○
参考人(
大平善梧君) 私は、
憲法第九条の問題は、普通の
憲法の
規定と違いまして、対外的な関係、外交的な関係における基本原則を定めたものと考えなければならないと思う。
従つて世界の態勢というものを念頭に置いて、
解釈しなければならない。
国際法のいろいろな知識というものをこの中に織り込んで、
解釈しなければならない。
日本の個人
——個人と申しましては何ですが、
日本の中だけで考える頭では、この
規定は見られないと思うのでありますこれは私の
意見でございますが、そういうふうに考えるわけでございます。
問題は、実は国際連盟の昔にさかのぼるのでありますが、国際連盟におきまして、
戰争に訴えないという思想をいろいろな
条約によ
つて具現しようとしまして、一九二八年、御承知のように
戰争放棄に関する。ハリ
条約ができておりますこの
条約は御承知のように、第一条におきまして
侵略戰争を放棄する。第二条において紛争の平和的解決に努力するということを
規定いたしております。ところが、これには残念なことには、制裁といいますか、強制的な手段がなか
つた。せつかく第一次戰後の平和運動、平和思想を具体化するところの強い傾向があ
つたにもかかわらず、なお実際の国際事情というものは、絶対平和、極端なるところの無抵抗主義というところまで行くはずがない。こういうような
現実がここに反映いたしております。また私は、極端に申しますと、不戰
条約の背後にあるところのものは、持てる国の、これから
侵略戰争は絶対しなくても安心できるという
一つの声というものが出ておることを、われわれは考えなければならないのであります。こういうような国際事情というものを反映して考えてみますと、この不戰
条約には歯がない。理想はあるのですが物をかむ歯がない。この歯を何とかつけようと考えたことが
二つあると思うのであります。
一つは、各国の
憲法というものを不戰
条約と同じような思想で
規定して、各国の
憲法の平和に対する国際化をはかろうとしたのであります。この運動は関係はないが、フランス革命以来のフランス
憲法、南米のブラジル
憲法、また第二次大戰後においての最近のボ
ン
憲法もそうでございます。これは
憲法学者の御説におまかせいたしますが、
憲法がそういうような平和に対する歩調をそろえ、そういうことを考えております。
第二の点は、不戰
条約の制裁の
規定を何とか強化したい。不戰
条約におきましてどういう制裁があるかというと、この
条約に違反した場合には、
条約に
規定する利益を均霑しない。そうすると、相手が
侵略戰争をや
つた場合には、こつちも相手に向
つて侵略戰争をや
つてもいいという報復的な
意味の制裁があるだけでありまして、これに対して
戰争犯罪人を処罰するとかなんとかいうようなことは、実は不戰
条約からは出て来ないのであります。これを強化するためには、どういう手段を考えたかというと、
一つは満州事変以後に発表いたしましたスチムソン・ドクトリンで、そういう状態を承認しない、こういうことであります。まだあります。それは無抵抗主義的な政策でありますが、
侵略者を援助しない、ボイコットする。特に
国際法的にこれを違法と認める。アウトローリー・オブ・ローという思想でや
つて行こう。これを強化いたしますと、あとの
憲法第九条の
解釈に非常に関係して来るので、ここで申し上げたいのであります。それは一九三〇年に、不戰
条約に関する
国際法協会
——アソシエーシヨン・オブ・インターナシヨナル・ローが
一つの
解釈をいたしまして、こういうようにして歯をつけたいということを言
つたわけであります。その内容はあとで申し上げますが、そういうように、なるべく不戰
条約に歯をつけたいというような考えで、今度の第二次大戰におきましては、
戰争犯罪人の処罰、
戰争責任のある国を非武装化するというような線にまで発展したわけであります。現在国際連合を中心として、国際防衛法典というものをつくろうとしておる傾向があるのであります。この傾向は完全なものではございません。いろいろな見方、いろいろな協定というものの案文はできたけれども現在完全なものに
なつていない、こういうように考えられるのでございます。私はこの
憲法第九条を
解釈する場合にそういう国際
情勢、特に平和運動というものを考えてみて、この問題を考えるべきであるというように思うのであります。
そこで最近、講和
条約が昨年九月八日にサンフランシスコにおいて無事調印された。これは多数講和でありますが、その結果といたしまして、同日安全保障
条約が締結されました。さらにその第三条に基く
行政協定ができた。それが二月の二十八日、東京において調印された。こういう新しい
