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1951-11-01 第12回国会 衆議院 大蔵委員会海外同胞引揚に関する特別委員会連合審査会 第1号 公式Web版

  1. 会議録情報

    昭和二十六年十一月一日(木曜日)     午前十時四十四分開議  出席委員   大蔵委員会    委員長 夏堀源三郎君    理事 奧村又十郎君 理事 小山 長規君       淺香 忠雄君    大上  司君       川野 芳滿君    佐久間 徹君       島村 一郎君    清水 逸平君       高間 松吉君    塚田十一郎君       三宅 則義君    宮幡  靖君       宮腰 喜助君  早稻田柳右エ門君       深澤 義守君   海外胞引揚に関する特別委員会    委員長 若林 義孝君    理事 池見 茂隆君 理事 庄司 一郎君       足立 篤郎君    門脇勝太郎君       佐藤 重遠君    竹尾  弌君       田中 啓一君    高橋 權六君       玉置  實君    中山 マサ君       福田 喜東君    南  好雄君       柳原 三郎君    今野 武雄君  出席政府委員         大蔵政務次官  西川甚五郎君         大蔵事務官         (理財局長)  石田  正君  委員外出席者         大蔵事務官         (理財局外債課         長)      上田 克郎君         参  考  人         (元京城日本人         世話会長)   穗積眞六郎君         参  考  人         (在外公館等借         入金評価審議会         委員)     岡崎嘉平太君         参  考  人         (元長春居留民         会長)     平山復二郎君         参  考  人         (在外公館貸付         金返還促進連合         会委員長)   中村猪之助君         参  考  人         (東京大連会会         長)      山田 浩通君         参  考  人         (元上海居留民         国民会議員)  宮澤 綱三君         参  考  人         (元北京総領         事)      華山 親義君         参  考  人         (元審陽地区日         僑連絡総処救済         処長引揚者団体         全国連合会委員         長)      北條 秀一君      ————————————— 本日の会議に付した事件  在外公館等借入金返済実施に関する法律案  (内閣提出第一四号)     —————————————
  2. 若林義孝

    若林委員長 これより大蔵委員会海外胞引揚げに関する特別委員会連合審査会を開会いたします。  不肖私が各位の御了解を得まして、委員長の職務を勤めさせていただきます。  それではこれより在外公館等借入金返済実施に関する法律案議題といたします。それではまず政府当局より本案提案趣旨説明を求めます。西川大蔵政務次官
  3. 西川甚五郎

    西川政府委員 ただいま議題となりました在外公館等借入金返済実施に関する法律案提案理由を御説明申し上げます。  在外公館等借入金につきましては、在外公館等借入金整理準備審査会に基き、政府は、鋭意在外公館等借入金確認事務を進めて参つておりますが、これが返済につきましては、さきに制定されました在外公館等借入金返済準備に関する法律に基いて、借入金を表示する現地通貨評価基準返済の方法その他借入金返済実施に関する事項を定める必要がありますので、先般の第十一国会にこれに関する法律案を提出したのでありますが、会期中に審議を終るに至りませんでしたので、今回重ねてこの法律案を提出いたした次第であります。  次に、この法律案につきまして概要を申し上げますと、第一は、外務大臣が国の債務として承認した借入金返済請求権者に対しては、本邦通貨をもつてこれを返済することといたしました。  第二は、右の返済金額につきましては、在外公館等借入金評価審議会の答申に基いて決定した別表の在外公館等借入金換算率によりまして、現地通貨表示金額本邦通貨換算いたしました金額の三割増といたしました。さらに在外公館等借入金返済準備に関する法律第二條に規定されているところに従いまして、国民負担の衡平の見地から、返済金額が同一人につきまして五万円を越えるときは、これを五万円とすることにいたしました。  第三は、借入金返済に必要な金額は、毎会計年度、予算の定めるところにより、一般会計から国債整理基金特別会計に繰入れ、これを通じて支払いを行うことといたしました。  その他返済に関する事務の一部の日本銀行への委託、返済手続細目等につきまして規定いたしました。  以上がこの法律案を提出した理由及びその内容の概略であります。  何とぞすみやかに御審議の上、可決されますようお願い申し上げます。
  4. 若林義孝

    若林委員長 提案趣旨説明は終りました。  次に本案につきまして、在外公館等借入金供与関係者方々が、参考人として御出席なつておられます。まず本案について参考意見を聴取いたし、本案審査を進めて参りたいと存じます。参考人方々発言順位につきましては、委員長に御一任を願います。なお参考人方々発言時間につきましては、お一人大体十五分以内にお願いをいたします。  それではまず本案につきまして、穗積眞六郎君より御意見を伺うことにいたします。穗積眞六郎君。
  5. 穗積眞六郎

    穗積参考人 私は朝鮮における借入金につきまして、大体その理由をお話して本法律案に対して、こういう点が納得できないということを申し上げたいのでございます。  朝鮮におきましては、当時まずざつと八十五万の日本人がおりました。そうして三十八度線で限られた関係から、三十余万の人が三十八度線以北におつたのでございます。終戦と同時に朝鮮総督府は占領軍管轄下に置かれましたので、救済という問題についても、活動がほとんどできなくなつたのでございます。従つて民間におきまして、これは第一に三十八度線以南京城でございますが、日本人世話会というものをこしらえまして、そして京城の人の救済、並びに北鮮から帰つて来る人の帰還を援護するために、そういう会をつくつたのでございます。これと同時に前線に電報を打ちまして、各地においても世話会をつくるように慫慂したのでございます。この世話会資金は、初め総督府その他より千八百万円ばかりを受入れたのでございますが、しかし政府その他そういう資金を受入れてやつているということは、いつなんどきその資金連合国から没収されるかわからないという危険が十分にあつたのでございます。私は当時世話会長をいたしておりましたが、初めからその点を憂慮いたしまして、再々外務省に対して、もしこれが没収された場合に何とか送金してくれということを、たび重ねて願つたのでございます。御承知の通り朝鮮は旧領土でございまして、初めは拓務省管轄に置かれ、次に大東亜省管轄に置かれ、終戦後は外務省移つたようでございます。従つて初めのうちの外務省との交渉が、あまりはつきりしなかつたのはしかたがないのでございますが、しかしはつきり外務省外地のことを受取るようになりましても、この私の願いに対して何らの返答もないのでございます。しかしあとで聞いて驚きましたことには、外務省在外公館に対しては、その土地の人を救済するために、必要あらば借入金をしてやれという訓令を出しておるのでございます。しかし旧領出たる朝鮮その他在外公館のなかつたところに対しては、そういう通知は何一つないのみならず、こちらから請求をしても、これに対しての返事さえなかつたのでございます。しかしいよいよその年の十一月になりまして、もう私ども資金が凍結されるのは確定ということになりましたが、そのときほとんど京城におりました人は帰りました。そのうちの総督府に勤めておりました人々外務省との交渉を頼んだのでございます。翌二十一年の一月に、これに対しての返事がございました。今外務省にはさしあたり五百万円だけそういう朝鮮救済にあてる金がある、さしあたりこれを目当てにしてやつて行つてもいい、あとのことはまた考慮する、こういう返事つたのでございます。しかしそうしてその借入れた金は、貸した人が引揚げの上陸港に上つたときに返済するから、これが一條でございます。それからもう一つ聞いておいていただきたいのは、この金を借りるのには、なるべく大きな額、まとまつた額を借りてくれ、あまり小さい額をたくさん借りられたのでは返済のときにめんどうだから、こういうこともございました。これはあとで申し上げることに関係があるのでございます。私はしかしもう一ぺん念を押して聞きましたが、これは必ず実施するということの返事がございましたので、この点を北鮮にも通知し、それから私どもこれとともに向う借入金を開始したのでございます。しかしそのときになりましては、すでに京城あたりは金持ちというようなものは、全部撤退しておりました。従つて借入れ金額は実に零細にならざるを得なかつたのでございます。北鮮におきましても、非常な困難をきわめておりました。たとえば平壌のごとき、ここの日本人世話会というもうものは、占領軍の非常に厳格な監視のもとにありました。ときどき難を排して京城から連絡をとりにやりましても、京城から来た人に会つたということだけで、その世話会の幹部が投獄されるというような状況で、非常な困難をきわめ、ことに平壌人たちは、一万円以上持つてはいけない、こういうことになつておりましたので、借入金を集めますのにも、この一万円を越した金をもちろん借りるのでございますが、そこに非常な困難があつたようでございます。北鮮各地おのおのこういうふうであつたようでございます。それで翌年の、つまり二十一年の十二月までに、北鮮の方も大体脱出をいたしまして、京城に下つて参りました。これを京城で三十幾つの収容所を設けて収容して、そこから汽車に乗せて送還したのでございます。こういう状況で、朝鮮の送還がまず一応片づいたのでございます。そしてその借入金の総額が、この間委員会の方に出ておりますのでは、約一億一千万円となつております。このうちには、正当な借入金を申せないものもあるのですが、まずこういうような状況で進んでいるのが、朝鮮引揚げの大体の状況でございます。  今度の法律案におきまして、朝鮮日本の一に対して一・五という比率なつております。ここに私の一つの疑問があるのでございます。朝鮮は旧領土でございます。日本銀行券も通用しておりましたし日本銀行券を兌換することを條件とされた朝鮮銀行券が流通しておつたのでございます。これは終戦の日まで、日本通貨との間に何の開きも見せませんし、送金についての制限もございません。まつた日本領土内の通貨として流通していたのでございます。それを今度の法律案におきましては、終戦の日から朝鮮銀行券はもちろん、日本銀行券日本の貨幣でない、こういう断定をされておるのであります。ここが一つわからない点でございます。もし理念上でそうされましても、実際上におきましては、引揚者は千円は持つて帰つてもいいということになつておりまして、千円の日本銀行券を持つて帰つた人は、こちらで、これは日本通貨でないから、新たに日本通貨に入れてやる、そんな手続をとられたことはないのでございます。またこれは正当なことではありませんが、やみで隠して持つて帰つた日本銀行券というものも、こちらで使いますときに、何の制限を受けておらないのでございます。それから、たといもし朝鮮日本銀行券が、こちらの通貨でないとしても、これによつてただちに換算ということを考えるのはおかしいと思う。換算率というものを大蔵省が非常にお考えになりましたのは、中華における儲備券とか連銀券とかの、当時の流通状況から、終戦後において非常にこれの換算率について、初めから頭を悩ましておられたようでございます。それはそれでよろしいけれども、それあるがために、そういう儲備券連銀券関係のない朝鮮通貨はもちろん、その他の地方に対して換算率ということを考えられること、それ自体がおかしいと思うのでございます。もしそういう儲備券や何かがなかつたならば、政府同胞救済のために借りた金に対して、換算率などということは考えられなかつたのではないかと思うのであります。ましてや朝鮮は旧領土でございます。通貨状況もそういうふうになつておつたのでございます。これに対して換算率を考えられる根本が私にはわからないのでございます。  次に、もし換算率を考えられるといたしましても、これに対して何をとられたかと申しますると、南朝鮮朝鮮銀行物価指数によられたようでございます。私見てございませんからよくわかりませんが、しかも借入れの大部分は北鮮借入れておるのでございます。これに対して南鮮物価を適用されておるのでございます。しかもその物価というものは二十年の五、六、八の三箇月をとられたようでございますが、まだ朝鮮の解放から間もないことでございますので、私は朝鮮においてほんとうに正当な物価指数が得られておつたとは考え得られないのであります。こういう不正確な指数のもとに、南鮮指数北鮮を律しておるのでございます。これでは何のために系数をとるのか、その根拠がまつたくわかりません。むしろ南鮮をもつて北鮮を律するならば、その当時アメリカのドル日本の円並びに朝鮮の円との換算率がどちらも一対十五でございます。日本朝鮮と比較しますと、パーでございます。そういう状況において、もし換算率をとられるならば、ドルに対する両方の比率基準にしてとられてしかるべきではなかつたか。何を苦しんで、ただこまかい数字をいじくるというために、朝鮮銀行物価指数をとつて、これを北鮮にまで当てはめるのかという点に、私は非常な不思議な点があるのであります。  以上の点から考えまして、少くとも朝鮮に対しては換算率というようなことを考えるべきではない、換算率の度外に置くのが正当であるということを主張いたします。もしそれがいけないとしても、米ドル根拠とした一対一で行くのが至当であると思います。これは単に朝鮮のみならず、満州その他中華以外のところにおいても、相当これと同様な主張ができるのではないかと存じております。  次にこの五万円のことでございます。ここで私が先ほど申しましたことを思い出していただきたいのであります。私に対して借入金をするときには、なるべく大きな額を数少く貸してくれ、こういう要求があつたのでございます。ただ実際上それができませんで、非常に零細な額になつたのでございますが、もし私がそれを守りまして数少い大きな額を借りていたといたしますると、今度はそれを五万円で打切る、こういう法律案が出ておるのでございます。大きく借り入れたいと言つておきながら、返すときには五万円だ、こう言つておられるのです。こういう事態でございますから、何もそういう言質をとつて政府を責めるのではございませんけれども、しかし原因と結果とを考えてみると、おかしいことになると思う。ことにこういうことを考えていただきたい。これはただ貸借関係ではございません。あの非常の中に出先官憲は何とも出来ないので、われわれが身命を賭して救済に当つたのでございます。そうして実に悲惨なろ努力をいたしまして、零細な金を各地方々から借り集めたのでございます。これをただ貸借関係と見ていただくのは、私ども中に立つた者にとりましてはまことに残念でございます。これは政府責任をかわつていたしました者たちに対して、その人たちが借りました額をきれいに払つてこそ、初めて法律上の問題はとにかく道義の上においての正義というものが成立つのでございましようし、日本の将来のためにも、かくあつて初めて国民は安心できるものであろうということを考えろのでございます。従つて五万円という制限に対しては絶対反対でございます。全体をお返しになるのがほんとうである。これはわれわれ借りました者といたしましては、なお強く主張いたします。ぜひ全体をお返しなさい。そうしてもちろん巨額な場合にある程度は、来年、再来年と分割されるのはやむを得ませんが、しかし一時払います額につきましても、五万円でとどめるということはまことに少額にすぎる。政府責任というよりは、あのときの状況による借入金であるということを、よくお考えいただきまして、そうして一時に払う額を多くし、総体については全体を返すというふうに、この案の改正をしていただきたいと存ずるのでございます。一体この案についてはいろいろな事情があります。ただ大蔵省換算率がきまつて、すぐに法律となるべき性質のものでは私はないと考えておつたのでございます。何度も外務省との交渉で、そうして諸般の状況を考えて、換算率はこう出るが、しかし結論はこう出て来るべきものだという法律案が出るのだろうと思つておりました。しかるに驚きましたことには、換算率委員会が終りまして、何の考慮をいたすひまもないうちに、これが法律案なつて前議会に提出されたのでございます。私は驚いて大蔵省に伺いました。大蔵省では、この法律案は次の議会に提出するという約束になつているので、考慮するひまもなく出した、こういうことをおつしやつておりました。私にはこれほど軽々に取扱うべき案だという気がいたさないのであります。その議会では不成立になりまして、今日まで非常に長い期間がありましたので、私ども考慮願つたのであります。しかし今度提出されました法律案は、前と同じものが出ております。この点につきまして、ただ系数ということ、金ということ以外にあまり深い御考慮がなくて、でき上つた法律案であるということを考えまして、まことに国家のために私は遺憾に在ずるのでございます。そういう点から朝鮮はこの換算率範囲外に取扱つてほしい。どうしてもそれができないのならば、米ドルとの換算率をとつて一対一ということにしてほしい。それから五万円という制限に対しては絶対反対である。全額を返済するという案にかえていただきたい。ただ一時に第一回に返す額については、十五万円という程度ならばしかたがありませんが、五万円は少きに失する。こういうことに改めていただきたい。朝鮮といたしましては、ほかの各地と同様に強い希望を持つておりますので、これだけ申し述べておきたいと存じます。
  6. 若林義孝

    若林委員長 ただいまの御意見に対しまして御質疑はございませんか。御質疑があればこれを許します。
  7. 塚田十一郎

    塚田委員 ちよつと穂積参考人にお尋ね申し上げます。私ども終戦後に外地においてできました日本人世話会というものがあつたことを承知し、また非常によくお世話願つたことも承知しておるのでありますけれども、こういうものがどういう法律的な立場において存在したものなのか、と申しますのは、一体こういう仕事をするのは、当然政府であつてしかるべきものを、政府がせずにこういうものができてお世話願つてつたというその間のいきさつ、それから次に世話会長として参考人が御折衝になつた外務省は、どういう機関のものと御折衝になつたのか、またもし当時の外務省の御交渉になつた相手方の地位や名前なども、御記憶であればお聞かせ願いたい。
  8. 穗積眞六郎

