1993-10-26 第128回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第9号
そのときに議会政治の父と言われる尾崎行雄さん、反軍演説で有名な齋藤隆夫さん、これが小選挙区反対の論陣を張られました。議事録を見ますと、それはもうすごい妨害の中で尾崎さんやっておられますよ。それで尾崎さんは、選挙区が小さくなればなるほど競争が激烈になって費用も余計にかかる。齋藤さんは、イギリスの実例を示しながら、いかに小選挙区制が民意を反映しないかという議論ですよ。
そのときに議会政治の父と言われる尾崎行雄さん、反軍演説で有名な齋藤隆夫さん、これが小選挙区反対の論陣を張られました。議事録を見ますと、それはもうすごい妨害の中で尾崎さんやっておられますよ。それで尾崎さんは、選挙区が小さくなればなるほど競争が激烈になって費用も余計にかかる。齋藤さんは、イギリスの実例を示しながら、いかに小選挙区制が民意を反映しないかという議論ですよ。
あるいは戦前において齋藤隆夫というふうな、反軍演説をあえてあの時期にやった方は兵庫県の北の豊岡というところから、我が党の誇り、我が郷党の誇りとして出してきた。こういう心情というのは、特に日本人には隣を配慮するということで、非常にすぐれた立派な人を選ぼうではないか。しかも、市長やら町長を選ぶのと国政を担当するレベルとは投票者の判断基準も違うと思うのですね。
その例として、わざわざ戦前の齋藤隆夫さんの例を引かれた。これは本当は比較すべき問題じゃないんですね、内容において。なぜか戦後のことを言われなかった、戦前のことだけ言って。戦後に一回だけあるでしょう。昭和二十六年三月二十四日、議員川上貫一君懲罰事犯の件。共産党の議員であったと思いますので、この方が、公開の場で陳謝する、これは国会法の第百二十二条、四つ例を挙げてあるうちの二番目、陳謝する、国会で。
おやじは、ちょうど昭和十五年の東條陸軍大臣に兵庫県の齋藤隆夫代議士が反軍演説をしましたことを、ちょうど進行係を四年間やっておりまして、弁護士でございましたから、国会で除名を齋藤隆夫が受けるというときに、除名をしてはいかぬ、特に、すぐ判決がおりてもすぐに刑を執行するというようなことはいかぬと言って反対をしたものですから、おやじはついに、永井柳太郎先生にしきりに誘われましたが、大政翼賛会には参加しませんでした
私は、百人の齋藤隆夫よりもすぐれた、抑制のきいた一人の英明な総理が今出現すべきであることを強く申し上げて、総理の答弁を求めます。
齋藤隆夫先輩の例を申し上げました。そういう考えに立ってやっておるのです。 それで、倫理委員会と倫理協議会は性格が違うわけです。倫理委員会と言って皆さんが申したころは、恐らく特別委員会か常任委員会でおつくりになるという考えであった。これになるというと、大体揚げ足取りで泥合戦になる危険性がある。これはますます議会の品位を低めて余り芳しからぬ結果をもたらす。
○柄谷道一君 いままでの答弁の中で、齋藤隆夫さんの場合は、事国会議員の言論の保障に関する問題でございます。このことに関しましては、少数党の立場を守りながらその取り扱いについて慎重を期さなければならぬ、これは私は、総理と全く同じでございます。今回の事件は刑事事件ですよ。齋藤さんの問題と田中さんの問題を一列に並べてそして同様の論評を加えていくというその姿勢に私は問題があると思うのです。
○国務大臣(中曽根康弘君) 国会が齋藤隆夫先輩を除名したときのような過ちを犯させないために必死の努力をしていたと後世評価されるだろうと思います。
かつてわれわれの議会は、あの昭和の十年代におきましてとうとうたる軍国主義に流れて、各新聞も一斉にその軍国主義に同調して、齋藤隆夫さんが反軍、縮軍演説をやったときには除名しろということで、ほとんど全員の声のような形で時流に流されて、齋藤隆夫先生を除名したという大きな過失を持っておる。そういう過失を繰り返してはならぬ。
かつて、日本の国会は、軍部華やかなりしころ、粛軍演説をやりました齋藤隆夫先輩をほとんど大多数で除名したのであります。そのときには、国民もあるいは新聞も恐らく一致して、そのときの熱情に駆られてやったと思うのでありますが、後で考えれば重大なる間違いを時の国会は犯しておったのであります。
私らが一番心配しておるのは、戦前の齋藤隆夫先生を除名したような、あのような過ちを再び国会が繰り返してはならない、少数者やあるいは言論の自由を傷つけることがあってはならない、これが最大の関心事であり、われわれの責任である、このように申し上げる次第なのでございます。 次に、総理は帽子かという御質問でございますが、私は、内閣首班と言われておるので、帽子ではなくて首じゃないかと思います。