一つの傾向が
日本に強く現われて来ているのであります。そういうように、国際
情勢がいろいろかわるわけでありますが、同時に
憲法制定までのいろいろな国際
情勢の反映が、私は非常に重要だと思う。同時にその後の国際
情勢の反映を、
憲法第九条の
解釈において受入れていいではないかというふうに私は考えておるのであります。しかし私の今日申します第九条の
解釈は、終戰後、この
憲法ができた当時に考えた考えだけを申しておるのであります。当時私は外務省のあるプライヴェートの
委員会に出ておりまして、こういう考えを述べたこともあります。また先ほど国民感情がどうな
つたかということをおつしやいましたが、私は学生を教えておるのでありますけれども、あの当時、新
憲法と旧
憲法とどつちがいいかと問うと、七五%は旧
憲法がいいと学生は言
つたのです。ところが四時間くらい講義しますと、その形がかわ
つたようであります。とにかくそういう
情勢であ
つたということも、またわれわれは考えなければならないのであります。そういうようないろいろなエレメントが、プライヴェートな問題としてはおるのであります。実は私は
国際法的な立場であるけれども、
憲法第九条に向
つて申し上げるのは、私個人の
意見であることを御了解願いたいのであります。
講和
条約が、
日本の安全ということについて、どういうことを
規定したかということをごく簡單に申し上げます。この中で
規定されておるところの
条文というものは、実はきわめて簡單なので、あります国際連合憲章の義務、特に第二条に掲げる義務を受諾した、これが第一点。それから第二点は、国際連合憲章第五十一条に
規定するところの、個別的または集団的
自衛の
意味の権利を有するということを承認してもら
つた。しかもその承認に基いて、アメリカと安全保障
条約を締結するということが予想されて、安全保障の集団的なとりきめを締結することに同意する、承認する。これは
日本が同意するわけです。結局承認するのですが、しかもその承認は、五十二箇国の中の三箇国が加わりませんから、
日本を除く四十八箇国によ
つて調印されたので、日米安全保障
条約締結が承認されたという形であるわけであります。そういうような関係からいたしまして、
日本が
自衛権を持
つておるということが、四十八箇国に認められたわけであります。これは、調印しない国に対して
自衛権を持
つておるか、持
つていないかという問題が次に残るわけでありますが、少くともアメリカの
日本に対する、あるいは
連合国の
日本に対する政策は、
自衛権に対してはかわ
つて来たと見なければならないのであります。これに三つの段階がある。
一つの段階は、御承知のように、
日本の完全な非武装化、ポツダム宣言の徹底的な
遂行ということでありまして、一九四五年九月二十二日、
日本に関するアメリカの
最初の政策が極東
委員会の承認を得たのであります。その中でちやんと
日本の非武装化をうた
つておるし、また極東
委員会で承認をしたから、
日本国憲法というものもこの線に沿
つておる。当時二十五年間
日本監視
制度というものが出てお
つたのでありますこういうような傾向もあ
つて、これはあまり注意されておらないのでありますが、
憲法の原案が出た当時、昭和二十一年三月六日に、マッカーサー元帥が、
日本の将来の安全保障について、
日本は生存権そのものも委讓したものである。
日本の主権に固有する権利も放棄し、
世界の平和愛好国の正義と真実に委託し、安全並びにその生存権すら引渡した。こういうふうに言われてお
つたのであります。これはアメリカの声明としては、
自衛権をはつきり認めていないというような声明だ
つたと思うのであります。ところが大分
情勢がかわ
つて参りました。特に東亜における国際的な摩擦が激化いたしますと、昭和二十五年元旦のマッカーサー元帥の声明は、
自衛権がないということは言い過ぎである。相手からしかけられた攻撃に対する祖国防衛の権利は保留されておる。こういうような
態度にかわ
つておるわけであります。そうすると、
自衛権という
意味がどういうことになるか。緊急やむを得ざる場合にはや
つてもいい。こういうように言われておるわけです。ところが昨年の元旦の声明は、これは挑戦事変が起
つてからでありますが、自己保存という
言葉が出て参
つたのであります。今までは
自衛であ
つたのでありますが、自己保存の権利、自己保存の法則は、
戰争放棄の
憲法の
規定に優先する。言いかえると、
憲法第九条よりも、
国家の生存保存の法則が優先するのだというのであります。実は先ほど
参考人の
お話にも、その点が触れられてあ