    穗積参考人 お答えいたします。第一の点につきましては、これは南鮮北鮮にわかれますが、南鮮におきましては、米軍が進駐いたしましてから、旧総督府の人は米国に対しての朝鮮事務引継ぎに没頭するように命じられまして、そうしてほとんどがそうとは申しませんが、軟禁状態でございまして、ほかの仕事に対して携わることを非常に制限されておりました。従つて救済事業などというふうなものも、初めわれわれが日本人会というものをつくりましたときは、総督府がやる手伝いをするというような気持でつくつたのでありますが、ただちに手伝いでなく主体なつてやらなければ、何とも動かないという状況になつたのであります。北鮮におきましては、そういうことに当るべき官憲はほとんど拉致されまして、あるいはシベリアに送られ、あるいは刑務所に入れられる、そういう状況でございましたので、どうしても民間でなければ、この仕事がやつて行けないという状況つたのでございます。  それから次に私が外務省交渉いたしましたのは、当時総督府の財務局長鉱工局長をいたしておりました水田という人と塩田という人を、十一月こちらに帰しますとき、懇々と事情を述べて外務省との交渉を頼んだのでございます。そうしてこれは主として外務省管理局長交渉をいたしたのだそうでございます。そういうことを私のところに申して参つております。これでよろしゆうございますか。
  9. 塚田十一郎

    塚田委員 そういたしますと、外務省管理局長と、直接世話人会長としてお話合いになつたのでなしに、間に総督府の早く帰られた人たちが立つて、そうして御交渉くだすつた従つて政府意向として、たとえば外務省に五百万円ある、これを目当てにひとつ金を借りておいてやつてくれというような意向は、そういうように間接にお話合いがあつた、こういうことなんでありましようか。
  10. 穗積眞六郎

    穗積参考人 その通りでございます。私が向うにおりましたので直接の交渉はできませんでした。ただ帰りましてから外務省に行きまして、そうしてもう局長はかわつておりましたが交渉いたしました。初めのうちはそれは直接関係はせぬというようなこともございましたが、最後に至つてその交渉はあつたのだ。それはもう承知している、こういう回答を直接に次の局長から受取りました。それからもう一つ申し上げますが、今の五百万円は、決して外務省がそのままにしたのではないのでございます。こちらの救済金に充てるつもりでございましたが、そのときの事情で、そつくりそのまま大蔵省に返さなければいけないことになつたので返せなかつたのであります。但しそのために、私は引揚港に上がればみんな返してくれると思つておりましたのに、その貸した人が帰つて引揚港で渡してくれませんので、私が向うにおります間も、またこちらに帰りましてからも、そういう人たちからは違約である、違言であるといつて、ずいぶんひどく責められたという事案があるのでございますが、しかしその金が返せなかつたのは、一般国家事情であつたということを、私も認めておるのでございます。
  11. 塚田十一郎

    塚田委員 いま一点、この世話人会性格については、こういうことでなかつたものでありましようか、ひとつお伺いしたいのであります。結局政府がやるべき仕事ができずにおつて放任されてしまつてつた。それはもちろんほつておいてしかるべき仕事ではないのでありますからして、あちらにおられる皆様方が、互助的な性格を持つた機関として世話人会をおつくりになつた、こういうことになるのでありましようか。
  12. 穗積眞六郎

    穗積参考人 それはところによつて違います。私のやつておりました京城日本人世話会、これは一つには京城のこともありますが、それよりおもに北鮮から帰る人々を収容しておいて、そうして米軍世話によつて送り返すこれが主な目的でございますが、これはむしろ互助的と申し上げるより、そういう仕事をするというのが主体でできたものでございます。しかしところによりましては、まず互助的といつていいかどうかわかりませんが、とにかく全体のうちから選びまして、そうして全体の世話をさす、地方々々によつては、そういう世話人会もあつたようでございます。
  13. 塚田十一郎

    塚田委員 ありがとうございました。
  14. 小山長規

    小山委員 一、二点伺いたいのでありますが、朝鮮の場合に、政府が内地から送金をすることができなかつたであろうことは、当時の事情としてよくわかるのであります。そこで世話人会は、総督府から依頼があつたから、お金をお集めになつたのでありましようか、それとも当時の事情として、やむを得ずお互いに、ただいま塚田委員からお尋ねしましたように、自衛のためと申しますか、お互いの生きるために、ひとつ持ち合つて行こうというふうなことから始まつたのでありましようか、まずそこからひとつお伺いしたいのであります。
  15. 穗積眞六郎

    穗積参考人 これは初め申し上げました通り、始めましたときは、——これは京城の場合でございますが、当然の政府の義務であるという考えから、政府から千二百万円くらい出させまして、それとほかから集めて千八百万円くらいにしてやつたのでございます。しかしそれが米軍に凍結されましてからは、やはりその仕事を継続いたしますために、残留の邦人から借上げをいたしたような次第でございます。すべての場合政府の依頼というのではございません。自発的でございます。ただある点においては、互助的というよりは、もつと広い立場をとつたということを申し上げておきます。
  16. 小山長規

    小山委員 そこで借入金会長がお集めになりますときに、あと政府が払うという約束がなかつたとすれば、そういう金は集まらなかつたような事情にあつたのでございましようか。     〔若林委員長退席、奧村委員長代理着席〕
  17. 穗積眞六郎

    穗積参考人 とにかく盛んに借入金をいたしました時分には、余裕のある人はみな帰つておりました。従つて何と申してもそのときの状況でございますから、やはりあとで返すというあれが、非常に強く借入れを誘発するもとになつたと思います。そうでなければ決してできなかつたとは私は考えませんが、しかし数十倍の困難を伴つたであろうと思つております。
  18. 小山長規

    小山委員 非常にむごい質問をするようでありますが、もしそのときに——これは仮定の問題でありますが、政府あとで返すという約束をしなかつたとした場合には、この金は集まらなかつたでありましようか。それともやはり互助的な、あるいはお互いの間に強盗でもあつたら、殺人でもあつたら困るというような情勢で、政府がこの場合に金を返すという約束をしなかつたような状態にかりにあつたとした場合には、どのような措置をおとりになるおつもりでありましたでしようか、会長のそのときの心境を伺つておきたいと思います。
  19. 穗積眞六郎

    穗積参考人 互助的とおつしやいますが、まず京城の場合を考えますと、互助的というよりは——広い意味の互助的ではありますが、京城自体の人というよりは、北鮮から帰つて来る人の唯一、唯一と申しましては少し言い過ぎでありますが、念願にしております。互助的という点については、そういう状況でございます。ただこういうことを申し上げておきます。これは当然われわれが政府の代行をしているんだ、どこまでも政府に返さしてみせるんだというわれわれの決心は——もちろん政府からそういう言葉がありました、なかつたとしても、事に当つているわれわれとしては、その決心は持つておりましたし、持つべきであつたと思います。従つてもし政府のそういうあれがなかつたとしても、われわれの一生懸命の念願によつて、ある程度は集めたと思います。しかしそういう場合でありましても、その底には、これは当然政府の代行をしているのだ、政府が返すべきであるという確信は、どこまでも持つていたろうと存じます。
  20. 早稻田柳右エ門

    ○早稻田委員 穂積さんに二点伺いたいと思います。借入れをなさる場合に、供用証書とか、あるいは何か領収書とか、それぞれ出されたと思いますが、その辺はどんな扱いになつているかということと、それからもう一つ、先ほど零細な金額が多かつたとおつしやいましたが、大体最高はどれくらいで、最低はどれくらいであつたかということ、それから主としてこの金が使用された使途は——北鮮から来る方を対象として救済に当られたことはお察しいたしまするが、大体どんな方面にお使いになつたかという点について伺いたいと思います。
  21. 穗積眞六郎

    穗積参考人 この点は京城あたりでは、領収書と申しますか、借入れ証書を出しました。その証書を持つて上陸地に来れば返してもらえる、そういう気でやつたのであります。それから北鮮の方におきましても、これはおのおのかわつておりますが、そういう借入れの形式の証書はみんな出したのでございます。ただ、これは朝鮮ばかりでもございませんが、引揚げということは非常に困難であります上に、北鮮向うがなかなか送還してくれないで、ほとんど三十何万の大部分は脱出したのでございます。山を越え野を越え、昼は歩けずに夜をたよつて脱出したのでございます。従つて初めから身につけるものは少かつたのでございますが、それでも今の貸金証書あたりは一生懸命で持つて来ましたが、途中でつかまりますと、みんなとられてしまつた南鮮におきましても書類というようなものは、米軍がこちらへ持ち帰えることを非常に厳格に阻止いたしました。朝鮮政府なつてもそうであります。従つて私のやつておりました京城世話会あたりでも、帳簿などは絶対に持つて参りませんでしたし、領収書の方もみんななくしてしまつた人がずいぶんあるのです。中には、奇抜なお話をいたしますと、金額を書いて渡すと、逃げて来る途中で金を持つておるという疑いを受けるというので、死亡診断書の何歳で死んだということを書くところへ一歳と書いたら一千円、五歳と書いたら五千円というふうにして渡した奇抜な領収書もあつたようでございます。
  22. 早稻田柳右エ門

    ○早稻田委員 そうするとはつきりした領収書とか、借入証というものは渡つていないということですね。
  23. 穗積眞六郎

    穗積参考人 いいえ、しているのです。はつきりとこの日本で書いたようなものが渡つておるのもございますが、そういうあれでない、紙切れた金額とその担当者の判を押したくらいのものも、所によつてはあつたようであります。ただこれを——私こんなところで申してはあれですが、今日本のこういう事情のときに、そういうことを主になすつては困りますということだけは、申し上げておきたいのでございます。
  24. 早稻田柳右エ門

    ○早稻田委員 そこで関連してお尋ねしたいのは、ちよつと判をついて、紙切れをお渡しになつたというような場合もあるとしますと、借入金を確認するのに非常に困難だと思います。私どもの聞いておるところによりますと、これは所によつて事情は違うと思いますが、金は出した、しかもそれは借したのか寄付したのかわからない、ただ民団長とか世話人会長から出さなければならない、出せということで出したけれども、領収書も何ももらわなかつた、あるいは世話人の方に預つてつてただけるかしらないから、出すのは出したという人が相当少くはございません。そういうのを捕捉いたすについては、なかなか困難だと思いますが、そういう点に対しては、借入れをいたしました公館側に、何か根拠になる書類等があると思われますか、それともそういうものは、おそらく今のお話ではないように思われますが、その点をひとつはつきり伺いたいと思います。
  25. 穗積眞六郎

    穗積参考人 お説の通りでございます。そのために外務省に確認の委員会ができまして、すでにもう二年たつております。そして出したものからいろいろの材料を持ち出して、委員会の幹事会で実によく審査いたしまして、借りたと確認できるものだけ、今順々に確認しておられるようであります。そのためにこんなに長い年月ががかつておるのでございます。私はそれ以外には申し上げなくてもいいのではないかと思います。  それから金額が、どれくらいが最高でどれくらいが最低かということにつきましては、ちよつと今最高の金額を覚えておりませんが、まあ七、八十万円くらいが、ごく少しあつたという程度ではないかと思つております。問題になつております十五万以上というのが、一万九千件出ておりますうちに、百件ちよつと以上になつております。それから零細になりますと、それはしまいには実に困つてしまいましたので、そういうふうにして非常に苦労して来て、三十八度線を越えた人からまで百円、二百円と借りた例があるようでございます。私はその次の年の五月に退去させられまして、古市進という人が会長なつて、しまいまでやつてくれましたが、その時分になりますと実に困る、そういうような状況でございましたので、実に零細なものがございます。それからもう二つつけ加えて申しますが、私が帰つて参りましたとき、ちようどこちらでも東京で朝鮮引揚者の会をつくつておりました。これは向う日本人世話会と対応してつくつたのでございますが、政府は返してくれません。しかし私どもは必ず返すと言つて借りた金でもあります。もし政府の返すのが遅れるならば、できるだけでもわれわれの力で、まず政府にかわつて返しておこうじやないかという決心を固めました。その時分のことでございますから、慈善興行とかいろいろなことをいたしまして、約百三十万円くらいを返したのであります。返し方は、小さな千円以下のような方々で、請求して来られる方には全額、多い方にはごく小額ずつお返ししたのでございます。しかしわれわれのやる商売でございますからすぐだめになつてしまいまして、百万円少し越えたところで、その返済はそのままになつて、今日に至つておる、こういう状況でございます。
  26. 早稻田柳右エ門

    ○早稻田委員 そして御苦心してお集めいただきました借入金は、主としてどんな方に使われたのでございますか。
  27. 穗積眞六郎

    穗積参考人 京城の場合でございますと、とにかく一日に、多いときには三万人ぐらいの人が集ります。米軍も少しは助けてくれますが、それぐらいの食糧ではとても足らないのであります。従つて宿泊をさして食糧を買つて配給する、それから米軍が汽車を仕立てて送り返してくれます。それについてのいろいろな費用というようなものに充てたのが主でございます。それから北鮮各地におきましては、やはりそういう食糧の関係もございましたろうし、それから在留民全体がうまくやつて行きませんと、ひどいことになるものですから、そういう在留民全体の生命を保ち、安全を保つために使つた部分もあるのではないか、こう思つております。
  28. 奧村又十郎

