2020-06-02 第201回国会 参議院 国土交通委員会 第17号
ただ、我々の青春時代というのは、歩道にこういうテラスカフェとか、歩道にそういうものを置いてコーヒーを飲んだりすると、まあほこりや煙で、こんなの常識じゃ考えられない。外国の人は、ようテレビ見ても、歩道の上にテラスを置いてコーヒー飲んだり食事されている。外でようあんなことするなと、私は七十三歳の感覚でもう五十年前の話をしているんですけれども、考えられなかった。
ただ、我々の青春時代というのは、歩道にこういうテラスカフェとか、歩道にそういうものを置いてコーヒーを飲んだりすると、まあほこりや煙で、こんなの常識じゃ考えられない。外国の人は、ようテレビ見ても、歩道の上にテラスを置いてコーヒー飲んだり食事されている。外でようあんなことするなと、私は七十三歳の感覚でもう五十年前の話をしているんですけれども、考えられなかった。
一ページ目の下のところに前川区長のコメントが載っておりますが、実は、前川区長は、ここをお読みいただきますとおわかりのとおり、青春時代から長年児童虐待防止にかかわってこられまして、東京都の福祉局長もお務めであったという経歴の方でございます。 そこで、二ページをごらんいただきたいのですが、ここでは、この上の方に書いてあります、「虐待通告は急増しています。
熱烈なやっぱりラジオファンという方は多分まだまだたくさんいらっしゃると思いますし、私も深夜放送で青春時代を過ごした一人でございますから、深夜に聞くラジオの良さというのも、今でもちょくちょく聞いたりも、「ラジオ深夜便」なんかは本当に心が癒やされるような番組だというふうにも思いますし、しっかりとそこの部分の、求める人たちも多いと思うし、こういう時代ですけれども、ラジオというものは私はまだまだその重要性というのは
私、これらに本当に少々物足りなさを感じておりまして、このアジェンダ設定は、青春時代にはもっと心震えるディスカッションをしてほしいと思うわけです。 これから彼らが生きる世界というのは、国境なんてなくなります。AIとかIoTとか、ロボットによって働き方も生きるために必要な力も変わっていく。そのときに、お互いの国にある課題にどう向かうのか。
それで、ですから、小学校一年生のときに東京オリンピックを迎えたあの感動と興奮というのは恐らく大臣とは共有できるのではないかと思いますし、またその後に続く、同年に開催をされた、新幹線、あるいは一九七〇年の大阪万博、それに伴ってこの日本全体が産業界も含めて高揚していく、あの青春時代というか幼少時代からずっと、これはまさしく今の私たちのこの世代の何かエネルギー源であったのではないかなというふうに思います。
○行田邦子君 私は町場の工務店の家に育ちまして、子供の頃は建設職人に囲まれて育ったものですから、建設業に憧れまして、建設業界で働きたいなと青春時代には思ったこともあったんですけれども、ただ、能力もなく、そして能力不足を補うための努力もしないまま今に至って断念してしまったわけでありますけれども、是非、私よりかもっと能力と意欲のある女性に建設業界で働いていただきたいなと、そのための取組も国土交通省としてお
というのは、皆さんのそれぞれの青春時代の話だったり、あと、ちょっと人間ぽい、法案に対するやり取り見ていたら何かよく分からないじゃないですか。でも、そういう個人エピソードを聞いていくと、ああ、この人たちも人間なんだと、当然ですけどね。一つ分かったことは、皆さんの中にギャンブル依存症、いわゆるそういう人たちはいらっしゃらない。
私も、そういう憲法観のもとで青春時代を過ごし、今日を迎えているわけでありますが、ただ、世界じゅうの実情をつまびらかに見てみますと、必ずしもそういうことだけでは、なかなか国民に保障された基本的人権を守るというふうに機能していないケースがたくさんあるわけであります。 二点目に申し上げたいのは、国家権力が機能不全に陥ると途方もない悲劇が起こるということを申し上げたいわけであります。
この技能実習制度は国際貢献とされていますが、建前はどうであれ、この二十一万人の人たちが貴重な青春時代を我が国で過ごし、日本人の暮らしを支え、私たちの社会の一員として働いていることは事実です。 それなのに、非常に残念な話を聞きます。技能実習制度は、国の内外から現代の奴隷制といった批判が相次いできました。