つたようにも考えるのでありますが、これはマツカーサー声明の
一つの
考え方の現われではないか。そういうような線に沿うておるようにも考えられるのであります。この自己保存の法則というのは、
国際法上、セルフ・プレザヴェイシヨン、自存の権利、あるいは自己保存の権利、生存権と訳していいと思うのですが、そういうような
言葉で
——これは前から唱えられておる
考え方でございますが、
国家が自己の生存を全うするために、やむを得ずしてなし得る、こういう
考え方でございます。しかし
自衛権というのは、セルフ・デペンデンスの限度で、実は許される限度が狭いのであります。生存権というものは
——実は自己保存権ということは今まであまり言わなか
つたのであります。国際連盟及び国際連合時代になりましてからは、自己保存の権利ということを
国際法上であまり言わなか
つたのが、マッカーサー声明に出たというところに
意味があるのであります。むしろ自己保存の権利というものはきま
つておるということで、それが潜在して、ある一定の条件のときに
自衛権という形にな
つて発動しておる、こういうように見られるのでありまして、
自衛権というものは、憲章第五十一条においては、
一つの大きな制限を受けておるわけであります。これは御承知のように、
武力行為
——アームド・アクトがあ
つたときには、緊急やむを得ずして行うということが
一つの条件である。第二に、国際連合の方で適当な措置をとる、あるいは安全保障
理事会で適当な
行動をとれば、その
自衛力発動はやめるということが第二であります。第三は、その措置をすみやかに安全保障
理事会の方へ報告する。こういう義務がある。第五十一条で、各連盟国がそういう条件を受諾して、実力を
行使することができる。本来安全保障
理事会は、各国の
武力行使を統制すべきであるにもかかわらず、これを各国にまかせる、こういうように
規定してあるのであります。しかもそれを個別的ばかりでなく、集団的にや
つてよろしい。集団的
自衛という考えで、これは
考え方としてはよほど古いのでありますが、
言葉としては憲章第五十一条に初めて出ておるところであります。数箇国間の連帶性をも
つて認めまして、その数箇国に対して攻撃があ
つた場合には、その中の連帶性を考えて、
他国についての攻撃であるけれども、自国についての攻撃であると同じようにして、
自衛権を
発動してこれを防衛する、こういうのでありますその点、
自衛という場合も、
他国を実際援助する。
従つて他国に出かけて行
つて援助する
自衛もあるということが、集団的
自衛の場合にはわかれるのであります。これは今までの
自衛権から見ると、憲章が拡大したものであります。この
自衛権を
日本に認める、こういうように言
つたのであります。国際連合への加盟を
日本はしばしば要請しておりますが、これは多分できないでしよう。これは加盟の要件を満たすことができませんと加盟できないのですが、しかしながら国際連合の憲章の第二条の義務を履行するというふうに言
つておりまするから、第五十一条の集団的
自衛の権利というものは、
日本も享有することができると考えられるのであります。そういうようなことに考えますと、
日本には
自衛権があり、集団的
自衛権もさらにある。こういうように
国際法上論定してよろしいと思うのであります。これが
国際法的立場であります。そこで集団的
自衛ということは非常にデリケートな問題でありまして、私はこれを肯定する立場であります。その先例や、その他申し上げることは、差控えたいと思います。集団的
自衛というものが
日本に認められ、その結果として、集団的安全保障をやるために、地域的とりきめを締結してよろしいということに
日本がな
つたわけであります。しかし、これには少し飛躍があると思うのであります。というのは、集団的
自衛というのは、具体的に
武力的攻撃があ
つたときに、これに対して防衛するのが、
自衛権の
発動であるが、そういう防衛をする
可能性がある場合には、あらかじめこれを準備する手続として、
条約を締結するということでありますから、予備的な防衛であります。事件を予想して、あらかじめ手を打
つておく。但し実力を
発動するのではないのでありましで、実力を
発動する準備の
条約を結んでおく。これが集団的安全保障
条約であります。しかもこの場合においては、外部からの
侵略でありますから、場合によ
つては同盟
条約の変形したものと考えることができる。
従つて仮想敵国ということは言わないけれども、そういうものが予想されるような
条約にな
つておるわけであります。そういう
自衛権を認めねば、ただちに集団的安全保障
条約を締結することができるかできないかということについては、
