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1952-03-14 第13回国会 両院 両院法規委員会 第4号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十七年三月十四日(金曜日)     午後一時三十分開議     —————————————     〔参議院両院法規委員長九鬼紋十郎君が 会長となる〕  出席委員    衆議院両院法規委員長 牧野 寛索君    理事 鍛冶 良作君       金原 舜二君    高橋 英吉君       加藤  充君    衆議院両院法規委員長 九鬼紋十郎君    理事 岡部  常君       竹下 豐次君    門田 定藏君       堀木 鎌三君  委員外出席者         衆議院議員   田中伊三次君         衆議院議員   金子與重郎君         衆議院議員   石川金次郎君         参  考  人         (東京大学教         授)      鵜飼 信成君         参  考  人         (一橋大学教         授)      大平 善梧君         衆議院法制局長 入江 俊郎君         参議院法制局長 奧野 健一君     ————————————— 本日の会議に付した事件  憲法第九条の解釈の問題     —————————————
  2. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) ただいまより会議を開きます。  本日の議題は、日六国憲法第九条の解釈について、参考人より意見を聽取することであります。  その前にお諮りいたします。本件は三月七日の委員会議題となることに決定を見ていたわけでありますが、人選その他についてお諮りする時間がありませんので、両院委員長で相談してきめたわけであります。それについて委員の御了解を願いたいと存じます。なお今後引続き本件について継続して行いたいと思いますので、人選その他については御一任を願つておきたいと存じます。  本日は衆議院議員田中伊三次君、一橋大学教授大平善梧君東京大学教授鵜飼信成君、以上の御三名にお願いをいたしました。都合によりまして、鵜飼先生からひとつお願いしたいと存じます。東京大学教授鵜飼信成君。
  3. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 憲法第九条の解釈の問題、これにつきまして、この条文は、従来普通に説明されておりますことでありますが、現在世界諸国現行憲法の中に、戰争放棄規定のあるものが相当にございますけれども、それらの規定と比較いたしまして、二つの点でこれと違つているというふうにいわれております。  その一つは、たとえばイタリア現行憲法の第十一条は、国際紛争解決の手段としての戰争を放棄する。それからフランス第四共和国憲法では、前文に、征服の戰争を企てない。それから大韓民国の憲法第六条では、侵略戰争を否認する。西ドイツ憲法、いわゆるボン憲法では、第二十六条に、侵略戰争遂行を準備する行動違憲とす。こういうふうにいろいろな規定がございますが、それらを通じて明らかであることは、いずれも侵略戰争だけを放棄するということを明らかにしておるのであります。しかし日本国憲法第九条の場合には、この点は戰争を一般的に放棄する、單に侵略戰争だけでないというふうに解釈されておりまして、その点が相違点の一点になるわけであります。  次に第二点といたしましては、日本国憲法は、單に戰争を放棄しただけではありませんで、それを行うための戰力をも放棄しておる。侵略戰争を放棄しております国でありましても、自衛のためには戰力が必要であるというふうな考え方から、通常戰力保有しているのでありますが、日本国憲法は、およそ一切の戰争を否認するという建前を十分に生かすために、他の国の憲法にはありませんところの、完全に戰力を放棄する、完全な非武装という制度を採用したのであります。この憲法改正案が審議されました帝国議会衆議院憲法改正特別委員会委員長芦田均氏は、われわれはこの理想を掲げて、全世界に呼びかけんとするものであると言つておられますし、同じく貴族院特別委員会委員長安倍能成氏は、政府態度を説明いたしまして、わが国の徹底的なる平和主義態度を内外に宣明して、これを世界に先んじてなさんとするものである。この点わが国に対する連合国の疑惑の払拭ということは、これは結果であつて、必ずしも目的ではないと言つているのが、参考になろうと考えられるのであります。  ところで、憲法第九条第二項で、わが国保有を禁ぜられている戰力とは何であるかということを、もう少しこまかく検討するのが、ここでの中心的な問題でございます。戰力という言葉は、言葉そのものが示しておりますところでは、戰争のための力ということになりますので、そこで戰争という概念と、カという概念との二つの要素をまず前提といたしまして、それが総合されて、戰力という概念が出て来るというふうに一応考えられるのでありますが、しかしその場合に、この戰争のための力という戰力の定義に対して、戰争のためでない力を考えまして、それを日本国憲法第九条第一項に上つております武力という概念が表わしているのだというふうに考えますと、これは少しく疑問ではないかというふうに私は考えます。すなわち戰力というのは、戰争目的として、それにふさわしい組織編成ないし装備を持つ力であるのに対して、武力というのは、そのような目的を持たない、それにふさわしい編成装備を持たない力というふうに対立させて考えますと、それは少しく問題であると思うのであります。なぜかと申しますと、第九条第一項で、戰争武力行使というものとを区別しておりますが、それは決して、一方が戰力発動であるのに対して、他方がこれと区別された武力行使であるというのではございませんで、いずれも同じように武力発動であるけれども、一方は国際法上の戰争宣言を伴つておりまして、従つて形式的に戰争と考えられるのに対して、他方はそれを伴つていない、従つて形式的に戰争と考えられないというだけの違いでございます。そこで武力行使の場合におきましても、紛争当事国間の関係で、戰時国際法適用があるという場合も考えられますが、いずれにしても、そういう形式的に完全に国際法上の戰争になるものと、それからそうでないものをも含めまして、この一切を、もしそれが国家間の武力的な鬪争であるというならば、これを放棄しようというのが憲法第九条の趣旨でございます。そこで戰争の場合に用いられております力というものと、武力行使の場合に用いられております力というものとを、本質的に違うものとして考えるということは正しくない。従つて戰力武力というものが、質的に区別されるという考え方も正しくないと私は考えるのであります。すなわち戰力というものを、何か高度の性能の高い力だけを意味するというふうに解釈するならば、それは誤りでありまして、第九条第二項が申しておりますのは、第九条の全体の趣旨を実現するために放棄しなければならない範囲の力だと思うのであります。  それは何かと申しますと、私はそれを解釈する場合に、戰力という文字に当ります英文の中の言葉が、ウオー・ポテンシャルとなつているところに十分注意を払う必要があるのではないかと考えます。これは二つ意味を含んでおると思うのでありますが、一つは、戰争というものが内在的な目的として考えられているということであります。もう一つは、これが潜在的なもの、潜在的な力であつても、すでにその中に入るように考えられておるということであります。まず第一の点から申しますと、戰争を行うことが内在的な目的なつているということは、その戰力戰争現実遂行し得るだけの力になつていなくても、やはりここで禁止されるものに入るということではないかと思います。たとえば戰争目的として部隊訓練するという場合には、その部隊戰争現実遂行するに必要な装備を十分に持つておりませんでも、他日一たびそのような装備を與えられさえすれば、十分に戰鬪能力があるという場合には、やはり第九条が禁止しておる戰力になるのではないか。戰争を行うことを内在的な目的にしているということは、形式的に、法令その他の文字の上で戰争目的が明言されているということは必要のないところでありまして、明言された目的が何であつても、たとえば国内治安警察というふうな目的であつても、その装備であるとか、編成だとか、あるいは訓練であるとか、その他諸般の条件から見まして、それが外敵と鬪う目的を内在的に持つていると客観的に見られる場合には、これはやはり戰力といわなければならないのではないか、こう考えます。  第二の点は、潜在的な力であつても、やはりその保有を禁止するということが憲法趣旨であるということであります。たとえば軍用機であるとか、武器、弾薬の製造方面であるとか、そういうものは顯在的な、あらわになつた力でありますが、そのようにあらわになつた力でなくても、民間航空機であるとか、あるいは飛行場、港湾施設といつたようなものでも、戰争目的に何どきでも転換し得るような潜在的な属性を備えていれば、それはやはり戰力と数えて、憲法が禁止しているというふうにいわなければならないと思います。このことは日本占領管理下で、まず日本戰争遂行能力を解体するという仕事が現実に行われたわけでございますが、その範囲は、事実上そういうことが行われたというだけのことでありまして、それがただちに規範になつて来るわけではないのであります。しかしその範囲を、さらに日本国憲法を制定します場合に、日本に対する規範として考えようという考え方はあつたと思います。それが現われたものが、日本国憲法の制定されますときの最初草案でありまして、その草案では、第九条第二項は、戰力の保持は許されない、国の交戰権は認められないという表現を用いております。すなわち他律的な表現が用いられていたのであります。それを憲法改正案を審議いたしました帝国議会を通して、日本国民がこれを自律的な形式に改めまして、戰力はこれを保持しない、国の交戰権はこれを認めないというふうに改めたのであります。そこで当初は他律的な規範つたものが、現在では自律的な規範として、日本国民自身がみずからに賦課していると思われます。従つて当初の日本戰争遂行能力の解体という自律的なものが、今日では規範的なものとしてわれわれを制限していることになろうかと思います。  以上申しましたところから見まして、最近行われておりますこの点に関する見解の中で、私は次の二つはどちらも間違いであると思います。その一つは、戰力というのは近代戰争を有効適切に遂行し得る力である、その限界というものは時と情勢とによつて、相対的にきまるという考え方でありますが、これは私はいろいろな問題が含まれていると思う。そのうちの一つ難点は、相対的にきまる戰力限界というものが、この戰力と思われるものをみずから動かしている専門家、その内部の人によつて、自己の都合で悪意的にきまるおそれがある。すなわちそれらの専門家が、みずからこれだけではとうてい戰争を有効適切に遂行し得ないということを、絶えず主張するおそれがある。これはちようど太平洋戰争自衛戰争とみずから呼びましたのに懲りまして、戰争を禁止する範囲をたいへんに広くしている本条趣旨と同じように、戰力を禁止しようという場合には、戰力でないという名前のもとに、戰力限界がたいへん高くきまることをおそれて、第九条第二項の規定は、戰力行使し得る——戰力行使し得るというのは、ちよつと言葉が誤解を招くと思われますが、潜在的な可能性を持つたものさえも徹底的に禁止しようという趣旨から見まして、正しい考え方ではないと私は考えるのであります。  それから第二の難点は、これと関連がむろんございますが、有効適切ということは決して絶対的には言えない。これは近代戰の性格からも来ることでありますが、もしも十分に有効適切な戰力というものを單独でつくり上げることだけが禁止されているということになりますと、これはわが国單独で、世界最強軍事国家になることだけが禁止されているということになつてしまいまして、憲法第九条はほとんど意味のない空文になるのではないかと思うのであります。この点で参考になりますのは、西ドイツボン憲法二十六条、これは先ほど申しました条文でございまして、そこでは侵略戰争遂行を準備する行動違憲とす。これらの行動、行為は処罰されるというふうになつております。侵略が起つてしまつてからではおそいのでございまして、その前の段階で、あらゆる制限をしようということを、ボン憲法も考えている。これに対して、先ほど申しましたように日本国憲法は、それら諸国憲法に一歩先んじているという考え方でございまして、日本国憲法は、当然にそういう広い範囲戰争準備を否定するという趣旨であると思います。  それからもう一つの問題は、自衛のための戰力は、第九条第二項の戰力ではないという考え方ですが、これも第九条の趣旨をほとんど無にしてしまうものであると私は考えます。自衛目的だけに使うつもりであるかどうかという、そういう意図が問題ではございませんで、客観的に戰争を内在的な目的とした力であるかどうかということが、本条戰力に該当するかどうかの基準でございます。そのようなものは禁止されている、こう見るのが正当ではなかろうかと私は考えます。  これで私の意見の供述を終ります。
  4. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) 何か鵜飼先生に御質問はありませんか。
  5. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) 武力のことですが、戰争目的とするといなとにかかわらず、戰力であるのですか。よくわからないのだが、どの程度のものを戰力というのですか。どんなものでも戰力というのですか。
  6. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) いいえ、そうではございません。
  7. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) 最初戰力は、戰争目的とすると言われたようですが、戰争目的とせない力とおつしやつたのは……。
  8. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) そうではございません。第九条の第一項の戰争というのは、第九条第二項の戰力目的なつてい戰争よりは狭いということです。そこで第九条第一項の戰争というのは、国際法上、形式的に戰争と認められているものであります。しかし第九条第一項の武力行使の方も、これも実質的にやはり戰争と見るべきものがある。従つて第二項の方の戰力目的なつている。だから武力という名前だけで、第二項の禁止規定適用を免れるということはできない。つまり第二項の戰力というものは範囲が広いのだ、こういうことでございます。
  9. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) そこまではわかりますが、戰争のための力と、こう言われれば、戰争をなし得る何らかのものは持つておらなければ力になりませんね、ところが武力の場合は、戰争目的とするといなとにかかわらず、相当の力であれば、それは武力ということになるのですか、こうお聞きしたのですが、その相当の力というのは、どういうものをいうのですか。
  10. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) その場合の武力というのは、広い意味戰争を内在的に目的にしてない、またそれに転化する可能性のないというものであれば、これは私はここでは許されていると思います。たとえば純然たる国内秩序維持のための力、これは当然あらゆる国家が持つていることです。だからそうでない広い意味での戰争——第一項でいつている武力行使国家間の武力行使状態、それを目的にした力であれば、形式的な戰争というものを目的にしていなくても、やはり戰力として禁止されている、そういう意味であります。
  11. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) そうすると、どこまでも敵対ということが前提でなければいけないわけですね。顯在であろうが、潜在であろうが。
  12. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 私はそう思つています。
  13. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) そうすると、さらに進んで聞きたいのは、敵対というのは、敵対し得る力がなかつた有名無実ですから、そういう場合は武力と認められませんか。
  14. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 敵対し得るかどうかということは、これの判断についていろいろ問題が起こりますが、私の申しましたのは、そういう組織自体が内在的に——だれがどう言つているとか、考えているとかいうのではなくて、客観的に見て、これはそういう目的を内在的に持つている、こう判断されれば、これはやはり戰力ということになります。
  15. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) 先ほど自衛力は認めていいとおつしやつたのですね。
  16. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) いいえ、そう申しません。
  17. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) そうですか。自衛と言うていけなければ、治安ですか。
  18. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) はあ、治安は、私そう申しました。
  19. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) 治安の場合に、かりに外国から不法侵入があるとすれば、これほど国内治安を乱すものはありません。そのとき使つたら、どんなものでもそれは武力ということになるというのですか。
  20. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) はあ、私はそういう場合に対処し得る力は戰カであると思います。
  21. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) 対処できるかどうかは知らぬが、素手ではおらぬというのです。何ものか持つてつてやるでしよう。戰争となれば、これは別ですよ。それは問題はない。そうじやない不法侵入して来た——先ほどあなたのおつしやるように、自衛力という言葉国内治安だけというならば、国内治安として、外国から不法侵入があつて、これを黙つておれば、これほど大きく自国の治安を乱すものはありませんから、何らかの防備をやる。たとえ素手ででもやる。その場合は、これはやはり武力なのですか。
  22. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) そういう場合を、ある制度なり何なりが前提として、そういうものを内在的に保有していれば、これは私はやはり広い意味での戰争目的とする力であるから、第九条第二項の禁止している戰力だと思います。そういう意味保有しているのでなくして、現実外敵侵入があつた場合に、あらゆる力を動員する。動員されたものはやはり全部戰力かといえば、それは戰力でないものもおそらく入つている。でありますから、客観的に見て、そこに潜在しているもの、そういう場合に対処することをそれ自身目的にしているものだけが禁止されている。それ以上のものは、たまたま自衛のために使われたにすぎないというふうに私は考えます。従つて第九条第二項で禁止しているのは、そういう内在的目的が客観的に明白なものだけであります。
  23. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) 大分明瞭となつて来たようですが、そうすれば、まつた国内秩序を維持せんがためだけで持つてつたものということが明瞭であれば、他国の侵害があつた場合にこれを行使しても、これは武力にあらずということになるわけですが、そうすると、初めから客観的に見て、これは外敵が来たときに防ごうとするものであるか、もつぱら国内治安目的とするものであるかで、きまるわけである。こう解釈するよりほかなくなるのじやありませんか。
  24. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 私、そう思います。内在的にそういうことを目的にして存在しているかどうかということが、判断の標準だと思います。
  25. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) 私遅れて参りましたので、先生お話がそこに触れておつたならば、はなはだ失礼だと思いますが、念のために伺いたいと思います。この戰力を、これは政府としての統一解釈だと思います。木村法務総裁が主としてそれに当つておるわけでありましようが——近代戰を有効適切に遂行し得る力でなければ戰力とは認められない、これが最近の政府の統一した解釈だと思うのですが、こういう学説がどこかにございましようか。私どもは学者でないが、先生はいろいろな学説を御承知だと思いますので、そういう学説がどこかにありましようかということを伺いたいと思います。
  26. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 私、不敏にして存じません。
  27. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) 私も寡聞にして存じないのですが、新説が出て参りましたから、念のためにお聞きしたいと思つたのです。それから、今のお話は、戰力というのは、ふだんからそういう目的を持ちつつ持つているある程度の力で、すなわち他国からの侵略があつたときに防ぐということが、偶然に持つておる力を動員された場合には戰力でないが、しかしふだんから客観的に内在して、そういう目的に使われるだろうというような場合には戰力だ。大体こういうような御解釈をなさつておるように考えるのでございますが、そうでございますか。
  28. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) そうでございます。
  29. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) そうすると、もう少しはつきりお聞きいたしますが、今警察予備隊というのを七万五千人持つておる。二十七年度は、数は——これは戰力解釈には意味がないと思つておりますが、とにかく十一万人にふやそうとしておる。法令では、警察予備隊というものがあつて国内治安を維持するためにという目的を與えてある。ですから、目的からいえば、あくまでも法令上は国内治安目的としておるという組織を持つておる。しかし少くとも日本安保条約によつて自衛力戰事責任を果すためにこれを増強するのだということは、予算審議にあたつて大蔵大臣総理大臣もお言つておる。治安維持ということは、法令上の組織としては目的がはつきりしておる。しかし今度安保条約を結んで、自衛力戰事責任日本が持つて警察予備隊をふやすということになれば、それは自衛力による戰事のためだということになる。これは安保条約によつてつた、こういうのです。それから安保条約目的によつて安保条約第三条に基いて行政協定を結んだ場合に、第二十四条で直接の脅威が生じた場合、情勢が緊迫した場合には、駐留米軍と共同してこれに対処するということが、条約としてあるわけです。このときの警察予備隊は、憲法でいいます戰力でございますか、戰力でございませんか。先生の御解釈を伺いたい。
  30. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 私は、法令の明示しておる目的だけが目的であるとは必ずしも考えません。内在的目的と申しましたのは、客観的に日本がどういう目的を持つてつたものとして存在しておるかということから判断すべきで、従つて警察予備隊令が何といいましても、警察予備隊存在そのものによつて、その目的判断される。ただ安保条約に基く行政協定第二十四条、ここで警察予備隊が負担する目的というもの、それに耐え得るものは、予備隊自身でそういう目的を自分の存在の中に当然取入れるべきであつて、そうなれば、私は、私の解釈としては、やはり戰力になるのではないか。そういうふうに考えます。
  31. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) 少し先走つたのですが、ともかくも、今おつしやつた法令上どういう目的が與えられておつても、客観的に見てそういう場合に使い得る力だ、こういうことが考えられる場合には、これはすでに戰力だ、こういうふうに御解釈になると考えていいでしようか、
  32. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) そうでございます。
  33. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) そうすると、安保条約がなくても、警察予備隊令によつて警察予備隊には国内治安目的とするという命題が與えられておつても、実際に編成をして、武器を持つて訓練をする。そうして何といいますか、ともかく何か軍隊に似たものだといつてもいい。そういうものがあれば、これは客観的に見て、健全な通常人の頭でもつて考えれば、これは戰力でございますね。先生の御説だと……。
  34. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 現在の警察予備隊がどういう訓練をし、どういう装備を持つておるか私存じませんから、その点についての判断はできませんが、もしそういうものがあるとすれば、法令のいかんにかかわらず、戰力であるというふうに私は考えます。
  35. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君)だんだん討論のようになりますが、今おつしやつた行政協定の第二十四条の問題で、先ほど言つたよう外敵侵入があつたときに、協議の上で適当な処置をとる、こう言つておるから、外敵目的とするものは、これは戰力だということには、相当議論があると思うのです。というのは、国内治安だけにあるものでも、事いやしくも外敵が入つた以上は、先ほど言つたように、これほど大きな国内治安の撹乱はないのですから、日本の力の限りにおいて、なすべきことをやるというのは、私は当然だと思う。その場合に、さて外敵戰つた、だからこれは国内治安でなかつたとは考えられぬ。だから先ほど私が言つたように、そうすれば客観的に日本装備、力で判断するのですかと聞いたら、そうですと言われたけれども、行政協定に基いて、外敵を防ぐことをやれぬとは考えられぬ。その点どうですか。
  36. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 目的法令によつて與えられたからということを申したのではありませんで、目的法令によつて與えられることによつて、ある程度警察予備隊なら警察予備隊存在自体が、それに対応するものになれば、それは戰力だ、こういうことでございます。
  37. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) それならいいのです。先ほどちよつと私がそこを聞いたのですが、行政協定に基いて、いつでも敵対行為ができる。武力を持つていないでも、現在の装備、力で敵対するということになれば、それが戰力だ。こう解釈されると思いますが、そうでございますか。
  38. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 装備と必ずしも私は限定いたしませんで、そういうものに使うということを目的として存在しておるということが生じます。
  39. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) そうすると、目的できまるのですか、形できまるのですか、どつちですか。
  40. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) それが私が申し上げました内在的目的という表現でありまして、目的がほかにありまして、それにちつともふさわしくない存在であるというなら、内在的目的にならないのであります。その目的自身が違法性を持つておるということで、内在的目的という表現を用いたのでございます。
  41. 鍛冶良作

