2021-05-21 第204回国会 衆議院 国土交通委員会 第18号
ところが、我が青森県の青函連絡船洞爺丸の一九五四年の海難事故も元々は走錨による事故であったということで、本当に身近にたくさんあったということを改めて認識させられました。 そこで、まず海上交通安全法ですが、異常気象時における湾内からの退避などの交通制限について、今回、勧告や命令ができるようになります。
ところが、我が青森県の青函連絡船洞爺丸の一九五四年の海難事故も元々は走錨による事故であったということで、本当に身近にたくさんあったということを改めて認識させられました。 そこで、まず海上交通安全法ですが、異常気象時における湾内からの退避などの交通制限について、今回、勧告や命令ができるようになります。
同時に、青函連絡船、これはこの三月で百十年、基本的に廃止になったわけですけれども、船は百十年になると。そして、青函トンネルに通行する新幹線、これも三月に新規開業して丸二年たつという形で、青函トンネルの摩耗も大変激しいと聞いております。
完成に至るまでの歴史を顧みれば、一九五四年、昭和二十九年の青函連絡船の洞爺丸事故の発生から青函トンネル建設計画が本格的に動き出しました。その後、一九六四年、昭和三十九年に工事を開始、一九七一年、昭和四十六年に新幹線が走行できるように計画変更、そして一九八七年、昭和六十二年、二十三年の歳月をかけて青函トンネルを完成させました。
明治から昭和にかけては青函連絡船が北海道と本州の物流を担い、現在もフェリーの青函航路が大動脈として機能しております。この歴史は、青森県が地政学的に重要な物流拠点であるということを私は物語っていると思っております。
これは御承知の先生方もたくさんいらっしゃるかと思うんですけれども、青函連絡船が台風で転覆して、乗船名簿に合致しない身元不明のお二方の遺体が上がるというところから問題が展開してまいります。実際、強盗事件だったですか、仲間割れして殺された二人の方がその青函連絡船の御遺体に紛れてしまうということなんですけれども。 現実に、多くの御遺体が集まった場合、どうしても短時間で検案していかなければならない。
須藤先生も後で懇談をしていただいたときにおっしゃっていましたが、須藤先生の所属する施設から十九回北海道に逃げたという少年の話をしてくれまして、幾ら青森まで行って連れ戻そうとしても、毎回青函連絡船の乗り場のところに必ず彼はいるんだ。それを十九回行って連れ戻してきた。今どうされていますかとお話をしましたら、今は結婚して子どもを連れてきてくれたという話をしてくれております。
青函連絡船がなくなった後、港が寂れていたんですけども、これを今度は大型クルーズができる埠頭を造ったり、それから観光施設を造ったり、そういう形でウオーターフロントをうまく利用しようということになってきまして、幸いにして青森の港は中心市街地とぴったりくっ付いているという位置にございます。
そして、それは政府の船を買いました、青函連絡船を買いまして、改装して、青少年研修船二十一世紀号というテーマで、その船で研修をさせました。 それは子供のやはりすごい夢でございました。子供たちをその船に乗せて、朝から晩まで研修をして、そしてその地に着いてその国の子供たちと交流会を展開して、社会教育の体験教育として、子供が夢をはぐくんで、やる気、気力が満ちていきました。
地域によっても相当死亡率について偏在しておりまして、京阪神が高かったり、あるいは青函連絡船のあるところの青森が高かったりするものですから、恐らく、このインフルエンザが流行した後には、各都道府県によっても死亡率が大分違ってくるのかなとも思うわけなんです。 したがいまして、ぜひ国の方には、大臣にお願いしたいのは、お金をかけないでできる、例えばどういうものを用意した方がいいのか。
○佐々木参考人 私どもの方は、市勢としては、さっき申し上げましたように、本州—北海道のいわゆる玄関口として青函連絡船が発着した場所が青森市の発祥の地でございます。それはもうトンネルができたと同時になくなったんでございますけれども、港は残っております。そこで、港に近接した、もう一つはJRの駅がございます。それから同時に、そこにすぐくっついた中心市街地がございます。