一つ問題があるのであります。なぜ問題があるかというと、憲章の第五十二条以下には、地域的とりきめの
規定があります。レジヨナル・アレンジメントの
規定、地域的とりきめを国連憲章は認めておる。各加盟国はその周辺の国々と結合して、いろいろ経済的、文化的の関係ばかりでなく、安全保障の関係も締結することができる。但し第五十三条によ
つて、この地域的な機関が実力を
発動する場合には、安全保障
理事会の許可がなければならない。せつかく安全保障のとりきめを結んでも大事の場合に
理事会が麻痺状態に陷
つておるとするならば、拒否権の濫用というようなこともありまして、許可がないとすれば、せつかくの地域的協定が実効を持たない。そこで地域的とりきめを第五十二条、第五十三条というようなものできめておりますが、その第五十三条を逃げようとして、第五十一条の方に肩がわりをしておおる。第五十一条もまた地域的とりきめでありますが、内容は集団的
自衛の
発動なのであります。そういうような関係からいたしまして、今日集団的
自衛を認め、同時にその
前提としての集団的安全保障
条約を締結する、こういうことにな
つておるのであります。
以上が
日本の講和
条約並びにそれに基く安全保障
条約の、実は論理的構造でありまして、集団的
自衛を内容とする
条約であるということが言えるのであります。そこで従前の国際協定の
規定と衝突する、わが
憲法その他の法律とも衝突するおそれがここに生じて来たと考えるのであります。というのは、これは対日講和が全面講和であるならば比較的問題はやさしいのでありまして、前の約束があとの約束でこわされる。だからポツダム宣言というものがかわ
つてしま
つたとも見えます。アメリカはポツダム宣言、ヤルタ協定というものは見合せたというのでありますが、これはまた一方的に破棄したというわけにも行かないのでありますから、
国際法的には残る、実際にはどうなるかわからぬが残る。そうすると前の国際協定と、今度の対日講和
条約の問題がどうしてもあとに残
つて来る。
国内的に見ますと
憲法その他の
規定と衝突するおそれが実はある。この場合には
国内問題でありますから、矛盾する点があるとするならば、国際
条約を優先せしめて、
国内法を修正して行くということをやらなければならない。これは現に今度の日米協定というようなものが、軍事基地、裁判管轄権の問題を
規定し財政負担になるようなことをや
つておりますが、その前にちやんと
行政協定は有効だということをきめておるわけでありますから、それに合せるように
国内法的な立法手続もとるというわけです。そういう矛盾し、衝突するようなことがあるとするならば、それを調節することが必要であろうと思う。しかし
日本国憲法は、私の考えておりますところでは、硬質
憲法である。軟質
憲法に対して硬質
憲法であ
つて、その改正には国会の三分の二、国民投票に付するということが必要であ
つて、みだりに改正を口にすべきではない。ここにおいて私は
憲法第九条の
規定の
一つの正しい
解釈を確立しておく必要を感ずるわけであります。そしてこの程度までは
解釈の幅がある、しかしてこれ以上は譲れない、特に国際
情勢というものを
憲法の論理
——憲法と矛盾することなくして、これに適応せしめるということは、実は
憲法学者及び
日本の政治家の任務であろうと考えます。
日本国憲法第二章の
戰争の放棄の
規定は、不当に広く
解釈されて来たと私は思う。不必要にまで
平和主義を徹底せしめて来た。これは
憲法の
解釈を、その当時の、特に改正新
憲法を宣伝した人たちの自己流によ
つて、拡張
解釈したものではないかというようにさえ私は感じておるのであります。その
一つは、
日本国憲法の
戰争放棄の
規定は、一切の
戰争を放棄したという説、これは実は恩師というか、私の習
つた美濃部
先生の説であり、最近の平和問題についての、あるグループの人達の
解釈であります。これはもちろん間違つおてるのでありますが、その根拠といたしますのは、現在
日本の
憲法の成文の英文
解釈を基礎として、国権の
発動たる
戰争の放棄を無制限にするというのであります。これは実はコンマがあるとないで、そういう
解釈が出て来るのであります。コンマさえ
一つ打
つておけば
——実は、初めの
日本政府の原案の英文は間違いなか
つたのであります。これはたびたびここで御説明があ
つたと思うのでありますが、無限定の
戰争の放棄が行われたものとは
解釈できない。これは不戰
条約その他の
国際法の先例
——不戰
条約におきましては
自衛権を認める。しかもこれは往復文書によ
つてはつきり認める。そればかりではない。イギリスのごときは実力による