    ○奧村委員長代理 次に在外公館等借入金評価審議会委員岡崎嘉平太君より御意見を伺うことにいたします。
  29. 岡崎嘉平太

    ○岡崎参考人 私は終戦から翌年の四月まで上海におりまして、大使館におりました。その立場で、まず華中、華南の点を申し上げたいと思います。先ほども話がありましたように、終戦の年の暮れごろになつて引揚、在外公館の費用、難民救済等に金がいつても、内地から送れないから、現地で総領事の名前で金を預つておけ、他日政府がこれを払う措置を講ずる、従つて証憑書類を持つて帰れ、こういう訓令が参りましたのですが、そのときまでは引揚げの者も、引揚げ関係の大使館とか総領事館も、どうにかやつて来ておりましたので、といいますのは、引揚げ居留民のごときは、中国政府の命令で日僑自治会、居留民自治会というものをつくつておりました。それが相当金を出しておりまして、どうにかそれまでの費用をまかなつておりましたが、いよいよ引揚げが始まるようになりますと、その金ではまかなえなくなつたのであります。大使館、総領事館も金には困つておりました。従つてその方の金はこれを借りようという話が出ましたけれども日本帰つてはたして払えるかどうかわからん。それは政府払つてやるのだと言つているのだけれども、もし払えなかつた場合には、それを使つたわれわれ役人個人が、非常に道徳的な責任を感ずるようになるから、なるたけ費用を節して、最低生活をして、公館の費用は借りないようにしろと言つて、遂に公館の費用は借りませんでしたが、翌年になりまして引揚げが始まりますと、先ほど朝鮮関係からも申されましたように、奥地から出て来るもの、それから送り出す費用というようなものについても金が足りなくなりましたので、日僑自治会が政府の訓令に基きまして、総領事の名前で金を借りることにしたのであります。従つて上海地区の場合には、大体二月、三月、四月ごろだけに借りまして、そう多額なものにはなりませんでした。先ほどの話にありました大口、小口の問題でありますが、これは当時から、書類は一持ち帰つてはならぬという厳達が来ておりましたので、私はこの事務は扱いませんでした、当時の官房長が扱つておりましたが、相手には紙のビラに番号を附しまして金額と名前を書いたものを渡したと思います。それから自分の方では手控えをつくりまして、同じことをできるだけ小さく書き込みまして、もしこのビラを持ち帰れたら持ち帰つてくれ、ビラが持ち帰れなければ番号だけでも覚えて帰つてくれ、そうすれば、自分の方は何とかして番号だけでも日本に持つて帰つて、番号と金額の書いた小さなものをくつの底にでも入れるとか何とかして持つてつた本人と照合して金を払うとか、注意深い処置を講じて借り入れたけであります。一方日本帰つて返してもらうときに、どういうような金額で返してもらうかということは非常に問題になりますので、できるだけ貨幣価値を測定する資料を集めて、相当詳細な資料をつくつて、できるだけ持つて帰ろうということにしておりました。書類は最後に帰りますときには、若干持ち帰ることを許しましたが、せんだつて評価委員会のときにそれを外務省から借りようと思いましたところ、どこに行つたのか、あるいは書類が届いていなかつたのか、ございませんでした。しかしこの問題はわれわれ責任者としては非常に気になりますので、いろいろな面でこれを日本に到達するようにしておりました。幸いに今申しました総領事の名前で借りる金以外に借りたものがありまして、それに参考になるような物価——米ドルの相場とか、日本銀行券の相場とか、米の相場とかいつたものを書き上げたものが日本に到達しておりまして、それから日本銀行の方にもまた当時のそういう数字がある程度ありまして、これを引合せましたところがほとんど一致しておりましたので、まずその辺が借りたときの相場だろうというふうになつたわけであります。華中、ことに上海地区におきましては、そういうわけで比較的順調にこの事務が進んでおります。先ほどどなたからかお尋ねがありましたから申し上げておきますが、この金は全部引揚者の還送費用、それから奥地から出て来る人の費用に充てました。むろん居留民だけでありまして、軍の方は別であります。それからその同じようなことが、上海大使館の管轄のほかの領事館の地域でも行われておりますが、大体似たり寄つたりのことでありまして、そういう問題は起しておりません。  それで華中、華南に関する一応の状況を申し上げたことにいたしまして、次には、先ほど委員長から御紹介がありました在外公館等借入金評価審議会委員といたしましての意見を申し上げます。この審議会は大蔵当局からもお話があつたと思いますが、専門委員各地から選びまして、その上でそれを総括する委員をやはり各地から一名ずつ出したわけであります。従つて私は総括委員にもなつておるわけでありますが、また華中、華南についても意見を述べたわけであります。全体といたしまして、どういう評価をするかという問題、これは非常にむずかしい問題でありまして、先ほど華中につきまして申しましたように、比較的平穏に引揚げができましたところでは、今申しましたような、若干用意したものは持ち帰られましたが、ほかでは用意されておつても書類を持ち帰れないという状態で、実際集まつてみますと、資料がほとんどない。ことに客観性のある資料が少いという状態でありまして、どういう標準で、どういう方法で評価基準を定めるかということについて、まず行き当つてしまつたという状態であります。しかし何といつても、政府が借り上げた金の購買力を測定するのが一番公平じやないか。理論的にはまずそうであります。この借り入れた当時の購買力を測定するという原則には全員が賛成いたしましてそれでは何によつてそれをするかということになりますと、先ほど申しましたような、客観的に信憑されるような資料が各地全部整つているというわけでありませんので、これも非常に困りました。それから借り上げた時期が長期にわたつているところもありますし、そうしますと、ああいうふうに終戦後でありまして、各地物価は非常に騰貴いたしておりますので、それを一本にまとめるということは非常に困難であります。しかしこれを数本にわけますと、一日違いで非常な差ができるということにもなりますので、事務当局から報告があつたかと思いますけれども借入れのピーク時をとろうということにいたしまして、そのピークの時期が二つ、三つあるならば、大体二つ、三つにわけよう。大体二つにわけたところがあるようであります。そういうことにまず基本方針を定めました。それから地域によつて違います。同じように連銀券とかあるいは貯備券と申しましても、流通範囲が非常に広いために、終戦前でもすでに購買力に差があつたわけでありますが、終戦後特にそれがひどかつたようであります。それをまた各地によつてやるということになりますと、資料がますます足りなくなるというので、これも譲つてもらつて、主たる市場における価値を算定しよう、こういうことになつて、そういう基本方針をきめて、委員会へは勧めたわけであります。借り入れた通貨の現在価値を測定するのに最も理論的な方法は、その通貨が現在あれば、それの為替相場が立つておればその為替相場によるのが一番いいわけでありますが、かりにポンドを借り入れるといたしますと、その間にポンドの改革、切下げ、切上げということがありましても、ポンドはポンドだというので、現在の為替相場をとれば問題はないわけでありますが、大陸の通貨とか、南方開発銀行券というものは現在もありませんし、終戦後幾たびか通貨の改革を経つておるのであります。しかしそれが普通の状況において改革されておれば、その改革された順序を経て、大陸で申せば現在の中共でも、人民券の価借を、さらに米ドルとの相場に比較して日本円に直すということもできるわけでありますが、かりにそれをやつてみますと、ほとんど大陸通貨は零になつて、借入金というものはないことになるという状態になりますので、りくつは立つてもこれは非常におかしいというので、そういう方法は一応試みましたけれども、やめまして、最初の購買力を測定するという一本になつたわけであります。購買力を測定いたしますのにも、物価指数とか、普通は卸売物価指数でありますが、これをとりましても、実際は先ほども意見の中にありましたが、ああいう混乱の際には、はたして正しいものがとれておるかどうかわかりませんし、心覚えに持つて帰つた人もありますが、全部ではないというような点もあります。またそれでできるところをやつてみますと、金を貸した人には不利になるのであります。それで不利になるならぬということは委員会としては、あまり気にしてはいけないことでありますけれども、どうも常識に反するような数字が出ますので、これもやめまして、それでは何によるかというので、最後は主食によつたらどうか。敗戦後でありますので、生きて帰ることが第一でありますから、食うものが一番いいだろう。食うものの中で何によるかということになりますと非常に問題になつたのですが、米とか、あるいは北の方に行きますれば小麦、小麦粉とか、こうりやんとかいうものが入つて来るわけでありますが、まず主食でやろうという点に、だんだん意見が落ちて参りまして、最後にはとにかく米で行こうということになつたわけであります。米だけを全地域についてとることが正当かどうかということは、意見が非常にあるわけであります、最後にはそれ以上は出られないという状態になつたわけであります。そこでこれを結論いたしますと、貨幣価値を、いわゆる為替相場、通貨改革の線によることはやめる、これは債権者にとつて非常に不利であります。それから卸売物価指数とか、消費者物価指数というものをとつてみましても、相当不利でありますし、どうも常識に合わぬような気もいたします。米とか主食によるのが一番都合がいい、ある程度常識にも合うような気がいたしましたので、総括委員会ではこれによるということになつたわけであります。それをどうやつて出したかというようなこまかいことは、事務当局の方からお聞きとりをお願いいたします。  地域はその主たる市場による——華中、華南で申しますと、上海によるということにみなの意見が一致いたしました。これは広東とかいうようなところも、ある一つの大きな流通地域ではあけますけれども、広東の物価というようなことでやりましても、なかなかデーターが出て来ないのであります。それはそう大きな差はあるまいというので、そういうことになつたわけであります。満州とか、北支、朝鮮は私存じませんが、これには相当地域で開きがあるところがあるというような意見が出ておりましたが、それではそれぞれの地域の物価指数なり、米の相場なり、主食の相場なりといつたものをあげまして、よそと公平を期するように比較をするとなると、なかなか困難であります。また甲の地域で持つてつた金を、乙へ行つて寄託した人もありましようし、いろいろ難点がありますので、そういうように、主とした市場にまとめることになつたわけであります。時期も先ほど申しましたようにピーク、できれば一つのピークにまとめ、できなければ大きなピークを二つにする、そしてそのピークの前後の相場をとつて平均するというわけでありまして、個々の人にとりましては、相当不公平が出て来ると思います。  それからもう一つは、われわれ委員会といたしましては、借りたときにどういう価値のものを政府に貸したかということを査定するのが任務でありまして、それから先のことはわれわれの任務ではないと考えておりましたが、一般からは、貸したときから五年も六年もたつてつて日本通貨価値が非常にかわつているじやないか、従つて日本通貨価値のかわつたことも考慮に入れてくれという陳情その他もありましたが、日本の貨幣価値の変化したことを審議する権限もありませんし、それは単にこの借入金だけの問題ではないのであります。政府のあらゆる債券債務に関係があります。また日本の中における個人の債権債務にも関係がありますことで、とてもわれわれの委員会でそういうことを論議する力もありませんし、使命でもございませんので、その問題は遺憾ながら深く入らず、また答申にも載せなかつたわけであります。しかし政府におかれては、むろんこの点は考えておられるだろうと思います。  これを要しますに、個々の人にとりましては不公平なことが起りますけれども、全体としてはなるべく公平にしたい、いいことになればいいで公平にやりたい、悪ければ悪いで全体について公平にありたいという考えで、答申をいたしたのでありますが、何しろ資料その他を十分持つて帰つておりませんし、長い期間をかけて非常に理論的なことをやつたわけでもありませんので、われわれ答申いたしましても、それが万全であるとは考えておりませんが、私どもの微力の限りを尽したつもりでおります。  一つ申し落しましたので補足さしていただきますが、華中、華南地区におきましては、金額の多い少い、口数の多い少いの問題がありますが、先ほど申しましたように、書類を持ち帰えられない場合に番号を覚えておくということになりますので、できるだけ口数は少くする方がいいという考えはあつたようであります。私直接取扱いませんから、はつきりしたことは申し上げられませんが、出した方の人の話ではそういう考えもありましたようで、数人の人が一まとめにして出された例はあるようでありまして、限度五万円というのはやはり問題があり、同情すべき点があると私は考えております。終ります。
  30. 奧村又十郎

    ○奧村委員長代理 御質疑がありましたらどうぞ。
  31. 塚田十一郎

    塚田委員 岡崎参考仏にお尋ねいたしたいのでありますが、まことに失礼なことを伺うので恐縮でありますけれども、当時大使館にお勤めでいらつしやいましたが、どんな立場でいられたかをお伺いしたい。
  32. 岡崎嘉平太

    ○岡崎参考人 大使館参事官であります。
  33. 塚田十一郎

    塚田委員 それでは訓令か何か、相当法律的な性格もよく御存じであつたかと思うのでありますが、私ども在外公館等の借入金というものを考えますときに、これは日本在外公館が事態の必要にいる金を内地から送れないから借りるのだというように、ぼんやり考えがちなのであります。しかしその事態の必要ということ自体が、また緊急な状態が出て来ておりますから非常に広くなるのですが、そこで非常に狭い意味の在外公館の必要上借りてやれというような訓令であつたか、それとも新しく出て来たいろいろな仕事をしなければならぬから、当然この辺の仕事までは在外公館としてやらねばならぬ、そういうことに必要な金もひとつ借りてやれというような性質の訓令であつたか、どちらでありますか。
  34. 岡崎嘉平太

    ○岡崎参考人 これははつきり訓令にありまして、ちようど今もらいましたから読み上げますと、「在留民処置についてはこの上とも各館において万全の策を講ぜられ、遺漏なきを期せられたし。これに要する経費等多額に上るものと察せられ、」云々でこれは借りてよろしいということで、非常に広い意味であります。
  35. 竹尾弌

    ○竹尾委員 ちよつとお尋ねいたします。華中及び華南におきまする貯備銀行券と法幣の交換率についてでありますが、華中、華南におきましては、貯備銀行券対法幣の交換率は、二百対一とされておつたやに聞いておりますけれども、湖北省の漢口、それから奥地におきましては、重慶政府の指令によりまして、貯備券対法幣の交換率が四百対一だと伝えられておりますが、事実でございましようか。その点についてお伺いいたします。
  36. 岡崎嘉平太

    ○岡崎参考人 漢口の辺で四百対一で交換されたという事実は当時聞いておりません。むしろこれは上海に重慶軍が乗り込みましたときに、この問題を扱つている向うの者が私を呼びまして、交換率は幾らにしたらいいのか算定してくれと依頼されたことがありました。そのとき私は三人の三つの線で別々に計算させまして、八十対一という結論を出したわけであります。そしてその者に渡しまして、八十対一が実施上困るならば、百対一でもいいが、この辺でやらないといけない。前の貯備銀行券をつくつたときに、二対一で少し貯備券に有利に交換いたしまして、非常に経済が混乱したこともありますので、そのことを述べまして、八十対一がマキシマムだという回答をいたしましたところ、先生非常に喜びまして、即時重慶にその書類を空便で送つたはずでありますが、それが着くか着かない前に漢口で二百対一で実施した。そのためにそれがずつと流れて行きまして、二百対一にせざるを得ない状態になつたのでありまして、四百対一ということは聞いておりません。また正式には二百対一というのが公定レートであります。私は現地を存じませんから、あるいはそこにおられた方が、そういう交換をされたかもしれませんが、国民政府として正式にとられましたものは、二百対一であります。
  37. 竹尾弌

    ○竹尾委員 それではもう一つお尋ねいたします。華中と華南におきましては、大体同等の評価がされておるようでございます。しかし中国の経済圏は、華中は御承知のように上海を中心にしており、それから華南は香港を中心にしております。ところが、香港の物価は上海よりはるかに低いわけであります。そうしますと、この法律案で見られる換算率は、たとえば朝鮮におきまする日銀券あるいは華南、華中におきます法幣、これは同一の幣価について地域的に別個の評価をしていることは、ちよつとどうかと思いますけれども、それに対しまして地方におきましてもたとえば華中、華南あるいは奥地における評価の現状を無視しておりまして、これを一緒に同一であるというふうにされているのはどうかと思うのですが、その点につきまして御意見をお伺いいたします。
  38. 岡崎嘉平太

    ○岡崎参考人 それは御同感であります。おそらく中支よりも北支の方が、もつと地域差が多かつたじやないかというようにも聞いております。地域差をつけ出しますと限りがないのであります。先ほど広東と香港のお話がありましたが、香港には貯備券は流通しておりませんので、広東全体の物価とかそういうものは、かりに香港に依存しておりましても、貯備券としては広東だけであります。広東、汕頭の辺でありますが、これはその当時そこにおりました銀行の者が、専門委員として来ておりまして、いろいろ意見を聞いたのでありますが、終戦後においては上海とそう物価の開きはなかつたように思うとのことでした。先ほど申しましたように、華中で申しましても、二月と四月とでは物価が倍近くかわつておりますが、それをピーク時で平均してやるというので、その間にも不公平があるものですから、地域差の不公平をなくするために、一つのところをとりますと、みんな同じことが出て来ますので、これもがまんしてもらおうという、われわれの能力の不足をそれ補つているようなわけでありまして、不公平であることはわれわれも承認をしております。これをそれでは公平にするにはどうするかと申しますと、その問題はそれだけでないので、一応がまんしてもらおうという気持でありまして、これが絶対とは申し上げられないと思います。
  39. 奧村又十郎

    ○奧村委員長代理 次に元満州電業理事長、元長春居留民会長平山復二郎氏の御意見をお伺いしたいと思います。
  40. 平山復二郎

    ○平山参考人 満州の事情につきまして、簡単にお話申し上げたいと思います。  満州の終戦後におきます混乱状態また悲惨な状態につきましては、すでに御承知のことかと存じますのが、一応申し上げますと、ソ連軍が九日の夜明けに突如侵入して参つたのでありますが、その同じ月の十五日に終戦になります前には、もうすでにすつかり侵入を果しておりました。すぐ入つて参りまして、私は新京におりましたが、各地ともまつたく内地との交通が杜絶されてしまつたのでございます。     〔奧村委員長代理退席、若林委員長着席〕 その上、各地には東北満のソ連軍が侵入して参りまして、あとに残つてしまいました各都市、開拓団あるいは炭鉱その他の難民が、ハルピンでございますとか、あるいは新京、奉天、そういう都市を目がけてみんな引揚げて参つたのであります。むろん無一物でございますが、そういう状態になりましたので、これを何とかしなければならないということが、もう言わず語らずの問題になつたのでございます。それで新京が、そのときの中心地でございましたから、そのときにはまだ武部長官もソ連にひつぱられておりませんでしたし、それから公使の上村さんもおられましたし、またおもな特殊会社の幹部連中も新京に多くございましたので、それでいろいろ相談いたしました結果、これは何とかしなければならぬと、こういうことになつたのでございますが、各会社いずれも自分の社員を持つております。それからもうソ連が進駐しておりまして、略奪を盛んに始めておりましたような状態でございまして、各会社ともそれぞれ自分の社員なりを助けなければならぬ状態にあつたのでございますし、また町民自体も自分のまず保護をしなければならぬ。それでいつ帰れるかということが、さつぱりわかりません。もうすぐ帰れると思つたのでありますが、まつたくいつ帰れるか見通しがつかなくなつてしまつたのであります。そういう状態でございましたので、なかなかこれは普通のことでは、めいめいが自分のことにとらわれておりますから、とうてい難民までを救済することは困難である。新京の例で申しますと、新京には約十万日本人がおりましたが、終戦の年に一月、二月の間に流れて参りました難民が約十五万ございました。十五万の難民を十万の日本人で養うということは容易ならない状態であつたのであります。各地とも都市はそういう状態だつたのでございますが、それでいろいろ相談いたしまして、これはひとつおもな者で、帰つたらわれわれの責任において日本政府交渉して返してもらうから、ひとつ難民救済のために金を出してくれ、こういうことを考えまして、それで連絡のできます限り、各地方にこれを伝達したのであります。武部長官へ領事館の植村君なども保証人に加わりまして、おもな者が四、五人保証人になりまして、そうしてこの募集をしたのであります。集めましてわれわれといたしましては、内地には密便を出したりいろいろしたのでありますが、どうしても連絡がとれませんので、もうこれはわれわれの専断でやるよりしかたがないというので始めたのであります。     〔若林委員長退席、竹尾委員長代理着席〕それでそういう責任がございましたので、いろいろ帳簿の整理、金を出してもらいました受取りとか、そういうものもできる限り整備いたしまして、これを実行したのであります。それで今回問題になつておりますのは、主としてその分なのでございます。地方によりましては連絡もできませんで、そして事実においてそういうことをやつたのでありますが、証拠書類とかそういうものがないために、さつきお話のございました外務省審議会でも取上げられない部分が非常に多いのでございます。これはどうもやむを得ないのであります。この点はなはだ遺憾に思つておるのでありますが、どうもやむを得ないわけでございまして、残念に思つておるのでございます。  それで今度の法律案ができましたのに対しまして、満州の立場から不満に思つております点は、過般もこれに関係あります民会の責任者に集まつてもらいまして、この法律案につきましていろいろ意見を聞いてみますと、まず換算率の問題なんでございますが、換算率が一番最高のところでとつておる。最高の金の集まつたところを中心にしてとつておる点に、一つの不満があるのでございます。それは借りました満州の当初におきましては、満州国通貨がまつたく内地とパーであつたことは御承知の通りでありまして、朝鮮同様まつたくパーでありまして、この時分にわれわれとして金を出してもらつたものが、一番われわれ難民救済をします上にありがたかつた人たちなのでありますが、また終戦のパーであつた時期に、少くとも借入金の問題が起きましたのに、そのことは考えられずに、一番そのもののたくさん集まつた時期の物価を中心にして換算率をきめられたということに対しまして、どうも不合理ではないかと思うのであります。少くともある部分に対しましては、パーの率を認めていただいてしかるべきだと思うのであります。もちろん、その後にインフレになりましたから、そのインフレを考慮していただくのはいいのでありますが、少くともパーの時期が相当あつたのでありますし、またこの時期にこの救済金を出してくれた人が難民を救済しました上に、いつ帰れるかわりませんし、そういう時期に出してくれた人が一番感謝すべき人であるのにかかわらず、それが考慮されていないということが、非常に不満なのであります。  それから換算率を出します上に、米価が中心になつておるということが、また満州にとりましては非常に不合理なのであります。御承知のように満州のそういうような混乱した実情におきましては、主食はまつたくこうりやんであつたのであります。でありますから、もつとこうりやんというものを主にして、ひとつ換算率をきめていただきたいと思うのであります。  それから次には五万円で打切るという問題でありますが、満州の実情から申しますと、五万円以上のものは、率で申しますと非常に少いのであります。しかしこの出しました趣旨は、どこまでも難民救済なのでありまして、そしてまた使われました人は、まつたく難民を主としたものなのであります。相互扶助というようなお話がございましたが、私自身で考えましても、むろんこの救済金の一部は出しておりますけれども、相互扶助によるそれ以外のものの方が、ずつと多いのであります。おそらくこの救済金に出しました人から申しましても、自分の関係、あるいは県人会あるいは会社関係で相互扶助的なものの額がずつと多いのでありまして、この救済金はその中からこの救済金のために出したのであります。そういう意味から行きましても、ひとつこの救済金は五万円などと、もちろん五万円以上の率は少いのでありますが、五万円で打切るというようなことは、とうてい当時の実情から申しまして、がまんできないのであります。  それから満州にも零細なる醵金がございます。零細なる醵金こそ、われわれからいたしまして、出した人の精神から申しますと、感謝すべきものなのであります。それがこのような一律な率によつてきめられてしまうということは、その気持から申しまして非常におもしろくないと思うのであります。少くとも、ある、千円未満なりなんなりは、こういう換算率と無関係に全額を払つてただくようにしていただければ、この救済金を募集いたしました当時の実情から申しまして、最も適当しておるのではないかと思うのであります。もちろんこういう平和の状態になりまして、こういう問題を取扱われますと、自然合理的とかあるいは事務的になるのでありますが、この問題だけは非常に特異なのでありまして、単なる借入れとか、政府の借金とか、そういう問題でないのでありまして、この点ひとつどうおきめになるにしましても、その当時まつたく犠牲的に成り立ちましたこの借入金に対しましては、ひとつその意味も含めて、御解決を願いたいと思うのであります。関係いたしました民会の連中が集まりました席でも、みんなの気分は、もちろんこの換算率とかいう数字的にも関係がございますが、大体その当時中心になつてやりました者は、非常に犠牲的な気持でやつたのであります。またこれに出しました者も、非常に犠牲的な気持で出しておりますから、その気持をひとつこの問題の解決の上に組み入れて、御解決を願いたいというのが、満州におけるみなのお願いなのであります。その意味さえ含まれますならば、単なる数字以上に、この問題に醵金しました者は満足するのではないかと思うのであります。それにいたしましても、現在の換算率、また五万円で打切るというようなことに対しましては、満州におきましてこの問題にタツチいたしました者、またこれに醵金いたしました者といたしましては、まつたく満足することができないのであります。どうぞひとつよろしくお願いいたします。
  41. 竹尾弌

