる。そこでこの点につきましてまず安平先生の御意見を承りたいと思います。
  84. 安平政吉

    安平参考人 猪俣委員のただいまの御意見は、私はまつたくその通りと敬服いたします。そういう御意見でありますれば、立法趣旨もきわめてよくわかります。実は私が冒頭において疑問にしておりました点は、今猪俣委員がはつきりと説明してくださつたという感じがするのであります。と申しますのは、今猪俣委員がおつしやいました通り、第一義的にはこれ、第二義的にはこれ、その説明でもうけつこうなのでございます。むろん物事には一定の基調というものがありますけれども、それは何も学問上にいう一つの原理に尽きるものがないことは、今猪俣委員がおつしやいました通りであります。私の冒頭に申しましたのは、二元並行、パラレルという点を問題にしたのであります。ただ猪俣委員のいやそれは第一義的にこうで、それにあわせてこれを補充するにはこうだというお話でありますれば、これはパラレルではないのでありまして、第一義の意味と並行する、その意味での二元並行であります。ただいまの説明でこれははつきりいたしておりますので、猪俣委員の御意見はまことにけつこうでありまして、その御意見について疑惑は何もないのであります。一番初めに二元並行というのはこういうふうに考えておつたのであります。猪俣委員の意見は、第一義的にこうで、それを補充するためにこうだ、これならよくわかる、おそらくそうであろうと思います。
  85. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 なおわれわれは、社会法学的の考え方から社会現象そのものを見て、そうしてこれを立法しなければならぬ。――今の社会現象を見ますると、われわれはこの立法がどうしても必要欠くべからざるものであるという信念を持つて――職務に関連するというようなことにこだわる必要はありません。職務に関連するものだけが賄賂だというようなことは独断だと考えるのであります。なお事実問題といたしましても、現行法のままであるといたしますと、社会的に非難されべき刑罰をもつて臨まなければならぬような社会の病理現象がことごとくまぬがれて恥なきものをつくるようなことになつて来る。そこで安平先生に伺いたいことは、先般のいわゆる昭和電工事件であります。先ほど栗本という地方裁判所判事の説明もありましたが、これにおきまして、芦田均氏が無罪判決を受けた。これは一種のあつせん収賄という形ではあるが、現行法の百九十七条の収賄ではない。しかるに今あつせん収賄罪というものはないのであるから、これは処罰できないという理由になつております。とにかく世人から見ますると、まつたく割切れないことになつている。法律専門家から見れば現行法の解釈上もつともだと思われるのでありますが、一般世人は割切れない。こういう常識上割切れないような処罰現象が起る。これは刑法に盲点があるからである。同じ閣僚であつて、有力なる閣僚が他の閣僚に対してあつせんして、そうしてあることを成就せしめ、それによつてこつそり金を受取る、かようなことは許さるべきものではない。安平さんも検察官でいられますが、こういうことは一体現行法として処罰できるかどうか、それをひとつお聞きしたい。また甲は官立学校の職権を持つておる人である、乙は建設省の役人であるというような場合、お互い自分職務に関することに対しては金をとらぬ、但し学校入学について、建設省の役人が、ある父兄に頼まれて金をもらつて自分の友人であるその学校の職員にあつせんをして入学させる。また学校の先生自分の知合いから金をもらつてその人に頼まれて、建設省の役人に橋をつくるとか家を建てるとかいうことを頼む。自分職務については金をとらぬのです。しかしあつせんはして、あつせんしたことに対しては金をとる。ぼくは、かようなまつたく恐るべき分業的現象さえあると考える。そうして役人同士はお互いに緊密であり、一種の職域的集団生活をやつておりまするがゆえに攻守同盟を結んで、機密はなかなか外部へ出て来ない。そこに悪事が行われる。自分職務については金をとらぬ、それをお互いに交換し合う、こういうような現象をあなたは取扱つたことおありでありますかどうか、それをお聞きいたします。
  86. 安平政吉

    安平参考人 私昭和電工のことは、今事件が係争中でありますから申すことをちよつと差控えたいと思いますのでお許し願いたいと思います。  今猪俣委員のおつしやつたような事件を私直接に取扱つたことはございませんが、あつせん収賄ということの立法考えます場合、社会的にそういうことが事実行われておるということは十分想像をいたしておるのであります。たとえば早い話が、検察庁なら検察庁におる者、それの友人が官立の大学教授をしておる。もともと友人関係である。そこで検察庁なら検察庁に勤めておる者が、おれの友人の子供だが、今度君のところの官立大学に入るから、ひとつよろしく頼むぜということの依頼をする。それがはたして入学ということについてどれだけの効果をいたすかわかりませんが、しかしとにかくそういうことにかこつけて依頼を受けた方から賄賂なら賄賂、あるいは報酬なら報酬ということがあり得るということは十分に想像されるのであります。但し事件としてそれを取扱つた例はございません。
  87. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 なお現行の百九十七条職務に関するという問題につきましては、私ども貧しい研究でありますが、判例は非常に変遷をして、拡大する方向に向つて来ていると思います。ことに昭和二十八年の最高裁判所の判例のごときに至りましては、もう職務に関するということがほとんど有名無実くらいまでに拡大されております。これ以上拡大するとなると、罪刑法定主義に反するようなことになるのじやないかというところまで私どもは来ておると思う。たとえば二十八年の五月一日の最高裁判所第二小法廷におきまする判決のごときも、公務員の転職後、前の職務に関して賄賂を供与するということは贈賄罪を形成する、こういう判例があり、これは職務に関するということが非常に変化して来ておる。直接職務に関しなくても、それと密接なる関係がある場合に、やはり職務に関する中に入るというようなことから、なおだんだん拡大されて来ておる、こういう現象につきまして安平先生はいかにお考えになりますか。
  88. 安平政吉