    委員鍛冶良作君) 目的できまる、こう解釈してよろしいのでございますね。
  42. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) そういう意味目的であります。
  43. 加藤充

    委員(加藤充君) これは多分佐々木博士の説だと思うのですが、佐々木博士の憲法第九条の解釈については、いろいろ問題があると思うのです。ただこの際確かめておきたいことは、佐々木博士が戰争という問題について、憲法第九条と関連のある意見の開陳をやつておりますが、その点一つお確かめ願いたいと思うのであります。ある国がわが国の防衛を引受けるということは、その国の一定の軍隊が、わが国の戰略的重要地点に駐屯することを意味しないわけには行かない。その軍隊のための軍事基地が、わが国内に建設されることを意味しないわけには行かぬ。またその軍隊のための諸施設のみならず、諸軍需品製造工業がわが国において発展することも、当然に要請されるであろう。それは明らかにこの戰力を保持することである。戰争が開始された場合、軍隊、軍需品等の輸送には、当然に日本人が従事することを必要とされるであろう。このこと自体すでに戰争行為である。こういうことを言われておるのですが、これは今問題になつてい警察予備隊だけの問題じやないと思うのです。ここに指摘されたような事実、それからその事実並びに行為があつた場合に対する法律的な解釈戰力の保持であり、それはすでに戰争行為であるというような事柄、これについては先生はどうお考えになりましようか。
  44. 鵜飼信成