    ○竹尾委員長代理 ただいまの御意見に対しまして、御質疑のあられる方はこれを許します。
  42. 淺香忠雄

    ○淺香委員 お伺いいたしたいと思いますのは、審議会で正式に取上げられました数字以外に、標識がなくて取上げられていない数字の見込みですね、これはどのくらいの程度のものでしようか。
  43. 平山復二郎

    ○平山参考人 これは外務省審議会の方にいろいろ出ております。しかし、これはまつたく証拠がないのでございまして、めいめいがかつてに出しておるとか、ある程度の証拠づけをやるような材料をもつて出しておるものもございますが、確認する方法がないのでございます。しかしこの問題に関係いたしました各都市では、大体原簿を持つておるのです。その原簿だけはみんないろいろ苦心いたしまして、物の中に隠しましたり、またところによりましては、そのときの中国なりの許可を得まして持つてつたのであります。そういうようなわけで、そういうものだけを外務省では審議されておるようなわけでございまして、それ以外のものになりますと、まつたく気の毒なんでありますが、これはどうしようもないのでございます。でありますから、今外務省で取上げておりますのは、そういうほんとうの確認のできるものだけを大体やつておるのでございまして、それ以外の数字になりますと、ちよつとわからないのでございます。
  44. 淺香忠雄

    ○淺香委員 もう一点だけお伺いしたいと思いますが、当時非常に困難だつたろうということを想像しておりますが、ただいまのお話の中にも、ソ連の進駐によつて略奪行為などが行われ、在留民十万のところに避難民が十五万、合計二十五万、これをいかに内地に送還さすかということについての苦心は、大体はわかるのですが、いま少しこの略奪によつて混乱に陥つたそのときの状況を、具体的にお話を願つたら参考になるかと思いますが……。
  45. 平山復二郎

    ○平山参考人 私は新京におりましたので、新京は満州におきまして、どちらかといいますといい方だつたのでございます。それでございますが、約十五万集まりましたので、とうてい引受ける道がなかつたものでございますから、そのうちの約五万を奉天に引受けてもらつたのであります。そうしてソ連の了解を得まして、これを奉天に送つたのであります。そうして十万を引受けたのであります。それでこれをソ連の命令によりまして、その大部分を軍の官舎に収容いたしたのであります。これはいずれも東北満から流れて来た者でありまして、まつたくの無一物でありました。これは民会で集めました金もございますが、それ以上に各人から個々に援助してもらいました。県人会で援助してもらつたものもございましたり、会社の互助金に援助してもらつたものもあるのであります。それに足りません主食でございますとか、それから一冬越しましたので、夜具ぶとんが全然ないものでございますから、みんなから座ぶとんや何かを集めました。またわらぶとんなどをつくりまして、これを救済したのであります。そういう状態でありましたけれども、ソ連とか中国——まだ正式の軍が入つていないときでございます、そういう方面からはほとんど援助が得られなかつたのであります。そこへ発疹チフスが非常に流行いたしまして、十一月、十二月ごろには月に二、三千ずつ難民のうちからなくなつて行くというような状態でありまして民会の医者でもずいぶんそのために犠牲に倒れた者もございます。私もちようど民会長をやつておりまして、発疹チフスにやられましたが、幸いに生き残つて来たのであります。そういうようなわけで何とか冬を越しまして春になりました。新京ではソ連が四月に引揚げましたが、すぐ今度は中共が入つて参りまして、市街戦を一週間ばかりやつたのでありますが、その中共が一月で、今度は正式の蒋介石軍が入つて来るということになりまして、ちようど新京だけでもそういう政権の異動のございましたことが五回ほどございました。そのたびにみんなふとんを出せ、夜具を出せと、軍隊の徴発がございましたが、市民も自分自身の生活に追われている者が大部分でございましたので、難民のために金を集めることに非常に苦労いたしました。やむを得ず、内地へ帰つたら、われわれの努力で政府から返すのだから出してくれ、こういうことによつてつたのであります。しまいごろになりまして、正式の蒋介石の軍が入りまして、いよいよ君たちは帰してやるというようなふうになりました時期におきましては、中国の要人がみずから日本人の中へ出かけて参りまして、中国が救済するのだけれども、とてもそれだけの金はない。だからぜひひとつ君たちが出してくれ。われわれも日本政府に話しますようにするから、ぜひひとつ君たち同胞のために出してくれ。こういうような時期もあつたのでございます。それからまたこの金がいかに有効に使われたかという一例を申しますと、いよいよ引揚げが始まりましてから、日本の船が入つて来ないのでございます。それで満州の方は、胡蘆島の近くへ参つておりまして、船が入つて来るのが一日延びて参りますと、金がなくなつてしまうのです。これには困りました。事情を聞いてみますと、どうも内地の船に食糧を積み込むのが間に合わない、こういう事情がわかりましたので、それではひとつ満州の方で食糧を積み込むから船をよこしてくれ、こういうことにいたしまして満州の難民救済の金によりまして、食糧を日本の船へ積んだことも相当あるのであります。これは億以上に達すると思つております。これは実はそういうような金なのであります。
  46. 竹尾弌

    ○竹尾委員長代理 ほかにお尋ねはございませんか。
  47. 庄司一郎

    ○庄司委員 よくわかりました。公館が直接金を持つておる方、たとえば難民の中から直接かき集めて借入れをなさつた、その御苦労、その悩みをほうふつとさせた御説明でよくわかりました。だが公館以外に、民会は民会同士、あるいは県人会は県人会同士、相互扶助の意味において貸し借りをやれ、こういうような公館の御指導と御誘掖のもとに貸借されたものもあろうし、あるいは立てかえ合つた返済をしたり、プレゼントされたものもあろうと思います。公に総領事さんなんかが御指導のもとに貸借をさせて、一時難儀の境遇を打開した、すなわち公館が借り入れたと同じような意味を持つておるものについて、外務省においてはただいまお取上げになつておられないのでしようか。——政府委員がおられませんければ、参考人の方でただいまの私の問いに対して御感想のある方より、参考のため御意見の御発表を願いたいと思います。
  48. 平山復二郎

    ○平山参考人 そういうものは満州に関する限りは、材料がございませんので取上げようもないのでございます。われわれは少くとも日本に帰つたら、この分だけは返してもらわなければならぬというので、帳簿などもできる限り整理いたしまして、費途などにいたしましてもできるだけ整理いたしましたし、また借用証を渡す者にも、そのことを含めてやりましたので、この分だけは自信がございますから、実は政府の方へ強くお願いしたわけであります。われわれが独断専行でやつたのでございますけれども……。
  49. 竹尾弌

    ○竹尾委員長代理 ほかにお尋ねはございませんか。——別にないようでございますから、午前中はこの程度にいたしまして、午後一時まで休憩いたします。     午後零時二十九分休憩      ————◇—————     午後二時八分開議
  50. 竹尾弌

    ○竹尾委員長代理 午前に引続き会議を開きます。  在外公館等借入金返済実施に関する法律案につきまして、参考人の方から意見を徴します。在外、公館貸付金返還促進連合会委員長中村猪之助君。
  51. 中村猪之助

    ○中村参考人 私は北支の済南、青島地区を中心にした山東省の返還促進事情について、参考人として陳述いたしたいと思います。  山東地区の借入機関は済南総領事館、青島総領事館であります。それから責任者は当時の済南では有野学という人であります。青島では、当時領事をしておつて、昨日付で外務省の連絡局長になりました伊岡祐二郎君であります。借入れ根拠は、外務省からの電命によつて現地で何とか調達をしろということで借入れをしたのであります。その借入金の使途は、第一に公館の館員の俸給が払えぬというので、俸給その他の事務費であります。それから済南、青島の奥地から、また膠済鉄路の沿線から、どしどしと流れ込んで来る難民の収容費、それから米軍が上陸し、中国軍がやつて来ました、その中国軍並びに米軍に対する交渉の費用、それから青島にLSTという船が参りまして、そこから乗船ということになりまして、済南に集まつた者も青島に参り、すべて青島から引揚げたわけでありまして、その引揚げの費用でございます。それからまた特に米、英、オランダ、その他の三国人を膠済鉄路の沿線にあります●県というところに収容しまして、そこで軟禁しておりました。ところが終戦になりまして解放するということになり、主としてみんな青島に住居がありますので、その住居にもどつて参りました。ところが住宅が荒廃していて、軍が使つてつたところなんかは、ピアノもないし、絨氈もないし、冷蔵庫もない。みんな弁償しろということで、領事館はもちろんそういう費用はありませんので、当時商工会議所民団の方に、公館責任者が頭を下げて、どうか現地で調弁してくれと頼みました。それが一億七、八千万円になつておりますが、その金は、まず会社その他個人からの多額の費用で、終戦の年の秋を中心にして調弁されたのであります。そういうふうな特殊事情があるのであります。この借入金がありましたために、そういうふうな第三国人に対する、いわゆる今で言えば、国家賠償みたようなものを、すでに青島では行つてつたという状況にあります。  それから三十万そこそこの人間が無事に故国に帰り、生命が保たれて円満に引揚げができたということについては、この借入金によるのであります。この借入金は普通の借入金と違いまして、国家を救うという意味の金でありまして、何をさておいても返済してもらわなければならぬのでありますが、帰つてからすぐ払うと言いながら、六年も経過しておる。今回政府提案された法案を見ますと、りつぱに領事館の借入証書があり、それに対しては審査会の方で確認証書も発行しておるのでありまして、その額面の貨幣は、連合準備銀行の通貨でありますが、その当時におきましては一対一のものが、百分の一という評価をされております。この金の性質の例を申し上げますと、内地で二万円ばかり預けて定期預金にして、それを五万円にして嫁入りの費用にしようというようなものを貸しておりますが、この貸した五万円が、この法案によりますと五百円になります。五百円では、嫁入りの資金どころか、交通費にも足りないような哀れな状態であります。この借入金を評価換算することは、非常に遺憾にたえないと思つておりますが、その性質はどうかと申しますと、この借入金は、戦前に粒々辛苦してためた金とか、また内地から持つて来た金とか、そういう粒々辛苦してためた金でありまして、終戦後もうかつた金ではありません。これを今六年越しになつて評価すること自体が間違いであります。相なるべくは、やはり元の政府の認めました公定レートによつて、額面通り支払われるというふうにしなければ、貸付者としては、どうしても承知ができないのであります。このため大蔵省の諮問機関として評価審議会というのが設けられたそうですが、そのときの話では、終戦によつて内地の金と現地の通貨のリンクが切断された、そうしてもうすでに連銀券も満州銀行券も外貨であるというような意見があつたそうであります。戦争が終結いたしましたので、連合準備銀行は日本政府の保証した銀行でありますから、やはり属地的に見ずに属人的に見て、また日本人が、今あちらにおつて返すならばともかくも、現にこちらに帰つておるのでありますから、やはり元の政府の方針である公定レート、額面通りということで支払わなければいけないというのでありまして、評価換算するのは実に不当だという考えであります。これを評価換算するといたしましても、通貨の価値は、二十年の秋とその翌年の上半期とではたいへんな違いがあります。そこで一律にこれを評価換算するということでなしに、やはり貸し付けました時期を基準として評価さるべきものだと思います。それから主として米価を基準にしてやつているそうでありますが、やはりこれは物価指数その他為替換算率によつてやるべきであけます。その当時は、内地も外地もこんとん状態であつて、経済不安定の状態でありますから、よるべき物価指数もあるはずはなし、また為替相場もあるはずはないから、簡明直截にその当時政府がきめた公定レートによつて払うのが、ほんとうではなかろうかと思います。  それからこの法案によりますと、終戦直後の円の価値を認めて、これに百分の三十を加えるということになつておりますが、現在政府から払われる金というものは、非常に安い円であります。六年前の円と今日の円とを比較すると、二百分の一にもなつていると思いますが、非常に安い円でありまして、そういうような安い現在の円で払われることは困つたものでありまして、今の円で払われるならば、連銀券は百分の一ぐらいに評価されておりますが、百分の百五十ぐらいにして、もう五十ぐらい増して払つてもらいたいと考えておるのであります。そうしてわれわれが引揚げて参りますときに、私は佐世保に来たのですが、佐世保では一人当り千円だけをもらいましたが、それは連銀券の千円を渡して日本の円を千円もらいました。やはり一対一で払われております。また現地でやりました貯金等もやはり一対一で受取つております。また戦時中に発行されました戦時国債、公債等は、現地におりまして連銀券で買つた五百円券は、やはり現在五百円で償還されておるのであります。かくの通り連銀券——満州もそうでしよう、朝鮮もそうでしよう、朝鮮もそうでしようが、当時一対一の状態であつたものは、現在払われるものも、やはり一対一で払われるのが至当でなかろうかという考えであります。それから法案によりますと、返済金の五万円以上は打切るということになつておりますが、これはどういうわけであるか。債務を否認されるのであるか、多く貸したから頭をはねるというのかどうか知りませんが、これは当然われわれが持つておる私有財産の侵害でありまして、われわれ法治国民としては、実に納得がいかない憲法違反の処置でなかろうかと考えるのであります。ことに引揚げ以来資金もなく、環境が非常に悪い引揚者がこの金を貸しております。六年間悪戦苦闘、かろうじて露命をつないでおるのでありまするが、この金が唯一の頼みでありまして、これに基いて借金も払い、今後の事業資金として、善良なる国民として生き長らえるというような再起更生の意気に燃えておるのでありますが、たとえば二十万円貸したものが、今二千円もらうということになりますと、実にかわいそうでありまして、二、三日の生活費にもならないというような哀れな状態であります。大体債務者が債権者の意思を尊重しないで、かつてに五万円以上打切るとか、百万円のものは一万円しか返さぬとかいうようなことは、民主主義で立とうとする日本国民としましては、非常に遺憾なことじやないかと思うのであります。ことに昨今道義が頽廃しまして、危険思想の風潮が盛んになろうとしておるときに、この劣悪無比な悪い法律をもつて国民に臨むことは、あたかも引揚者をかつて、共産主義社会に追い込むような処置ではなかろうかと存ずるのであります。どうか本借入金は当時政府が認めました法定レートによつて返済されるように御尽力を願いたいのであります。
  52. 竹尾弌