自衛権の
行使もはつきり留保しておる。
日本は国策の具としての
戰争を国民の名においてやるのがいけない、天皇に対して恐れ多いというようなことで、それを留保したのでありますが、向うは具体的に実際のことを留保しておるのであります。この留保は
国際法上有効であります。事前の交渉でありますが、有効であ
つて「明らかに不戰
条約の中では
自衛権が認められておる。それは限定された
戰争の放棄であると考えるのであります。
従つて国際紛争の解決の手段にあらざる
戰争、すなちこれは何でも
戰争をや
つていいという
解釈では全然ないのでありまして、制裁のための
戰争この制裁のための
戰争という
意味は自分が相手を制裁するという
意味ではない。国際機関のなす制裁であります。国際連合というものが活動するならばするものでしよう。とにかく制裁のための
戰争及び
自衛のための
戰争、しかもこの
自衛のための
戰争というのは、具体的な
侵略というものがあ
つて、緊急やむことを得ずしてとるところの正当防衛であります。これはもちろんや
つていいのであります。
日本国が新
憲法によ
つて、
自衛権をも放棄したというがごとき
解釈が行われるのでありますが、私は、はなはだしい誤りであると思う。マッカーサーの先ほどの声明というようなものもかなり
意味はあるのでありますが、それでもはつきり
自衛権を放棄したとまでは言
つていない。そういう意思があ
つたというようにも考えられるのでありますが、はつきり言
つていない。当時の
憲法の起草に当られた国会の議事録その他でも、
自衛権、
自衛のための
戰争はしないというようなことを言われておるようでありますが、どうもはつきりしていないようであります。その点は、紛争の解決の手段としての
戰争というものをやらぬということははつきりしておる。言いかえれば、先ほど申し上げましたように、不戰
条約の
規定を各国の
憲法に入れるという、各
国憲法の
平和主義に対する国際化という
意味ですから、不戰
条約のそういう精神、そういう
規定が入る。だからそれ以上のものが入るということは考えられない、こう考えてよろしいと思います。
次に陸海空軍その他の
戰力の放棄、これが実は非常に問題になるのでありまして、ウオー・ポテンシャルというようなことが議論になりますので、実は私は
国際法学者として、
戰力というものを定義づけるために研究したこともありませんし、
国際法学上の問題では今まではなか
つたのでありますが、第九条の第二項の、前項の
目的を達成するためにというのは、制裁のため、または、
自衛のために、場合によ
つては
戰争を行うべきことがある、そういうことが裏面に予想されるならば、その
目的のためなら
戰力を持
つてもよいというような
解釈は、先ほどの
鵜飼さんの
お話では否定されております。これは私も賛成するところであります。
言葉は小さいことでありますが、前項の
目的を達成するところのとか、達成するのというような字でも入れれば限定されるのでありましようが、それはそういう
解釈はとり得ない。しかし
自衛のための
戰争をや
つてよい、制裁のための
戰争をや
つてよい、特に国際連合に入る場合、ある程度制裁に協力しなければならないというようなことがあるとするならば、
戰力というものの
解釈は、私はやはり幅が出て来ると思う。これが、私が申しました国際
情勢というか、国際関係というものを考えながら
憲法の
条文を読まなければならぬというところであります。すべての
戰力保持の否定とは考えられない。
国際法で、たとえば戰時禁制品というような場合、
戰争の用に供せられるものと、絶対
戰争の用に供せられないものというよううな区別をします。が、この区別はむずかしいのでありまして、ある場合は綿なども、綿火薬というものができたりして、
戰争の用に供せられるかもしれない。そうなりますと、あらゆるものが
戰争の用に供せられる。戰時禁制品という区別ができない事態に
なつている。何でも持つことができないということになれば、われわれ人間が生きて行くことができないということになる。そうなると、いろいろそこに定義づけることになるのでありますが、この定義づけは皆さんにおまかせするとしまして、陸海空軍その他正式の兵力を保持することが否定されておるということは、はつきりしております。しかし
治安その他の実力を用意することが、
憲法の
規定に反することはない。この
治安その他の実力というか、そういうものが問題であります。私は問題は、
戰力の
概念をあまり観念的にと
つて、純粋に
解釈するという
考え方に反対であります。但し
国際法におきまして、交
戰力と申しますか、交戰者と申しますか、そういうものを
