2018-06-08 第196回国会 衆議院 地方創生に関する特別委員会 第7号
熊谷の旧妻沼町の地区には、例えば聖天様なんという国宝があったりとか、あるいは、周辺のところを考えても、先日、梶山大臣にも行田の足袋蔵を訪問していただいたというようなことも聞いております。
熊谷の旧妻沼町の地区には、例えば聖天様なんという国宝があったりとか、あるいは、周辺のところを考えても、先日、梶山大臣にも行田の足袋蔵を訪問していただいたというようなことも聞いております。
どういったものが認定されているのかというのをちょっと見てみますと非常に面白い、興味深いんですけれども、例えば群馬県ですと、「かかあ天下 ぐんまの絹物語」とか、長野県ですと、「木曽路はすべて山の中 山を守り山に生きる」、そして私がおります埼玉県行田市なんですけれども、「和装文化の足元を支え続ける足袋蔵のまち行田」といったものであります。
行田といえば足袋だというのが昔の人間の感じですが、今、行田というと足袋だって誰も考えていないというわけですが、それでも作っている方はいらっしゃるかもしれません。
京都でいいますと、京都市伝統工芸連絡懇話会という形で組織されていまして、産地という大きなものはないんですけれども、調べ緒とか、それから京指し物、京足袋、京がわら、金網、京真田ひも、茶筒、和ろうそく、いろいろあります。これらのわざへの支援策としても重要だし、ともに活用できるように私は求めたい。
その中には、小学校高学年ぐらいの子供もいますけれども、中学生、高校生の女子の方がたくさん参加している、髪をきれいに結い上げてといいますか編んで、そしてはっぴを着て足袋を履いて、本当にきれいに化粧をして、すごい生き生きとした表情で。もちろん、もともとは男の勇壮な祭りですから、男性ももう本当に顔色を変えてといいますか。そういう光景を見ていますと、これはもう、お祭りというのは地域にとってすごいんだなと。
特に防爆装置、防爆というのは爆発を防止をする技術が要るわけですから、下手をする場合に作業員は全部足袋を履いて入るんです、靴を履くことによって火花が出る場合に爆発のおそれがありますから。そういう準備が実は必要。今、全部が全部そうじゃありませんよ、もうゴムでいろんなことをやっていますからあれですが。
これは工事現場におきましてお騒がせして申しわけございませんと頭を下げている福助足袋のようなあの絵の図柄を連想してのことでございます。 そして、私が申し上げたいのは、まず一つ、なぜ根保証というものがあるのかと。その漫画の中で申し上げているのは、保証の限度、期限を明確にすると。
これは私ごとになりますけれども、私は実家が足袋屋でございまして、足袋の製造販売というのをずっとおやじの代からやってまいったわけで、中小企業の問題については中小企業の汗も涙もよく知っているつもりでございます。 そういった意味で大変関心を持っているわけでございますが、そういうこととは外れまして、まず中小企業の位置づけということでございます。
九十五歳の女性は着物を着まして、羽織、それから白い足袋をはかれまして、実は私はこの家は最後なんで、あしたの朝まで一睡もしないでいるんですよというふうにおっしゃったときに、座敷に上げていただきましたら、床の間に荷物がボストンバッグに三つ置いてありました。老人ホームに入るのに、老人ホームから指導員という方が見えて、荷物をボストンバッグ三つにしてくださいというふうに言われましたと。
いやそれは無理をすればその足袋が履けるんだというような、そんなことを裁判官が理屈をつけなければ一つの結論に到達できないようなことは、明らかに裁判官のこれは恣意じゃないですかな。一々答えは要りませんよ、それは裁判記録を読んでもらえればわかることだから。 一メーター七十何センチの、七十一センチかニセンチのかもいの上に万年筆があったと。脅迫状を書いたとされておる。