    ○竹尾委員長代理 ただいまの御意見に対しまして、質疑のあられる方はこれを許します。——御質疑がないようでありますから、次に移ります。  次は東京大連会会長山田浩通君にお願いをいたします。     〔竹尾委員長代理退席、若林委員長代理着席〕
  53. 山田浩通

    ○山田参考人 私は大連におきまして金を集めた方の側でありません。金を出させられた方の側であります。金を集める方につきましては、各地機関を先刻来承つておりまするごとく、大連におきましても世話人会等がありまして、それぞれ集められたのでありますが、私はその点に触れませんで、在外公館等に対して金を出したその立場から、今回大蔵省の定められたレートによりまして、支払われるということにつきまして、はなはだ承服しがたい感情がありまするので、そのことを一応申し上げたいと思います。簡単ではございますが、一から八まででございますのでお聞きを願いたいと思います。  第一、大蔵省案のレートはわれわれの承服できぬものであります。第二、米をもつて唯一の資料とせるは大なる誤りである。大連は米の産地でない。従つて米による収入はない。国府、中共、ソ連の遮断により、極端な騰貴はやむを得ぬものであります。しかし日本人の多数は米食などのぜいたくはできません。こうりやんや雑穀により露命をつなぎしものであります。日本人の生活には米はすこぶる縁の遠きものでありました。しかもこの大蔵省のとりたる大連米価なるものは、大連労働組合の計算書に現われたるただ一回の取引、その最わずかに四百五十斤の微量を唯一の資料としたのであります。第三に、当時の日本人は失業の結果何らの収入なく、やむなく衣類、家具、什器を路傍に立売りして、かろうじて露命をつないだのであります。しかもこの窮乏のどん底にて、身の皮をはぎ得た金を醵出したのであります。これらの日本人の収入の大部を占むるものをレート決定の資料に、差加えていただきたいのであります。第四、満州国と関東州で一・六と一〇・〇という天地の差あるレートの決定には、一年五箇月の時期のずれがありますから、これは関満同期、すなわち関東州にも満州に許せる二十二年三月の期日をとり、両者一本に改められたくお願いします。第五、関満貨幣は常に等価でありました。これに対し同一時期に格段の差をつけるのは、不公平のはなはだしいものであります。第六、醵出後数年を過ぎ、物価指数はなはだしく騰貴せる今日、醵出当時の十倍以上の返還を求むるもあえて不当とは思いませんが、国費多端の折から、隠忍して、われらは等価の支払いを関、満一体となつて御願いいたす次第であります。第七、物価指数関係上、五百万で打切るは惨酷に思われます。適当に緩和せられんことを切望いたします。第八、零細なる醵金者の多きことは、特に注意を要すべき点で、五千円以下の者が五割八分一厘に達しております。この五千円の醵出者には、大蔵省案レートによれば、わずか六百五十円の支払いであります。醵出後数年を経て物価騰貴の今日、六百五十円の返戻では、醵出者はいかに失望落胆すべきや想像にあまりあることと存じます。よろしくこれらの点を参酌し、左の四項に対し明鑑をたれたまわんことを切望いたします。  一、レート決定の資料は四百五十斤の微量の米価のみによらず、当時の日本人の収入の大部分を加味していただきたい。  二、支払いの時期を関、満同一に二十二年三月末日とすること。  三、支払いレートは等価たること。  四、五万円打切りは適当に緩和を望む。  以上は関、満、一体の希望であります。以上であります。
  54. 若林義孝

    若林委員長 右に関し質疑はありませんか。
  55. 塚田十一郎

    塚田委員 山田参考人と前の中村参考人、御両人に、ちよつとお尋ねしたいのでありますが、当時一日に、もしくは一箇月にどれくらいあつたら生活ができたものかというような、何か記憶なり記録がありませんか。と申しますのは今の山田参考人の御意見でありますと、満州と関東州では非常に米の値段が違つてつた。そのためにこういう違つた結果が出て来たと思うのでありますが、私も関東州、満州国には若干行つたこともあり、おつたこともあり、経験があるのですが、戦前の記憶ではおつしやつた通り、まさに関満一体であつた。それが終戦後になつてどうして物価、ことに米の値段が、満州ではそんなに高くなつたのか。従つてそういうことを反映して生活のぐあいが、大連では一体一日にどれくらいあれば生活がおできになつたか。また中村参考人のおいでになつた済南ですか、そこではどれくらいの費用であつたか、そういうことをお聞かせ願いたい。
  56. 山田浩通

    ○山田参考人 ただいまお尋ねの、何がゆえに米価だけが特に高くなつたかと申しますと、大連は米の産地でないということが主たる原因であります。そこで米の大部分は、奥地から持つて来るのと、海から持つて来るのと二つ道がありました。ところがこれは国府と中共とソ連と、おのおの時期は多少異なつておりまするが、いずれも交通を遮断せられまして、大げさに申しますると、密輸入はあつたかもしれませんが、表向きは一粒の米も終戦後は入つておりません。しかし先刻申し上げました通り米などという貴重なものは、多くわれわれ日本人の口にはできませんので、ごく一部の者が口にしましただけでありますから、米によつての生活云々ということはあまり影響はなかつたはずであります。ほかの雑穀その他でやつておりました。それからはつきり記憶いたしませんが、米などというほうもないものを用いませんで、雑穀等を用いておりましたならば、一日の生活費はまず二、三百円で足りないと思つております。
  57. 中村猪之助

    ○中村参考人 済南、青島地区においては、戦時中はやはり配給でありまして、また米の消費量も非常に少く、私済南におりましたが、その平均給与は百円くらいと思います。私の経験でも三人家族で百円そこそこだつたら生活できたと思います。
  58. 若林義孝

    若林委員長 別に質疑はありませんか。——では次に上海居留民団民会議員宮澤綱三君より、御意見を聴取することにいたします。
  59. 宮澤綱三

    ○宮澤参考人 私は上海方面に三十二年の間、居住しておりました宮澤であります。先ほど来大使館参事官の岡崎さんから、大体におきましての上海のスケールをお述べになつたのでありますが、岡崎さんの立場は政府を代表するような意味でありますので、私は債権者の立場から一応意見を申し述べさせていただきたいと思います。私は政府が国の債務として認めておりますところの、公館借入金に対する提供者の一員でありまして、昭和二十一年三月早春のころ、当時の政府出先官憲主体といたしましたところの上海日僑自治会からの、敗戦によつて続出せる同胞の救済及びその他に要する資金の切なる提供方の要望にこたえまして、帰国の後はただちに返済するとの條件のもとに、いろいろと無理算段をいたしました上、現金を提供して帰国したいわゆる債権者的立場にある引揚者なのであります。私ども政府が公約を的確に履行せられることと確実に自分も考え、また期待しておつたのであります。しかしながらその帰国後、即時返還の実現を日に月に願望し続けたのでありますにもかかわらず、荏苒六箇年を経た今日に至るまで、ついにしてその返済が履行されるに至らなかつたため、資金を提供した大多数の引揚者らは、日々の生活にも事を欠くという悲惨な状態にさらされておる現況にあるのでございます。しかるところ政府におきましては、右借入金に対し近く返済を開始するとの方針のもとに、去る八月十八日の臨時国会に在外公館等借入金返済実施に関する法律案なるものを上程したのでありましたが、審議未了のまま、十月初旬に開かれる次の臨時国会に再提出する予定であるとの報道が、その内容とともに当時の一般新聞紙上に掲載せられたのであります。よつてどもは、いわゆる政府案なるものの内容そのものについて、検討を加えてみましたところ、政府はわずかなる名目的の返済を行うことによつて、哀れなるところの引揚者らが集積、提供した厖大な債務のすべてを、一挙になし去ろうとする空気の、はなはだ濃厚であることを発見いたしまして、そのきわまりない理不尽かつ一方的な政府案なるものに対しては断固として反対せざるを得なくなつたのであります。いわゆる政府案なるものによりますと、一、日本円と儲備券及び法幣との比率を、ことさらに一方的な御都合主義によつて決定したこと。二戦争終了後に行われた完全な金銭の貸借事項であるのにかかわらず、金五万円以上は一切返済の責に応ぜないといういわゆる限度制度の独善案なるものは、債権者的立場にある私どもの権利を蹂躙し去る明白な違法行為であると断ぜざるを得ないのであります。ここにおいて私どもは、私どもに残された唯一の生きる道であるところの国会への訴願によつて、この非人道的な政府案なるものに対して、一大修正を加えられんことを切にお願い申し上げてやまない次第であります。  私が今本委員会にお願い申し上げる根拠は、  一、政府は私どもからの提供金に対し通貨の対比為替率をみずから算定し、二十一年当時における日本円貨金一円に対し、儲備券二千四百元及び法幣の場合十二元と査定したのであります。いわゆる為替換算率の算定に対しては、いかなる場合においても債権者側と債務者側とは、常にその考え方において根本的に対立することは、やむを得ない社会的通念であるとしても、政府案のはなはだしいからくりなるものは、昭和二十一年中における日華間の物価指数根拠を置いた通貨的価値を査定したのにかかわらず、その実際上の支払いは、二十一年当時よりも、はるかに低位にあるところの二十六年度中における現行通貨によつて、二十一年当時の基準通貨数字に根拠を置いて、支払いを完了せんとする点にあります。すなわち政府出先官憲が、もし二十一年当時において、私どもに求めた條件であるところの帰国後、ただちに返済するという公約を正しく履行していたとするなれば、あるいはそれでもやむなしとも考えざるを得なかつたかもしれません。その理由は、日本円の通貨的価値が二十六年の今日に比し、実に二、三十倍以上の高位にあつたからなのであります。しかるにもかかわらず、日華間における通貨比率を二十一年度に求めながら、その数字のみを援用することによつて、二十一年に比べて二、三十分の一以下の低位にある現行通貨をもつて支払い、しかして債務のすべてを清算しようとするところに、私どもの肯定しがたきインチキ性が存在するものと、断ぜざるを得ないのであります。よつて政府はすべからく二十一年と、二十六年度中における物価比数を算定したる正しい通貨率に基礎を置いて、誠意ある返済を履行すべきであることを強く要望するものであります。  二、公館借入金がその性質上より見ても、明らかな金銭上の債権債務であり、しかして二十一年度中における日華間の物価指数等の数字に重点を置いてまで決定したのにかかわらず、一たび返済金額が金五万円を越えるに至つた場合においては、たといいかなる高額な債務であつても、これを一方的に一切を打切つて金五万円だけしか返済しないということは、明白な違法行為であつてどもの容認し得ない暴挙であると断ぜざるを得ないのであります。  本件につきましては、先ほども穗積さんから主張されました通り、上海におきましても、出先官憲は当時において、できるだけまとまつた金額を提供するようにという要求をしておつたのであります。しかるにもかかわらず、いざ返済の場合となると、五万円で打切るというようなことは、まことに残忍性もはなはだしいように考えられるのであります。  これを要するに私どもの要望してやまないところのものは、前記二項目の公正妥当な修正を、国会において加えられんことを念願してやまないのでありますとともに、巷間伝えられるところによりますと、公館借入金返済に関連しては、当時上海在住者中の恵まれた隔級者等のみによつて行われたもののごとく誤解せる人々の多いのを、はなはだしく悲しまざるを得ないのであります。すなわち上海自治会においては、当時帰国処理費及び難民救済等に多額の費用を必要としつつあつたにかかわらず、その財源に窮したるの結果、同胞愛に訴えて、その資金の提供方を在留民に懇請した事実に由因いたしまして、資金の持合せあるものは財布の底をたたいて提供し、しからざるものは衣類その他の身のまわり品などを売り払つて、その求めに応じたという、真に民族愛のうるわしき精神に立脚しての協力によつて、初めて所期の目的が達成せられたものであることを銘記していただきたいのであります。従つて金銭の提供を行わなかつた階層の人々が、みな世に恵まれない地位にあつたのだとのみ速断することは大なる誤りでありまして、終戦直後、外地における異民族等から、筆舌に絶した残酷きわまりなき迫害と暴行とを甘受せなければならなかつた当時の恐怖的な立場に置かれながらも、なおよくこれらの侮辱を耐え忍びつつ、純真な祖国愛と同胞愛との熱意に燃えながら、出先官憲の要請に敢然と協力した私たちの立場こそ、万人に高く評価していただけることを信じて疑わないのであります。  以上をもちまして当委員会における私の陳述といたします。
  60. 若林義孝

    若林委員長 宮澤君の御意見に対し質疑があれば、これを許します。——質疑がないと存じます。  次に、元北京総領事の華山親義君の御意見を聴取することにいたします。華山親義君。
  61. 華山親義