    参考人鵜飼信成君) 私は今の問題になつております外国の駐留軍というものが、憲法第九条第二項とどういうふうに関連するかということは、相当むずかしい問題を含んでいると思います。日本国憲法第九条第二項で義務づけされているものが何人であるかということは、いろいろ問題があると思いますが、私はやはり憲法規定自身は、直接には政府が義務づけられているわけで、これは前文の中にも、「政府の行為によつて再び戰争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」 という文字があることからいつても、そう見ていいのではないか。ただ問題は、この政府の行為というものが、積極的な行為、つまり自分自身が軍隊を持ち、軍需工場を持つということだけを意味するのか、あるいは政府の行為というのは、それだけでなくて、軍隊を日本に置くことを懇請する、請求する、あるいはもつと進みますと、軍隊あるいは戰力日本国内存在することを許容するということまで入るかどうかということについてはいろいろ疑問があると思います。私の考えでは積極的に軍隊を日本に置くことを請求する行為までは、やはり明確に第九条で禁止されているのじやないか、しかし日本に軍隊が存在することを許容するということは、直接には第九条の禁止ではなくして、もし問題になるとすれば、日本国憲法全体の精神からいつて、それは望ましくないというふうなことになる、そう考えます。
  45. 加藤充

    委員(加藤充君) あとは意見になりますから、この程度でとどめます。
  46. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) それでは、いろいろ御質問はたくさんあると思いますが、あとの参考人の方の御都合もありますので、この程度で鵜飼先生に対する御質問は打切りまして、次に田中先生一つ意見を承りたいと思いますが、御異議ありませんか。     〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
  47. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) それでは田中伊三次君。
  48. 田中伊三次