    安平参考人 まつたく長い間実務に取組んで来られました猪俣委員のおつしやる通りであります。最近――と言つても大分前でありますが、旧大審院、最高裁判所におきまして、ただいま猪俣委員もおつしやいました通り職務に関するという言葉をもう一つ広げる意味におきまして、関渉という言葉を使いまして、何らかのつながりがあればそれでいいのだというふうに、たいへん広く進めて来ておるのであります。これはわが国だけかと申しますと、たとえば本家本元のドイツ刑法なんかの運用状態、判例なんかを見まするに、ここにおきまして、わが国職務に関するという言葉はアインシユラーゲンという言葉になつておりますが、一定の職務に包摂されてという百葉が使つてありまして、わが国言葉とはちよつと違つております。ここにおきまして、どういうものか判例の歩み方は非常に広いのであります。その意味におきまして、わが国の判例の歩み方と基調を同じくしております。これがいいか悪いかはしばらく別問題といたしまして、最高裁判所あるいは旧大審院がそういうふうに歩まざるを得なかつたゆえんは、もちろん一つには社会の不正義というものは、見のがしたくない、ことに公務を担当しておる者が、職務に何らか一脈連関関係を持つた賄賂をとつておるということは、これは国家道義あるいは官吏道徳上からいつて容赦することができない、そういう一極の社会的正義感ないし法律的正義感が、最高裁判所、大審院にたいへんに強かつた、そういうので、伝統的の裁判所の正義観念のしからしめるところついそういうふうにころんで行つたのではないかと思います。  いま一つの点は、涜職あるいは賄賂罪に関する理論的の点を申し上げてはなはだ恐縮でありますが、賄賂罪涜職罪に関します。先ほど申しましたローマ法時代のずつと発達して来た沿革を見ますると、もともと涜職罪というものが生れましたゆえんは――ドイツ法のいう職務に関連があるというのはあとから来たことでありまして、事の起りは、いやしくも公務員たる者が、何らかそこに廉直性を疑われるような金のとり方をしてはいけないのだという一つの線がありまして、結局公務員が一脈その公務に脈を持つている線において賄賂をとると、公務員の廉直性を疑わしめ、国民一般の官吏一般に対する信頼性というものに影響して来て、ひいては国家観念の権威というものに関係して来る。そういう学者のいわゆる公務員を何らかの事柄に関して純然たる個人的のことは別、また儀礼的のことは別でありますが、そういう線において一脈職務につながりを持つておる範囲において金をとることがいけないのだという公務員不可買収性、これはしいて押し詰めれば身分的の一つの刑政作用であるというような賄賂罪が生れて来ますゆえんの基本的精神というものが、日本刑法にも残つておるのであります。そういう点を最高裁判所及び旧大審院が賢明に把握しておられたから、ついこれを拡張して解釈するに至つたのではないかと思うのであります。と申しますのは、たとえばわが国で公法関係、ことに憲法とか行政法について非常に詳しかつたなくなられた美濃部博士のごときは、大審院の判例にしんにゆうをかけてもう一つ拡張しまして、ああいうような人権を非常に擁護し、自由を擁護する観念に強く、事一たび公務員涜職罪ということになつて参りますと、むしろ裁判所の判例より以上にこれは身分的のものである。いやしくも公務員という身分を持つておる者が、正規の儀礼だとかあるいは純個人的の事柄に関連しないで、とにかく国民からつじつまの合わないところの金をとるというようなことがおよそ身分に反するのだという考え方を持つて、もう一つ判例を拡張して力強くバツクしておられるのであります。そういうふうに一面においては社会正義の観念の見地から、一面においては涜職罪ないし賄賂罪立法沿革並びに取締りの必要性、そういう点を明確に裁判所が認識して、ただいま猪俣委員のおつしやつたような結論にしたのは、これは力としてやむを得なかつたのではないかと思うのであります。しかしただ猪俣委員に申し上げておきますがこれはむしろ先輩であられる猪俣委員の方が詳しいと思いますが、最高裁判所の判例はそうなつておりますけれども、実際わが国裁判所、ことに第一審あるいは第二審あたりの下級審の裁判の行き方は、むしろ最高裁判所あるいは大審院の判例と逆であります。職務に関してという点に非常にとらわれてその点はたいへん忠実であります。最高裁判所、大審院の言つておるような判例通り歩んでいない、これは第一審あるいは第二審の判例を検討すればおのずからわかるかと思うのであります。いなむしろわれわれ検察側から申せば、そんなに職務関係ということを詳しく吟味しなくても、今少し最高裁判所あるいは大審院の判例の趣旨に従つていいのではないかというように思う場面がたいへんに多いのであります。結論から申し上げますれば、わが国の裁判、ことに第一審、二審の行き方からすれば、私は必ずしも大審院の線には沿つていない場合が多い、これが現実ではないか、こういうふうに思つているのでありますが、この点猪俣委員はどうお考えになりますか。私はなかなか一審、二審はそんなに安つぽく考えたくない。最局裁判所のこんな判例には、たとえば昭和電工だとか今日裁判所に実際に係属しております多くの事件でも、これは厳重に職務連関とかいう線を問い、弁護人の方も極力この点を主張されている、決して御心配になるようなことはない、私はそう見ている。
  89. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 最後にちよつと一点安平さんにお尋ねいたします。これは私の法律構成が間違つているかどうか。私ども議員生活を長くして法律的な概念は薄らいで来ておりますので、人に物笑いになつてもいけませんのでひとつ点検していただいて、それでよろしいならよろしい、それに欠点があるならある、参議院に行つてもこつちが説明しなければなりませんので、それをお聞取り願いたいと思います。それは法益論であります。新しい憲法ができ、国家公務員法ができました際に、公務員の性格、あり方というものが、いわゆる昔の官吏服務規律第一条に指定されましたような、陛下に忠誠を誓うことが官吏の第一の義務であるというような観念と非常に違つて来ている。そこでこの涜職罪の法益論にもそれがある程度影響して来ている。そこで官吏の廉潔と称するが、しからば廉潔であるべきものは公務員だけでよろしいかというと、何人も廉潔でなければならぬはずです。公務員だけにさような廉潔を要求することは、これは官尊民卑の一つの現われだというような批評をする者も出て来るのであります。私はそうとは思いませんが、憲法第十五条によりまして、公務員は少数者の奉仕者にあらずして、全体の奉仕者でなければならぬ。そしてまた公務員法の九十何条かもそれを受けまして、公務員は全体の奉仕者として努力しなければならぬことが規定されている。そうしてみると、私は、先ほど申し上げましたこの百九十七条、今般のあつせん収賄罪も含めましたただ一つの最高原理、条理概念というものを考えるならば、結局において、この公務員の性格から考えて、公務員がいわゆる公僕で、一般の主権者である国民から公務が公正に行われるものであろうという点に対する期待権、信頼性、これが法益で、これを裏切るこれが公務員涜職罪処罰理由になる。そこで唯一の条理概念は、結局において国民の公務が公正に行われるであろうことの信頼権、これを保護することが、この涜職罪の基本概念であるというふうに私は考えていいだろうかと思いついているわけですが、これに対する先生の御所見を伺いたいと思います。
  90. 安平政吉

    安平参考人 ただいま猪俣委員の御意見は実に敬服、いな驚くのであります。ドイツにマウラツハという刑法学者がおります。実はきよう持つて来ませんでしたが、マウラツハは刑法各論という厖大な書物を書いております。この人と、もう一人シエンケ、この学者は先般なくなりましたが、ドイツ刑法に関する随一のコミンタリストでありますが、何かドイツ学者が多いようですが、刑法各論に関する限りはまずこの人の理論による。私一週間前でしたか二週間前でしたか、念のためにちよつとこの書物を読んでみました。その中でマウラツハが涜職罪の本質について、古くから議論があるけれども、帰するところは、大所高所から見えばこういうことになるんだということを、今猪俣委員がおつしやいましたことと寸分毫厘も違わぬようにマウラツハが定義しているのであります。猪俣委員はこの書物をごらんになつたのと違いましようか。これはロシアの昔の刑法研究しておつた人です。今一番優秀なマウラツハ、その刑法各論が最近わが国に入つているはずです。もし私の言うことがうそだとお思いになつたら、お読みいただきたいと思います。  ついでに申しておきますが、私は日本の法制史から少し考えてみたのでありますが、もともと日本役人というものは、明治維新になつてからフランスその他外国の思想が入りまして、それから明治憲法の時代になつて、ああいうことになりましたが、もつとさかのぼつて日本の法制史を探つてみますると、わが国におきましても、公という観念は相当強かつたものを持つているのであります。その後封建制度というものがやがて武家政治となり、それから徳川時代になりまして、ある一種のゆがみ方をして、将軍というものが支配をするようになりましてから、ちよつと性質がかわつたようでありますが、われわれが今日考えております国民あるいは国家社会に御奉公いたすんだという公のサービス、公という観念はもともと相当強く持つておつた。それからアメリカなんか非常に脚人的のようでありますけれども、さてアメリカの人とつき合つたり、あつちへ旅行して気づきますことは、一つ感心なことは、これが公――パブリツクということになりますと、まるつきり人間がかわつて来る。ふだんは非常にわがままで、利己的なことを申しておりますけれども、お前さんの命なりサービスはパブリツクが要求するんだということであれば、この男は命を捨てて行くのであります。現にこの間朝鮮で戦乱がありましたとき、アメリカ人が相当あすこで命を落したというのも、パブリツクのオーダーがあると、みな捨ててしまうという観念が非常に強いからであります。何もアメリカのまねをする必要もありませんし、昔の公の何を復活するという何もありませんが、日本人のよつて来るその源を探れば、公に御奉公する、これが人間として一番とうといものであるという思想は古くから存在しておつた。歴史の過程において一時それが抹殺されたようでありますが、これは明治憲法時代になつて初めて生れたものでも決してありません。そういう意味で姿こそかえておりますけれども、今日われわれが国民その他に対して御奉公せんければならぬということは、私の考えでは、昔の先祖の頭の奥底に深く根をはやしておつたというふうに考えております。
  91. 猪俣浩三

    ○猪俣委員 先ほど実は小野氏に、日本固有法においてのこういうあつせん収賄的な規定がなかつたのかと聞こうと思つたのですが、時間がなかつたのですが、今先生の御説明を聞きまして、たいへん得るところがありました。  次に中島先生にお尋ねいたします。今のこのあつせん収賄のような法律で最も顕著なのは一九五〇年のチエコの法律であるが、それよりほかになおユーゴスラビアにもある、なおイギリスにもある。それからアメリカの二百二条、二百五条の涜職罪、これは文句があまりはつきりしていないけれども、どうも単に職務に関するというようなことだけではないようだというような説明を、牧野、小野両氏から私ども聞きました。ことに最も顕著なのはフランスの百八十七条、百八十八条等につきまして詳細なる御説明を受けたのであります。このチエコの規定フランスのこの規定から出ているのじやないかというふうに聞いて来ました。やはりあつせん収賄というものは相当世界的の問題になつて、新しい刑法にだんだん取入れられて来ておるということがわかつたのであります。なお中島先生にお聞きしたいことは、先生は広く世界の文化を研究なさつている方でありますが、日本人と英米人あるいはドイツ人等と比較しまして、日本人には顔がものを言うということが相当広く行われておるが、これは一体どういう思想からこういう現象が行われるのか。外国に比較して日本に顔がものを言うようなことが広く行われておるかどうか。行われておるとすれば、この社会現象はどういう思想から起つているのであろうか。その点について御見解を伺いたいと思います。
  92. 中島健蔵

