2019-12-05 第200回国会 衆議院 原子力問題調査特別委員会 第3号
だから、そういう意味では朝河貫一もそうだったと思います。私は、朝河貫一の「日本の禍機」も前から読んでいましたけれども、やはりあの人は、二本松の出身で、高等学校を出たら、すごく勉強ができる子なので、機会があって向こうへ勉強に行って、今の高校生ですね、それからイエール大学に行き、イエール大学をちゃんと卒業した初めての日本人です。
だから、そういう意味では朝河貫一もそうだったと思います。私は、朝河貫一の「日本の禍機」も前から読んでいましたけれども、やはりあの人は、二本松の出身で、高等学校を出たら、すごく勉強ができる子なので、機会があって向こうへ勉強に行って、今の高校生ですね、それからイエール大学に行き、イエール大学をちゃんと卒業した初めての日本人です。
黒川先生とは、一年前に、朝河貫一のシンポジウムで、パネラーで御一緒をさせていただきました。私は、福島県選出の国会議員でございます。ちなみに、第一原発から四十キロに家がございます。生まれた家でもあり、今住んでいる家でもありますけれども、朝河貫一は高校の大先輩でございまして、イエールにも、その冠のシンポジウムに招かれたこともございました。
○横畠政府特別補佐人 御指摘の書籍は、昭和二十一年十一月の憲法の公布当時に、その普及のため、憲法の原理などについて一般国民に容易に理解できるよう、新聞人と書いてありますけれども、山浦貫一氏が内閣の依頼により執筆したものというふうに承知しております。
○荒井広幸君 朝河貫一博士は、ある意味で原発事故についても予見をしていたようなところがあります。様々に我々は反省しなければなりませんが、総理が言う話、私は得心がいくところ、多々あります。
これに対して、アメリカに在住します朝河貫一博士が、イエール大学の教授でありますけれども、「日本の禍機」という本を著しまして、そして、このまま日本が変わらないで突き進めば、勝利に酔いしれて突き進めば、必ず国民含めて災いが降りかかるだろうと、こう予見したわけです。変われなかった日本、それがさきの大戦に行き着いたわけです。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 朝河貫一博士は委員と同じ福島県の出身であったと承知をしておりますが、まさに七十年前、我が国は二度と戦争の惨禍は繰り返してはならない、さきの大戦の痛切な反省の上に立って、戦後ひたすらに平和国家としての歩みを進めてきたところでございます。
たしか、昔ですけれども、川上貫一が除名されているんです。ですから、国会だって除名があるんです。 それで、あなたは、ホームページか何かでは、これは大変いいことをやったようなことを書いて、身分を剥奪する方がおかしい、おかしいと言っているけれども、二人の議員が実力で議長席を占拠して議事進行を妨げた、これは、一歩議会の外に出たら逮捕されるケースですよ。これは犯罪ですよ。
戦前にアメリカのイエール大学で歴史学の教授をしていました朝河貫一という方がおられまして、その方は、日露戦争後の日本の中国政策の間違いを指摘した「日本の禍機」という本を書いた方でございますが、非常に世界的に有名な歴史学者がおられます。その方が日本の改革、二つ挙げておられまして、一つが大化の改新、一つが明治維新です。
必要条件はイメージの悪い職種だということで、シャイロックとか間貫一に代表される金貸しがいいのではないかというようなこともおっしゃっておられました。 そして、あの創業時の四つの目標は、最初は、初年度は、五人で始めましたけれども、まず黒字を出すこと、これもクリア。二年目は高額所得法人に入るということ、これもクリア。三年目は所得ランキング一万社入りというのも、これもクリア。そして十年で株式公開。
その演説の中でも実は申し述べましたが、アメリカにかなり前に参られまして活躍した方の一人で朝河貫一という学者がございます。実は聞くところによりますと、ニューヨークの自由の女神のところに日本人として非常に大きな貢献をした人として三名記録されているんだそうです。
日露戦争後の我が国外交の方向を危惧したエール大学の朝河貫一教授は、九十年前に日本の危機を論じたその著書の中で、我が国と外国との関係を決定するのは、究極のところ外交に対する日本国民の理解いかんにかかるとの趣旨を述べました。これはそのまま今日の外交にも当てはまると思います。
日露戦争後の我が国外交の方向を危惧したイエール大学の朝河貫一教授は、九十年前に日本の危機を論じたその著書の中で、我が国と外国との関係を決定するのは、究極のところ、外交に対する日本国民の理解いかんにかかるとの趣旨を述べております。これは、そのまま今日の外交にも当てはまると思います。