そういうようなことを、青森市のねぶた祭りでありますとか、あるいは津軽弁をともに楽しむことでありますとか、あるいは青森県内を歩きながら青森県の自然とか様々な文化を、あるいは食べるものを楽しみながら百キロ歩く会ですとか、あるいは本州と北海道の大動脈であった青函連絡船を残す運動であるとか、そういう地域の問題に県民の一人として、あるいは市民の一人としてかかわってまいりました。
あるいは私は、青函のトンネルのときも、青函連絡船をどうするんですかと。あるいはフェリーをどうするのという問題を提起したんです。大間のあれもそうなんですけれどもね。 結局、どこかに今度は痛みが出るんです。そっちのことはだれも考えないんです。いいことばかり言って、一説には橋ができてむしろ京阪神の方にどんどん流れると。私は今、新幹線が十二月一日開業になりますけれども、喜んでばかりいられないよと。
例えば、東京から新幹線で北海道へ来られる、その結果青函連絡船は廃止される、こういう結果が出ています。また、貨物の輸送の大型化、つまり、コンテナ船が大型になった、機械化されて大量の貨物が一斉に運ばれる時代がやってまいった。また、航空機の発達によって、プロペラからジェットになり、今五百人乗りの航空機が人を運んでいますけれども、数年後には八百人乗れる航空機が登場するという時代であります。
昔の青函連絡船みたいな大きなトロール漁船がまっすぐ前まで来て根こそぎとっていくものですから、これはもう今は羅臼は大変な苦悩の中にあるわけであります。 そして、お互いに共補償しながら、資源管理をしながら何とか持続的な漁業をやっていこう、地元の漁民は頑張っているわけですが、そんなことと無関係に無秩序な漁業が行われているのが実態であります。
○藤井国務大臣 青函連絡船は何度か乗りましたけれども、まだ青函トンネルを通過した経験はございません。
まず第一に、これは昭和二十九年九月二十六日でございますけれども、青函連絡船洞爺丸の遭難事故がございました。その中で、当時カナダ人の宣教師でありましたアルフレッド・ストーン宣教師が乗っておられまして、御自分の救命具を日本人の青年に貸してあげられたわけでございます。そして、遭難事故に遭われまして宣教師は命を亡くされた、そしてその救命具を借りた日本の青年は助かった、こういった事実がございました。
○大塚(秀)政府委員 今申し上げたのは開業後の話でございますので、開業前の青函連絡船の旅客流動に比べますと依然伸びております。
青函地域におきましては、去る三月十三日の青函トンネルの供用に伴いまして、天候に左右されない安定的な輸送ルートが誕生しただけではなくて、従来の青函連絡船利用の場合に比べまして輸送時間の大幅な短縮が図られたわけでございます。青函トンネル供用後の利用状況は、今御説明がございましたように大変順調でございまして、津軽海峡線の開業後一カ月間の旅客輸送実績は前年同期比で約八割の増加になったと推計されております。
○政府委員(丹羽晟君) ただいま先生の御指摘のとおり、三月十二日まで青函連絡船で十三日からは海峡線の鉄道になったわけでございますが、鉄道になってからの収支状況は、まだ余り日にちがたっておりませんけれども、対前年の同期というような形で比較した場合、一日平均で対前年で一八一%というのが今我々がつかんでおります実績でございます。
これはもう少したってみないとわからないと思いますけれども、最近の報道によりますと、今までの青函連絡船のときに比べたらかなりの人がこれを利用しておる、七〇%以上それをオーバーしておるというようなことも報道されております。しかし、長期的に見た場合に、果たして収支が償うかどうかとなれば、なかなか厳しいのではないかと思うんです。 この収支の見通しについて、どのように考えておられますか。
長くなって申しわけありませんが、昨年、青函連絡船がだんだんニーズによって変化して、多くの海員の方が陸へ上がっていくというドラマをNHKで二十分番組で十回やりまして、私にその評論をしてくれと言われましたので、三時間数十分一緒にして一遍見さしていただいたことがありますが、大変な変化を遂げまして、関門から本四架橋から青函から、日本列島が本当に陸続きになったというまさに快事であるということ、それによって、今