    ○華山参考人 北京の総領事といたしまして、当時居留民を安全に帰すために、万全の処置を講じなければならなかつた立場にありました関係と、その後法律によりまして外務省に設置されました、借上金の整理準備審査会の委員を仰せつかつておりますので、それらの立場等からも申し上げたいと存じます。  北京の状況といたしましては、終戦の直後において、蒙疆等の張家口方面より一時多数の避難者が来たのでありますけれども、これらにつきましては、先ほどからお話になつております相互扶助と申しますか、そういう精神から、極力各自の衣類、義捐金等をもつて、まかなつて参つたのであります。その後次第に居留民も疲弊いたして参りますとともに、何分にも北京と申しますところは、サラリーマンの多いところでございまして、そういう関係で続々困つた人も出て参りますし、奥地から困つた人も入つて参りますし、それらの救済の必要を生じたのであります。初めのうちは、できるだけ皆さんの寄附金等をもつてまかなつたのでありますが、それも見込みがなくなりましたので、外務大臣の訓電に基きまして、借上金を開始したのであります。なお誤解がありますといけませんので申し上げますが、各自の生活と申しますのは、各地域、各職域において、極力いわゆる相互扶助でやりましたものでございまして、これらのものは借上金には入つておるものではございません。現在外務省で私委員をやつておりますが、これらの面の御要求もありますけれども、これらのものはお断りするつもりでおります。それで北京におきましては、それらの借上金をもつて、難民の救済、それから無辜の罪をもつて、多数の者が警察等に収容されたのでありますが、その救出、それからあまり露骨には申し上げられませんが、いろいろ全体を安全に国に返すためのいろいろの工作に要した経費、そういう公共的な経費に充てたものでございまして、各人は自分のできるだけの能力でやつてつたのであります。従つて各人がこちらに帰りますための経費というものは、借上金でまかなつたものではございません。九〇%あるいは九五%は各自が全部負担し、やむを得ざる部分についてのみ、借入金というものが行われたのであります。それから先ほど青島の話も出ましたが、これは華北にありますので、青島の模様等も申し上げますと、戦争中敵国人を収容したわけでございますが、当時米軍の要求によりましてこれを解放する。その際にできるだけ現状に復して解放せよというふうな要請がありまして、これらのことも当然当時の日本政府なり、外務省なりにおいてやるべきことであつたのでありますが、送金がございませんので、皆様方からお借りしてやつた次第であります。もしこういうふうなことが当時できなかつたとするならば、日本人に対する米国等の取扱いは、非常にかわつてつたろうと思うのでありまして、間接的ではありますが、これらのこともやはり日本人を安全に国へ返すための方法であつたというふうに言えるだろうと思うのであります。  このようにいたしまして、最小限度のものをお借りしたのでありますが、このレートについて問題があるのでありまして、私ども金を借りた者として、このレートでは非常に申しわけないと思つておるのであります。私どものふしぎに思いますことは、先ほどから岡崎参考人等の御意見を承つておりますと、その当時提供した資金が、どれだけ国庫に寄与したかということを基礎にしておられるようでありますが、しかしこの寄与したところのものが、現在支払われたときにどれだけの財政負担になるということは考えておられない。われわれ一般におきましても、その当時千円の金を、すぐ返すから貸してくれといつて借りたものを、現在三百円の利子をつけて返すということは、私は常識としてできないと思うのであります。これらのことは法律的には可能でありましても、道義を根拠にする国家生活におきましては、極力避けなければいけないことであろうと思うのであります。これは公債等とは違います。公債等は初めからいつ支払うという約束で借りたものでありますから、それでいいのでありますけれども、われわれといたしましては国に帰つたならば、これはさつそく返すようにするというふうなことで借りたものでありまして、一般公債等の普通の金銭債務などのように、いつ支払うという約束で借りたものとは別個にお考えを願いたいと思うのであります。また委員会及び大蔵省等もずいぶん御研究なさいましたレートでございまして、その点敬意を表するのでありますけれども、何分にも資料も不完全なものをもつて出されたものでありますから、所々方々に矛盾が発見されるのであります。たとえば華北における法幣の換算率と、華中における法幣の換算率は違つております。ピークと申しましても、これは大体同じ時期でございます。しかるに華北における法幣の換算率は二十元、華中における法幣の換算率は十二元というような矛盾を生ずる。このような矛盾はどうしても理解ができません。華北の方が上海よりも物価が高かつたというようなことは逆でありまして、華北の方がずつと上海よりも安かつたのであります。このように華北において法幣を出したものには二十元の換算率、華中において法幣を出したものには十二元の換算率ということでは、せつかく返していただきましても満足できないだろうと思うのであります。これは計数の一つの矛盾でありまして、この矛盾のできましたことについての理由等も、華中の方面には大蔵省がしんしやくを加えられたという、その元の数字から来た矛盾でございますけれども、このような矛盾が矛盾が生ずるのであります。またたとえば大連において同じ時期に千円を出したものと、満州において千円を出したものは同じ時期でございますけれども、片方の関東州はその十分の一の返還しかないというようなことは、ちよつと常識では考えられないところであります。かりに常識的で考えられましても、あまりにもりくつにとらわれ過ぎたものではないかと思います。こういう点を考えてみますと、この換算率は、論理的に論議すること自体、いろいろな見方等につきましても議論があり、また私も十分異論は持つておりますけれども、非常に論理的に組み立てられたにかかわらず、その資料がきわめて不完全なものであります。これはやむを得なかつたものでありますが、科学的にある結論を出そうとする以上は、その資料は科学的なものでなければならないと思うのでありますが、それが欠如しておるのであります。それで私は考えろのでありますが、このレートを出されるまでの物価というものを考慮し、それ以後における日本物価考慮していない、こういう片ちんばなことはおやめになりまして、両方相殺されまして、そして終戦直前の貨幣価値でもつておやりになるのが、最も簡便な方法ではないかと思うのであります。私はこれに対する論拠として申し上げるのでありますが、われわれが貸していただいた金は、これは戦争前に蓄積されたところの金であります。物価が高騰いたしましてから、居留民が経済活動をして得たところのものではございません。同情の念を持つてこの法律を考えられますならば、その点も御考慮なつて、終戦直前の貨幣のレートを基準にされる方が簡明であり、またみな納得のしやすいところではないかと思うのであります。あるいはその当時物を売つて政府に出したのではないかというふうなことを言われる人もあるのであります。ありますけれども、その当時物を売るということは、これは自由市場において売つたのではございません。物を売つてはいけない環境におりまして、そういう拘束の中におりまして、こそこそと物を売つたのではあります。従つてこれはほんとうのたたき売りでありまして、問題にならないものであります。一例を申し上げますならば、大同の居留民は太原まで下つて参りまして、そこで鉄道の便が断たれましたので、持つて来た荷物を置いて行かざるを得なくなつた。それを当時の中国官憲交渉いたしまして処理いたしたのでありますが、一梱包五万円であります。その一梱包五万円のものを処理して帰つたのでありますが、それをわれわれはお借りしたものも、ずいぶんあるのでありますけれども、一梱包五万円を出した人は、現在その率で返されると五百円であります。目方の半分にも相当いたしません。そういう状態でありまして、物を当時の価格で売つたのではないかという議論は、とるに足らないものであるということを御了承願いたいのであります。このように戦前のレート、これにつきましてどういうレートをとるかということになりますれば満州、大連、朝鮮等は一対一ということになりまして、これは問題はおのずから解消されます。またこれによりまして生ずる財源はきわめてと申しますか、そう大したものではございません。おそらくこの三地方につきましては三割程度のものではないかと思うのであります。それから北支あるいは中支につきまして、戦前の法定レートというものがございます。これにつきましては法定レートというものによつて、あるいは多少地域的の不公平を生ずるというふうなこと、あるいは財政上のことがありますれば、なおよく御研究になりまして、適当なレートを設けていただきたいと思うのであります。  それから大口の五万円を切るという問題につきましては私は理解が参りません。何がゆえに五万円というものを切つたか。何を根拠にして五万円にしたかということは、大蔵当局のどなたからもこの根拠を聞くことができない。単なる政治的の観念でもつてやられたとしか、私には思われないのでありますが、借りたものを切ることにのみ政治的観念をもつてされて、返すことにはりくつでやる、そういうふうな戦後のインフレーシヨンというようなことは考えないということは、あまりにも帰つた者に対して残酷な方法ではないか。そういうふうに五万円に切るということは、私は不賛成ではありますが、片方を五万円で切るという政治的観念——多少国家の支出を減らすというふうな観念がおありになるならば、戦後のインフレーシヨンのこともありますから、一般の小口に対してはもつと政治的な温情があつて、しかるべきではないかと思います。  なおこの大口を切るということにつきましては、大口で切るということが前の法律では何ら考えておらないのであります。従つて大口に出した人はたくさんの人を——あるいは会社を代表し、あるいは町内を代表し、あるいは団体を代表して、たくさんの人の金を集めて出したというものが相当あります。そのことにつきましてそういうものは代表者名で各人からの名簿でも添えて来いということが、前の法律に書いてあるならばよろしゆうございますが、そういうものは書いてありません。そういうふうに規定してありません。従つて現在われわれといたしましては、非常に処置に困るのであります。そうして申告すべき時期というものはとうに消えております。従つて五万円以上の金を出した、申請されているものが五万円に切られました結果は、受取る方の多数の代表者が、これをわけるのに非常に困つた立場になりはしないかと、私は心配しているのであります。また先ほどから大口は切るべきではないということにつきましては、皆様からお話がございましたので、私からはまつたく同感でありまして、その意味からもこの点には十分御考慮の上、御考究を願いたいと思うのであります。
  62. 若林義孝

    若林委員長 華山君の御意見に対して、質疑を許します。
  63. 池見茂隆

    ○池見委員 ただいま華山さんが当時の領事館の責任者として借上げ金の方法なり、あるいはその管理については十分御承知のことと私は思います。従つてちよつと今のお話の点で不明な点がありましたが、借上げ金は華山さんのお話としては最小限度のものを借上げたということが一つ、その借入金は借上げ当時には、帰つたならばただちに返済をすると言つた、ここに口頭でもつて一つの貸借の債権債務が生じて、これに対して今華山さんのお話では、公債あるいは国債等のごとく返済期限が規定せられて、これに対して利子を付するというようなことがあれば、すこぶる支払い方法は明確であるけれども、この支払いに対する債権の請求というものは帰国後でなかつたならば不可能である。しかし不幸にして日本が戦いに破れて、敗戦後の日本の財政状態として、ただちにこれに手をつけるといつたような状態ではなかつたから、この債権債務に対しては、はなはだ支払い等に不明確な点があるということをおつしやつたように私は聞きましたが、そうでございますか。
  64. 華山親義

    ○華山参考人 私の申し上げました点はこういうことでございます。われわれといたしましては外務大臣の訓電もございましたし、また居留民の納得も行かせなければならなかつたので、帰りましたならばこれをできるだけ早く、あるいはただちにと申したこともあるかもしれませんが、できるだけ早くお返しする、こういうふうに私は言つたわけであります。従つてその当時帰つて来ましたならば、お金が返れば問題はないのでありますけれども、返らなかつた。それはやむを得ない事情がありまして、今日まで延びたのですけれども、公債等と違うと申しましたのは、公債等は返還の時期を昭和二十六年なら六年に払う、こういうふうに言つてあるのでありますから、その間にインフレーシヨンが起りましても、これはそういう初めからの約束でありますから、やむを得ないのでありますけれども、私たちは帰つたならば、できるだけ早くお返しするから、こういうふうに言つて借りたものでありますから、単に利息をつけて今返すということでは理不尽じやないか、こう申し上げたのであります。
  65. 池見茂隆

    ○池見委員 そうすれば結局公債等のごときはその当時発行しておれば、インフレーシヨンあるいはデフレのいかんにかかわらず、その期日が到来したならば、これを支払うということができるが、しかしこの貸借に対しては、すでに期間も経過しておつて、その間において通貨の価値というものに非常に変動を来しておる。それであるがゆえに、政府はこれをよく考えるべき点だということの御意見ですね。
  66. 華山親義

    ○華山参考人 そうでございます。
  67. 池見茂隆

    ○池見委員 わかりました。
  68. 塚田十一郎

    塚田委員 華山さんに伺いたいのでありますが、醵出になつた金は、大体昔から持つていた金を出したのだという御意見でありましたが、その問題に関連して終戦後にあちらにおられた皆さん方が御生活になる資源、つまり金というものはどういうところから、どんなぐあいにして得られたか、ある方方は持つておられた物を売られた人もあるでしよう。仕事も何かあつたでしよう。それらがどんなぐあいになつておつたか。また賃金なり俸給なりをもらつて生活ができる程度であつたか、やはり全体の方々はだんだんとたけのこ生活をやらなければならないような状態であつたか、それから終戦後に現地において、銀行——あるいは郵便局などもつたかもしれませんが、そういう預金をどんどんと預金者が払いもどしをしてもらえる状態にあつたのか、その点を伺いたい。
  69. 華山親義

    ○華山参考人 大体私の記憶では銀行は、北京におきましては十月上旬までやつておりましたので、預金の払いもどしはできました。りこうな人、あるいは金のある人は、そういうところから預金を払いもどしました。そしてその後の生活費に充てた、こういうふうに言えます。ああいう生活の状況でございますから、預金をできるだけ自分のふところに持つていた人が多いのであります。それらのものは戦前の経済活動によつて得られたのであります。しかしそういう人々はまだよい方でございます。私どもその一人でありますが、大部分の者は物を売つて生活をしておつたのであります。その当時物を売るということは日本人にできないことでございまして、こそこそ物を言い値で売つた、こういう状況でございます。  なおその当時もちろん就職等はできないのでございまして、私どもとしても非常に困つている今をただ救済するということはできるだけ避けまして、日僑自治会というものがございましたので、その職員なり労務等に服役させまして払つたという例がございますが、一般的には就職等のことは全然できておりません。ただ中国側が鉄道その他の関係で、仕事をさせたという特別な人はございます。これらも決して生活に十分どころではなく、ほとんど名目的なものであります。あるいは私記憶が違つているかもしれませんが、全然無報酬で働いたのではないか、こういうふうに考えております。
  70. 高橋權六

    ○高橋(權)委員 今華山さんからいろいろ詳しく承りまして、感ずるところが多かつたのですが、お話中に大口が打切られるということは、それの代表で借りたからだということでありましたが、それでは何か書類とか証拠物件になるようなものがきちんとそろつておりますか。そういうことがわからないといけない。また小さいものはそうでなく、大口は打切るということになると、今あなたのおつしやることが事実だとすれば、非常にか弱い人も借りているのに違いないそういうことならよほど考慮しなければならないと思いますので、その点ちよつとお伺いします。
  71. 華山親義

    ○華山参考人 北京につきましては、大口のものをたくさんの人で集めたというのは幾つもございます。それにつきましては、各人からどれだけのものを集めてということの原簿は各債権者が持ち帰つております。それで今困つておりますことは、先ほど申し上げました通り、前の法律にそういう規定がありますれば、各人に請求させるなり、あるいは代表者がその旨を付記して請求させるなりすることができたろうと思うのでありますが、そういうことが法律に書いてありませんので、できないのであります。ただ委員会としては非常に気の毒だと思いますので、できるだけそういうものと思われる者については通知を出しまして、そうして集めるようにして救済しようとは考えておりますが、これは見当なのでありまして、ほかにも多々漏れているのがありはしないか、こんなふうに考えているわけで、非常に困つております。
  72. 竹尾弌

    ○竹尾委員 午前中に穂積さんの御答弁で、朝鮮京城あたりでは大口の一番大きいのは七、八十万円でありましよう、こういうことでございましたが北京の場合は、大口と申しますと、最高はどのくらいでございましたか。  それからこれはもうお尋ねしてはいけないかもしれませんが、これに関連して、上海の宮沢さんの方にお尋ねいたします。宮沢さんは債権者として非常に出していただいた、こういうことでございましたが、宮沢さんの場合はどのくらいお出しくださつたのでありましようか。
  73. 華山親義

    ○華山参考人 確かなことはわかりませんが、多いのは二千万円ぐらいあるかと思つております。これは大体三百人ぐらいのものが集まつて出しておりました。まつたくの個人として出したものとして多いものは、確かな資料は持つておりませんが、あちらの金で千五百万円ぐらいのものがあるかと思つております。
  74. 宮澤綱三

    ○宮澤参考人 お答えいたします。私個人の提供額といたしますと、最初官憲が呼びかけましたときには、儲備券という建前になつておりましたために一億単位、これを法弊に直しますと五十万元であります。自分といたしましては一口を出し、自分の家族あるいは店員などといたしまして三口すなわち百五十万元、これを出したのであります。
  75. 若林義孝

    若林委員長 ほかにありませんか。——では次に元瀋陽地区日僑連絡総処救済処長、引揚者団体全国連合会委員長北條秀一君より御意見を伺うことにいたします。
  76. 北條秀一