    中島参考人 ただいまの御質問は、なかなか的確な御返事はできないと思いますが、明瞭な点を申し上げますと、明治維新以後のことについて申し上げますが、やはり官尊民卑という思想だろうと思います。と申しますのは、例の明治維新によつてできました新しい政治の権力を握つた人々は明らかに旧藩時代の時系統の人であつた。また歴史的な事実としては、それに結びついた経済人もまた独立では何もなし得ないのであつて、そういうような、つまり元の身分関係であつた時というようなものに結びついて政商というものが出て来たと思うのであります。  それからもう一つここで考えなければなりませんのは、明治の政府はとにかく啓蒙政府であつたという事実があつたと思うのです。と申しますのは、よく民度ということが言われまして、しばしばこれは誤解の種をまきますが、文化史上から申しますと、どう考えましても、明治の何年かまでは、政府が啓蒙的でなければ近代化することができなかつた。現代から考えまして、この近代化というのはかなり条件付の近代化でありまして、この戦争に至るまで非常に古いものが残つたのでありますが、とにかく明治の政府は大体において啓蒙的でなければならなかつたということは認めなければならぬと思います。今日の目で見ますと、きわめて古風であり、民主主義の目から見れば、とんでもない権力政治であつたということを言い得るかもしれませんが、それは今日から見るのでありまして、当時の政府は明らかに啓蒙的であつた。すなわち役人というものは、一方ではそういう藩閥政治と申しますか、そんなようなものと結びついて、古くからの権力を持ち、かつまた同時に新しい政治の面においても啓蒙的な面があつて、一歩を先んじていたということから、実質的な優秀性があつたと思う。これはいろいろ逆の例もございましようが、大体において国を治めるというような形がある程度まで実際に成立し得たということは、私も認めざるを得ないのです。しかるにこれが大正前後になりましてからいわば逆転したのでありまして、明治の途中までは、民間の意見というものはたまにはありましたし、政治家などの中には識見の高い人もあり、学者の中にもそういう人もありましたが、これは少数の例外でありまして、大体民間の意見というものと政府の意見が対立する場合には、やはり政府全体に対する少数の民間の有識者の争いという形になつたと考えるのであります。それ以外の普通の庶民はどうにも抵抗できない、と申すよりは、何も意見の発表もできなかつたという状態にあつたのではないか。そこからどうしても官尊民卑ということが出て来るわけであります。その官尊民卑に対抗した自山民権論者というものがございましたが、これは少数でありました。むろんこれも歴史の上から申しますと、大きな役割を果しておりますが、とにかく抵抗してもやられてしまつたというのが実情だろうと思います。ところが、大正近くになりますとそうは行きませんで、これは主としてやはり啓蒙政府並びに民間のそういう少数の有識者の努力によりまして教育その他が向上し、つまり公務員でない、当時の言葉でいわゆる役人あるいは官吏でない者の中に大勢のりつぱな者が出た。簡単に申しますと、いまさらこういうことを申し上げまして、はなはだ恐縮でありますが、元は教育を受けるということは、ほとんど役人になるということが前提であつたと言えます。また政府もそういうつもりでいわゆる官学をつくつたのであります。ところが次第にこれが充実いたしまして、大正の初め、あるいはすでに明治の末期あたりからは、大学を出たから役人になるというようなことは全然ないのでありまして、役人になりたい者は役人になるが、それ以外に民間にも出るという者が多くなりました。そこで官尊民卑という形がくずれて来たにもかかわらず、その当時の制度としての官僚制度は、依然として民の上に臨むという形を持つていた。そしてまた比較的大多数のさまざまの認識はやはり遅れていたと見なければならぬという事実は、私が申し上げるまでもないと思うのであります。今日はこれがますます逆転いたしまして、一般の人間、人民、国民、いろいろな言葉で申しますが、そういう普通の人たちと申しても、われわれもその中へ入るのでありますが、それと、今申し上げた公務員あるいは特別の有識者というものの区別がきわめて少くなつているという事実があるのであります。私はこれは戦後における顕著な現象だと思いますか、一例を申し上げますと、戦争直後に私が警察官養成の学校に頼まれまして講義をしたときには、手も足も出なかつたのであります。非常にかたい頭でありまして、法解釈学と申しましても、これ以上固まれば法は動かぬと思うほどがんこの相手でありまして、これを近代的に解きほぐすのにはえらい時間がかかるかと思つていたのであります。しかるに最近様子を見ますと、それがなくなつて来ている。たとえば公務員の中でもそういうかたい頭がほぐれて来ているということがあるのであります。それと同時に、官尊民卑というものが権力主義からさらに便宜主義に移つて来たと見るのであります。つまり途中までは権力があるから何でもできたし、また啓蒙的であるからひつぱりもできたけれども、その後すでに大正期からその徴候は見えておりますが、戦後になりますと、もうそういうふうな特別に養成され、特別な技能を持つた人間というよりは、ある一定の職務についている、ある一定の事項を行政的に処理できる、かような点が非常に重大になつて参つたと思うのであります。すなわち官尊民卑というものも、もちろん権力主義じやなくて、利益主義になつて来た、こういうふうに考えるわけであります。これは現在でも私はその点を認めるのでありまして、そこから顔というものも出て来るだろうと思う。元の顔はやはり結局権力主義と結びついた顔なのであります。いかなる顔といえども、これは人と結ばなければどうにもならなかつたということが言えるのであります。先ほどお話が出ました右翼などの顔にいたしましても、それだけで幾ら力んでみたところでどうにもならぬ。調べて行きますと、警察と縁があるとか、あるいは何省の何と縁があることによつて顔をきかしていると思う。このような状態は今日はよほど減つたと思いますが、しかし今度は利益に関連して今の顔役というものがあるとするならば、これは日本では統制経済をやつておりませんが、にもかかわらず割当その他のさまざまなことがあるとすれば、それを左右できるような何ものかの機関と直接結びつかなければ意味がない。これは明瞭なんです。このような現象が世界でどうかという御質問でありますが、今のような概略を通じまして、私は世界にもあり得るとは思いますが、今では非常に減つておる、そうは行かなくなつているということもやはり感ずるのです。それならばどういう証拠に基いてそういうことを立論するかと言われますと、これはまた明確な論拠がないわけであります。かつてあつたということが私どもには明瞭になつておる。イギリスでもフランスでもどこでもかつてはやはり一種の顔があつた。また権力主義があり、また利害と結びついたいろいろなボスのようなものがあつた。これはアメリカについても申せます。アメリカも御承知通りアル・カポネという、主としてアルコールの密造でありますが、ああいうことをやつたボスがおりまして、これに対してはどうにもならないでたいへんな腐敗を来したのであります。今日のアメリカにもいろいろなことがあると思いますが、しかしアル・カポネ時代のようなことはもはやないと考えられます。それは何からそういうことがわかるかと申しますと、これは自分の専門でありますが、文学の作品なんかを見ましてもだんだん話が違つて来ておるわけです。そういう者が出て来て活躍するというような文学作品は非常に古い印象を与えておる、また古いこととして書かれておるということがあるわけです。これに引きかえまして、日本では現に出ております小説の中に最も頻繁に出るのが顔役なんであります。これは現代小説はともかくとして、日本で依然として挾客を扱つたようなものが好まれる。浪花節なんかことにそうであります。私は別に浪花節の攻撃をする意思はありませんが、浪花節で森の石松といえば文句ない。相当なハイカラな方々が、すし食いねえ、酒飲みねえと言うと、にやにやつとして笑つておるということがこれを立証しておるのです。これは日本でもだんだんなくなるであろうが、明治以来のさまざまな経過からいたしまして、現にわれわれの中にもこれがあると認めざるを得ない。従つて今度の法律のようなものは特に日本意味があると認めるのです。これはフランスでは第一次大戦と第二次大戦の間にスタヴィスキー事件というものがありまして、公務員の腐敗というものが非常な問題になつた。おそらくそのスタヴィスキー事件というものは日本の外務省にも報告が来ておつたと思うのですが、最後まで何のことかわからなかつた。なぞの小説のようなかつこうになつておりますが、もしこれを法学的に解釈いたしますならば、おそらくあつせん贈収賄というようなことに関係していたのだろうと思う。従つて検察官も十分これを追究できない、また弁護人の方もなかなかあぶない橋を渡らなければならぬということがありまして、わけがわからなくなつたのであります。これはまつたくの想像でありますが、フランスといえどもついこの間までそういうことがありまして、おそらく同様な趣旨において立法して来たのではないかというふうにさえ考えられる。これは歴史的な事実でありますから、お調べくださればその事件立法がどちらが先か明瞭になりますが、スタヴィスキー事件があつてからフランスでは公務員汚職に対しては非常な神経質になつておる。そうして監視の目が届くようになつたのです。いまさらこういう法律があるというふうにお感じになるかもしれませんが、そうではなくてこれはあつたのであります。そうしてフランスの場合には、これは日本の場合にも当てはまりますが、権力主義によつて役人がいばるということではなくて、やはり利益を左右するという点からいろいろな問題が起つた。モン・ド・ビエテといいますが、公設質屋に関する涜職事件がありまして、やはり当然公務員関係していたわけであります。顔その他についての諸外国との対比は非常に不明確でありますが、最近まで外国にも比較的あつたが、今はない、少くとも減つておるのではないか、これは現在の世界における社会道徳の非常な進歩によるものと考えております。それが日本では残念ながら立ち遅れているという事実をもとにいたしまして、やはり日本はまだ顔の世界ではないかということを比較的に申し得るのではないか、こういうふうに考えます。
  93. 田嶋好文

