2019-10-24 第200回国会 衆議院 農林水産委員会 第2号
特に、私の選挙区の豊野地区へも、千曲川堤防が決壊した穂保地区の決壊箇所からの浸水がひどい状況を確認し、直ちに防災服に着がえ、現地に向かいました。 長野市豊野から見た千曲川決壊の影響は広範囲で、低地はひとしく水没し、リンゴ畑も無残に水没しておりました。地元の青木敏明市議会議員に御同行いただき、被災状況をしっかりと目に焼き付けました。そして、その日のうちに武田防災大臣が長野市に入られました。
特に、私の選挙区の豊野地区へも、千曲川堤防が決壊した穂保地区の決壊箇所からの浸水がひどい状況を確認し、直ちに防災服に着がえ、現地に向かいました。 長野市豊野から見た千曲川決壊の影響は広範囲で、低地はひとしく水没し、リンゴ畑も無残に水没しておりました。地元の青木敏明市議会議員に御同行いただき、被災状況をしっかりと目に焼き付けました。そして、その日のうちに武田防災大臣が長野市に入られました。
それから、震災後に視察されておられますね、防災服で。このときも同行されています。中国に行かれたときも、熱烈歓迎片山女史という写真がありますけれども、このときも同行されています。 この方のSNSを見ますと、例えば、片山さつきを代理して行政書士会に入会届を提出した。九州北部の所長、副所長と議員秘書として懇談した。それから、新年祝賀パーティーに片山さつき参議院議員を代理して挨拶した。
○赤澤委員 地震について、私もいろいろな記憶が、あるいは経験がありまして、東日本大震災の後、発災後一月たつ前に、まさに今厚労大臣をお務めの、今おられませんけれども、加藤大臣と二人で、防災服を着込んで、一台のバンに救援物資を積み込んで、二人で交代で運転しながら被災地を訪れた記憶があります。
私自身、三・一一のときは外務副大臣という任にありまして、ちょっと余談ですが、外務省にはあのとき防災服というのはなかったんですね。まさにだから、未曽有の、あのとき想定外とか想定内とかいろいろあったんですけれども、正直に言いまして、夕方から官邸に続々と各省の、あるいは三役も集まってまいりました。
私も現場に入るときには、党の作業服とか防災服ではなくて、また衆議院、参議院といった防災服でもなくて、地元の消防団に所属していますから、消防団の服で行っていましたけれども、それは大いに評価をされた、私というかその消防団が評価されていましたから、現場に入りやすかったです。 どの党の作業服でも、どの院の作業服でも防災服でも、政治家が来たということで、これは結構疎まれた感じも見受けられました。
本日お集まりいただきましたのは、昨年九月の本会議場避難訓練を受けての対応、防災服の全議員貸与、参観用特別通行証利用者に対する検査について御協議願うためであります。 まず、昨年九月の本会議場での避難訓練を受けての対応に関して、庶務部長から、国会施設の安全性、耐震性等及び本会議場の耐震対策について説明を求めます。庶務部長。
それでは、衆議院においても、全議員に対して防災服を貸与する方針とし、その詳細につきましては、警察小委員長に御一任いただくことに御異議ありませんか。 〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○築山参事 防災服の全議員貸与について御説明いたします。附箋の二の資料をごらんいただきたいと存じます。
○務台大臣政務官 当時、九月一日に伺った折には、しっかりと現地の皆様の声を聞いて政府の対策にその実態を生かす、そういうこともありまして、しっかりと防災服を着て行ったというふうに考えております。
○階委員 防災服をあえて着られた理由というのは何かというのを聞いているんですね。
あるいはまた時間がかかって、納期というようなことが十分可能ではないという場合があったりしまして、なかなか調達が進んでこなかったという点があろうかというふうに思いますが、この点、これは国交省全体のことでもありますが、地方整備局等に私の方から申し上げまして、法律施行前の平成二十四年度は、今先生言ったように九百十五万円ということでありましたが、内容を見ますと、封筒を印刷するとか表彰状を印刷する、あるいは防災服
また、震災直後、被災地を回ったときに、政党の防災服とか、そのときは私は参議院でしたから参議院の防災服なんかを着ていくと、何しに来たという顔をされたんですけれども、消防団の制服を着て被災地に行くと、警察や自衛隊の皆さんやアメリカ軍の皆さんやいろいろな地域の皆さんも全て敬礼して、尊敬の念で迎え入れていただきました。本当に、消防団の役割というのは、皆さん御承知のとおり、非常に大きなものがあります。