    ○北條参考人 ただいま委員長から御紹介いただきました北條であります。私は今回この公館等借入金の問題につきまして、衆議院の大蔵委員会及び引揚特別委員会におきまして、特にこうして私ども当面の関係者の意見を参考としてお聞きいただきますことに対しまして衷心より感謝いたす次第であります。この直接の関係者は、皆さんすでに外務省の報告によつて御了承でありましようが、二十万人そこそこでありますけれども、実は二十万だけでなしに、全引揚者三百四十万人の関心の中心であります。従つて私はおこがましいことでありますが、三百四十万人の引揚者の衷心よりの感謝の言葉を、皆様に対して呈したいと存ずるのであります。しかも皆さんが今回政府から提出されました法案に対して、一面これを批判するという点から、もう一つ国民の権利をあくまでも守らなければならぬという強い御信念から、こうした参考人意見を聴取していただきますことについて、重ねてお礼を申し上げるのであります。  この問題は先ほど来長時間にわたつて、私どもの同僚が申し述べましたように、権利とは申しますけれども、実は権利上の尊いものであることを、特に私は皆さんに御了解を得たいのであります。  第一に私は公館等の借入金の性質について申し上げたいのであります。このことにつきましては、すでに法律がありますし、先ほど塚田先生の御質問に対して、岡崎参考人から御答弁申し上げて、十分に皆さん御承知のところでありますが、ただ私の一言申し上げたいことは、この公館等借入金の性質を、私どもの立場から申しますと、これは貸した、借りたという金以上に、あの敗戦後の絶対境に私どもが追い込まれまして、三百四十万の外地居住者の生命を守るために、絶対的な要請に基いて、しかも政府に懇請をし、政府の指令によつて措置をしたのであります。従いましてこの公館等借入金につきましては、今日政府がいよいよこれを返済するという法案を出されたのでありますが、これはむしろ私の方から言いますれば、政府としてはまことにありがたかつた政府がなすべきことを皆さんにかわつてつてもらつたので、これは非常な感謝をもつて、醵出者に返してやるべき性質のものであるということを私は特に申し上げたいので、今のようなことを申し上げたのであります。それが種々の事情によつて、今日まで六年もたつたのでありますけれども、六年間たつた今日におきまして、この問題がいよいよ解決される、返済されるという段取りになりまして、いよいよ今回法律案が出ましたが、その政府の御方針を拝見いたしますと、どうしても私どもの納得できない点があります。この点につきましては、午前中来、るる申し上げましたので、私はただ、この法案を出すに至つた政府の考え方についてはなはだ遺憾である。すなわち政府は感謝をして返さなければならぬ金を、どつちかといえばそれにけちをつけて、なるべく出し渋つておるというふうな態度に対して、はなはだ遺憾であるということを、まず最初に申し上げたいのであります。  第二に、私は立法に至つた経緯と民間側におきますところの運動について、特に諸先生御了解をいただきたいのであります。この立法に至る経緯などと申しますと、まことにこなまいきなことを言うようでありますが、先生方私の事情を御承知でありますので、あえて申し上げませんが、本件につきましては、二十二年の十一月二十八日に参議院の本会議におきまして、非常にたくさんな陳情が出まして、その陳情に対して本会議に報告され、それが採択されております。でありますので、この本会議で採択されたときの速記録を諸先生に御検討願いますならば、まず最初の事情はおわかり願えると思うのであります。  その次に当時GHQとの折衡が非常に難航をきわめておりました。当時GHQとしましては、この問題については返済は無理だ、いけないというふうな御方針でありました。その理由とするところは、第一にインフレになる。第二は不正送金である。第三は三百四十万人の引揚者の間で、二十万人だけに金を返済するということは不公平だ、こういうふうな三つの条件でありました。ところがこれに対しまして、政府筋もわれわれもGHQに大いに陳情いたしました。その陳情を繰返しております間に、二十三年の八月十七日でありますが、関東州の大連の市長をしておりました別宮秀夫君が、本件の解決が荏苒日を送つておりまして、しかもその間に彼は非常にたくさんの関東州からの引揚者よりその責任を追究されまして、遂に彼は政府が思つた通りに処置をしてくれないということで、憤死をいたしたのであります。これは容易ならぬことでありますが、私はさつそく別宮秀夫君の憤死したことを無にしてはいけない。無にすることによつて日本政府が信を失い、占領軍が信を失うということに相なつてはならぬと思いまして、ただちに文書をもちましてGHQに強く申入れをいたしました。その結果二十三年十二月十一日になりまして、GHQから本件についてはオー・ケーだという通知が参つたのであります。  以上のような経過をたどつたのでありますが、一面私どもは三百四十万の引揚者を各県ごとに組織いたしまして、その総本部であります。ただいま御紹介にあずかりました、引揚者団体全国連合会をつくり、そこでこのとうとい何ものにもかえがたい役割を果しました在外公館借入金の解決について、あらゆる努力をいたして参つたのであります。しかもこれはその金を提出した側もそれによつて救済を受けた側も、まつた一つなつてこの運動を続けて参りました。GHQが当時指摘されましたように、貸した方と救われた方とが不公平を起すのではないかという御懸念があつたのでありますけれども、そういうふうな懸念はなしに、まつた一つなつてどうしてもこのとうとい仕事をなした公館借入金を解決しなければならぬと言つて、今日までやつて参りました。従つてその間に種々諸先生方に資料を差上げましたり、あるいはまた私どものところで出しております大同新聞を差上げたりいたしました。特に大同新聞の第六号には、本件に対する引揚者側の要望を詳細に提出しております。ことに全国の引揚者のうち、特にこの関係者から三万数千人が、私のところに白紙委任状を出しております。しかし私どもは、この白紙委任状につきまして特に注意いたしておりますのは、金銭の授受に関しましては、ともしますと間違いを起しやすいので、金銭の授受を除きました他の一切の、政府あるいは国会に対する要望、陳情、その他のあらゆる運動をまかしていただくという白紙委任状を、現に持つておる立場を特に御了解願えれば幸いだろうと考えるのであります。  第三に私は本件の返済について、端的に皆様に申し上げたいのであります。今回の政府の提出いたしました法案によりますと、法案は皆様の先刻御承知のところでありますが、どうも私どもにはこの法案の陰にひそむ一つのわくがあるのじやないかと考えられるのでありまして、そのわくとは、政府は本件によつて支払う総額を大体十億円にしておるというふうに、これは私どもの偏見かもしれませんが、どうもそういうふうに考えられる節が強いのであります。先ほど申しました昭和二十二年十一月二十八日の参議院本会議において採択いたしました請願案の説明の中で、当時この金について政府が推定いたしました金額が九億一千七百万円だということを申しておるのでありますが、どうも政府はそれを根拠にしてすべてのものを逆算しておるように、私どもには考えられるのであります。でありますから、その点は私どもあとでも申し上げますが、そういう考え方では絶対に困る。それでは国民政府に対する信頼を失う、国民をだんだん政府のもとから離すことになると考えるのであります。  そこで私は、この返済について、国会において採択していただきたい点を、以下端的に申し上げたいのであります。第一は換算率の問題でありますがこれも同僚参考人の諸君が申し上げましたので簡単に申し上げますが、その一つ借入金を行つた時期を基準として、換算率をきめるべきであるということであります。先ほど参考人の中から換算率を設定することはいけないということでございましたがこれは私どもの立場からいえばまことにその通りであります。換算率をきめずに当時の法定レートで政府としてはやるべきだという主張を私たちはいたしたいのでありますが、当時の外務大臣、今の総理大臣であります吉田さんの訓電によりますとあと政府がこれについて善処するというふうになつておりまして、政府としては善処の内容は当初から換算率等を考えなくちやならぬということであつたのでありましようがら、私は換算率をつくるということについては、絶対的な反対を述べるものではありません。そこで借り入れた時期を基準として換算率を決定すべきである。具体的に申しますと、昭和二七年の九月から二十一年七月、この時期は、終戦後のどさくさでありましたけれども一つの大きな時期であるということを私は考えます。先ほど塚田先生から特に現地におけるところの生活條件はどうであつたかというふうなお話がありましたので申し上げますと、私は奉天におつたのでありますが、奉天の事情は他の地区とやや趣を異にしておつたのであります。しかしながら生活の條件というものは、大体大同小異であつたと思います。奉天の状態を申しますと、御承知のようにソ軍が進駐いたしまして、奉天にありましたあの厖大なるところの産業施設を全部撤去いたしました。この撤去のためにたくさんの日本人を使つたのでありますが、その際にソ軍が私どもに与えた給料は幾らかといいますと、九月、十月、十一月は一日日給十円でありました。正月を越えましてから、私どもの要請によりましてソ軍は一日二十円の日給を支給するようになつたのであります。一方居留民会におきましては、私ども居留民会の職員の給料は、一箇月三百円でありました。これは昭和二十一年の三月まで三百円でありまして、二十一年の四月から八百円にいたしました。これはそれで打切りでありまして、それ以外には何らの附帯給与をつけておりません。二十一年の正月の元日に五百人の居留民会の諸君が年賀の式をいたしましたときに、私は祝辞を述べました。その際に居留民諸君に申し上げたことは、われわれは永久に満州の地を墳墓の地とするのだ。しかしながら終戦によつてこういう動乱に陥つたのだから、従来のような生活はできない。だから今後私どもの生活は切り詰めて、つめの先に火をともすような生活をしなくちやならぬ。しかも就職口はそうあるものではない。だから春からは全部が百姓をするというつもりでやつてもらいたい。百姓をするには、幸い奉天の市政府から私どもに千町歩以上の土地をいただきましたので、ここで百姓をしようということを言いました。同時に私は、一箇月の一人の生活費はせいぜい八十円でとめてもらいたい、そういうふうなことをしなくちや、とうていわれわれは満州に永住することはできないということを申し述べたのであります。その年の六月でありましたか、私は一箇月余監獄に投獄されまして、出て参りましたそのときに一般の職員やあるいは居留民の諸君から、北條、今度は監獄におつてずいぶん苦労したろうがどんどん物価が高くなつて来るのだから、私らに正月には八十円で生活しろということを言つたが、多少人生観がかわつたかという話でありましたので、かわらぬ、前には八十円と言つたけれども、今度は六十円で生活できるという確信が私にはあると申しました。なぜかと申しますと、私が一箇月余監獄におりましたときに、私のために監獄当局が費した金は、一日に五十六円だということであります。これは電燈費その他一切を含めております。従つてどもは監獄にあるような生活をすれば五十六円で生活できる。だから六十円なら大丈夫だ。六十円の生活をするならば、われわれは永久に満州に残ることができる。そのうちに世の中もかわつて来るであろう、こういう確信を持つてつてつたのであります。これはたまたま塚田先生からお話がありましたので、特に申し上げたのでありますが、こういう状態は朝鮮、満州、関東州といわず、各地とも大同小異であつたと私は考えておるのであります。換算率につきまして第二点は、ただいま借り入れた時期を基準とせよということを申しましたが、そういたしますと借入れは毎日々々やつておりますので、毎日毎日を基準としなければならぬのでありますが、それは容易なことではありませんので、大体大幅に、当時日本においても同様でありますが、インフレが上昇しておりましたので、そのインフレの上昇の波によつて、この時期を画することが必要であろうかと思うのであります。たとえて申しますと、昭和二十年九月から二十一年四月までは一つにする、あるいは二十一年四月からその暮れまでは一つにするというようにやるべきであろうと考えております。こういうことを申しますと、すでに諸先生にははつきりと御了解願えると思うのでありますが、大蔵省が今回出しました換算率は、要するに醵出した数の非常に多い時期をとつて、そうしてそれによつて換算率をきめたということなんであります。大勢の人が出したとき、そのときを見はからつて決定した、こういうことはきわめて合理的でないと私は思う。金の貸し借りの際には、当然貸すその最初に條件をきめるのは、三才の童子もわかつたことであります。従つて貸した方では醵出したときの條件をあくまで主張いたしましようし、従つてまた借りた方におきましても、借りたときの條件を尊重するのが何よりも大切であろうと私は思います。第三点は、各地の間に公平にやつてただきたいということであります。各地と申しましてもそれは満州にも各地がたくさんあるという意味ではなしに、朝鮮、満州、関東州あるいは北支、中支、こういうふうに大きい各地をわけまして、そうしてその間に公平にやる必要があるということであります。  第二の点でありますがこれは五万円打切りの不合理であるという点でであります。これは先ほど来話がありましたので、特につけ加えませんが、満州の事情を申しますと、満州では五万円以上のものはほとんどないと思います。ただ最も大きなものは北條秀一名儀の四十九万円であります。これは私が民会の救済課長をしておりました関係から、二十一年の八月私が日本に帰りますので、十三人の分納醵出金を四十九万円にまとめまして、そうしてその四十九万円の北條秀一名儀に対しまして、当時の大蔵大臣及び外務大臣並びに引揚援護庁長官あてに、この金は政府の訓電に基いて集めた金なのだ、しかもこれは十三人分だけれども、特に引揚げ同胞の援護のための活動資金とするのだから、早急にこれは出してやつてもらいたいという意味の公文書をつけまして私が持つて帰りまして、二十一年九月からまつ先に政府との間に折衝をいたしたのでありますが、政府はこれを何とかしなければならぬというふうなお考えでありながら、関係方面の顧慮もありまして、遂に解決せずに今日に至つたのであります。従つてこの五万円打切りの問題につきまして申し上げることはほとんどないのでありますが、ただ今申し上げましたように、満州では五万円以上の人は非常に少いのであります。でありますから、私どもが五万円打切り反対と言いますと、いかにも五万円以上がたくさんあるようにお思いになるかもしれませんが、実は数から言いましても非常に少いパーセンテージから言いましてもおそらく一割に達するか達せぬかの数であろうと思います。でありますから、その少数者の利益を守るために、私どもは声をからして言つているわけではありません。問題はこれは信義の問題でありますので、従つてどもはあくまでも信義を立てて行かなければならぬという点から行きますと、どうしても以上申し上げたようなことを言わざるを得ないのであります。また政府の立場から言いますと、その一割足らずの人のために五万円で打切る、そのために全引揚者から政府はけしからぬ、信義を蹂躙するというようなことを言われたのでは、政府としても立つ瀬がないというふうに私は考えます。その点は政治論であろうと思いますが、全体の信を買うために、この五万円打切りということはどうしてもいけないというふうに私は申し上げたいのであります。この五万円に関連いたしまして、私が特に先生方にお願いいたしたいのは、政府はこれを百を百三十で返すと言つております。そこにわずかばかり政府の誠意が示されているというふうに、私には受取れるのでありますが、一体この金は政府が一番必要とするときに借りた金であります。私ならば自分が一番必要とするときに人から借りた金でありますから、これを返すときは貸した者が一番金を必要とするときに返すというやり方が、どこからいつても当然であろうと考える。引揚者が一番必要なときはいつかと言えば、日本の佐世保の港に着いたときが一番金を必要としたときでありますから、政府は当然帰つたときに返してやるのが私はどこからいつても正しいことだと思う。それが今日まで返されなかつた。これは諸種の事情があるかもしれませんが返されなかつた。そういう事情もあるので一〇〇を一三〇にするというふうにお考えになるならば、こういうようなりくつが成り立つ。それならば当然利子という考え以上であります。まず金の貸し借りでありますから、利子ならば政府は当然正規の利子を払うべきではないか。すなわち民法に規定いたしております日歩四銭の利子を払うべきではないか。そうしますと一箇年で一割四分四一厘になります。それを六年といたしまして八割四分になります。そこで良心的に考えるならば、一三〇でなしに一八四にして政府としては考えてやるべきではないか。また考えてもらいたいと私は考えるのであります。引揚者の諸君から言わせますと、政府は税金を滞納する、あるいは国民金融公庫の利子を滞納すると、すぐ延滞利子の二十銭ということをやつておるではないか。政府は強腰でかつてなことをやつておるのだ。それでは困るからどうしても政府はこれについても延滞利子を払うべきだということで、とかくけんかではありませんが、売り言葉に買い言葉になります。私は今申し上げましたように済まなかつたというような意味で一〇〇を一三〇にしてお返しになるならば、むしろこれは民法の規定通りの利子をつけるべきである、私はこういうふうに皆さんに考えていただきたいと思います。  第三の点は先ほどもお話が出ました小額醵出者であります。満州では一口二百円を最低限度といたしまして、二百円以上でありますから、小額醵出者が非常に多いのであります。北支の話を聞きましても小額醵出者——五千円以下の者が五〇%あるということであります。この小額醵出者については各地とも同様でありますが、特に私どもといたしまして、小額醵出者のうち千円以下の小額醵出者には、文句なしに額面通り千円は返してやつてもらいたい。但し中支におきましては儲備券が百対十八でありました関係上百対十八で換算して千円までは文句を言わずに返してやつてもらいたい。ですから二百円の人は二百円、三百円の人は三百円、九百円の人は九百円、こういうふうに千円までは文句なしに返してやつてもらいたい。そういたしませんと今度の公館の借入れ金問題に関する場合には、なるほど政府が県を通じて皆さんに宣伝しておられ、そうして用紙等も県がつくつておられますので、ほとんど出した方は金がかからなかつたようでありますが、三十円、五十円の金はすぐ吹つ飛ぶのであります。ですから北支の五千円の小額醵出者は今の率で行きますと、たつた五十円になります。そうすると皆さんがせつかくやつてただくのでありますが、この法律でいよいよ返済実施されますとどういうことになるかと申しますと、赤字を出す。足が出るということになつて参ります。もちろん昔から宝を大事にするために、足を出しても宝を拾えということがありますが、なおこの点は不合理だと思いますので、どうしてもこの点はぜひ御理解を得て、やつてただきたいと思うのであります。  最後に一点だけ申し上げたい。それは先ほど二十万人の人が関係者であると申しましたが、実は約八万人の人がこの申請をいたしておりません。これは一つ政府の宣伝が足りなかつた政府といたしましてはラジオを通じ、新聞を通じ、各県とも役場を通じてやつた。しかも一年間やつたのだ。それでもなおかつ申請をしなかつたのは、権利を放棄したので、ないかということを言われやすいのでありますけれども三百円、四百円という少額醵出者はこんなことをやつても、政府ははたしてどこまでやるかというふうな危惧を持つてつた部類もありますし、また実際に善意で知らなかつた者もあると思いますので、これは先の問題で、当面の問題ではありませんが、先の問題として皆さんに考えておいていただきたい。こういうことを特に参考人の声として申し上げますことは、かえつて不利かと思います。今の対政府との関係で行きますと、何だ、政府は今度十億円に押えようとしておるのにまだあるのか。それは容易じやない。それでは全部を入れて十億のわくに押えて行こうということになると、今私の申し上げたことは逆になると思いますので、今言つたことは、今度のものは今度のもので片づけてくれ、しかし他にこれだけあるのだ。これを何とかしてくれという、これだけの考えではないのでありまして、こういつた全体の要請によつてつた諸君のことを、ぜひ皆さんが今後において考えていただきたいということであります。  もう一言申し上げたい。すでに御承知のように大蔵省かにあります評価審議会において検討されました資料は、私は決して公正なものでもなければ、また妥当なものでもなく、結局十億のわくに帰納するために逆算して行つたような傾向が、非常に強いというふうに考えます。  ぜひ以上申し上げました点を勘考いただきまして、妥当な解決をはかつてただきたい。要するにこれは信義の問題でありまして、国民の信義を十億で失うか、あるいは十億が十六億になつて、わずか六億ぐらいの差でもつて国民の信を買うか、こういうような問題に——政治論になつて来ようかと思うのであります。よけいなことを言うようですが、昔関東大震災のときに、犬養逓信大臣が、当時貯金局が全部焼けまして一切の原簿がなくなり、そうしてまた預金通帳もなくなりましたときに、当時の政府が郵便貯金預金者は全部申し出ろと言つて申出をさせられましてその申出を政府は全額引受けられてお支払いになつた。そういう過去の事実を私どもは聞くのであります。今回特に御好意によりまして、参考人意見をかほどまでに熱心にお聞きとり願う皆さんにおきましては、どうぞ大震災当時そういうふうにおやりになつたこともあわせてお考え願いまして、この問題につきましてみんなを納得行かせるような方法でもつて、——納得が行かないとは私は申しません。わからぬ者はいつまでたつてもわからのでありますから、納得は行きます。納得の行くように皆さんのお力でやつてただきたいということをお願い申し上げます。
  77. 若林義孝

    若林委員長 北條君に対する質疑がありますれば許可いたします。
  78. 高橋權六

    ○高橋(權)委員 今北條さんの言われたようなことは、よく知つております。とにかくあなた方が外地において御苦労なさつたことは、非常に私どもは同情いたします。それと同様に内地においても家を焼かれ妻子をなくし、あるいは親がなくなつて浮浪児になつておる者もあります。そういうことも考えなければならないのがわれわれ為政者の手伝いをする者であります。今おつしやつたことで、いろいろ研究をしたいのでありますか、ただ私、皆さん代表者としておいでになつておるから一つ聞きたいのは、われわれ政府を鞭撻して、そういう方面に努力することにしなければならぬ半面に、満州において堂々たる事業をやつてつた人間が未亡人あたりから、その当時の一万円といえば大金だが、そういうような金を借りつぱなしで、私も頼まれたかわいそうな未亡人がありますが、そういう者の金を借りつぱなしで払わない者がある。とるものはとつて払うべきものを払わない人間が、もし皆さんの中にあつたならば、この未亡人がかわいそうです。これは事実です。私は内地の人間のことも言わなければならないが、しかし外地の未亡人についても言わなければならない。か弱い人間に出資をさせて、まだ払わずに堂々と東京で事業をやつておる人がおる。私が行くとおれは柔道が強いぞと言つて……。
  79. 若林義孝