    委員外衆議院議員田中伊三次君) 研究が未熟でございますので、本日御喚問をいただきましたことをまことに恐縮に存じております。お手元に差上げました資料によりまして、私はまずこの憲法第九条の解釈を、文言をありのままの姿においてながめましたそのままで、一応の解釈を下してみます。そしてこの憲法第九条の明文の上に現われてはおらないけれども、憲法全体の上に、また憲法に関連をして現われておるところのいろいろな事実を総合して、精神解釈といいますか、立法の精神から解釈をすればどうなるか、こういう二つ解釈を施してみまして、最後にこの憲法第九条の解釈と関連をいたしまして、自衛権をめぐる問題、さらに具体的に申しますと、警察予備隊と軍隊の区別の限界、こういう問題について若干の意見を申し上げてみたいと存じます。一々六法をお持ちをいただかぬかもしれぬと考えまして資料といたしまして、一応憲法第九条の明文をここに書いておきましたが、この憲法の明文をありのままに——いろいろ意見を加えないで、ありのままに、その姿のままで一応拝見をしてみますと、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」、こういう前提がございます。これはいかなる意味かと申しますと、日本国が戰争を放棄せんとするにあたりまして、戰争を放棄する気持になつた、そういう決意をいたしました動機はどうか。すなわち戰争放棄の動機をここにつけ加えて書いたものである。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」する、それゆえに、それを動機として、ここに憲法の改正を行うのだ。まず第一に動機をうたつております。  その次に、しからば戰争放棄というが何を放棄するのか、どんなものを放棄するのかという放棄の対象でございます。放棄の対象を三つ規定をしております。第一は「国権の発動たる戰争」、第二は「武力による威嚇」、第三は「武力行使」、この三つのものを放棄の対象として、戰争を捨てるのだということを書いている。文言の解釈などははなはだ御無糺でありますが、「国権の発動たる戰争」と申しますのは、今お話にもございましたように、これは戰争国際法適用のある普通の戰争、こういう意味であります。しかしながな宣戰布告があるかないかは問わない、国際法規が適用される戰争であれば、その国の国権の発動たる戰争、こういうふうに考えなければなりませんそれから第二の放棄の対象たる「武力による威嚇」でございますが、第三の「武力行使」を先に説明をいたしますと、第三の対象であります「武力行使」と申しますのは、戰時国際法規の適用はない、適用はないけれども、しかしながら外敵と鬪争をしておる。すなわち戰時国際法規の適用されない外敵鬪争というものが「武力行使」である。たとえていえば、どんなものであるかといいますと、まあたくさんありましようが、日本に関連する例を申し上げますと、ノモンハン事件、張鼓峰事件、満州事変、日華事変と申しますか、日支事変と申しますか、こういうものは、いずれも「武力行使」である。戰時国際法適用がございませんが、事実上戰鬪行為をやつております。それから放棄対象の第二でありますところの、「武力による威嚇」でございますが、これは「武力行使」に至らぬけれども、言い分を聞かない、つまり外交的な国の主張をいれないならば、武力行使してやつつけるぞという威嚇で、そういうおどしを言う場合でございます。これの例もたくさんございますが、最も著しく全世界から非難を受けました例は、大正四年であつたと思いますが、対支二十一箇条要求事件というものがございます。そういうものを一つの著しい例としてあげることができます。が、そういう意味の国権の発動たる戰争、すなわち戰時国際法適用される戰争、それから武力は使わないが、言うことを聞かなかつたらやつつけるぞという武力による威嚇、さらに威嚇を越えて、武力を実際に使う、ノモンハン、張鼓峰、支那事変、満州事変といつたような数箇の事例を申しましたが、そういう武力行使を行う。そういうことは放棄するのだ。こういうふうに放棄の対象を三段にわけて規定しております。  その次は、しからば戰争を放棄するのだが、全面的に戰争を放棄するのか、どんな場合であろうとも、戰争の放棄は断固やるのか。一大理想といいますか、高度の理想主義にのつとつて、全面的に放棄するのかどうか。いわば戰争を放棄する範囲といいますか、程度といいますか、範囲という方がむしろいいと思いますが、戰争放棄範囲を次に規定しております。その範囲は、「国際紛争を解決する手段としては、」放棄する。こういうふうに範囲を局限いたしておるわけであります。国際紛争解決の手段ということは、ちよつと説明がいりますが、国際紛争が起りました場合に、国際紛争を解決す  る手段として、すぐ戰争に訴えることは、国際法上違法の戰争ということになる。それはいかなる理由がございましても、どのような正義の事情がございましても、ただちに戰争に訴えるということは、国際法上違法であります。それは国連憲草に明記してあるところでございます。国連憲章の規定によりまして、国際紛争が起つたときには、やはり国際調停、国際裁判という方法に訴えまして、言葉をかえれば、平和的手段、方法によりまして、国際紛争の解決をすべきもので、戰争に訴えることは許されないということが国連憲章にございます。従つて、国連憲章に加入しております世界においてのことでございますが、これは数十箇国の加盟国の間で、国際社会の常識をもつていたしますれば、この国際紛争を解決する手段としての戰争、すなわち国際裁判にもかけず、国際調停にも努力しないで、ただちに戰争に訴えることは許されない。言葉をかえると、そういう意味国際法上の違法の戰争をするということは、永久に放棄すると書いてあります。これがありのままにながめた文言の上の解釈であると私は信じております。  次にこれを反面解釈をいたします。逆の解釈をいたしますと、第一項の規定だけによりますと、国際紛争解決の手段としての戰争でない戰争、国際裁判にも訴えない、国際調停にも訴えないで、すぐに戰争に訴えたという違法の戰争でない戰争、いわば制裁の戰争まことに不都合なことをして来たから、制裁をするという戰争、制裁ないし膺懲の戰争、あるいは向うから先に理不審に攻め込んで来たんだからという意味で、防衛の戰争、そういう自衛戰争、制裁の戰争ないし膺懲の戰争というものは、国際法上は違法ではございません。なぜ違法でないかというと、国連憲章によりまして、国際紛争を解決する手段たる戰争でないから、これは違法の戰争ではありません。いわば適法の戰争でございます。そういう適法の戰争はやつてよろしい。こういうことになるわけでございます。第一項のみの解釈によりますれば、違法の戰争でない適法の戰争はやつてもよろしい。それは放棄していない、戰争放棄範囲が一部しか放棄されていません。他の一部は放棄されていない。その範囲の一部は、違法の戰争を放棄する、適法の戰争は放棄せぬでいいこれははつきりした問題でございます。  そこでさらに進んで第二項に御着眼を願いたいと存じます。違法の戰争はいけないが、適法の戰争はやつていい。こういう建前をまず一項に規定しておきまして、今度第二項に持つて参りまして、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。」廃絶する。「国の交戰権は、これを認めない。」という規定があるわけでございます。第一項の目的をそのままに、かけひきなしに、つまりやり過ぎることなしに、徹底する条文をつくろうといたしますと、前項の目的云々という第二項はいらない。第二項さえなければ、われわれは自衛戰争をやつていい、戰備を持つてもいいということになるわけであります。しかるにかかからず、日本の国は、皆さん御承知のように、わかり切つたことを申し上げて恐縮でございますが、思い出しても過去にいろいろな例があります。昭和四年のいわゆる不戰条約に参加をいたしましたが、その不戰条約という国際条約に参加をしておりながら、わが国は不戰条約を打破つて戰争に導いたという経験もございます。あの不戰条約は、ここに書いてある憲法第九条と同じことが書いてある。不戰条約の内容は、そういう違法の戰争はやらないということが書いてある。しかし一方それを書きながら、他方において戰力を持つてつた。正当な戰争はやつてよろしいというために、戰力を持つてつた。その戰力は、違法の戰争をやるための戰力でなくて、適法の戰争をするための陸海空軍であつたのでございますが、とにもかくにも、そういう戰争をする道具を持つてつたものでありますから、そこで思わず知らず戰争に巻き込んでしまつた。こういう過去の日本の失策がございますので、この事実にかんがみまして、本来適法の戰争だけはやる戰力は持つていいはずでございますが、ここで思い切つて——、学者の言葉をかりますと、多くの人が、第一項の目的を確保するために、徹底するために、それを裏づけるためにと書いておりますが、日本の十数名の学者の学説を総合して研究してみますと、第一項を裏づけるために、その誠意を示すために、徹底するために、陸海空軍その他の一切の戰力は保持しないのだ、国の交戰権それ自体も認めないという、こういう規定を設けてしまつたわけでございます。  そこで私の解釈の結論を申し上げますと、違法の戰争を行わないために、戰力を廃絶いたしまして、交戰権も否認したのであります。戰力を一部も残さずに全部廃止してしまつた交戰権も全面的、絶対的に廃絶してしまつた。その結果を考えてみると、正義の戰争といえども、できなくなつたというわけであります。第一項の目的を達成するため、これを徹底させるために、われわれが反省したあまり、もう戰力はなくしてしまおうということで、国の交戰権をみずから否認をした。その結果として、不正の戰争ができなくなつたことは当然のことでありますが、やつてもいい正義の戰争さえも、交戰権が否認され、戰力が廃絶されているために、戰争のやりようかない。やれなくなつた。第一項の解釈の結果は、侵略戰争に対しましては、自衛戰はやれる。不都合なことをして参りましたときには、膺懲の戰争はやつてもいい。しかし第二項の戰力廃絶、交戰権否認の結果において、そういう戰争さえやれなくなつた。これが少しもいろいろな材料や言葉を他から借りて来ないで、ありのままの姿で解釈をいたしました解釈になると私は考えておるわけでございます。  されば自衛権というものはどうなるのかという問題でございますが、自衛権というものは、新憲法下の日本においても、自衛権があるということは何人も争うてはおりません。自衛権は確かにある。人間は生れながらにして、天賦自由の人権を持つておるといわれます。その人の持つております人権というものは、憲法で與えられるものでもなく、法律によつて認められるわけでもない。人がこの世に生れると、生れながらにしてそこに人権を享有するのだ。こういう意味で、天賦、固有、本来的という言葉を用いております。そういう権利が人間にあると同様に、国家が成立をいたしますと、国家という法人格を持つたものが成立いたしましたときには、成立の瞬間から、生存のために必要な自衛の権利というものがあるこれを条約によつて剥奪することはできない。またその国の国内法たる憲法その他の法規によつて、これを制限するということは法理的に許されない。もしそんなことが許された国家があるとするならば、その国家はすでに国家ではないということになりますので、国家であります限りは、人間に人権が與えられておりますと同様、まつたく天から授かるというか、他からもらつたものでないという意味におきまして、天賦、固有、本来的という言葉を用いるのでありますが、この天賦、固有、本来的な自衛権というものは、国家が存する限りはその国にはあるということが言えるわけであります。  さてしからば、その自衛権はどうして守るのか。第二項の結果は戰力を封殺し、交戰権それ自体か否認しておるではないか。それならば何によつて自衛権を守るのか。ここは少し私の説が奇異に聞えますが、通常一般の国際常識から申しますと、その国の自衛権は、普通は軍隊——戰力と言つてもいいと思いますが、軍隊、戰力によつて守られております。それによつて行使されております。しかしながら軍隊のない国家においては、自衛権はあるが軍隊がないという場合におきましては、これは警察力によつて守られなければならぬ。警察力足らざるときは、組織を持たざる、警察力にあらざる、その国の個々人の実力をもつて守るより方法がない。組織された法的なものが警察力であり、軍隊なき国における自衛権の行使は、警察によるよりほかに道はない。また自衛権は軍隊によつて行使しなければならないという原則はありません。われわれが腕で、実力で守つてもけつこう、警察力をもつてつてもけつこう、何をもつてつてもいいのでありまして、それはその国の自由で、他国がこれに干渉する筋のものでもない。そうでなければならないという筋のものではないのであります。それで日本の国について言いますと、警察力の充実によつて自衛権を行うよりほかいたしかたがない。行うことは誤りでないということになります。  そこで第三段にお聞きいただきたいと思いますことは、しからば、その警察力と軍隊というものは一体どう違うのか。今議論されておるように、装備の内容、兵器の内容、武器弾薬の内容というようなものによつて違うのか。何によつて限界がつけられるのかという問題でありますが、両者の区別は、私は合理的な、理論的な両者の本質によつて区別されなければならないと思います。目的によつて区別をするとか、手段によつて区別するということより、もう一歩進めたものでなければならぬ。両者の本質それ自体によつて、截然区別を講ずべきものであろ。それを目的であるとか、内容であるとか、手段であるとか言つておりますから、水かけ論になる。しからば両者の本質とは、一体どういうことが本質になるのか。まず警察でございますが、その国の警察力とは、国内治安を維持することを目的にして、国内治安の侵害か排除するために、国家組織的に国内活動をするものとして設けたところの国の力である。これが本質になると思います。国内治安を守るために、国内活動だけを許すことを目的にして国家がつくつた組織の力、これはちりぢりばらばらのものではだめでございまして、紬織力を持つておればよい。これが警察力の本質であろうと思います。それから今度は軍隊の力でございますが、軍隊の力は、外敵鬪争を目的にしている。外敵侵略を阻止するために、国外鬪争を目ざして設けられた国の組織力である。そこでこの両者の本質的な区別は、国内で使う力は何か、国の外に持つて行く力は何かということだけが違うのです。あえて第二の違いを言うならば、国内治安の維持が目的であるか、外敵鬪争が目的であるかという第二の違いも出て来ましようが、本質上の両者の差異は、国内か国外か、その国の力を行使する舞台がどこかということが、両者の本質上の違いであると存じます。あえて目的的に申しますと、国内治安の保持が目的の場合は警察外敵鬪争の場合は軍隊、目的的にはそういうことになりましよう。ただもう一つ参考に違う点を申し上げますと、この両者は、国家が設けた組織の力であるということは共通して同様でございます。ただ外か、内かの違いでございます。もう一つは、軍隊が国内に駐屯しておりますので、軍隊の方は警察力が足らぬ場合、国内治安を保持する必要がある場合は警察力を助けます。その場合は、軍隊の作用として警察を助けるのじやない。国内治安の保持に発動するような場合は、軍隊が警察の作用を兼ねるのであります。軍隊が外敵鬪争をするという、その本質によつて鬪争するのじやない。それは軍隊が警察の作用を行うわけでございます。そうして警察力の足らざるところを補うのであります。ところが一方、警察の方の本質、概念から申しますと、外敵鬪争に軍隊の力が足らぬ場合、警察がそれを補つて国外に現われて外敵と鬪争するなどという、そういう本質はございません。軍隊を助ける本質は警察にはないが、警察の作用を代行するというか、そういう作用は軍隊にはある。こういう点が、あえて申し上げるならば違いであろうと思います。  そこでさらに進んで一言申し上げたいと思いますことは、しからば警察隊の装備というものは、今問題になつております兵器の種類であるとか、装備の内容、隊員の多い少い、これはどの限度まで持つてつても、ちつともさしつかえないものかどうかということの疑問が出て来ると思います。それはどんな装備を施しましても、いささかもさしつかえない。但し警察の本質にそむく装備を行う場合は、本質がくずれますから別論でございます。その本質をくずさぬ限り、いわば国内鬪争を目標にし、そして国内治安の保持の目的のために使われるという場合でありますならば、いわゆる軍隊を助けたりするものでない限りにおきましては、どんな装備を施しましてもさしつかえはない。兵器の程度、火器の軽重、隊員の大小、装備の内容などによつて、あるいは警察になつたり、あるいは軍隊になつたりするようなものではない。それは目的とか手段というものに着眼して議論するから、そういう水かけ論が起る。すべからく本質による区別をするならば、水かけ論も、また二つも三つも議論する必要は全然ないのだという解釈になるのであります。非常に極論でございますが、両者の本質にそむかざる限りにおきまして、バケツと竹やりを持つた軍隊というものもあり得る。それから軍艦、戰鬪機、そういうものを持つた、科学兵器を携えました警察というものもあり得る。たとえばその国が戰鬪行為をいたします。最後の断末魔になつて、刀折れ矢盡きたという場合を考えますと、小国の戰争の末期に呈しております現象でございますが、小国の戰争末期の状態を見ますと、日本的に言えば、これは笑い話でありますが、竹やりやバケツを持つた軍隊、そういう組織を持つた軍隊というものもないことはない。また、まるで軍隊底抜けのような装備を持つた警察というものもある。  そこで第四段に、しからば軍隊なき国の警察装備限界というものは何によつて一体きまるのかということを最後に申し上げたいと思います。それは抽象的に申し上げますならば、その国のそのときにおける内外の諸情勢によつてその程度がきまるものである。こういうよりほかに道はありません。それを具体的に、最も極端な例を申し上げますと、軍隊を持てる国の警察と、軍隊を持たさる国の警察は、警察装備の内容がかわらなければならない。こういうことになるわけであります。今日議論されております政治的問題にここで言及しては恐縮でございますが、どうもその議論を聞いておりますと、軍隊を持つてつた時代における旧警察というものの常識で議論をいたしますから、そんな兵器を持つたら軍隊と違わぬじやないかという議論が出て来る。また答弁する方も、まだその程度なら警察でございますというような、水かけ論に終るような答弁になりがちになるのではないかと思います。国の内外の情勢とは、具体的には、外の情勢は朝鮮事変の成行きであろうと思います。内の最も大きな情勢は、軍隊なき日本国という場合がおそらく今日の情勢であろうと思います。外には朝鮮事変があり、内には軍隊がないという現状における日本の場合を考えますと、この警察というものは、あらゆる国内治安の侵害を排除するだけの装備を必要とする。国内治安の侵害については、先ほど鍛冶先生からもお言葉が出ておりましたし、また堀木先生からもちよつとお触れになりましたが、あらゆる侵害の状態というものが考えられるわけであります。強盗もそう、脅迫もそう、あるいは国内暴動もそうである。火事、地震、津波のようなものも国内治安を侵害いたしますまたさらに内国人の問題ばかりではない。外国人が不法にも徒党を組んで国を侵害することもある。各国が正規の軍隊を持つて国を侵害してきたとき、外国軍隊の不法侵害による日本国内治安の侵害というものが起つて来る。そういう場合に軍隊によつて助けていただくということは、軍隊がないのでありますから、これはできない。これを防除してくれる方の作用を行う軍隊なきそういう特殊な国内事情のもとにおいては、極端な場合は、外国軍隊の侵略ということによつて生ずる国内治安の保持すら行わなければならないこういう実力を有する警察にあらざれば、警察本来の任務を全うすることができないということになるのでありますから、非常な極論をいたしますと、ものは考えようでございますが、この軍隊の装備はきわめて高度の装備をやつてちつともおかしくはないということになる。いざ鎌倉というときは、そのきわめて高度な装備をもつて応対するということになるのでありますが、ここに私の説によりますと、一つたいへん不便なことが起ります。それは本質本質ということでくどくお耳を汚したのでありますが、警察がどんなに高度になりましても、国外に飛び出して外敵と鬪争することは許されない。そんなことをするつもりであるということになれば、先ほどのお説にもありましたように、すでに外敵鬪争が内在しておるということが客観的に観察できるわけでありますから、鵜飼教授のお読のごとく、その場合はすでに軍隊の本質にかわつておる。名は警察と称し、その実は軍隊にかわつておる。でありますから、いかなるきゆうくつな、いかなる苦しいことがありましても、国外に飛び出して行つて外敵鬪争をやることは絶対できません。そんなことをやる考えがあつたり、目的があつたり、それを想定したりしておるようなことがありますならば、そういう事実が客観的に認められるときには、目的の内在ということによつて、その瞬間より軍隊の性質を帯びることになります。ですからかりに外敵日本侵入するとき、日本の高度の警察隊が追つ払つた。これは国内だけは行けます。つまり国の領土及び領海までは追撃できますが、その領土、領海外に逃走いたしました敵を、再び侵入のおそれがある場合でも、これを追撃することはできない。外に逃げて行つた敵を追撃することはできないということに本質の上からはなるのでありまして、そういう追撃する志がなかつたら、そういう意図がなかつたならば、いかに高度の装備を整えていても、装備の高度のゆえをもつて軍隊なりと解釈することは理に合わないと思うのであります。  以上申し上げましたことは、憲法第九条の表面の文言をめぐりまして、ありのままをながめて、憲法解釈を申し上げたわけでございますが、第一項によつては正義の戰争はやつていい、第二項の結果やれないことになつてしまつたのだという、その一項プラス二項の総合解釈の結果は、日本戰争放棄は全面的、絶対的である。何の条件もついていない。また範囲限界もないのだという解釈になりますが、そういう解釈が、はたしてこの第九条の明文の文言以外に現われた憲法制定前後からの憲法制定の精神というものから、ちぐはぐになるようなことがないかどうかという問題でございます。そこに資料として差上げてありますが、まず第一に憲法解釈から決してゆるがせにしてはならないのは、前文の文言でございます。憲法前文には、申し上げるまでもないことでありますが、憲法各条に具体的な規定をするにあたりまして、その憲法各条の具体的規定をする基本的な態度、基本原則がここに書いてあるわけでございます。基本政策と具体的政策、つまり政党でいえば、宣言綱領、具体的な政策という関係に置かれておる基本と派生の関係、根本と抽象と具体化の関係、そういう関係において前文とここの九条というものの関係が生れておると私は思つております。  そこでこの前文の明文を読んでみますと、前文には三つの事柄が九条と関連して規定してあります。ここに出してありますように、「政府の行為によつて再び戰争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」この場合、とにかくわれわれが戰争つて戰争のなまなましい体験に懲り懲りして、戰争をやめようという気分のときこしらえた文言でございますから、自衛戰争ならやつてよいというようなことは書いてありません。とにかく政府の行為によつて再び戰争の惨禍が起ることのないようにすることを決意するということが明らかになつておりまして、条件付戰争放棄でないことは、これによつて明らかであります。第二は、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」のだということが書いてありまして、たとえば敵が侵略しても、あるいはそういうことがあるかもしれないが、それでも自衛権すら持たないのだ。しからばどうするか。それは平和を愛する諸国家の国民の公正と信義に信頼をして、われわれの安全と生存を保持するのだ。涙ぐましいというか、深刻というか、自衛の軍隊すら持たない、すべてをあげて国の運命を平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼しておまかせする。そうして生きて行くのだ。こういう深刻な、高邁な理想を述べております。自衛戰争ならやるのだというようなことを、決して憲法の基本的態度として考えておるわけではないという証拠でございます。しかもそういうことはなかなかむずかしいことである、こう考えておりますと見えまして、憲法の前文の最後には、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」ということで憲法前文を結んでおります。従つて憲法前文の基本的態度というものから見ましても、一項プラス二項の全面的戰争の放棄ということはちつともおかしくはないということになるのでありまして、むしろそれを想定して、具体的な規定を設けたのだということになるのでございます。  なおもう一つ、この九条の解釈に関連してここにゆるがせにできないと思いますのは、この憲法をつくつたときの国民感情というものはどういうものであつたのか。これは申し上げるまでもなく、当時の憲法を改正いたしますときの国民感情は、自衛戰争ならやつていいのだというような国民感情があつたわけではない。そのときはちようどポツダム宣言を受諾いたしまして、ポツダム宣言の受諾下に行われた憲法改正であります。このポツダム宣言に七条と九条に明文をもつて規定しております。当時のポツダム宣言というものはものすごいことを規定しておる。日本国の戰争遂行の一切の能力が完全に破砕されたことを確認するまでは占領する。自衛権はあつてもいいというようなことは言つておりません。あらゆる戰う能力が完全に破砕されるに至るまで占領するのだということが第七条にある。第九条は、日本の軍隊は完全に武装解除されるまでは家庭に帰さないということが書いてありまして、これを総合いたしますと、当時の日本国のあらゆる軍隊を武装解除いたしまして、戰争遂行の能力はこんりんざい破砕する、これを無条件に受諾して憲法改正をやつたのであります。その場合に、一部に言われますように、自衛の軍隊は保持してよいので、自衛戰争はしてもいいのだというような、今考えられるようなことを当時考えて、そういう国民感情が背景となつて憲法の改正が行われたものではありません。憲法前文における第九条の基本的精神からいつても、また憲法を改正するその改正当時における背景となつておる国民感情から申しましても、国家情勢から申しましても、自衛戰争は第九条でもさしつかえないとか、自衛の軍隊はさしつかえないとかいうようなことは今日の解釈であり、当時の解釈からは、死刑にでもなりそうな解釈であります。軍備などと言えば、すぐに追放になるといわれるほどでありまして、軍備という言葉を使つて追放になつた人が六人も日本にあります。そういう時代に行われた憲法解釈を今日するのでありますから、ここに顧慮する必要であると思うことは、憲法の前文の基本的態度と同時に、新しい憲法をつくるとき、この改正の背景、原動力となつたそのときにおける国民感情というもの、これを支配した徹底的な社会意識、こういうものを頭に置いて今日の憲法解釈する必要がある。それを忘れてしまつて、今日かつて解釈をして行こうという場合は、憲法は現状のままでも、あるいはまた再びあやまちを犯すようなことにならぬとも限らないというようなことを感ずるわけでございます。  たいへん行き届かない説明でございましたが、大体以上をもつて私の説を終ります。
  49. 加藤充