踏切といいますと、ちょっと私事ではありますけれども、私の青春時代は踏切に悩まされたと、踏切との闘いであったというようなことを覚えております。私が住んでおりましたところというのは、利用する駅に行くまでに必ず、どう迂回しても必ず踏切を通らなければ駅にたどり着けないと、しかも、第一京浜国道と環状八号線という環状道路とそれから鉄道が入り組んでいるというような地域でありました。
なおかつ、東京もいいところなんでしょうけれども、やはり若いときに地方の環境がいいところで勉学をしていく、青春時代を過ごすということでも、生徒たちも学生たちもいい体験をするなというふうにも思います。
私は、それは全くそのとおりだと思うんですが、正直言いまして、私のような過疎地で生まれ育ち、過疎地でずっと自分の青春時代を過ごしてきた者としてみると、ちょっと遅過ぎやしませんかね、こんなもの、もう四十年も前から、いや、あるいはもっとそれ以上前から、実は集落の消滅の危機はあったし、実際私の住んでいた町では集落は幾つも消滅したし、皆さん、そのとき何にも言わなかったじゃないの、何だ今になってという気持ち、これは
しかし、私にとっては、社会人としての、入社した会社の研修は神戸で行われたわけでございまして、大変私にとっても青春時代のよき思い出でございますので、その意味におきましても、機会を捉えて、ぜひ被災地を訪れて哀悼の誠をささげたい、このように思っております。
法曹養成制度の変革期に青春時代を過ごしてきた者として、その変遷に少なからず影響を受けてきた人たちをそばで見てきた者として、今日質問をさせていただければと思います。 法曹養成制度をめぐる議論の中で、法曹界を希望する人が少なくなってきた、ロースクールの志願者が減ってきたということを問題視する方が多くいらっしゃいます。ロースクールができた初年度の志願者数は、平成十六年度七万二千八百人でした。
政治家の皆さんやいろいろな政府の皆さんが、この地方は東北のチベットと呼ばれた、原発を誘致したからこれだけ発展した、こういう発想の仕方に、私は、青春時代、沖縄に育って、何かしら、沖縄が戦後置かれた、本土政府から予算をもらってずっとやった、また、原発関係も、国から電源三法をもらっていろいろな箱物をつくった、そういう予算の使い方、考え方も、状況も、非常に共通性があるというふうに考えたわけです。
いじめる、しごく、鍛えるというとなかなか難しい問題にもなろうかと思いますが、しかし、やはり自分をいじめてきた、自分をしごいてきたというのは、その青春時代はいろいろあったと思うんです。 太田大臣よりも一回り大きい人を担いで階段を何階か上った、本当にそのときは涙が出てくるほどつらかったけれども、そんなような思いを、みずからのエッセーでしょうか、書かれている太田大臣の文章を読みました。
もともと、司法試験浪人というふうに言われた人たちが、大事な青春時代を棒に振って、勉強一筋に取り組んでいる、そういう姿を何とか解消したいというのがこの法曹改革の原点だったわけでございますから、その原点がだんだん傷が大きくなってしまった。こういうことをやはり改めてどうするかということを考え直さないと、もう取り返しのつかないところまで来ているということだと思います。
現在の日本社会が設計されたのは一九六〇年代、ちょうど東京オリンピック、またその後の大阪万博に沸いていた、まさに国家としての青春時代、戦後の青春時代と言いかえてもいいかもしれません。当時、高齢化率は五%です。二十人に一人。国民年金の保険料は百円。社会保険料は収入の三%という時代に、今の社会の基本が設計されました。 そして、それから五十年。現在、高齢化率は二〇%強、二三%。
先ほど来、旧司法試験における司法試験浪人、こんなお話も一部出ておりまして、青春時代を云々というお話もありました。しかし、今はまた別の意味で問題なのは、七、八割という数字を掲げながら、それで皆さんに頑張れと言いながら二割ぐらいの出口になっているというところが、やはりこれはこれでまた私どもの世代として次の世代には申しわけないんじゃないかな、こんな思いをするわけであります。
当然、この出発点としては、当時言われておりましたのは、例の司法試験浪人、あたら青春時代を試験だけで埋めてしまうというのは、何となく人材の育成としてはいかがなのかということで、回数も設ける。あるいは、年数も、三年間連続で三回というのはいろいろな事情があって難しかろう、したがって、五年間という余裕を持って設定をしたということでございます。
私は、青春時代に本を読むことによってさまざまな挫折や困難に立ち向かうことができたから、子供たちにそういう思いを持ってほしい。