    ○田嶋委員 きようはなかなか学問的な御意見をたくさん拝聴しまして、われわれ非常に参考になつたのですが、私の質問は学問的な立場に立たないで、社会一般の常識を基礎にして少し御質問をしてみたいと思います。  とにかくわれわれが法律をつくる場合に考えなくてはならないことは、この法律社会正義を実現する法律であるということを骨子にして、その骨子をあまり中心に考え過ぎて法の濫用があつてはならないということも常に考え立法に進まなければならぬとわれわれは考えております。そこでおそらくこれは野党の諸君も同一の御意見だろうと思うのですが、国会で論議の対象になるのは、いつも社会正義がどこにあるかということと、濫用の面でございます。今秘密保護法が一方の正義感によつて立法せられる場合、一方の正義感によつて反駁を加えると同時に、濫用の点から社会党の諸君は大いにこれを論じ合つている。教育二法案社会諸君の進歩派から反対があるのも、正義感よりもむしろ濫用の点が心配になるのでありますから、この立法は防止しなければならぬという点を打出されておるわけでありまして、国会において議論されるのは正義感と同時に、この法律をつくることによつて濫用されて、人権が故意に侵害されるのではないかということが警戒されるわけなんです。この意味から、私は先ほど承つておりまして贈収賄に対する考え方、まことにこれは正しいと思う。私たちはここで収上げるについて、贈収賄の観念――これは正しい観念として聞かなくちやならぬのですが、あつせん収賄という新しい法律をここに取上げるのでありますから、その新しい法律のうちカテゴリーにおいて、一体これは濫用のおそれのある法律か、ない法律かといことも考えてみなければならぬのです。中島先生安平先生にお伺いしますが、この法律をつくつて絶対濫用のおそれのない、正しく運用せられる、要するに正義感のみによつて処理される法律だとお考えになりますか、濫用のおそれの点はどういうふうにお考えになりましようか。
  94. 安平政吉

    安平参考人 私はその意味で冒頭に、これは立法趣旨は原則的にきわめて賛成だと申し上げたのです。ぜひひとつ立法していただきたい。濫用という言葉でいいかどうか知りませんが、あまりに広く適用されると、結局は国民が迷惑する、その点からそれの防止に関する修正意見を出しておいたのです。特に私浅い経験でありまして、皆さんここに先輩の方がたくさんおられましようが、ともかくも私も実務に入りましてつくづく感じますことは、日本法律をつくりましても、使う場合にたいへんにまずいのです。つくるときにはいろいろと議論しますけれども、でき上りますと、その使い方がどういうものかぎりぎりの極限まで持つて行くのであります。いい意味においてか、悪い意味においてか知りませんが、その意味において長い間非難の対象になつております。概念法学ということはまだ日本では清算されていない。概念をずつと論理的に演繹しまして、そして使わなければならぬときには、そのぎりぎりのところまで概念を推し進めて、概念のうちに入つておれば法律はこうじやないかという。終戦概念法学を清算し、ヨーロツパ大陸の法制を修正する意味で、新憲法を初めとして英米法が広くとられたと称しております。それはなるほど立法の上では英米法というものがわが国の法制にたくさん取入れられておりますけれども、法律の適用解釈するという面になりまして、はたしてほんとうの意味の英米法が取入れられておるかどうか、私はすこぶる疑問視しております。英米というのは御承知通り常識が非常に発達しておりますから、一つ法律をこしらえましても、法律はあつてもこれは使うべきじやないというふうに社会条理というものが命じて来ますと、必ずしもそれは使わない。逆に法律がなくとも社会条理上これはどうしてもこういう場合にはこういうふうにしなければならぬものだということになりますれば、少々法律をひん曲げてもその社会の要求に従う、こういう処置をとつて行く、これが常識主義の英米法の考え方であります。日本法律はその型においては英米法を取入れたと称しますが、さてその法律を動かす、活用する段階になりますと、決してほんとうの意味の英米法ではないのであります。いなむしろ大陸法的の概念主義というものが頭の脳の髄まで今の既成学者、既成官吏にはみなこびりついておるというような事柄相当ひんぴんに見受けられる。さような見地から今度のこのあつせん収賄規定は、われわれまことにけつこうな立法である思います。ことにわれわれ検察庁におります者は、これはぜひ曲りなりにも国会を通していただきたい、こうは思いますけれども、冒頭に私述べました通り、あつせんとは一体何か、それから地位を利用してということにもいろいろ考え方はあると思います。そのうちで特にあつせんがそもそもいけないのは、悪い意味のあつせん、ことにこういうことをひとつお願いしたいという請託あるいは要請にからまるところの、しかもその請託あるいは要請たるや必ずしも社会条理というものがそれを許さない、あるいは片寄り過ぎるというようなそういう要請もしくは請託を内外とするそういうあつせんがこれがそもそもいけないのであります。本罪の罪となる行為の違法性をしいて実質的に申しますならば、そういうような請託あるいは要請にからまるあつせん行為が本罪の実質的の一つ行為の違法性を導いて来るきつかけだと思いますので、先ほどおつしやいます通り立法ができた後の運用の場面に、濫用というとちよつと誤弊がありますけれども、あまりに広きにわたつて社会条理上行われておる事柄までも罪をもつて、刑罰をもつて遇するということは、結局社会上、ことに国民の自由あるいは権利を擁護するという見地から好ましい結果とは考えられませんので、そういう意味におきまして濫用防止と申しましようか、あまりに広きにわたるところの処罰を避けたい、そういう趣旨から私は冒頭において大体二点指摘しておきましたが、そういう点をひとつ考え願いたい、こう思つております。
  95. 中島健蔵