    委員(加藤充君) 第九条の問題は、私はロジックの問題ではなくして、一つの事実の問題ではないかと思うのです。しかもその事実なり力というものは、具体的、客観的にきめられなければならない、こういう問題だと思います。それで田中さんに私は二点ほど御説明を願いたいのですが、討論はいたしません。警察力をもつて自衛目的を達しなければならない趣旨だと思います。こういうあからさまな意図を持ち、そのために組織力を持つという警察だと、名前がどうであろうとも、ロジックがどうであろうとも、具体的、客観的には、第二項の陸海空軍その他の戰力は持つてはならない、放棄する、こういうことと矛盾して来はしないか。お説によります全面的、絶対的に自衛戰はやつてもいいというようなことは書いてない。あの当時の状態からも、文字の上からいつても、全面的、絶対的に、とにもかくにも戰争は否認したものである。またそのための戰力というものは一切持つてはならぬのだということと矛盾して来はしないか。これが第一点。それからもう一つは、これは具体的に問題を考える態度をきめて行かなければならないと思いますから、問題にしていいと思いますが、これは日米安全保障条約並びに行政協定との関連で、われわれは日本が持つておる警察予備隊、そういうものが憲法第九条にどう関連するかということを問題にする必要があると思うし、それを問題にしなければ、やはり部分的で、一面的なものになり終ると思います。詳しく申し上げるまでもなく明らかだと思いますが、海外出動の点は、そうなるとも、ならぬともはつきりいたしません。文字解釈でははつきりしておりませんようですが、しかし実際上そういう危險がきわめて多い。これが海外派遣にならないのだという論拠は、われわれどうも弱いのじやないかと思いますが、それはさておきまして、アメリカの軍隊、あるいはさらに実際上国連加盟諸国家の持つておる軍隊、あるいは具体的に問題になつております太平洋集団安全保障条約というようなものが成立して、それに組み入れられて行く性格のもの、こういうものは、その性格からいつてもそうでありますし、また組み入れられるという形においては、その装備というような問題、具体的な力というような問題だけでは、やはりこれが軍隊ではない、あるいは憲法第九条に違反するものではないということにはならぬので、向うが海軍を持ち、こちらが陸軍を持つ。早い話が、台湾と日本からは陸軍を数十万出す、一体になつてやるというなら、これが明らかになれば、統一軍としての一部をなすものでありまして、これは理論的なものばかりではない。近代戰争というものの性格、あるいは経験に徴しても、こういうことは問題になり得ると思います。そういう点でひとつ御意見をもう一回聞かしていただきたい。
  50. 田中伊三次

    委員外衆議院議員田中伊三次君) 第一点のお説は、戰力を全面的に廃止しておきながら、戰力に似たものができて来ることは矛盾ではないかというお説でございますが、私の意見は、先ほど申し上げましたように警察力でありまして、戰力ではないのだという解釈です。それは本質的にそうだ。しかし装備の程度が高過ぎるではないかということになるのでありましようが、それは高過ぎてもいい。いくら高くてもいい。本質を逸脱せぬ以上、ここに新しい常識として考えてよろしい。そういう新しい常識はどうしてできて来るかといえば、国情が違うからである。軍隊なしに外敵侵入による国内治安の維持さえしなければならないというのだから、高度なのがあたりまえである。これは高度過ぎる、軍隊ではないか、全面放棄には食い違いがあるのじやないかということになるのじやないかと思いますが、あくまで本質に沿うておる限りにおいては、すなわち国内活動こういうことが本質でありますが国内活動をする組織力である限り、どんな高度なものでもよい。内外の情勢によつて高度となることはさしつかえないということになるわけであります。  それから第二の、外国軍隊と協力をして警察予備隊がいざ出動するということになる、そういう場合は軍隊じやないか。これは今の御質問の通りだと私も思います。それは確かに軍隊になります。それがいつから軍隊になるのかということでございます、先ほど鵜飼教授のお説によりますと、そういう目的が内在しておれば、内在しておるときから、ただちにそれが軍隊になるのだというようなお説に聞えましたけれども、実は私はそうは考えない。それは法理の上からは少しおかしいのではないかというように実は思う。どういうわけで、内在をもつてただちに本質がかわるというように考えることが無理かというと、内在しておるということの判断が困難である。ある事柄が内在しておりましても、内在しておる事柄とは反対の事柄か、国家意思によつて、すなわち法規によつて、予備隊なら予備隊、警察隊なら警察隊というものの目的が明らかに国家意思によつてきまる。これを軍隊といい、警察隊というのはだれがきめるのか。国家意思がきめる。国家意思が決定するわけであります。国家意思が法規をもつて目的を明らかに決定しておる。それと食い違つた内在したものがうかがえるというようなことがありましても、その内在しておる事実をもつて、ただちに警察の本質から軍隊の本質に早がわりすると考えることは、これは法理に過ぎるおそれがあります。法解釈からいえば、表面現われた現象に対する解釈が法律の受持ちでありまして、内在の姿を観察して、本質に影響するような解釈をすることは、法理の社会をいうのでありまして、現実の法理の具体的解釈にはならないのじやないかと思いますので、私は外国軍隊と協力して出動するような事態が起つたときは、その出動することを決意して、これが国家意思によつて出動するのだということを表明したら、その表明した瞬間から憲法を改正し、法規の改正を行わなければならない。その表明した瞬間から軍隊になる。それは軍隊でないと言いましても、法理の本質から軍隊に早がわりするものであると考えるので、あります。
  51. 加藤充

    委員(加藤充君) 国内治安目的にした警察ということですが、警察というものは、本来そういうものでなければならないし、それ以上の目的を持つたものは、警察ではあり得ないというりくつになるのであります。ところが、警察目的を持ち、やむを得なければ自衛目的を持つ、こういうことになると、従つてそこに国内治安目的のための武装をはるかに越えた装備というものが必要になつて来るから、そういう装備を持つことになると、それ自体が、あなたの言う本質的な、本来的な目的を持つ警察ではないということになつて来る。その点、本質的に警察であつて警察になれば、いわゆる第二項の陸海空軍、その他の戰力一切は、全面的、絶対的に否認されておるということと矛盾しないか。そういうようなあいまい模糊としたものが、結局この潜在的な戰力として、あるいはこの場合は、潜在的な戰力ではなしに、はつきりした軍隊その他の戰力となぞらえられるものになつて来ておるのではないか。自衛のために警察が防衛するというロジックや説明の中に、どうも本来警察のものでないものを持つて自衛に当るということが出て来る。これは明らかに矛盾しておるように受取れるのですが、どうですか。
  52. 田中伊三次

    委員外衆議院議員田中伊三次君) たいへんくどく申し上げた点でございますが、内在目的、潜在目的が考えられる場合は軍隊であるという鵜飼教授のお説によりますれば、あなたのお説の通り一点疑いのない結論になるが、私の考えは、内在目的であるとか、潜在目的であるとかいうようなことを取上げて、本質論を考えるということに誤りがあると思うのです。それは法哲学、法理専門の社会においての論理は別でありますが、文言でもつて表明され、具体的文章で示されました成文法という法律の具体的な解釈にあたりましては、内在目的、潜在目的を云々して解釈を左右するということは誤りである。こういう解釈でございますから、私の意見とは違うと思います。
  53. 加藤充

    委員(加藤充君) 最後に一点、恐縮でございますが、お聞きしたい。日本国家主権なり国家意思がそれを決定するということですね。これは憲法の前文その他の関係からも論ぜられておる問題ですが、今問題になつた内在的、潜在的という問題もひつくるめて、論理的にそう考えるのじやなしに、すべて全体的に、客観的に見て、これは日本を取巻く、あるいは日本もその一員である他の世界の各国が、こういうことは判定をする問題じやないか。自衛軍が本質的な問題になつて戰争行為が起きた場合は、当然それは世界的な価値判断を受け、取扱いを受ける問題ですから、日本ではこういう解釈をしておりますが、そうでないというような形のものが出て来る。そういう問題がまだはつきりせずに残つておるような気がするのですが、その点いかがでしようか。
  54. 田中伊三次