初めに自己紹介をさせていただきますと、私の生まれた家が埼玉の農村地帯の中の農村工業、本当の意味の商工業で、足袋というものをつくっておったわけでございます。この足袋を父が始めましてから七、八十年になるわけでありますが、その間、経済の動きにつれて本当に浮沈を重ねて一喜一憂して我々一家の者はき走わけでございます。そういうことで、中小企業問題については私は非常に大きな関心を持っておるわけでございます。
一時使われなくなりまして、今はジーパンなんかでかなり使われておりますが、その青じまをつくっているうちに、需要が限られているものですから、作業衣とかあるいは大工さんとか屋根屋さんとかそういう方の使用、あるいはゲートル巻きをつくるとか、そういうことでだんだん需要、マーケットが変わってまいりまして、それじゃ何に転換しようかというので、一大決心で足袋に転換したわけでございます。
しかし、そうしたら、裏の山型もついて、福助足袋なら福助足袋、月星なら月星、裏の型までそれと同じように動いておるかどうかということまで検討しておるのでしょうかね。もうさまざまな疑問点が出てくるのです。
そこで、村の産業課の発想で農業委員会の特別の御協議で、村の中学校の生徒に農業の体験実習の場として二十アールを六十二年米作をいたしましたところ、田舎の子供でも、靴下をはいたり足袋をはいたり買い物のビニール袋をはいたりしての田植えでございましたが、収穫の喜びは大変なものでございました。
ああだこうだというふうに言って、いわば私ども聞いていたら本当に足袋の裏から足をかいているか、言い逃れをしているかということで、環境庁本来の責務というものが果たされないというふうになってくるということになれば、これはもう環境庁の存在価値、これが疑われるというふうになるんではないかというふうに思うんです。
この点につきましては、判決は「遠位部優位の手袋、足袋様の知覚障害は、」何か大変難しい表現でありますが、多分手や指先や足先のしびれということでもありましょうか、「障害は、水俣病に極めて特徴的な症状であるので、このような知覚障害の診断所見しか得られない場合も、当該患者の家族に水俣病症状が集積し、疫学条件が極めて高度と認められれば右症状が他の疾患に基づくことの反証がない限り、水俣病と認定できる」といたしております
大正十一年には、秩父鉄道、福助足袋に設けられ、また昭和初年、郡是製糸の郡是同志会も、従業員と取引先を対象としてその実質は大正九年にはスタートしているというふうに、我が国の従業員持ち株制度の沿革が見られるわけであります。また、昭和の戦前期には、その他のいろいろの会社がやっておりますが、まだ少数にとどまっておりました。
我々が昔話をしても、わら草履を履いて一里の道を、足袋をはかないで雪の中を通学したなんと言ったってわからないですよ。そんなことはおっさん昔のことだというので、わからぬ。しかし、あのことによって、私はそういう気持ちがわかってくれたと思うのですね。それからもう一つは、我々のような高年齢者になりますと郷愁があります。
年度別に見ますというと、三十五年に一件、三十七年に七件、三十九年には六件、四十年には三件、四十一年には十七件と、こう増加したのでございますけれども、塩素酸系については防護の衣類、これは作業用の特殊手袋とか、あるいは防護衣、保護のマスク、保護のめがね、それから防護の足袋というものを必ずつけさせるようにいたしております。
こういう形で二、三の大手筋がその原糸のもとをつかんでおるという実態の中において、一体東京都のこの小さな仕事を行なっておるこういうくつ下界というものは、どういう状況であったかと申しますと、私は毎日そのころテレビに白ダイという、たしかあれは補助足袋でございましたか、たいへんなスポンサーで、非常に宣伝等を行なってくつ下の販売を進められたことは、御存じのとおりであります。
ところが、これを使用している会社というのは関西電力、福助足袋、日立、東京ガス、八幡製鉄、東洋高圧、石川島重工、野村証券の八社。どこかか重ねて持っているか、何台か持っているか、あるいはそれからさらに、あなたの方は用途外使用でないというから厳格に調べていないので、どこかに転売されたのかというような疑問を感じているのです。