    中島参考人 この法の濫用ということが私が最も恐れることでありまして、これはもし濫用が行われるということになりますと、いろいろ考えなければならぬのは当然であると思います。ただ今日までの私のきわめて浅い経験でありますが、これは法の拡張解釈であり、あるいは濫用であると思われる場合には、その法の制定、立法当時にすでにその原因がある。というのは二つのことが考えられます。一つは、まつたく予想できなかつたような事態があとから起つた、ところであとで法律を探してみたらどうやら該当しそうだというのでそれを打ち出して来まして、はなはだしいときには太政官布告とか、あるいは明治三十何年、二十何年という、法律が生きておりますから、そういうものを持つて来るとどうやらこれは何とか当てはまるのじやないかといつて、これをいわば試みにやつてみるというような場合に極端な濫用の例があると思います。すなわちこれは立法趣旨関係なく、ただ条文が生きているために起る濫用なんであります。  それからもう一つは、これはやや作為的なものでありまして、はつきり拡張解釈でありますが、定義があいまいであるというような点もありましようし、あるいはしいて簡単に申せばへりくつをこねるというようなことにもなりますが、そういうようなことから、そう考えられないこともないというようなことを持つて参りまして、濫用に陥るということがあるのであります。私は、やはり法の運用を申しますと、これは濫用は恐しいけれども、しかしその点についてはこのごろは割に至るところで分界になつているのじやないかと思う。この法律の中で申しますと、この「公務員地位ヲ利用シ他ノ公務員職務ニ属スル事項ニ関シ斡旋ヲ為ス」ということについていかなる疑義が起るかというふうに考えるのであります。個々の場合におきましては、おそらく「其地位ヲ利用シ」ということは幾らでも拡張解釈ができるかもしれません。しかし、これがこの場合前提になりますが、「又ハ斡旋ヲ為シタルコト」までは前段でありますが、「賄賂を収受シ又ハ之ヲ要求若クハ約束シタルトキハ」という後段におきましてこれを一つ限定しておると思うのであります。ところで問題は、先ほどからいろいろ話が出たようでありますが、職務――職務というのは直接に責任を持つておらないある公務員が、自分がその責任を持つていないことについてあつせんをしたことが賄賂であるかどうかというような疑問が出て来るでありましようが、社会通念から申しまして、つまりたとえば行政の系統から申して、それからはずれておるにしても何にしても、とにかく公務員という身分を利用したというのは、たとえば顔見知りというのもその中に入るし、いろいろなことが入りますが、それをやつてみてそれで金をとるということは、そこに何か正常ならざる関係があるというふうに判断しなければならぬ、そういうような判断は、これはおそらくこの法律通りまして、不幸にして最初の問題が起つた場合に、それは判例によつてきまつて来るのではないかと思います。それまでは今揣摩臆測したところでしかたがありませんが、社会通念から申しますと、というのは、別に皮肉な意味でも何でもありませんが、贈収賄関係のないわれわれから――われわれから申しますと語弊があるかもしれませんが、実はどこからももらう筋もないし、公務員でないわれわれか申しますと実にはつきりしておるのであります。かつ輿論というものは、ときどきやたらに興奮したり、妙にさめたりしますが、しかし今日のいろいろな輿論や何かを見ましても、いろいろ大きな事件が出ておりますが、小さな事件についてもやはり立法が必要ではないか、これに対しても拡張解釈の問題も起るのではないかと思います。たとえば職務に関してでなく、私的な問題であつて、両方が偶然公務員である、そこでそういう私的な関係において金品の贈与が行われた、それをもつてお前が怪しいというふうに言うことは、これは何ぼ何でも私は今日ないと思いますし、また賄賂というからには、やはり常識として考えられる賄賂というのは割に明らかであります。そんな観点から、私は濫用の危険は割合に少いであろうというふうに考えるわけであります。それからまた解釈法学的ないろいろな点から考えてもし疑義があるとするならば、これは運用の途上において明らかにされる、それが運用の途上において明らかにされるというようなことでは危いから、この立法をやめようじやないかというようなことの方が社会のいろいろな利益から申しまして損じやないか。法益は明らかに認められる、これはいろいろな意味があるにしても、この立法による法益というものは、これは疑う余地がない。そこで残るものは、最後に濫用の問題でありますが、この濫用については、少くとも目下のところその濫用の恐怖と、これをこのまま通さないということのどちらが常識として大きな影響を及ぼすかというと、私は濫用は運用上十分に注意してもらうということが必要でありますが、やはり目前にいろいろ出ている事件、これは政治にからみました事件ばかりをお考えのようでは困るのでありまして、実はいわゆる疑獄事件として世間に打出されている大事件にも関係しておりますが、そこまで行かない小事件、国民の日常生活に非常に関係のある小事件にもこれは関係があるのであります。これがしかもなかなかゆだんがならないのでありまして、結局はこの行政的な運用の面に大きな支障を来して行くという事実はここでもつて私があえて申し上げるまでもなく、各委員の方々は御承知のはずだろうと思う。そういう意味でも、これはそれをあらかじめ頭に入れておけば、つまりこれが実は大物をやるために立法したのに、やつてみたら小物がつかまつてしまつたというのは、これは濫用じやないと思うので、この濫用ということはそれほど心配はいらないのであるというふうに一応解釈しております。
  96. 田嶋好文

    ○田嶋委員 もう一点で私は終りますが、参考人でございますから、御意見を承るだけで皆さんから立法のことについてとやかく言つていただくというわけではございませんが、とにかく第三者からものをもらうということ、それからごちそうになるということ、これがあながち悪いとばかりは言えないのであつて、むしろ世界を旅して常に感じることは、外国では非常にわれわれを優遇してくれる慣例をみな持つている。最高限度の接待をもつて外国人につきあつてくれる、私今度外国に旅をしましてそれをつくづく感じ、しかも感謝して来たのであります。だから接待をし、ものによつてその人たちを喜ばす、これはあながち否定すべき思想じやないじやないか、むしろ考えようによつては民主主義が徹底して行けば、官尊民卑がなくなつて行くに従つてそうして風潮はますます旺盛になつて行くのじやないかというふうにまで、私たちは錯覚かもしれませんが、起きたのであります。こういうようなことを中心にして考えますとあつせん収賄というものの濫用ということの危険性が相当増して来るような感じがいたします。資本主義の経済界におきましてはどうしても一つの物件を他に頼むことによつて、他の人にあつせんしてもらうことによつて実現を可能にするという線が、これは否定できない線として存在しているのじやないか、これは資本主義の欠陥かもしれませんが、どうしてもこれは出て来る、そういうような場合に日ごろただ今日は、お早うございますというような程度でなしに、もののやりとり、それから飲み食いをしておつた人、こういう人には初対面の人に頼むよりも頼みやすい形になつて来まして、必然にそうした人の方に寄つて行くということは、これは一応考えておかなくちやいかぬと思います。そういうような場合にはそれがあつせん収賄というような形で諭ぜられることが大いに危険として生れるとすると、これは一応これらのものも対象に置いて考えるべきものだと私自体は考えております。これは御意見を承らなくてもけつこうであります。  それからなおさつき他の委員の質問の中に、代議士自分が危険だからその法律が今日まで日の目を見なかつたのだというような説をなしておつたようでございますが、私は代議士立法の職にある以上は、あながちそうばかりでこの法律は論ぜられているのじやないと思う。もしそうばかりで法律が論ぜられておるということになると、あつせん収賄ばかりでなしに、他の立法すべてが代議士の利害に基いて立法されるということになつて、まことに国会としてはゆゆしい問題じやないかと思う。これは考えようによつては国会に対して侮辱の言じやないかと私は憤慨をいたしておる、だれが言つたか忘れましたが、憤慨をいたしております。従つて私たちはやはり法律をつくるには正義感によつて法律をつくりたいし、そうした意味で濫用の防止を大いに考えて進みたい、こう思うのであります。  安平先生にお聞きしたいのですが、こうした面から、この立法に今日まで日の目を見せなかつたということに対して他の議員が言つたように代議士の利害に基いて、この法律をつくれば自分が危険だからというような利害に基いて日の目を見なかつたわけでございましようか、やはりどこかにこの法律が成立しなかつたという正義感があつたのじやないかと思うのですが、この点はいかようにお考えになつていられるのでありましようか。なお評論家として中島先生にもお伺いしたいと思います。
  97. 安平政吉

    安平参考人 これは直接に社会的なことは中島先生にお願いいたしたいと思いますが、立法の経過では、昭和十六年の衆議院の速記録をお調べになればわかりますが、私はここに簡単に筆記しておりますが結局何と申しましようか、被害法益の点が問題になりまして、そのときに政府委員が一通り説明したのでありますが、いろいろ衆議院の方から今あなたがおつしやつたような質問がありまして、そのときに結局明確なはつきりした答弁ができなかつたというので、そういう明確を欠くものならば、今急に立法しなくてもいいじやないかというので、何と申しましようか、これは政府の方には気の毒ですが、十分に衆議院の方々に了解を得るような説明ができなかつたというのが流産の原因ではないか、そのときには今おつしやいました議員がどうこうというようなことは何もその席で言われなかつたと思います。ただ一つ問題になりますのは、それは十六年の話ですが、その後越えて十七年、十八年のときに戦時立法改正がありまして、そのときには今出ておる案に相当するようなものが立法されましたが、そのときは議員の方ははずしてしまつておるのです。議員の方はあつせんせられてもかまわない、しかし官吏たる者はというような立法になつているのです。それでそのときになぜそれじや議員の方々もそのうちに入れておかなかつた、それはありがたいようだが結局侮辱したようなことになるのだとおつしやればそれはそういうこになりますが、そういうようなわけで何したわけで、何も真正面に議員の方がどうだというようなことはないわけです。その点をお汲みを願います。
  98. 中島健蔵