    委員外衆議院議員田中伊三次君) こういう力は警察力だといつて国家が設定する。こういう力は軍隊だといつて国家が設定をする。その場合に一体だれが判断し、だれが設定するかという問題は、やはり主権の一部でございますから、主権の派生的の行動として軍隊をつくる、警察をつくるということになるわけでございます。主権は国家固有の本来的なもので、主権そのものは外国からもらつておるわけではなくて、国際法によつてきめられ、左右されるものではない。この限りにおきましては、やはりその国の国家意思によつて決定する。これは動かぬものではなかろうかと思います。
  55. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) 田中さんのお話を承つて、いろいろ考えるところが多いのですが、私は軍隊と警察力の本質的な相違というものについて——田中さんがおつしやつたこともわかるのですが、憲法第九条の第二項の陸海空軍その他の戰力というその他の戰力は、軍隊を意味していないと思うのです。こういうように大体軍隊と警察力の区別をなすつた形式は、満足できないような気がするのです。お答え願うのに、もう少し敷衍して申し上げますと、まず戰力というのを学者は非常に広い範囲解釈しておる。これは私がここであなたに説明するまでもない。そんな軍隊だとか、軍隊に似たものであるとかいうように、戰力をだれも考えていな、今あなたのお話になつた沿革的なものを見ましても、戰力というものは非常に広い範囲で、ポツダム宣言の最後の方の言葉をかりて言えば、実に悲壯なもので、軍備なんというものは、口にしたら死刑になるくらいの状態であつたかもしれぬ。これを沿革的にわれわれは無視することができないのです。日本語は非常に解釈の自由を許すのです。これは原文か、あるいは日本語の訳文だか、よく存じませんが、それは別といたしまして、「アズ・ウェル・アズ・アザー・ウオー・ポテンシヤル」と書いてあるんだから、その意味ははつきりして来る戰力と言うものが非常にいろいろに解釈できるとして、ウオー・ポテンシャルの範囲に入るということになれば、非常に範囲は限定して来る。そういう点で戰力というものを率直にいえば、警察と軍隊との本質というものだけで区別をなすつたが、それだけではどうも十分じやないのじやなからうか、こう考えますがいかがですか。その戰力についての單純な御説明を願いたい。
  56. 田中伊三次

    委員外衆議院議員田中伊三次君) 第二項に書いてあります「その他の戰力」という意味は、私の解釈では結論だけ申し上げますと、陸海空軍はもちろん軍隊である。その他の戰力、それは軍隊とは言わないけれども、軍隊と大質的には同じ力、そういうものである
  57. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) きようは教えていただくのですから議論はしませんが、そういたしますと、多くの学者の通説とはよほど異なつておると考えますが、そうでございませんでしようか。
  58. 田中伊三次

    委員外衆職院議員(田中伊三次君) 日本の多くの学者の御意見と食い違いはないと思つております。
  59. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) ちよつとなんですが、あとの方もありますから。
  60. 堀木鎌三

    委員堀木鎌三君) それではしましよう。私はその点については、また別な機会にしましよう。学者の通説はそうでないように思つております。
  61. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) 一応田中先生に対する御質問はこれで打切つていただきまして、次に大平先生の御意見を承りたいと思います。
  62. 大平善梧

    参考人大平善梧君) 私は一橋大学におきまして、国際法を担当しておる者でございます。実は憲法第九条に関する特別な研究というのを現在までやつておりません。しかしながら、国際法学的な素養を持つておる者として、その点をどういうふうに考えるかということについて申し上げたいと思うのであります。但し、実は私参考人として呼ばれましたのは、きのうの午前十一時、しかも参議院の外務委員会で、行政協定の関係のところに参りましたときに手紙をもらつたのでありまして、きようは時間が午後あいておりますから、お引受けしたのでございますが、私の憲法第九条に関する意見をこれから述べさせていただきます。すわ  つて説明させていただきたいと思います。
  63. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) どうぞ。
  64. 大平善梧