戦前、齋藤隆夫先生とか西尾末廣先生を国会が除名いたしました。性格は違います。しかし、あのときは全国民がそういうような空気で動いておって、政党も軍部の力でそういう空気で議会全体が動いてああいうふうな除名ということをやってしまったわけです。だから、身分を失わさせるということはよほど注意深くやらなければいかぬ。
齋藤隆夫先生を除名いたしました。あるいは西尾末廣先生を除名いたしました。あのときの国会の空気というものは、ほとんど軍の圧力で、満場一致に近い空気で除名ということが普遍化しておったのであります。国民や国会の一時の空気に支配されて除名をやってしまった。それがどれぐらい日本の議会史の上から見て残念なことであったか、いま思い直されるところがあると思うのであります。
これを初めといたしまして、齋藤隆夫、幣原喜重郎、北村徳太郎、川崎秀二、加藤勘十、鈴木茂三郎、吉田茂、星島二郎、西尾末廣、春日正一、徳田球一等々の諸先生を初めといたしまして小澤佐重喜、倉石忠雄、こういう人たちが議会の尊厳を守り、国民の知る権利にこたえようとして全部証人台に出ていられる。
齋藤隆夫その他の諸先輩がこの同じ演壇において訴えた絶望的な弾劾を再びここで繰り返させてはなりません。(発言する者あり) しかし、世界とアジアの情勢は、第二次大戦前と根本的に異なっております。いまや、国家は独立を求め、民族は解放を求め、人民は革命を求める流れが、現在の世界の主流であります。
当時、齋藤隆夫さんが、おそらくこの本会場か本会議場でこうおっしゃっておるのであります。「国民ノ生存権二重大ナル関係ガアレバアル程、国民ノ代表タル議会ノ協賛ヲ要スルノデアル。」
本法案の形式はかつての国家総動員法と同じでありまして、かつてここで齋藤隆夫氏は、勅令への委任、議会無視に激しく反対をいたしました。鳩山一郎氏は、戦後、国家総動員法がはたせるかな政党政治の崩壊につながったと反省をしておるのであります。この法案審議に必要な政令、省令はいまもって全くわれわれに示されておらず、国民はただ安定という法律の名前だけが与えられて、議会は白紙委任が強要されているのであります。
齋藤隆夫氏があの言論窒息の中で何と言ったか。齋藤隆夫氏が本会議に立とうと言ったら、齋藤日記によると、幹部はこれを好まず、手段を尽くしてわが演説を押えようとする、町田総裁に直接電話をしたるところ、言辞を左右にして答えず、けれども余は決心せり、というてあの演壇にのぼって大演説をされた。支那事変処理の演説です。
齋藤隆夫さんが内閣委員長、そういう時代があった。それでも人は減らない。三十六年に各省設置法に移した。石橋君が質問しております。これで減りますか、減らない。なぜかというと、この法律のたてまえにかかわらず、片や級別定数その他の規制があるからですよ。予算がある。そこを誤ると、幾らここで出血整理はしないと総理が言ってもえらいことが職場で起こる。
それは戦前のことでありますけれども、あの齋藤隆夫氏に対する懲罰すなわち除名の問題であります。当時議会はファシズムの圧力に押されまして、齋藤氏の政策論議の発言に対し、懲罰権を行使して除名をいたしました。これは私は懲罰権の悪用であり乱用であったと思います。その証拠には、除名後の選挙で、選挙民の公正な判断を受けて、齋藤氏は優秀な成績によって再び当選されました。
しかしながら自民党の自由主義の流れをわれわれはくんでおるから、鳩山、齋藤隆夫、われわれの血潮は自由主義で埋まっておる。だから平和を呼号し、これを実行したいという考え方ですが、三木さんはそういう感覚だけ同じであって——勇気を持って立ち上がってもらいたい。どこに立ち上がれとは、いまどこの時期に立ち上がれとは言わないが、しかし官僚政治の弊害についてあなたはどう思われるか。
この委員会で齋藤隆夫さんが言っておられることばがあるのです。これは私ども少なくとも立憲政治というものに携わらしていただく者といたしましては非常に大事な心がまえである。かような意味で私はここに申し上げるのですが、「立憲政治は国民が議員を選挙し、その議員が国会に集まって国政を審議決定し、政府はこれに基いて国政を行なう。
濱田國松氏と寺内陸相との間の切腹問答も、齋藤隆夫氏のシナ事変処理についての内閣糾弾演説も、私はこの目で見、この耳で聞きました。近衛新体制運動が起こり、国会が日一日とその権威を失墜し、無力化する姿も、つぶさに見てまいりました。そして、すべてが徒労に終わって、わが国は不幸な戦争へと突入したのであります。この重大な危機に際し、国会の中に議席を有しながら何をなし得たか、顧みて汗顔の至りでございます。