    中島参考人 この点に関して私は意見を申し上げる資格がないのであります。当時今よりももつと国会に縁が遠いのでわかりませんが、ただ人情といたしましては、これは国会議員がどうのこうのというよりも、あらゆることを制定のときに第一に立つべきものが、根本的にはやはり政府あり、そこでは公然と出せるものであるということがいえますが、これは国会の審議に関して申し上げるのじやございませんから、一般に議事のいろいろな進行とか決議とかいうものは、これは利益というものもやはりあるのでありまして、それはまた悪いことでないのであります。たとえば利益代表である場合に、この利益を主張しなければもちろん任を尽さないことでありますが、一般論としてはそういうものが全然ないということを断言することはできないのであります。そうかといつてそういうことがあつたということはいささかも確証を持つておりませんし、わかりませんという程度しかお答えできません。
  99. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 関連です。議員ということがずいぶん問題になるのですが、今公務員一般職と特別職とあります。この点で多少考え方の違いが起つて参りませんか、いかがですか。
  100. 安平政吉

    安平参考人 私はその規定は詳しく研究しておりませんが、こちらさんの委員の方のおつしやいました通り、だんだん民主主義が発達して来ると社交ということは伸ばさなければならないので、われわれも外国へ行きまして、個人のこんなことも役所のえらい人ができるのかと思う点までずいぶん便宜をはかつてもらいまして感謝しておりますが、非常にそれは同感でありまして、ことに民主主義の何というようなことになりますと、これは委員とか議員をやつておられる方は、どうしても依頼せられることが多いし、またあつせんというような場合も起つて来まするが、ただその点について二つの点をチエツクせんければならぬのは、いわゆる儀礼的だとか礼儀的にやつたことは、これは社会観念によつて賄賂のうちに入らないのです。だからそれは賄賂ということにならぬのじやないかという判断で、運用の点でたとえば年末だとかあるいは社会観念上当然にこれは礼儀としてみなされており、それも要するに額ですが、健全なる社会観念から見ますると、それは儀礼、社交であつて賄賂というひとつの刻印を押すことができないという場合には、それをひつとらえて罪とすることはできないでありましようし、それからもう一つは、この取締りの立法は何と申しましても、冒頭に公務員ということになつておりますので、公務員が何かしてそうして賄賂とつた、結局は運用のことになりますが、いわば社会観念上この条文が適正に健全に運用されますれば、ただいまおつしやつたようなそういう点は十分に濫用を防げるのじやないか、この立法があつたからといつて社会常識上健全なる、これはドイツ語のゲフエリヒカイトという言葉で問題になつておるのですが、そこには限界がある。儀礼までも推し進めてこれが犯罪だという趣旨は、おそらく賄賂という観念にも入らないのではないか、こういうふうに思つておりますから、この点の御心配はさしあたつてないのではないかと考えます。
  101. 鍛冶良作

    ○鍛冶委員 今私の申します特別職というのは、主として政治的のことをやる者、それから選挙によつて選ばれておる者を入れております。よしあしは別としまして、われわれの一番大きな問題は選挙区の問題でありますから、選挙区の問題で中央官庁に関することは、ほとんどわれわれの常務のようになつています。やらなければ実際議員は成り立ちません。そこでそれをやれは、いわゆるあつせんです。それで、国に帰りますと、選挙民とわれわれはど密接な関係のものはない。飲むことや会合することはほとんど商売みたいにしております。そのたびごとに常識にはまらぬといつて、取締り官吏が、お前供応だ、ちよつと来いをやられたのでは、とてもたまらぬと思う。私はその意味で特別職と一般職とに区別を設けてしかるべきものでないか、こう申すのですが、これはひとつ安平さんから、ことに中島さんにも率直に述べていただきたい。
  102. 安平政吉

    安平参考人 それは御承知通り構成要件に該当する外的の行為がありましても、一般刑法論から申せば、法令とか何かに基く行為は、刑法三十五条によつて行為の違法性が排斥される、こう見てもいいのです。そういう法律論からいつて救済ができる。当然職務なんだということになれば、適正な職務行使ということじやないですか。形式論的にこの条文だけの形式から世の中の事実をじつと見ておつて、この形式にみんな入るからということになれば、これは事です。そこはやはり健全なる常識というものが限界をなしますから。
  103. 中島健蔵

    中島参考人 これは常識問題でございますが、たとえば今の選挙区の問題なんかは公益を目的としたあつせんだと思う。つまり公益というのは、限定はされておりますが、ある選挙区内でこういうことが行われれば大勢の人が便利だという場合で、これは賄賂ということにならぬのだろうと思います。今ここで現実問題としてわれわれの頭に浮ぶ具体的な事実は何かというと、私的な利益のために公務員が金を受取つてあつせんするということだと思います。それは解釈あるいは運用の問題だと思いますが、たとえばこういうことがあるとする。選挙区にあるある会社が、その会社がこういう法律が通れば非常に便利だというので、選挙区に帰つたときに莫大な金をかけてごちそうした、供応には違いない。前からの知合いだからいいというのでその供応を受けた上で、国会なり何なりで大いに運動をしたという程度ならいいですが、ところがそこに競争者があつた、あるいはそれが会社の利益だけで済めばいいが、どこかの不利益を招くことがあつた場合には問題になるということは、これはあり得ると思います。それがはたしてこれに該当するかどうかということになりますと、これは運用からいいますと、法律というものは個々の場合に当るのでしようから、たとえば起訴するとか告発するという場合でも、そう何でもかんでもめちやめちやに、こいつはどこで酒を飲んでいたというようなことでやるということになりましたら、これはもはや法治国ではないのでありまして、そうなると法匪国と申しますか、これはちよつと想像ができないことなんですが、無理に考えればそういうこともあるかもしれませんけれども、そうやれば当然社会的な非難も起るだろうし、私はやはり程度問題だろうと思います。  それから、いろいろな接待と賄賂ということは今区別が非常にあいまいのようであるけれども、これも、常識として大体これが善意行為によるあるいは社会慣習による接待であるかどうかということが問題になります。  それから外国の例は、これは非常にはつきりしておりますが、外国公務員が思い切つた金を使つて、これで自分職務の範囲内のことかと思うくらいなことをやつて便宜をはかつてくれるということは、これは別に反対給付を個人的に求めているわけでもなし、それによつてその国は利益を得るかもしれませんが、別に何も損もない、別にどこも痛まぬという意味で、これは比較の対象にならぬのじやないかと思うのであります。  選挙運動のときに行われる問題については、私は率直に申し上げますが、やはりこれは関係がありはしないかと思うのです。選挙運動について私は経験がないのでわかりませんが、あの猛烈な状況を見ておりますと、そういうときに何かのわくを置いておいた方がむしろ安全じやないかということが考えられるのであります。また特に選挙区との関係なんかになりましたら、この法律の範囲というよりはむしろ選挙法その他の問題になつて来るのじやないかと常識としては考えます。私どもはこの法律案を拝見したところでは、ただちにこれを逆用して選挙の干渉なりあるいは妨害なりをするであろうということは、割合考えずに済むのです。意地悪く考えて、あれをやつつけてしまおうというような警察官とか、あるいはそういう何者かがいるとすれば、それはこの法律に限らず、おそらくあらゆる法律がそういうことになるのであつて、この法律の場合の印象としては、そこまでは濫用される心配はないというふうに一応個人としては感じております。
  104. 林信雄