    参考人大平善梧君) 私は、憲法第九条の問題は、普通の憲法規定と違いまして、対外的な関係、外交的な関係における基本原則を定めたものと考えなければならないと思う。従つて世界の態勢というものを念頭に置いて、解釈しなければならない。国際法のいろいろな知識というものをこの中に織り込んで、解釈しなければならない。日本の個人——個人と申しましては何ですが、日本の中だけで考える頭では、この規定は見られないと思うのでありますこれは私の意見でございますが、そういうふうに考えるわけでございます。  問題は、実は国際連盟の昔にさかのぼるのでありますが、国際連盟におきまして、戰争に訴えないという思想をいろいろな条約によつて具現しようとしまして、一九二八年、御承知のように戰争放棄に関する。ハリ条約ができておりますこの条約は御承知のように、第一条におきまして侵略戰争を放棄する。第二条において紛争の平和的解決に努力するということを規定いたしております。ところが、これには残念なことには、制裁といいますか、強制的な手段がなかつた。せつかく第一次戰後の平和運動、平和思想を具体化するところの強い傾向があつたにもかかわらず、なお実際の国際事情というものは、絶対平和、極端なるところの無抵抗主義というところまで行くはずがない。こういうような現実がここに反映いたしております。また私は、極端に申しますと、不戰条約の背後にあるところのものは、持てる国の、これから侵略戰争は絶対しなくても安心できるという一つの声というものが出ておることを、われわれは考えなければならないのであります。こういうような国際事情というものを反映して考えてみますと、この不戰条約には歯がない。理想はあるのですが物をかむ歯がない。この歯を何とかつけようと考えたことが二つあると思うのであります。  一つは、各国の憲法というものを不戰条約と同じような思想で規定して、各国の憲法の平和に対する国際化をはかろうとしたのであります。この運動は関係はないが、フランス革命以来のフランス憲法、南米のブラジル憲法、また第二次大戰後においての最近のボ  ン憲法もそうでございます。これは憲法学者の御説におまかせいたしますが、憲法がそういうような平和に対する歩調をそろえ、そういうことを考えております。  第二の点は、不戰条約の制裁の規定を何とか強化したい。不戰条約におきましてどういう制裁があるかというと、この条約に違反した場合には、条約規定する利益を均霑しない。そうすると、相手が侵略戰争をやつた場合には、こつちも相手に向つて侵略戰争をやつてもいいという報復的な意味の制裁があるだけでありまして、これに対して戰争犯罪人を処罰するとかなんとかいうようなことは、実は不戰条約からは出て来ないのであります。これを強化するためには、どういう手段を考えたかというと、一つは満州事変以後に発表いたしましたスチムソン・ドクトリンで、そういう状態を承認しない、こういうことであります。まだあります。それは無抵抗主義的な政策でありますが、侵略者を援助しない、ボイコットする。特に国際法的にこれを違法と認める。アウトローリー・オブ・ローという思想でやつて行こう。これを強化いたしますと、あとの憲法第九条の解釈に非常に関係して来るので、ここで申し上げたいのであります。それは一九三〇年に、不戰条約に関する国際法協会——アソシエーシヨン・オブ・インターナシヨナル・ローが一つ解釈をいたしまして、こういうようにして歯をつけたいということを言つたわけであります。その内容はあとで申し上げますが、そういうように、なるべく不戰条約に歯をつけたいというような考えで、今度の第二次大戰におきましては、戰争犯罪人の処罰、戰争責任のある国を非武装化するというような線にまで発展したわけであります。現在国際連合を中心として、国際防衛法典というものをつくろうとしておる傾向があるのであります。この傾向は完全なものではございません。いろいろな見方、いろいろな協定というものの案文はできたけれども現在完全なものになつていない、こういうように考えられるのでございます。私はこの憲法第九条を解釈する場合にそういう国際情勢、特に平和運動というものを考えてみて、この問題を考えるべきであるというように思うのであります。  そこで最近、講和条約が昨年九月八日にサンフランシスコにおいて無事調印された。これは多数講和でありますが、その結果といたしまして、同日安全保障条約が締結されました。さらにその第三条に基く行政協定ができた。それが二月の二十八日、東京において調印された。こういう新しい一つの傾向が日本に強く現われて来ているのであります。そういうように、国際情勢がいろいろかわるわけでありますが、同時に憲法制定までのいろいろな国際情勢の反映が、私は非常に重要だと思う。同時にその後の国際情勢の反映を、憲法第九条の解釈において受入れていいではないかというふうに私は考えておるのであります。しかし私の今日申します第九条の解釈は、終戰後、この憲法ができた当時に考えた考えだけを申しておるのであります。当時私は外務省のあるプライヴェートの委員会に出ておりまして、こういう考えを述べたこともあります。また先ほど国民感情がどうなつたかということをおつしやいましたが、私は学生を教えておるのでありますけれども、あの当時、新憲法と旧憲法とどつちがいいかと問うと、七五%は旧憲法がいいと学生は言つたのです。ところが四時間くらい講義しますと、その形がかわつたようであります。とにかくそういう情勢であつたということも、またわれわれは考えなければならないのであります。そういうようないろいろなエレメントが、プライヴェートな問題としてはおるのであります。実は私は国際法的な立場であるけれども、憲法第九条に向つて申し上げるのは、私個人の意見であることを御了解願いたいのであります。  講和条約が、日本の安全ということについて、どういうことを規定したかということをごく簡單に申し上げます。この中で規定されておるところの条文というものは、実はきわめて簡單なので、あります国際連合憲章の義務、特に第二条に掲げる義務を受諾した、これが第一点。それから第二点は、国際連合憲章第五十一条に規定するところの、個別的または集団的自衛意味の権利を有するということを承認してもらつた。しかもその承認に基いて、アメリカと安全保障条約を締結するということが予想されて、安全保障の集団的なとりきめを締結することに同意する、承認する。これは日本が同意するわけです。結局承認するのですが、しかもその承認は、五十二箇国の中の三箇国が加わりませんから、日本を除く四十八箇国によつて調印されたので、日米安全保障条約締結が承認されたという形であるわけであります。そういうような関係からいたしまして、日本自衛権を持つておるということが、四十八箇国に認められたわけであります。これは、調印しない国に対して自衛権を持つておるか、持つていないかという問題が次に残るわけでありますが、少くともアメリカの日本に対する、あるいは連合国日本に対する政策は、自衛権に対してはかわつて来たと見なければならないのであります。これに三つの段階がある。一つの段階は、御承知のように、日本の完全な非武装化、ポツダム宣言の徹底的な遂行ということでありまして、一九四五年九月二十二日、日本に関するアメリカの最初の政策が極東委員会の承認を得たのであります。その中でちやんと日本の非武装化をうたつておるし、また極東委員会で承認をしたから、日本国憲法というものもこの線に沿つておる。当時二十五年間日本監視制度というものが出ておつたのでありますこういうような傾向もあつて、これはあまり注意されておらないのでありますが、憲法の原案が出た当時、昭和二十一年三月六日に、マッカーサー元帥が、日本の将来の安全保障について、日本は生存権そのものも委讓したものである。日本の主権に固有する権利も放棄し、世界の平和愛好国の正義と真実に委託し、安全並びにその生存権すら引渡した。こういうふうに言われておつたのであります。これはアメリカの声明としては、自衛権をはつきり認めていないというような声明だつたと思うのであります。ところが大分情勢がかわつて参りました。特に東亜における国際的な摩擦が激化いたしますと、昭和二十五年元旦のマッカーサー元帥の声明は、自衛権がないということは言い過ぎである。相手からしかけられた攻撃に対する祖国防衛の権利は保留されておる。こういうような態度にかわつておるわけであります。そうすると、自衛権という意味がどういうことになるか。緊急やむを得ざる場合にはやつてもいい。こういうように言われておるわけです。ところが昨年の元旦の声明は、これは挑戦事変が起つてからでありますが、自己保存という言葉が出て参つたのであります。今までは自衛であつたのでありますが、自己保存の権利、自己保存の法則は、戰争放棄憲法規定に優先する。言いかえると、憲法第九条よりも、国家の生存保存の法則が優先するのだというのであります。実は先ほど参考人お話にも、その点が触れられてあつたようにも考えるのでありますが、これはマツカーサー声明の一つ考え方の現われではないか。そういうような線に沿うておるようにも考えられるのであります。この自己保存の法則というのは、国際法上、セルフ・プレザヴェイシヨン、自存の権利、あるいは自己保存の権利、生存権と訳していいと思うのですが、そういうような言葉——これは前から唱えられておる考え方でございますが、国家が自己の生存を全うするために、やむを得ずしてなし得る、こういう考え方でございます。しかし自衛権というのは、セルフ・デペンデンスの限度で、実は許される限度が狭いのであります。生存権というものは——実は自己保存権ということは今まであまり言わなかつたのであります。国際連盟及び国際連合時代になりましてからは、自己保存の権利ということを国際法上であまり言わなかつたのが、マッカーサー声明に出たというところに意味があるのであります。むしろ自己保存の権利というものはきまつておるということで、それが潜在して、ある一定の条件のときに自衛権という形になつて発動しておる、こういうように見られるのでありまして、自衛権というものは、憲章第五十一条においては、一つの大きな制限を受けておるわけであります。これは御承知のように、武力行為——アームド・アクトがあつたときには、緊急やむを得ずして行うということが一つの条件である。第二に、国際連合の方で適当な措置をとる、あるいは安全保障理事会で適当な行動をとれば、その自衛力発動はやめるということが第二であります。第三は、その措置をすみやかに安全保障理事会の方へ報告する。こういう義務がある。第五十一条で、各連盟国がそういう条件を受諾して、実力を行使することができる。本来安全保障理事会は、各国の武力行使を統制すべきであるにもかかわらず、これを各国にまかせる、こういうように規定してあるのであります。しかもそれを個別的ばかりでなく、集団的にやつてよろしい。集団的自衛という考えで、これは考え方としてはよほど古いのでありますが、言葉としては憲章第五十一条に初めて出ておるところであります。数箇国間の連帶性をもつて認めまして、その数箇国に対して攻撃があつた場合には、その中の連帶性を考えて、他国についての攻撃であるけれども、自国についての攻撃であると同じようにして、自衛権を発動してこれを防衛する、こういうのでありますその点、自衛という場合も、他国を実際援助する。従つて他国に出かけて行つて援助する自衛もあるということが、集団的自衛の場合にはわかれるのであります。これは今までの自衛権から見ると、憲章が拡大したものであります。この自衛権を日本に認める、こういうように言つたのであります。国際連合への加盟を日本はしばしば要請しておりますが、これは多分できないでしよう。これは加盟の要件を満たすことができませんと加盟できないのですが、しかしながら国際連合の憲章の第二条の義務を履行するというふうに言つておりまするから、第五十一条の集団的自衛の権利というものは、日本も享有することができると考えられるのであります。そういうようなことに考えますと、日本には自衛権があり、集団的自衛権もさらにある。こういうように国際法上論定してよろしいと思うのであります。これが国際法的立場であります。そこで集団的自衛ということは非常にデリケートな問題でありまして、私はこれを肯定する立場であります。その先例や、その他申し上げることは、差控えたいと思います。集団的自衛というものが日本に認められ、その結果として、集団的安全保障をやるために、地域的とりきめを締結してよろしいということに日本がなつたわけであります。しかし、これには少し飛躍があると思うのであります。というのは、集団的自衛というのは、具体的に武力的攻撃があつたときに、これに対して防衛するのが、自衛権の発動であるが、そういう防衛をする可能性がある場合には、あらかじめこれを準備する手続として、条約を締結するということでありますから、予備的な防衛であります。事件を予想して、あらかじめ手を打つておく。但し実力を発動するのではないのでありましで、実力を発動する準備の条約を結んでおく。これが集団的安全保障条約であります。しかもこの場合においては、外部からの侵略でありますから、場合によつては同盟条約の変形したものと考えることができる。従つて仮想敵国ということは言わないけれども、そういうものが予想されるような条約になつておるわけであります。そういう自衛権を認めねば、ただちに集団的安全保障条約を締結することができるかできないかということについては、一つ問題があるのであります。なぜ問題があるかというと、憲章の第五十二条以下には、地域的とりきめの規定があります。レジヨナル・アレンジメントの規定、地域的とりきめを国連憲章は認めておる。各加盟国はその周辺の国々と結合して、いろいろ経済的、文化的の関係ばかりでなく、安全保障の関係も締結することができる。但し第五十三条によつて、この地域的な機関が実力を発動する場合には、安全保障理事会の許可がなければならない。せつかく安全保障のとりきめを結んでも大事の場合に理事会が麻痺状態に陷つておるとするならば、拒否権の濫用というようなこともありまして、許可がないとすれば、せつかくの地域的協定が実効を持たない。そこで地域的とりきめを第五十二条、第五十三条というようなものできめておりますが、その第五十三条を逃げようとして、第五十一条の方に肩がわりをしておおる。第五十一条もまた地域的とりきめでありますが、内容は集団的自衛発動なのであります。そういうような関係からいたしまして、今日集団的自衛を認め、同時にその前提としての集団的安全保障条約を締結する、こういうことになつておるのであります。  以上が日本の講和条約並びにそれに基く安全保障条約の、実は論理的構造でありまして、集団的自衛を内容とする条約であるということが言えるのであります。そこで従前の国際協定の規定と衝突する、わが憲法その他の法律とも衝突するおそれがここに生じて来たと考えるのであります。というのは、これは対日講和が全面講和であるならば比較的問題はやさしいのでありまして、前の約束があとの約束でこわされる。だからポツダム宣言というものがかわつてしまつたとも見えます。アメリカはポツダム宣言、ヤルタ協定というものは見合せたというのでありますが、これはまた一方的に破棄したというわけにも行かないのでありますから、国際法的には残る、実際にはどうなるかわからぬが残る。そうすると前の国際協定と、今度の対日講和条約の問題がどうしてもあとに残つて来る。国内的に見ますと憲法その他の規定と衝突するおそれが実はある。この場合には国内問題でありますから、矛盾する点があるとするならば、国際条約を優先せしめて、国内法を修正して行くということをやらなければならない。これは現に今度の日米協定というようなものが、軍事基地、裁判管轄権の問題を規定し財政負担になるようなことをやつておりますが、その前にちやんと行政協定は有効だということをきめておるわけでありますから、それに合せるように国内法的な立法手続もとるというわけです。そういう矛盾し、衝突するようなことがあるとするならば、それを調節することが必要であろうと思う。しかし日本国憲法は、私の考えておりますところでは、硬質憲法である。軟質憲法に対して硬質憲法であつて、その改正には国会の三分の二、国民投票に付するということが必要であつて、みだりに改正を口にすべきではない。ここにおいて私は憲法第九条の規定一つの正しい解釈を確立しておく必要を感ずるわけであります。そしてこの程度までは解釈の幅がある、しかしてこれ以上は譲れない、特に国際情勢というものを憲法の論理——憲法と矛盾することなくして、これに適応せしめるということは、実は憲法学者及び日本の政治家の任務であろうと考えます。日本国憲法第二章の戰争の放棄の規定は、不当に広く解釈されて来たと私は思う。不必要にまで平和主義を徹底せしめて来た。これは憲法解釈を、その当時の、特に改正新憲法を宣伝した人たちの自己流によつて、拡張解釈したものではないかというようにさえ私は感じておるのであります。その一つは、日本国憲法戰争放棄規定は、一切の戰争を放棄したという説、これは実は恩師というか、私の習つた美濃部先生の説であり、最近の平和問題についての、あるグループの人達の解釈であります。これはもちろん間違つおてるのでありますが、その根拠といたしますのは、現在日本憲法の成文の英文解釈を基礎として、国権の発動たる戰争の放棄を無制限にするというのであります。これは実はコンマがあるとないで、そういう解釈が出て来るのであります。コンマさえ一つつておけば——実は、初めの日本政府の原案の英文は間違いなかつたのであります。これはたびたびここで御説明があつたと思うのでありますが、無限定の戰争の放棄が行われたものとは解釈できない。これは不戰条約その他の国際法の先例——不戰条約におきましては自衛権を認める。しかもこれは往復文書によつてはつきり認める。そればかりではない。イギリスのごときは実力による自衛権の行使もはつきり留保しておる。日本は国策の具としての戰争を国民の名においてやるのがいけない、天皇に対して恐れ多いというようなことで、それを留保したのでありますが、向うは具体的に実際のことを留保しておるのであります。この留保は国際法上有効であります。事前の交渉でありますが、有効であつて「明らかに不戰条約の中では自衛権が認められておる。それは限定された戰争の放棄であると考えるのであります。従つて国際紛争の解決の手段にあらざる戰争、すなちこれは何でも戰争をやつていいという解釈では全然ないのでありまして、制裁のための戰争この制裁のための戰争という意味は自分が相手を制裁するという意味ではない。国際機関のなす制裁であります。国際連合というものが活動するならばするものでしよう。とにかく制裁のための戰争及び自衛のための戰争、しかもこの自衛のための戰争というのは、具体的な侵略というものがあつて、緊急やむことを得ずしてとるところの正当防衛であります。これはもちろんやつていいのであります。日本国が新憲法によつて自衛権をも放棄したというがごとき解釈が行われるのでありますが、私は、はなはだしい誤りであると思う。マッカーサーの先ほどの声明というようなものもかなり意味はあるのでありますが、それでもはつきり自衛権を放棄したとまでは言つていない。そういう意思があつたというようにも考えられるのでありますが、はつきり言つていない。当時の憲法の起草に当られた国会の議事録その他でも、自衛権、自衛のための戰争はしないというようなことを言われておるようでありますが、どうもはつきりしていないようであります。その点は、紛争の解決の手段としての戰争というものをやらぬということははつきりしておる。言いかえれば、先ほど申し上げましたように、不戰条約規定を各国の憲法に入れるという、各国憲法平和主義に対する国際化という意味ですから、不戰条約のそういう精神、そういう規定が入る。だからそれ以上のものが入るということは考えられない、こう考えてよろしいと思います。  次に陸海空軍その他の戰力の放棄、これが実は非常に問題になるのでありまして、ウオー・ポテンシャルというようなことが議論になりますので、実は私は国際法学者として、戰力というものを定義づけるために研究したこともありませんし、国際法学上の問題では今まではなかつたのでありますが、第九条の第二項の、前項の目的を達成するためにというのは、制裁のため、または、自衛のために、場合によつて戰争を行うべきことがある、そういうことが裏面に予想されるならば、その目的のためなら戰力を持つてもよいというような解釈は、先ほどの鵜飼さんのお話では否定されております。これは私も賛成するところであります。言葉は小さいことでありますが、前項の目的を達成するところのとか、達成するのというような字でも入れれば限定されるのでありましようが、それはそういう解釈はとり得ない。しかし自衛のための戰争をやつてよい、制裁のための戰争をやつてよい、特に国際連合に入る場合、ある程度制裁に協力しなければならないというようなことがあるとするならば、戰力というものの解釈は、私はやはり幅が出て来ると思う。これが、私が申しました国際情勢というか、国際関係というものを考えながら憲法条文を読まなければならぬというところであります。すべての戰力保持の否定とは考えられない。国際法で、たとえば戰時禁制品というような場合、戰争の用に供せられるものと、絶対戰争の用に供せられないものというよううな区別をします。が、この区別はむずかしいのでありまして、ある場合は綿なども、綿火薬というものができたりして、戰争の用に供せられるかもしれない。そうなりますと、あらゆるものが戰争の用に供せられる。戰時禁制品という区別ができない事態になつている。何でも持つことができないということになれば、われわれ人間が生きて行くことができないということになる。そうなると、いろいろそこに定義づけることになるのでありますが、この定義づけは皆さんにおまかせするとしまして、陸海空軍その他正式の兵力を保持することが否定されておるということは、はつきりしております。しかし治安その他の実力を用意することが、憲法規定に反することはない。この治安その他の実力というか、そういうものが問題であります。私は問題は、戰力概念をあまり観念的にとつて、純粋に解釈するという考え方に反対であります。但し国際法におきまして、交戰力と申しますか、交戰者と申しますか、そういうものを国際法上どういうように考えるかということであります。これは問題は少し違うのでありまして、正式な軍隊、兵力は、これは交戰者であることは確かでありますが、それ以外のものが交戰者になるかならないかということは問題がある。そこで民兵及び義勇兵ということを問題にいたします。さらに民衆の抵抗、こういうことを国際法は問題にしておるのであります。それは憲法戰力とは直接関係がありませんで、実際に正式な陸軍力を持つておる国は、なるべく正規の軍隊だけを交戰者としようとする傾向があり、そういうふうにいろいろな条約規定で主張しておりますが、小国は防禦的な意味からいたしまして、先ほど申し上げました民兵、それから義勇隊というようなものを主張し、さらに占領軍がやつて来る場合の侵入にあたつて防衛するところの群民の蜂起、民衆の抵抗というものを認めようとしておるわけであります。これは言いかえれば、正式なる兵力でないものも防禦的な性格を持つておる。そして弱い国がそういうことを主張するという一つの国際先例になると考えられるのであります。現在国際法上どういうような規定になつておるかというと、一九〇七年のへーグ条約は、陸戰法規の第一条及び第二条がこのことを規定しておるのであります。第一条は、軍隊というものはこういう条件を持たなければならないという条件を書いております。それは指揮官があつて部下に対して責任を負う。第二に遠方から認識し得るような徽章を、しかもそれは固着したバツジをつけなければならない。第三には武器を公然と持つ。第四にはその行動について陸戰の法規慣例に従う。こういう四つの条件を満たすならば、それは軍隊だ。そこで義勇兵及び民兵は軍隊かどうかということについて、国際法はどういうようにきめておるかというと、これは交戰者の立場からいえば同じだというのでありまして、軍を構成し、またはその一部を構成しておるものはアーミー、軍隊という名前で彼らを包含する、軍隊に準ずるといつておるのであります。第二条、第三条は、要するに民衆の抵抗でありまして、民衆が侵入にあたつて抵抗するという場合、公然と武器を持つて陸戰の法規慣例に従う場合には、これを交戰者と考えて、俘虜としてとらわれた場合にはそういう待遇をする、そういう特権があるというように規定されております。こういうわけでありまして、私は国内法的にはわかりませんが、国際法的には、日本警察力が自衛のために戰つたという場合に、これは私は交戰者になると思うのであります。それからまた人民が敵の侵入に対して戰つたという場合には、群民蜂起になつて交戰者になる、こういうように考えるものであります。実は私の同僚の植松という刑法学者が、この間私のところに速達で、刑法各論のことを書くといつて、私に戰いをするというのは、あれは戰争放棄規定があるから、一切戰争はできない。そうすると今の警察予備際というようなものも、私に戰争をするということになると刑法上の罪になる、そういうふうに書こうと思うがどうかということでありましたので、それはそういうわけではない。国家の命令によつて行動しないで戰鬪行為をした場合、私に戰争するということである。それからボン憲法規定からいつて侵略戰争の予備をするというようなことも、またそこに含まれるかとも思いますが、とにかく私に戰争するというのはそういう意味である。しかもまた自衛戰争状態というものが起つておる場合には、人民が抵抗したというような場合にも、私に戰鬪するというのは刑法上の罪にならぬと私は考えると言いましたら、その通り書くと言つておりました。  そこで第三の交戰権の問題でありますが、これは一切認められないという考えが通説であります。特に東大を中心とする国際法学者の説が、国内法学者の説を支配しておるようであります。しかし交戰権という言葉は、英語が非常におかしいのでありまして、ライト・オブ・ベリジエランシイという言葉を使つておりますが、その訳文がおかしいと思うのです。これは国際法学会の昨年秋の名古屋大会におきまして、この言葉が問題になりました。ベテイーという国際法学者で、外務省顧問をしていらつしやつた方ですが、その方がライト・オブ・ベリジエランシイという言葉は、はつきり聞いたことがないと言われたのでありまして、ベリジエランシイ・ライトという言葉は聞いたけれども、ライト・オブ・ベリジェランシイという言葉はない。これはしろうとがつくつたのではないかと思われと言うのであります。要するに交戰権なる語の、ライト・オプ・ベリジエランシイということははつきりしない。これは新しい言葉と考えなければならぬ。これは一般的能力と個別的能力になるが、一般的能力は、戰争関係をつくらないという能力、個別的能力というのは、具体的に、戰争関係において、戰鬪行為をして、捕虜をつかまえる、スパイを銃殺に処する、あるいは海上における臨検捜査の権利、封鎖の権利を行使する、こういうのが具体的権利であります。日本はこれを主張しないと訳すべきではないか。というのは、先ほど鵜飼さんのお話があつたように、日本憲法の第九条の規定は他律的であつて、たとえば戰力を保持することは許されない、こう言つていたのを、保持しないというふうに、他律的から自律的になつたといわれておるのであります。大体日本国家の対外的義務を規定しておるのであります。対外的の関係でありまするが、実は対内的関係も、一般的の法律行為、單独的な法律行為でやるということは、非常に限られておるのでありまして、講和条約によらなければならないのであります。条約によらなければ、そういう劾果は生じないのであります。そういう条約によるべきことを、条約によらないで、憲法の中でやるのでありますから、結局自分の国の方針にするということ、それを主張しないというふうに解釈すべきである。先ほど日本憲法の通説かどうかということが言われたのですが、それについては佐々木惣一さんの説を御参考に願いたいと思うのであります。佐々木惣一さんがはつきりと、日本戰争権を主張しないという意味だというふうに言われておるのであります。その場合、一般的能力と個別的な権利とを区別されておりません。私は一般的の権利能力を否定したものではないと思う。何となれば、国際法上自分は戰争をしない。おれは能力がないということを宣言しても、相手が宣戰布告をし、相手が実際に戰争行為をすれば戰争が起るのです。それは一方的に起るのだから、すべての国の憲法戰争を放棄するならば、国際法戰争の関係はなくなります。が、しかしながら日本が率先して戰争を放棄したのでありますから、一般的能力として日本が権利の放棄をいたしたとしても、国際法上の関係は残るのです。残るような関係があれば、やはり一般的戰争をする能力はある。従つてそういう侵略があつた場合に、向うの捕虜をつかまえる権利がないじやないかといことになる。それから向うの武器を押えた、これは犯罪の場合没収というような形で犯罪者の凶器を押えたというようなことになる。実は犯罪者ならば、これは刑法上の罪によつてやるのでありますが、捕虜に対する待遇というものは、相手側の軍隊に公正に與えなければならぬ。そういうことになつて来ると、これはやはり日本に一般的能力は認めないと、万一そういう関係が起つた場合に、国際法的説明がつかない。現在は理想的なことを言つても、そういうようなことが起り得る場合に、説明がつかないような議論をしても何にもならない。日本が主張しないのは一般の権利能力である。先ほど言いました不戰条約に関する国際法協会の一九三四年のブタペスト解釈条項はどういうのかというと、不戰条約に入つておる侵略者に対しては、中立国というものはなくて、その国を援助しない。さらにその国が封鎖とか捕獲とか、臨検捜査というようなそういう交戰権を実施することも承認しない、こういうように言つておるのであります。そういうふうでありますから、ブタペストの解釈条項をもつて、私は国の交戰権は認めないというふうな解釈にしたい。封鎖権や臨検、拿捕の権利などの行使を承認しないという一般能力を、ブタペストの解釈は問題にしていない。問題は中立国に対する交戰権の放棄である。交戰権を放棄したから、国際戰争はできないのではなくて、自衛権においては戰争ができるそれは今の解釈で、一般的能力があると言つたけれども、具体的な権利もあるわけです。一般的な能力があるといつても、具体的な権利を主張しないというようなことは、理由がないというのです。問題は中立国に対する、第三国に対する交戰権の主張の放棄である。こういうふうに解釈するのです。従つて侵略者に対しての交戰権を具体的にまで交戰能力と解釈するのは、あまりにも観念的な法律解釈で、その能力ということを問題にすることは、ドイツ流の大陸法的な考え方である。わが憲法解釈としては、これは採用しにくい。この普及した通説というものは、この際徹底して排撃しなければならない。こういうふうに考えておるのであります。私は憲法学者として佐々木さんの考えを述べたのでありますが、こういうことは佐々木さんの本にちよつとヒントがあるのであります。  以上をもつて私の話を終ります
  65. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) 何か御質問はございませんか。
  66. 高橋英吉