国際法上どういうように考えるかということであります。これは問題は少し違うのでありまして、正式な軍隊、兵力は、これは交戰者であることは確かでありますが、それ以外のものが交戰者になるかならないかということは問題がある。そこで民兵及び義勇兵ということを問題にいたします。さらに民衆の抵抗、こういうことを
国際法は問題にしておるのであります。それは
憲法の
戰力とは直接関係がありませんで、実際に正式な陸軍力を持
つておる国は、なるべく正規の軍隊だけを交戰者としようとする傾向があり、そういうふうにいろいろな
条約の
規定で主張しておりますが、小国は防禦的な
意味からいたしまして、先ほど申し上げました民兵、それから義勇隊というようなものを主張し、さらに占領軍がや
つて来る場合の
侵入にあた
つて防衛するところの群民の蜂起、民衆の抵抗というものを認めようとしておるわけであります。これは言いかえれば、正式なる兵力でないものも防禦的な性格を持
つておる。そして弱い国がそういうことを主張するという
一つの国際先例になると考えられるのであります。現在
国際法上どういうような
規定にな
つておるかというと、一九〇七年のへーグ
条約は、陸戰法規の第一条及び第二条がこのことを
規定しておるのであります。第一条は、軍隊というものはこういう条件を持たなければならないという条件を書いております。それは指揮官があ
つて部下に対して
責任を負う。第二に遠方から認識し得るような徽章を、しかもそれは固着したバツジをつけなければならない。第三には
武器を公然と持つ。第四にはその
行動について陸戰の法規慣例に従う。こういう四つの条件を満たすならば、それは軍隊だ。そこで義勇兵及び民兵は軍隊かどうかということについて、
国際法はどういうようにきめておるかというと、これは交戰者の立場からいえば同じだというのでありまして、軍を構成し、またはその一部を構成しておるものはアーミー、軍隊という
名前で彼らを包含する、軍隊に準ずるとい
つておるのであります。第二条、第三条は、要するに民衆の抵抗でありまして、民衆が
侵入にあた
つて抵抗するという場合、公然と
武器を持
つて陸戰の法規慣例に従う場合には、これを交戰者と考えて、俘虜としてとらわれた場合にはそういう待遇をする、そういう特権があるというように
規定されております。こういうわけでありまして、私は
国内法的にはわかりませんが、
国際法的には、
日本の
警察力が
自衛のために
戰つたという場合に、これは私は交戰者になると思うのであります。それからまた人民が敵の
侵入に対して
戰つたという場合には、群民蜂起にな
つて交戰者になる、こういうように考えるものであります。実は私の同僚の植松という刑法学者が、この間私のところに速達で、刑法各論のことを書くとい
つて、私に戰いをするというのは、あれは
戰争放棄の
規定があるから、一切
戰争はできない。そうすると今の
警察予備際というようなものも、私に
戰争をするということになると刑法上の罪になる、そういうふうに書こうと思うがどうかということでありましたので、それはそういうわけではない。
国家の命令によ
つて行動しないで戰鬪行為をした場合、私に
戰争するということである。それから
ボン憲法の
規定からい
つて、
侵略戰争の予備をするというようなことも、またそこに含まれるかとも思いますが、とにかく私に
戰争するというのはそういう
意味である。しかもまた
自衛の
戰争状態というものが起
つておる場合には、人民が抵抗したというような場合にも、私に戰鬪するというのは刑法上の罪にならぬと私は考えると言いましたら、その通り書くと言
つておりました。
そこで第三の
交戰権の問題でありますが、これは一切認められないという考えが通説であります。特に東大を中心とする
国際法学者の説が、
国内法学者の説を支配しておるようであります。しかし
交戰権という
言葉は、英語が非常におかしいのでありまして、ライト・オブ・ベリジエランシイという
言葉を使
つておりますが、その訳文がおかしいと思うのです。これは
国際法学会の昨年秋の名古屋大会におきまして、この
言葉が問題になりました。ベテイーという
国際法学者で、外務省顧問をしていらつしや
つた方ですが、その方がライト・オブ・ベリジエランシイという
言葉は、はつきり聞いたことがないと言われたのでありまして、ベリジエランシイ・ライトという
言葉は聞いたけれども、ライト・オブ・ベリジェランシイという
言葉はない。これはしろうとがつく
つたのではないかと思われと言うのであります。要するに
交戰権なる語の、ライト・オプ・ベリジエランシイということははつきりしない。これは新しい