    ○林(信)委員 安平先生にお尋ねいたしますが、あらかじめ御説明を願いまして、さらに田嶋委員よりお尋ねいたしましたことについて、法律は実際運営の場合を立法に際しても特に留意しなければならぬという観点からこの法案をながみて、少し広過ぎるのじやないか、もう少し狭めてみたならば、という点から御意見を承りましたので、私も大体さような意見を持つております一人として感激しておるのであります。その御説明は、先刻の田嶋委員の質疑のときには繰返してはお述べになりませんでしたが、当初私の承りました範囲では「斡旋ヲ為スコトハ又ハ斡旋ヲ為シタルコトニ付」のこのあつせんの関係を、請託まで持つて行つたらどうかということがその一つであり、他の一つは、その地位の利用という点をいま少しく集約しまして、地位による影響力を利用しといつたような一つの例示的な御意見でお示しになつた、この二点であつたと思うのでありまして、大体わかるのでありますが、あつせんを請託とかえるというのは、この場合地位を利用して働きかける者が請託を受けてザツツ・オーライというのでありましようか、あるいは働きかけて、働きかけられる先の公務員が引受けた、こういうところになるのでありましようか、この場合はもちろん地位を利用しておる者の責任問題ではありますけれども、具体的な事実がどこまで行つた場合のあつせんにかわる請託行為なんでありましようか、それを伺いたい。
  105. 安平政吉

    安平参考人 ただいまの御質問でございますが、結論から申しますとまだそのこまかい点までは掘り下げて深く検討いたしておるのでありませんが、ただこのあつせんという言葉ですが、私は社会的常識人として、あつせんという言葉は、日本では非常にいい言葉だと思つております。これはなかなかいい言葉で、なるほどこの法律にあつせんという言葉を入れるのも古くからしばしばこれも案に盛られておりまして、たいへんいい言葉であると思います。たとえば労働関係調整法でありましたか、ああいうところの法律にもあるようであります。ただ一つ心配いたしますのは、このあつせんということ必ずしもただちに非合法、違法ではないのでありまして、あつせん、世話をするということはなかなかいい場面、合法的の場合もずいぶんあるのであります。何でもかんでもあつせんということになれは、すべてここの案文にひつかかるのだということでは、これは結局社会常識に反する。いい意味のあつせんというものは、どこまでも擁護しなければなりますまい。問題はそもそもあつせんというものが違法性を導いて来るという要因は何かというふうに、多少りくつ的に考えて参りますと、結局それは何か要求する、要請するんだ、こういうことをしてもらいたい、ああいうことをしてもらいたい、そういう要請にひつかかつて来るから、それで賄賂をとることがいけないんだ、こういうように考えて参りますれば、あつせんをしぼるに何らかの要求をなす。この意味でかりに請託という言葉を使つて、若干いい意味のあつせん行為をここのところではずして、何か少し無心を百いたい、お願いしたい、しかも大ぴらでないところのお願いをしたいというような要請、すなわち請託をなしたことによつて賄賂云々ということにするのもよかろうじやないか。化し今御質問になりました、それではその要求を受けた方が、その要求を聞いた範囲において、罪の成立を認めるのか、あるいは依頼を受けた方の公務員が、その要請に従うといなとにかかわらず、いやしくもあつせんする者が請託をなした限りにおいて、すべてばつさりとここのところの罪が成立するものとして処置するのか、どつちか。こういう点はまだ私は深くは検討していないのです。私の先ほど申しましたのは、あつせんということが、多少広きに過ぎるので、それをしぼるようにかえるというようなこと、これも私のはつきりした信念ではありませんが、何かそこのところを言葉をもつて適当にしぼりをかけて、法文から来るところの濫用というものを防止することが、ひいては国民一般の権利を保護するゆえんになるのではないか、ここまでしか考えていないので、こまかい点はまだ研究しておりません。
  106. 小林錡

    小林委員長 林君、簡単に願います。
  107. 林信雄

    ○林(信)委員 簡単にして、いま一点だけお伺いいたしますが、たびたび他の委員からも繰返されておりますように、実際問題といたしまして、これが立法化されました場合にどうであろうかという点が懸念せられます。一面また刑法概念から出て来るものでなくて、実際の要請に基きましてつくられる関係に相なる法律であります。すなわち法益関係から考えまして、あなたの御説明ように、この公務の適正なる行使を保護するという一面、この法案の、具体的に申しますれば、働きかけられる公務員関係の法益、もう一つは、公務員の廉直性の問題だ、ということは働きかけようとする公務員の側の問題であります。そういう二つのものを大事なものと考えるということ、すなわち法益とするという考え方はあるが、おのずからまた軽重もあると言われるのでありまして、これもわかるのであります。しかし廉直性の問題から参りますると、何といいましてもこれは公務員たる地位にあります者が、その地位の利用すなわち顔をきかせる、悪い意味の顔をきかせるということがこれは根本でありまして、よつて受ける利益という関係は、今までの関係において少くともこれはまだ輿論化しておるほどのものではないではないか、かりにそれがよろしくないといたしましても、基調となりますものは、何といつてもよろしくない方法によつて公務員に要求するということは、これは軽重の上においても非常に強いと私は思つております。その点を特に考えます場合において、先刻からも意見が出ておりましたように、公務員だから必ずしも職務外において一切の利益を得ていけないということは、これは行き過ぎであろう。大学に行つて講義をされるその報酬、あるいは官吏がその職務行為でない、職務行為以外の講演をすることによつて受ける報酬等々いろいろあるのでありましようし、多くはまた儀礼の中に属すると言われるでありましようけれども、友人関係より受けるもの、親族関係より受けるもの等々が数えられるのでありますから、私はこの場合その悪い意味の顔をきかして公務員の職責を適正ならしめないことにするその行為を最も憎むのであります。さような見地から、私もある程度の内容を持つこの種の法案も実は必要であろうとも考えておる一人でありますが、そういう観点から参りますれば、これは必ずしも賄賂罪という観念にとらわれずに、公務員がその地位を利用するということに似たものとしましては、同じく涜職の中の罪でありますが、刑法第百九十三条のいわゆる職権濫用罪、内容を読み上げるまでもございませんが、この性格に近いものとして立法せられますれば、実際の適用面において――これは実際家のみにおまかせするよりは、やはり立法いたします場合に考えなければならぬ問題として、この際考え方によつては法の運営上非常に便宜なものになつて来はしないかということであります。――あるいは適正な公務執行を企図いたしておりまする公務員のその行為が被害を受けるのでありますから、これにある程度似たものとしましては、刑法第三十五章の信用及び業務に対する罪であります。すなわち二百三十四条の「威力ヲ用ヒ人ノ妨害シタル者亦前条ノ例ニ同シ」といつたような、ある人の適正であるべきことをある種の力をもつて妨害するという面の性格を多く取入れて立法いたしますることも、これは立法技術として考えられることじやないかと思いますので、もしさようなことをお考えなつたことがございましようか、考えますことは私一人のみのつまらない意見なんでありましようか。それを思いますと同時に、この法案一つに対して――これはあなたにわざわざ質問するのもおかしいのかもしれませんけれども、これはかようなことになつて賄賂を収受したばかりを考えておりますけれども、私のような考え方をもつていたしますれば、その悪い意味の顔、私がかように言いますのは、いい意味の顔、一つの権威であるとか、その人の持つ人格的な徳望とかいうようなものは単なる顔とは言われないかもしれませんけれども、広い意味ではそうなると思います。そういう意味ではない悪い意味の顔をきかせまして、そうして公務員によからざることの請託を求めあるいはそれをなさしめたことによつて、他人からもらうのではない、自己利益をする、この場合はこの中に入つておらぬのであります。あつせん収賄である。自己の威力をきかしてと言うとこの際言葉は適切ではないかもしれませんが、その地位を利用して他の公務員職務に属する事項に関し自己利益を受けた場合も、これはひとしく非難しなければならぬと思うのであります。すなわち公務員の廉潔でなければならぬ立場から考えまして、これも処罰の対象としてさように逕庭がないのではないかということも考え合せました上で、物質賄賂関係に重きを置くよりは、どこまでもやはりその行為によつて妨害せられまする公務員職務の適正の問題に重点を置いて考えますことがこの際実際の要望にもこたえ実際の法の運営にも便宜であり妥当ではないか、こういう一応の意見を実は私は持つておりますので、生先の意見を承つておきたいと思うのであります。
  108. 安平政吉