    委員(高橋英吉君) 質問というほどでもないのですが、この憲法制定の際、私ども審議に参加したのですが、あの当時は、国際連合が理想的に発達して来て、将來戰爭事というものは絶滅するだろうというような明るい希望をわれわれ持つて憲法制定に当つた。また具体的に国際間のことを言えば、米ソの間に今日のような対立が生じるということも全然予想しなかつた。当時はその傾向が見られなかつた従つて今日の対立を頭に入れずに、あの憲法を制定したわけであります。従つてあの当時は、アメリカから與えられた憲法みたいなものに対しても、大体アメリカなんかの目的は、日本の当時の侵略戰争に対する跡始末として、將来日本侵略戰争をやるということがないように、国策遂行の具として戰争の手段に訴えることがないようにするということを、基本的に頭に置いて、この憲法の原案を持つて来たものだろうと思うのです。そういうような関係からわれわれもあの原案に基いて、こういう憲法制定に関係して来たわけです。従つて当時としては、あるいはその問答の間には、非常にきゆうくつな、狹義に憲法解釈したというような傾向もあるかもしれないのですが、お説のように、諸般の情勢が変化して来るということになりました場合においてはそれぞれある限度はありましようけれども、いわゆる狭義の解釈が広義の解釈となり、ある程度の拡張解釈となるということ、すなわち彈力性のある解釈に出るということも、国内法としては必要なことであるというふうに私ども考えております。そういう考えは間違つておる考えでしようか、どうでしようか。
  67. 大平善梧

    参考人大平善梧君) 今申しましたことは、去年の暮れ、十二月二十五日に出た国際法外交雑誌の論説に書いておりますので、その関係で私が呼ばれたそうですが、私は憲法というものは、解釈は幅が大きくなければならぬと思う。私は美濃部先生の講義を聞いたのですが、美濃部さんの旧憲法解釈に対して、上杉説もあつた。そこを美濃部さんがあれだけに解釈した。そうして日本憲法にやはり貢献されておる。また伊藤博文がどういうふうに考えたか。あの憲法義解が最上の解釈だ、こういうふうに考えることは、永久に守ろうとする憲法としては十分に考えなければならぬことだと思います。但し根本原則というもの——特に私は今度は人類不変の権利ということを申しておりますが、第九条の第一項というのはやや自然法的に近い。これは動かすことができない。しかし第二項は人為的の規定である。解釈も自由にしてよろしいと思うものがある。ちようど民法によりますと、競合的な規定と、そうでない規定というものが考えられる。これとはいくらか違うが、憲法を改正するという場合にも、第一項は残すべきである。いわゆる固定のものだと考えるべきものではなかろうか。第二項の解釈は若干幅があり、もし改正するとすれば、この点を改正すべきじやないか、こういうふうに考えております。
  68. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) ちよつと伺います。そうすると、憲法制定当時は、いかなる戰力も放棄した。交戰権もあるいは自衛権のような戰力も放棄する意思であつたけれども、世界情勢の変化によつて三段階にいろいろ変化が起つて来て、憲法を広義に解釈して、自衛権的の戰力は持つていいというふうに今の御説は考えられるのですが、そういうお考えですか。
  69. 大平善梧

    参考人大平善梧君) 私はその点非常に保守的な考えであります。やはりわれわれは自己の世界観といいますか、論理といいますか、そういうものをなるべく貫かなければ、人格の統一というものはない。国策においてもそうだ。そこで戰力は保持しないと言つたときに、やはり極力戰力は保持しないという線で行くべきである。これを自衛戰力は持つていいということを言うことは国の憲法としてはいけない。これは解釈としてはまずいのじやないかと思う。ただそれを具体的に言えば。治安力という形で——どこまで持つて行けるかわかりませんが、これはたくさん持つて行かない方がいいのじやないかと思う。しかしとにかく安全保障条約の前文に記載されておるように、日本が間接的な侵略ばかりではなく、直接的な侵略に対しても防衛責任があるという関係からすると、治安力は増加して来ると思いますが、その点結局憲法をどの程度に考えて行くかというのは、日本の政治家の考えることだと思うのです。私はその点においてやはり法というものはみだりにすべきものでないと考えております。
  70. 九鬼紋十郎

    会長九鬼紋十郎君) 大分時間もたちましたので、本日はこれをもつて閉会いたします。どうもありがとうございました。     午後四時十分散会