    若林委員長 本案関係がありませんから……。
  80. 高橋權六

    ○高橋(權)委員 いや関係があるのです。とることのみして払うことを知らない人間が、もしあなた方の会員の中にあるとするならば、そういうことに対し同情してもらうことができるかどうか。そういうことができなかつたならば、私もあなた方のために努力できない。これは責任ある国民の代表であるところの衆議院議員のほんとうの職責であります。弱きを助け強きをくじくことが大事でありまして、多数の人間が困つておるのはほんとうです。うそだと思うなら名前を言つたつてよい。せがれのことはおやじは知らぬと言つても、おやじは東京の本社におつて、せがれが支社長であつたならば責任はあるはずです。これは笑い事ではない。泣いて苦しんでおるたくさんの人間がおるということもひとつお考えになつて、どなたでもよいから、もしそういうことがあつたら自分たちも骨を折るということについてお聞かせを願いたいと思います。
  81. 若林義孝

    若林委員長 本案関係がありませんからお答えはいりません。奧村又十郎君。
  82. 奧村又十郎

    ○奧村委員 北條さんにお尋ねいたします。一般より在外公館が借り入れたのだ、つまり政府が借り入れた借入金ということであるならば、今の法律案政府として非常に信義を落すことになる。しかし当時のいろいろな事情を考え合せれば、必ずしもこれが妥当でないとも言えないと思います。まず第一に考えなければならないのは、存外財産に対するいろいろな補償との関連であると思います。その中でも特に在外公館に金を醵出した場合と、それを醵出しなかつたらその金を内地に自由に持つて帰れたかという場合と、二つを比較するのが一番大事だと思います。現地の銀行から自由に金が引出せなかつたのじやないか、また引出しても内地までその金を持つて来れる方法があつたのかなかつたのか、また内地まで持つて来ても、内地で千円だけは本人に渡したが、それ以上は没収したのではないかというようなことになりますと、在外公館に置かしたのは全部払うのだ、それ以外の方々は財産を持つてつてもこれは一つも生きぬのじやないか、その比較対照の問題があるので、われわれは非常に苦労するわけであります。その点においてあなたは引揚者の総括的お世話をなさつておられるのでありますから、何も在外公館関係者の問題ばかりでなく、引揚者全体の公平な立場から、この点についてどういうふうにお考えになりますか。
  83. 北條秀一

    ○北條参考人 ただいま奥村先生からお話のありましたことについてお答えさせていただきます。北支では終戦後十月初めまで銀行あるいは郵便局をやつてつたと言いますし、それから関東州は翌年の三月まで郵便局は開いておりました。銀行は二十年の暮れで全部閉じたようでありますが、朝鮮におきましても終戦後二、三箇月は郵便局を開いておつたようであります。満州は御承知のような状態で、あそこは全部切りかわつておるものでありますから、従つて諸事万事きわめて型通りに行つたのであります。と言いますのは八月十五日で全部偽国家は消滅するということになつたものでありますから、銀行郵便局の機能は一切停止いたしました。こういうような状態でありますので、この点は特に御記憶を願いたいと思います。当時はたしか占領軍の方針によりまして、一千円しか持つて来られなかつたということであります。一千円しか日本に持つて帰れないのだから、持つている金は置いて来なければならないのではないか、こういうことが常識的に考えられるのでありますが、それではその一千円の金はどういうふうにかわつたかということであります。確かに一千円しか持つて帰られないのでありますが、その集つた金で、たとえば今問題になつたのは総額十数億になりますが、要するに三百四十万人かのうちの何十万人かが、この十数億で命を全うして日本に帰つた、だから金が命にかわつて日本帰つて来ている。もし居留民館とか領事館というようなものがなくて、金をどこへも持つて行けないとします、これら数十万の人たちの運命はまつたく想像もできなかつたと思います。でありますから今おつしやつたことについてはぴんと言つてぴんと答えられないのでありますけれども、その金が命にかわつて日本帰つて来たのだというふうに御了解が得られるかと考えるのであります。在外資産の問題をお話になりましたが、在外資産と申しますのは、政府も今日公表いたしておりませんし、在外資産との関連ということになると、いろいろ御説明したり、私の所感を申し上げるには時間がございませんが、これを全部払つてもわずか十数億のものでありますから、厖大な在外資産のうちの九牛の一毛にしかすぎないのでありますから、大したことにならないと考えているのであります。
  84. 池見茂隆

    ○池見委員 北條さんはこれは先の問題だというお話でありましたが、現在では二十万件程度のものが大体決定しておりますが、あとで未申請八万という数字が出ました。この八万ははつきりとあなたの方のお手元で確認されている数字でありますか。
  85. 北條秀一

    ○北條参考人 それは概数でありまして確認はいたしておりません。先ほど満州の代表が申しましたように、原簿は確定しておりまして、その中に実際には出ていないというのが一万何千件かあります。そのほかの六万何千件は確認をいたしておりませんが、しかし私どものところへ各県から言つて参りますことを想像してみますと、それくらいの数字になると考えているのであります。
  86. 塚田十一郎

    塚田委員 今奧村委員がお尋ねになつた問題を、もう少し露骨にお尋ねしてみたいと思うのであります。  終戦の初期のころに醵出された者には、そういうことはなかつたろうと思いますが、だんだんと終戦後内地の状態がわかつて来て、帰るのに金を持つて行かれない、公館へ金を出しておけば、向うへ帰れば返つて来るということで、特殊の人たちがそういう先を見通したやり方をされたものが、相当あるのではないかという懸念を、私どもは持つのでありますが、しかしそういう事情があるにしても、末期にはやはり金が行つてつただろうと思うのですが、たとえば皆がお出しになりたい金額をお集めになる金額とが、どんなぐあいになつておつたものか、結局お出しになりたいという希望は全部受入れて、お借りして、それがまた適切に使われるような状態になつておつたということですか、この点はどうでありますか。
  87. 北條秀一

    ○北條参考人 塚田先生の御質問でありますが、満州の事情と他の地区——朝鮮も支那も大同小異でありますので、満州のことを基準にして申し上げます。ソ軍及び中共軍ないしは国民政府軍が進駐いたしましたときの、各地における布告第一号は、住民の生命財産を守るということでありました。ことに奉天におきましては、二十年の九月の七日に、ソ連のカフトン・スタンケヴイツチ少将が出しました布告は、日本人の生命財産に危害を加えた者は、立ちどころに銃殺に処すという布告であつたのでありますが、十月になりますと、中共軍から布告が出まして、日本人は一切の財産の移動をしてはいけないという厳命がありました。しかも私はその間に奉天で五回も居を移さざるを得なかつたのであります。そして三時間以内に立ちのけということがあつたのであります。三回目か、四回目に立ちのいたときに、たまたまたんすのひきだしが一つ家の前に出ておりましたが、それを、そこを通りました中国人が持つてつたのです。それを官憲が誤解いたしまして、私の長男は、当時十五歳でありましたが、お前が売つたのだろうというので、警察に連れて行かれまして調べられ、顔も手もまるまるとふくれて家に帰つて来たのであります。それほどまでに厳重に財産の移動を禁止したのであります。でありますから、物をおおつぴらに売るということは、とうていできませんでしたが、華山さんが言われましたように、万やむを得ずして売るというようなことは行われました。ただ若干の例外があると言いますのは、あくまでも正当に中共軍が日本人の動産、不動産の移転を禁ずるという命令を出しておりますから、ソ軍としては裏をかかなければならないから、強制して、日本人のいいオーバーとか、貴金属とか、家具、こういうようなものをソ軍が持つて行くということはありました。こういうときに、大体大きなものの売買が行われたと思うのです。私の知つておる中でも、奉天でもそういう三十万、四十万というふうな売買を行つたのが数件あります。これはしかもソ連軍が命令するわけです。強制的に命令されて司令部に持つて行つて売りますと、中共側の命令に反しますから、中共側からひどく折檻されて、半月なり、一月なり、監獄にぶち込まれるというような状態でありました。中支の方では蒋介石政権の威令が行われておりましたから、そういう点は多少緩和されておつたかもしれませんが、満州、関東州、北鮮においては、きわめて厳重なるところの監視を、私どもは受けておつたという事情を御了解願いたいと思います。
  88. 穗積眞六郎

    穗積参考人 ちよつと今の御質問について意見を申し上げておきます。非常にそういうふうな合法的か、どうですか、脱法的なそういうことをやるという傾向がなかつたかという御質問のようでございますが、朝鮮あたり——ほかはなおそうかと思いますが、たといあとで返すと言いましても、現地にいて、非常に危惧の中にいる人にとりましては、現に持つている金を離して、そういうところに出すのは、非常に脅威だつたようであります。従つてわれわれ集めますときに、こうこうこういうふうで、政府から上陸地で返すのだからと言つても、決して喜んで貸してはくれませんでした。何度も足を運んでやつと出してくれるという状態でありましたから、その人たちの気持としては、向うで預つてくれても、上陸地で必ず返してもらえるという信頼の気持がなかつたように見受けます。  それともう一つは、この問題につきましては、年来衆議院、参議院の両委員会でもつて、もみにもんだ問題でありまして、先ほど北條君からもお話のありましたように、やはり脱法的なものも含んでおるのだというような疑いが、GHQ側にもあつたそうであります。そのために、ずいぶんいろいろ言を尽して論難がありました。北條君の言つたように、命の問題なんだからというようなことも、たびたび重ねて問答がありました末に、遂に二十二年の十一月だつたと思いますけれども、参議院の本会議におきまして、総理大臣から、はつきりと、この借入金は在外財産とは性質が違う、政府の行政上の借入金である、従つて即座に返すのがほんとうであるが、諸種の状況によつてただちに返すことができない状況にある、その状況を取除くことに極力努力してできるだけ早く返す、こういう発言がありました。これは衆議院でもあつたことと存じます。それでこの国会の問題といたしましては、この問題は、在外財産とはまるで別で、政府の行政上の貸借の問題であると、そのときにはつきりとしたように覚えております。
  89. 華山親義

    ○華山参考人 ただいまのことにつきまして、借入金の状態を申し上げます。私は、大口のものにつきましては、一人一人お宅に伺つて頭を下げてお借りしたのでございまして、先方からたくさんの金を私のところにお持ちになつたという方は、私の記憶にはございません。
  90. 宮澤綱三

    ○宮澤参考人 ただいまの御質問に対しまして、上海方面の実情をちよつと御説明申し上げたいと存じます。お金はどうせ持つて帰れなかつたのではないかという御質問のように承りますが、まつたく事実は表面上その通りであります。当時この騒然たる上海におきましての日本人の考え方というものは、まず大約して二通りつたと考えられるのであります。たとえば千円しか持つて帰れないということは表面の事実でありまして、そのときに、一方には、たまたま同胞が非常に困難をしている、略奪も受け、着の身着のままで帰つて来る。何とかして助けなければいけないという同胞愛に燃ゆる人々があり、また一方には、いやこれは違法であつても、自分は内地に帰つてどうにも方法がつかないから、死を賭しても、自分の財産権を守るために、何らかの方法をもつて日本へ自分の財産を移転させなければいけないというようなことで、これは一つの脱法行為であつたかもしれませんが、生きるために、そういうことを行つた人々が多数ありました。このため、かえつてこういう人たちは、東京におつても楽な生活をしておるという結果になつております。その理由は、御承知の通り、上海はアジア方面におけるところの繁華な都会であるために、よくないことかもしれませんが、持つて帰ろうと思えば、ダイヤモンドも持つて帰れたのでありまして、そのためそういう者が相当たくさんあつたのであります。しかしながら従つてまた検査も厳重であつたということは事実であります。持つて帰れなかつたから、当時の出先官憲にとられたというお説は、そこにおいて幾分かわれわれと食い違つている。われわれは、同胞愛の精神に燃えて出先官憲に協力したということにおきまして、ちよつとその点を御参考に申し上げておきます。
  91. 北條秀一

    ○北條参考人 簡単に申し上げたいと思いますが、満州で私ども引揚げますときに、きわめて笑うべきルーマが出ました。それは米軍には各港にレーダーというものがあつて、ダイヤモンドを持つて行つても、何を持つて行つても、全部これにひつかかるというので、六百名、八百名と一団を組んで来たのでありますが、もし一人でもそういう者が見つかつたならば、全員が満州に強制留置されるということで、戦戦兢々たるものでありました。そういう事情もあわせてお考え置き願いたいと思います。  それから先ほど高橋先生から、もらうものはもらつても返すものは返さぬというお話がありましたが、私は全国組織の責任者といたしまして、高橋先生の御指摘になりましたことは、必ずやつて参る決心でありますし、今日までもやつて参りました。今日まで民間におきましては、新聞社でありますとか、各銀行、会社が金がないために、現地で日本人間に貸借をいたしました。これは私どもの慫慂と同時に、皆様の信義によりまして、全部片づいておると申し上げても、過言でないと考えるのであります。民間では全部そういうことをやつておるのに、政府だけが最後に残つておる。しかもその支払いにぐずぐずしておるということで、私どもとしましてはどうしても政府の信頼を高めていただくために、先ほども申し上げましたように、この問題を公正妥当なところで、ひとつ御解決願いたいということをお願い申し上げます。重ねて申し上げますが、高橋先生の御指摘になりましたような問題につきましては、私ども最善を尽して、良心に誓つてこういう問題は解決いたしますので、どうぞこの点もあわせて御了解を願いたいのであります。
  92. 奧村又十郎

    ○奧村委員 最後にお尋ねいたしますが、参考人方々いろいろお話になりましたが、この法案に対して、どういうふうに改正しろというふうなことについては、実はまだ十分重点的にははつきり聞きとれなかつた分もあると思うのです。実は私どもいろいろな会合があるために、終始一貫お聞きできなかつた点もあるので、これは遺憾であります。それで参考のためにお尋ねしたいのです。各区域ごとの換算率の不公平ということはありますが、これはひとつわれわれも研究いたしたいと思います。そのほかに、一般的な問題として、五万円で打切るというのは不当であつて、これは借入金である以上全部払えという問題が一つ。それから五千円以下の借入金、これは五〇%以上あるので、これにはよほど有利に見る、特に千円以下の分については文句なしに金額通りに払え、そういう少額者に対しての優遇をしろというのと、高額の打切りの分を打切らずに払えという御意見と、それから政府としては六箇年間の借入れ期間の利子を三割としてあるが、せめて日歩四銭くらいに見て、六箇年間に八割五分増しで払え、多少これはインフレで通貨が実質上減価されたので、その分も入れて八割五分増しにせよ、こういう御意見も出た。こういうことを考えると、まずどれを重点的に取上げるのか。全部を満たし得れば非常にけつこうでありますが、先ほど北条さんの御説明にありましたように、この法律案が取上げられた最初、昭和二十二年ごろは、あくまでもインフレを押えるために司令部が非常に強く予算のわくを押えられた。しかるに今日は講和條約の調印ができて、いろいろな賠償問題とか、あるいは在外財産の補償についても真剣に考えるという新たな段階に来たのでありますから、この法案にこだわらずに考えてみたいと思うのであります。全部を満足さすことはできぬ、まずどこに重点を置くべきかに、非常に苦しむわけでありますので、その判断の参考に資するために、まず重点的にどれということがありましたらお聞かせ願いたいと思います。
  93. 池見茂隆

    ○池見委員 関連して……。ただいまの奧村委員発言は、結局この法律案に対する結論的な、いわゆる海外引揚者としての要望を聞かれておるのですが、全国引揚者要望大会によつて在外公館等借入金支払い等に関する要望書というのがあります。これがすなわち皆さん方の総体的な一つの要望事項として出ておるこれを今の法律案と関連したものとして、われわれが研究すべき問題ではなかろうかと考えますがどうですか。
  94. 北條秀一

    ○北條参考人 ただいま奥村先生から御意見があり、また池見先生から御意見がありましたが、仰せの通り提出せられております全国引揚者護権大会における要望の点がすべてであります。
  95. 塚田十一郎

    塚田委員 この問題は、おそらく参考人の皆さん方各自で、またお立場で違うでありましようし、私大体皆さん方の全部の御意見の要点だけは書きとめましたから、今度政府側の意見を聞きまして、委員会独自の結論を出したい、こう思います。
  96. 若林義孝

    若林委員長 以上をもちまして、本日の連合審査会における参考人各位の御意見の拝聴はすべて終了いたしました。  なお非常に御熱意をもつて御希望があつたのでありますが、四国在外公館等借入金緊急措置促進連合会の幹事長であります中北君からお申出があつたのでありますが、第十回国会における海外胞引揚に関する特別委員会の第八号の速記録に十分述べておられますので、今日の参考意見に差加えて、この速記録を参考資料といたしたいと思うのであります。なお参考人各位には御多用中にもかかわりませず御出席をいただきまして、本案につき忌憚のない真摯なる御意見を御開陳せられまして、本案審査の上に多大の参考となりましたことを、心から感謝いたしたいと思います。本日はまことにありがとうございました。  本日はこれにて散会いたします。     午後四時十九分散会