言葉と考えなければならぬ。これは一般的能力と個別的能力になるが、一般的能力は、
戰争関係をつくらないという能力、個別的能力というのは、具体的に、
戰争関係において、戰鬪行為をして、捕虜をつかまえる、スパイを銃殺に処する、あるいは海上における臨検捜査の権利、封鎖の権利を
行使する、こういうのが具体的権利であります。
日本はこれを主張しないと訳すべきではないか。というのは、先ほど
鵜飼さんの
お話があ
つたように、
日本憲法の第九条の
規定は他律的であ
つて、たとえば
戰力を保持することは許されない、こう言
つていたのを、保持しないというふうに、他律的から自律的にな
つたといわれておるのであります。大体
日本の
国家の対外的義務を
規定しておるのであります。対外的の関係でありまするが、実は対内的関係も、一般的の法律行為、
單独的な法律行為でやるということは、非常に限られておるのでありまして、講和
条約によらなければならないのであります。
条約によらなければ、そういう劾果は生じないのであります。そういう
条約によるべきことを、
条約によらないで、
憲法の中でやるのでありますから、結局自分の国の方針にするということ、それを主張しないというふうに
解釈すべきである。先ほど
日本の
憲法の通説かどうかということが言われたのですが、それについては佐々木惣一さんの説を御
参考に願いたいと思うのであります。佐々木惣一さんがはつきりと、
日本は
戰争権を主張しないという
意味だというふうに言われておるのであります。その場合、一般的能力と個別的な権利とを区別されておりません。私は一般的の権利能力を否定したものではないと思う。何となれば、
国際法上自分は
戰争をしない。おれは能力がないということを宣言しても、相手が宣戰布告をし、相手が実際に
戰争行為をすれば
戰争が起るのです。それは一方的に起るのだから、すべての国の
憲法が
戰争を放棄するならば、
国際法上
戰争の関係はなくなります。が、しかしながら
日本が率先して
戰争を放棄したのでありますから、一般的能力として
日本が権利の放棄をいたしたとしても、
国際法上の関係は残るのです。残るような関係があれば、やはり一般的
戰争をする能力はある。
従つてそういう
侵略があ
つた場合に、向うの捕虜をつかまえる権利がないじやないかといことになる。それから向うの
武器を押えた、これは犯罪の場合没収というような形で犯罪者の凶器を押えたというようなことになる。実は犯罪者ならば、これは刑法上の罪によ
つてやるのでありますが、捕虜に対する待遇というものは、相手側の軍隊に公正に與えなければならぬ。そういうことにな
つて来ると、これはやはり
日本に一般的能力は認めないと、万一そういう関係が起
つた場合に、
国際法的説明がつかない。現在は理想的なことを言
つても、そういうようなことが起り得る場合に、説明がつかないような議論をしても何にもならない。
日本が主張しないのは一般の権利能力である。先ほど言いました不戰
条約に関する
国際法協会の一九三四年のブタペスト
解釈条項はどういうのかというと、不戰
条約に入
つておる
侵略者に対しては、中立国というものはなくて、その国を援助しない。さらにその国が封鎖とか捕獲とか、臨検捜査というようなそういう
交戰権を実施することも承認しない、こういうように言
つておるのであります。そういうふうでありますから、ブタペストの
解釈条項をも
つて、私は国の
交戰権は認めないというふうな
解釈にしたい。封鎖権や臨検、拿捕の権利などの
行使を承認しないという一般能力を、ブタペストの
解釈は問題にしていない。問題は中立国に対する
交戰権の放棄である。
交戰権を放棄したから、国際
戰争はできないのではなくて、
自衛権においては
戰争ができるそれは今の
解釈で、一般的能力があると言
つたけれども、具体的な権利もあるわけです。一般的な能力があるとい
つても、具体的な権利を主張しないというようなことは、理由がないというのです。問題は中立国に対する、第三国に対する
交戰権の主張の放棄である。こういうふうに
解釈するのです。
従つて侵略者に対しての
交戰権を具体的にまで交戰能力と
解釈するのは、あまりにも観念的な法律
解釈で、その能力ということを問題にすることは、ドイツ流の大陸法的な
考え方である。わが
憲法の
解釈としては、これは採用しにくい。この普及した通説というものは、この際徹底して排撃しなければならない。こういうふうに考えておるのであります。私は
憲法学者として佐々木さんの考えを述べたのでありますが、こういうことは佐々木さんの本に
ちよつとヒントがあるのであります。
以上をも
つて私の話を終ります