2011-04-13 第177回国会 衆議院 外務委員会 第5号
それまでの間、自分たちが自分たちのふるさと、海を取り戻すために、地元でそのための仕事をさせていただきたい。ぜひ、このような支援をしっかりしていただきたい、そう思っております。 また、先ほど、漁船についても、五トン未満、五トン以上について、例えば組合がやる場合に対しての国、県の補助の問題がございました。組合がやるといっても、船を使うのは漁業者個々です。
それまでの間、自分たちが自分たちのふるさと、海を取り戻すために、地元でそのための仕事をさせていただきたい。ぜひ、このような支援をしっかりしていただきたい、そう思っております。 また、先ほど、漁船についても、五トン未満、五トン以上について、例えば組合がやる場合に対しての国、県の補助の問題がございました。組合がやるといっても、船を使うのは漁業者個々です。
自分たちの地域社会において長い間自分たちと取引をしている企業がどんどんと死に絶えていくようなことに対して、国が、金融庁がこういうことをやったらどうかというところまで踏み出してきておるにもかかわらず、そういうことにかかわりなくやっていくという度胸がおありになるのと。 私は、そうした金融機関が今後その地域社会において店を張っていくことはできなくなっていくと思います。
これは余計なことですが、NPTの無期限延長のときにも、一九九六年までにCTBT条約は審議を終わるということの合意はできておりますから、これはもう間違いのないことだと思いますが、一九九六年までにはやりますということを明言しながらも、そこに行くまでの間、自分たちとしてはできる限り研究開発といいますかそういうものを考えているというふうに受け取れるような説明を繰り返ししておられました。
それこそ今まで長い間自分たちの代表者として選んできた人に対しては、非常な尊敬と、また期待と信頼を寄せておるわけでありますから、それが数が少なくなるということはないように。 私はつい昨年の四月まで県会議長をしておりまして、貧乏県といいますか、財政窮乏県全国十八県の会長もいたしておりました。きょうもこの委員の中にもその地域の方もおられるようでありますが、北の方からずっと東北が四県あります。
○国務大臣(宮澤喜一君) 御指摘になりましたように、いわゆる冷戦が終結いたしましたために、米国民としては、あるいは米国としては、戦後長い間自分たちが考えてきた一つの政策のターゲットといいますか、目標といいますか、そういうものが消滅をしてしまった、これは結構なことであったのですが、消滅をしてしまったわけでございます。
長い間自分たちの先祖がそこに住み、守ってきたところですから、それはぜひ守っていきたい。しかしながら、戦前から戦争直後にかけていろいろな、長い間、半世紀もかかってそこに私有財産が一方的に規制をされてしまっている。こういう点について、そのやり方が問題ですね。移転もできなければ増築もできない、修理ぐらいはいいという。
その地区では、長い間自分たちが持っていたものが藩政のころにこれを取られてしまったから、その国有林はおれたちのものだという感情がある。
資料がないものだから、自分たちの資料と政府なりあるいは当局側が出すところの結論との間、自分たちの資料で出した結論と政府当局が出した結論との間にずいぶんの食い違いが出てくるんだ。だけれども、どこでどういう食い違いが出てきているかは、それを点検する素材としての資料が全然ない、こういうことが言われておるんですよ。
特に、水利権は与えてしまえば財産権と同じだ、それが少しでも減ればというような場合に、それこそ、何百年もの間自分たちが暮らしていた目の前の水を一滴揚げても金を取られるということは、農民としては耐え得ないものになってきているわけです。
おやじさんたちも黙っておるわけにいかないからということで、この間、PTAから子供会から、みんな県庁あるいは地元の道路公団に押しかけて——海のある町が、長い間自分たちが海の中で育ってきたものが、道路ができて海がなくなってしまう、これについてはプールなりあるいは砂場なり、何かこういうものについて検討してもらえないだろうか、このことが道路公団の立場でできるかできないかは別問題として、町全体としては、次代を
協定が結ばれる間自分たち学者にはどういう進行状況なのか全然知らされなかった、原子力の平和利用において、その平和利用限定の保障を国民が非常に強く求めている場合に、できるだけその国民の意思を反映する機会を作るべきじゃないか、それにもかかわらず一部の要求で協定調印が急がれたのははなはだ遺憾である、こういう意味のことを、伏見教授が述べられておるのですが、もう少しこの原子力平和利用の協定を結ぶに当って、経過の
と申しますのは、単純な、純粋な気持から、日本を守るために必要ならばというので、とうとい田地田畑を無条件に提供し、しかも提供したあとでも長い間自分たちの苦労を無視して協力をしておる態度があるのであります。
ただ、過去の日本において非常に苦闘された、しかも満鉄一家というもので営々としてあそこに日本の基盤を築いた人々が二十二、三万おつて、それが終戦当時には十三万くらいになり、そうしてその人々が長い間自分たちの労苦欠乏の中からやつて、今日まで大部分、四七%くらいの清算が閉鎖機関の関係でできている。