    安平参考人 ただいまの御質問ごもつともでございまして、実は御説の通りこれを立法するとしても、わが国法律全体系の上からして、いかなる体系のもとにこれを織り込むかということについては相当問題があります。現にわれわれの方でも、これは立法する必要があるとしても必ずしも刑法の一部改正による必要はない、わかりやすく申せば特別立法の形式によつて立法する方が、いろいろの関係上かえつていいのではないかというような意見あるいは説さえもあるのであります。ただいまお考えになつておりました通り体系ということにつきまして相当議論がある。なぜその体系を争うかと申しますと、刑法改正ということになりますればこの条文ばかりでなく、考え方によりましては早急に刑法改正しなければならぬ部面もたくさんあるのであります。それらをまとめて刑法の一部改正ということになれば、これは特別の形式にせなければならぬ必要がある。と申しますのは、今お考えになりました通り公務員がその権力を濫用するというような点に重点を置きますと、これは法律性質から申せば一種の懲戒刑法の形であります。社会一般に対する法益の侵害というよりかも、国家に勤務して、そうして国家というものに忠誠に働くべきことを誓つてある地位におる者が、その本来の趣旨に反して行動するということになりますれば、これは本来、りくつ的に申しますれば懲戒刑法の分野に属します。現に賄賂罪というものは、ローマ法の古い時代におきましてはそういう意味で多分に懲戒的の性質を持つております。しかるに今日の刑法では、この罪はそういう懲戒的のことよりかも、先ほど鍛冶委員のおつしやつた職務の適正行使ということが非常に叫ばれまして、ひいてはこれは社会一般の公共法益を侵害するという点で、日本刑法などは現在のような体系のうちに入れておるのであります。ともかくもその点はいろいろ議論をすれば尽きませんが、私が特に皆さんにお願いいたしたく思います点は、これが国会に出ますとその体系なり、被害法益あるいは本質論については相当質問が出てその間に波瀾を来す、あるいは議論が交換されますから、これは婆老心でありますけれども、今のうちにこの委員会で大体においてそこのところの見通し、たとえば猪俣委員のおつしやるように腰をすえて、実は、これはこうなのだというはつきりした最後の一線をひとつまとめていただかぬと、公の議院でいろいろ質問がでると収拾すべからざる混乱が出て来る、こう思つております。この体系の問題、それから法益あるいは本質の問題は必ずしも一元による必要はないのでありますけれども、大体の基調はこういうところにあるということを、はつきりと立案の方につかんでおいてもらわなければ通過するまでにいろいろ質問が出る、その点を心配する。結論から申しますと、御心配になつております体系につきましては相当に問題がある。しかしともかくもあつせん収賄として収賄ということに重点を置かれる以上は、大体今この案の通り百九十七条の四あたりで立案せられるのがいいのではないか、妥当ではないか、私はそう思います。
  109. 佐瀬昌三

    ○佐瀬委員 簡単に両参考人にお伺いしたいと思います。  われわれは刑法を国家社会全般の立場から立法なり、解釈なりをして行かなければならぬという立場に立つておんのであります。しこうして立法の場合には、いやしくも刑法に関する限りは社会道義、規範の上から見ても犯罪とされるようなものを刑法に組み込んで行くというところに刑事立法の本義があると考えるのであります。法は最下低の道徳なりと言われておりますが、それは刑法においてことにしかりであると考えます。従つてあえて刑法百九十九条があるからして殺人罪があるのではなくして、また刑法二百三十五条があるからして窃盗罪があるのではない。窃盗罪、殺人罪は社会一般の規範の上からすでに犯罪視されておるものであります。かような立場の上に立つて例のベンサムも、かれに功利主義的な立法論者でありますけれども、やはりコモン・センスの上に立つて刑事立法考えなければならぬということを古くから主張しておるわけでありますが、さような立場に立つて法案をながめた場合に、先ほども各参考人からそれは賄賂という観念に入らない、かりにこの立法ができても、形式的に犯罪構成はあつて賄賂という観念には入らぬではないかというような御疑念も展開されておりますが、そういう意味をさらに徹底せしめて行くとやはり賄賂というものが一体どんなものであるか、これが法以前の概念として、はたして皆さんに把握できるかどうか、ことにこのあつせん収賄罪においてしかりであると私は考えるのであります。しこうしてもし第三者のあつせん的な行為がなお賄賂という概念に入り得るのは、やはり刑法の共犯理論で、概念を拡張して行つて共犯という範疇に入る限界においてそう言えるのではないか、孤立した第三者のあつせん的行為を一体賄賂と言えるかどうか、共犯にあらざるものを、共犯といつて考え得られないものを独立させて、賄賂という考えが妥当せしめられるかどうかということに疑問を持つのでありますが、刑法理論家として、また実務家として、ことに社会学的な観点に立ちまして、両参考人にこれらの私の根本的な疑問に対してひとつ御説明を願いたい。
  110. 小林錡

    小林委員長 それは午前中から大分ありました。それから鍛冶君からも聞いた。
  111. 安平政吉

    安平参考人 佐瀬委員のおつしやることごもつともでありまして、これはもう大分議論は繰返したのでありますが、一つにはこういうことも考えられるのではないかと思うのです。実際この賄賂ということは非科学的の観念でありまして、そこでもしこのあつせんということがかりに請託なら請託という線へ持つて行きまして無心を言う――筋の通らないところの無心を言うというところへ持つて行きますれば、それの対価として金品その他の利益が授受されますと、そこにおのずから非合法性の不正なる示威、すなわち賄賂という刻印が押されますから、やはりその点の心配を一掃する意味においては、このあつせんということを多少細工する必要があるのじやないかと思うのであります。いなそれよりも、しいて申せば、やはりこの賄賂というのは何としても封建的のにおいがする、漢字から見ても少し非科学的なものではないかというような気がするのであります。これを何とか片づける言葉がないかと思うのですが、ドイツ語のようにゲシエンクならゲシエンク、英米のようにブライブならブライブということならばいいのですけれども、日本は昔から長い間この言葉を使つておりまして、その言葉で固まつておりますから、今ここにおいて賄賂という言葉を一掃して、それではそれにかわるべき何か言葉があるかというと、ちよつと見当らないのです。見当らないのですからして、御心配のような点を一掃する意味において、前の方のあつせんということを細工し、地位を利用するということも、地位に基ずく影響力を濫用するというような方角からして、おのずからそこに賄賂というものの性格がわかるように、条文で細工して行くのも一策じやないか、こういうようなことも私どもは考えております。
  112. 佐瀬昌三

    ○佐瀬委員 共犯はどうです。
  113. 安平政吉

    安平参考人 共犯というのは委託、すなわち頼まれた方の役人が違法行為をしなければ、共犯は問題にならない。そうすると頼まれた役人が頼まれた仕事をしなければ、全然これは無罪ということになつてしまう。この立法趣旨は、頼まれた人間が必ずしもその頼まれた通りの仕事をしなくても、いやしくも、その地位を利用して何らかの請託をして、そして金銭を授受すれば罪が成立するというように、ちよつと広く、あなたのお考えになつている共犯以外の場合もこの立法で取締りたいという趣旨がら出ておりますから、そうすると共犯理論だけでは、ここの立法趣旨を全部説明することはできないと思うのです。
  114. 小林錡

    小林委員長 その構成要件を新しくつくるのだというのです。共犯理論でなく。そういう主張なんです。
  115. 佐瀬昌三

    ○佐瀬委員 わかりました。
  116. 中島健蔵

    中島参考人 賄賂という言葉は、法律用語として考えればむずかしいと思うのですけれども、要するにわれわれが考えると、やはり結果論になるのでして、右になるか左になるかわからないという場合に、それを決定的に右にした、あるいはほんとうは右になるものを左にしたというふうに、結果に変化を与える、その原因としてそこに何か個人的な影脚力があるというふうに考える、そうなりますと、それが直接にやつたか、あるいは間接にやつたかということになると、やはり私は社会通念からいえば、今のような結果を生じた場合には、この条文に規定する賄賂というように考える。というのは公務員たる地位を利用しということから、やはり賄賂という印象を与える。もしこれがそうでなくして、先ほど来お話があつた第三者、つまり公務員でない顔役などが金をもらつて公務員に働きかけるという場合と違つて自分自身が公務員であつて、職を奉じている、一定の任務を持つている。任務外のことをやつたわけであるけれども、全体に公務員という概念から賄賂になるのではないかというふうに常識としては受取れるのです。私どもの周囲では、言葉の用法としては、一般にそういうように賄賂というものを考えております。
  117. 小林錡

    小林委員長 それでは本日はこの程度にとどめておきます。御両君にはまことに長い時間にわたつていろいろ御意見を述べていただきまして、まことにありがたくお礼を申し上げます。  明日は午後一時より理事会、一時半より委員会を開くこととし、本日はこれにて散会いたします。    午後四時五十四分散会