そして、防災服に身を包んで一緒に段ボールを運んでいる姿を通りかかった皆さんが見て、びっくりしていたのを思い出します。 食べ物がようやく届き、そして、着がえをしたい、下着が欲しい、そんな話のときに、暖かい下着が届きました。安倍総理から届いた下着で、いやあ、あったけえなと言っていたおじいちゃんやおばあちゃんの顔を思い出します。 そしてまた、コロッケ隊。
洋裁工場の件ですけれども、このスキームというのが、既にあるところを使えばという御指摘も一方でありますが、被災地における洋裁関連工場が被災して生産能力が低下したことに伴いまして、今洋裁作業の新規又は増産分の受注として、原発の防災服とか瓦れき除去に使用する作業用エプロンであるとか仮設住宅で使用するカーテンの縫製等がございまして、裨益をしているのは被災地だということは言い得るのかなと思っております。
この一年間、特に菅さんがあのように、ベントをやれと言って、いわゆる菅直人ショックともいうべきような行動をとって、それが結果的に大変な事故の拡散、肥大化につながっていることを考え、そしてまた、それについて大臣が官房長官として、あの青い防災服を着られながら、当面は安心だ、安全だと言って、SPEEDIについても、いわば同心円で二十キロだ、三十キロだと、しかも、風が南から吹いていれば北西部に結局は放射能が拡散
菅総理以下閣僚の皆さんは防災服を着ていました。私は災害対策の総司令官である菅総理がヘリコプターに乗って原発を視察したのはおかしいのではないかと、総理が東京電力まで出かけていってどなり散らしてどうする気か、水素爆発はベントと海水注入の遅れが原因ではないかと質問をしました。
そのための所要の財源をどうするのかという大変な議論が連日行われたわけでありますが、思えば、発災直後、自由民主党の谷垣総裁が官邸を防災服姿で訪ねられ、その財源論に踏み込み、ある意味での復興増税、たしかあの際は消費税を示唆されたやに記憶をしてございますけれども、ある意味で先見すぐるる、何らかの手を打たなきゃならないということでの御提言が当時の菅総理にあったんだというふうに記憶してございます。
大震災からしばらくの間、毎日防災服に身を包み執務をされるお姿に先生の御決意を感じておりました。外国からのお客様が見えますと、常に原発事故に言及され、真摯な情報公開の必要性を説かれておりました。 顧みますと、昭和三十八年の衆議院議員初当選から半世紀近くに及ぶ政治生活でありました。移り変わる我が国の有様を政治の最前線で肌で感じ、常に深い問題意識を持ち、その論点を世に問われました。
現地で、場合によっては防災服を着て、被災地に足を運んで、陣頭指揮をとる、こういう姿をやはりイメージするんではないかというふうに思います。 未曾有の災害における現地対策本部長ですから、郡議員は女性ですので誤解を招いてしまいますけれども、いわばこれは男子一生の仕事だというほどのものではないかと私は思います。
総理、六日の夜はモーニングで記者会見されていますけれども、これは東日本大震災との並びでいけば防災服で記者会見されるべきタイミングだと思いますよ。体制がまず重要です。お答えください。
○内閣総理大臣(野田佳彦君) モーニングか防災服か、気持ちの問題は緊張感を持って私はやったというふうに思います。 その上で、情報連絡室は、さっき申し上げたとおり、三日の九時に立ち上げて、その二日の間にも随時連絡は入っていますし、そして平野大臣とのコミュニケーションも取っておりました。だから、表向きの形がどうのじゃなくて、緊張感がなかったということは全くございません。
いまだに市長さん初め対策本部の人たちは、みんな防災服ですよ。一生懸命頑張っておられる。涙が出るぐらいに頑張っておられます。どうかその思いをしっかり酌んでいただいて、今のような歯切れのよい思いを現実の行動にしっかり移していただいて、バックアップをいただきたいと思います。どうぞよろしくお願いを申し上げます。 ありがとうございました。
ただ、一つ、最初一番うれしかったのは、仙台駅に朝早い電車でおりたときに、環境省の皆さんが二、三人で防災服でおりてきている姿を見て、これは現地の方々にとっても非常に勇気になるんじゃないかなというふうに、非常に好感が持てました。
それから、私は経済産業大臣として、これはかねてからやはり経済産業大臣で地震が起きたときは原子力発電所の問題にまず一番に思いをはせなければいけないということで、私は就任をしましてから、これは経産省の政務でない事務方の幹部から、そういった危機対応のマニュアルがございますからそれをお聞きをして、そして同時に防災服と防災靴、これも二つそろえてもらいまして、自宅にもそれを一着、一そろい置いておりまして、やっぱりいざというときすぐにこれは