私は、かつて米軍全面占領下の国会で、この壇上から「全占領軍の即時、完全撤退」を主張し、そのことの故に国会議員を除名されても断じて節を曲げなかった川上貫一代議士の後を受け継いで、一九六九年の総選挙で本院の議席を得たのであります。 顧みますと、わが国は、私が小学校に入った一九三一年、中国への侵略を開始し、十五年戦争に突入しました。
一九〇五年のころは、おもしろいのですね、これはエール大学の朝河貫一教授が日本の経済的黄禍論というのがアメリカにも当時芽生えてきたというふうに言っています。エール大学でずっと教鞭をとっておられまして、アメリカのことについては詳しく知っている方がそういうふうに言っておりました。
○公述人(西川貫一君) やはり一番わかりいい形での選挙法でないと、複雑多岐で頭の痛いようなことを選挙民に訴えてみたって、また選挙のときだってこれはなかなか容易なことじゃないんですよ。参議院の方は今はもう明確ですね、比例区と地方区とははっきりしておりますから。これはもう単純でみんなわかっておる。
○公述人(西川貫一君) 私が考えておりますのは、せっかく審議をして、これが仮に決定すれば相当長い期間、五年後に何か見直すというようなことがあってもごくわずかなものであって、この選挙区比例代表制の問題は相当な期間これは存続しなきゃならぬわけなんですから、そうなってくれば、何でそう急がなきゃならないのか。
宮崎観光ホテル 派遣委員 団長 理 事 白浜 一良君 鎌田 要人君 鈴木 貞敏君 星野 朋市君 岩本 久人君 村田 誠醇君 有働 正治君 公述人 宮崎県議会議員 西川 貫一君
○元浜貫一君 今柳田先生、宮澤内閣のときに公聴会があったようにおっしゃるのですけれども、どこであったのか、私は地方の公聴会は知りません。それで、一説には公聴会が地方であったのは三十何年ぶりとかいうようなことも言いよったのですが、実際あったのですか。
次に、元浜貫一君にお願いいたします。
昭和二十六年三月二十四日、議員川上貫一君懲罰事犯の件。共産党の議員であったと思いますので、この方が、公開の場で陳謝する、これは国会法の第百二十二条、四つ例を挙げてあるうちの二番目、陳謝する、国会で。その議決、懲罰委員会でそれが決まったときに、川上委員はそれに従われなかった。そこで、その五日後除名、こういうことになった。これは一つの、たった一つの例です。
例えば先ほど先生から御指摘ございましたヤルタ協定、私どもはこれに縛られないということはいろいろな機会に申し上げている次第でございますが、御党共産党におかれましても昭和二十六年の当時におきましては、例えば一月二十八日の衆議院の本会議における御質問の中で、これは川上貫一先生でございましたが、「ヤルタ協定は、厳たる国際間の条約であります。
これは大臣、北米局長御存じかもしれませんけれども、朝河貫一という人が書いた「日本の禍機」という本がございまして、この本の中に日米関係の危機を書いておるわけであります。この著者の朝河貫一さんというのは、東京専門学校を卒業してエール大学に進学し、そこで比較法制史というのを勉強されまして教授になり、最後は名誉教授になったのじゃないかと思いますけれども、終生アメリカにいらした方でございます。
そしてお伺いしたところ、例えば西尾の市長さんは本多貫一という方なんですが、この方のお父さんが前に西尾町と言っておったころに町長をしておられたのだそうですね。そのときに西尾の簡易裁判所が設立をされた。そして裁判官が常駐だった。
改善局次長 須藤良太郎君 農林水産省構造 改善局計画部長 岡田 明輝君 参 考 人 (日本大学農獣 医学部教授) 青木 志郎君 参 考 人 (全国農業会議 所事務局長) 池田 昭雄君 参 考 人 (西尾市長) 本多 貫一君
本日は、本案審査のため、参考人として日本大学農獣医学部教授青木志郎君、全国農業会議所事務局長池田昭雄君、愛知県西尾市長本多貫一君、以上三名の方々に御出席をいただき、御意見を承ることにいたしております。 この際、参考人各位に一言ごあいさつ申し上げます。 本日は、御多用中のところ本委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございます。
○政府委員(宮地貫一君) 福島県立医科大学に対する経常費等補助金の額でございますが、五十九年度の補助金額は三億四千百八十九万五千円でございます。
○政府委員(宮地貫一君) ただいま御指摘の点については承知をいたしておりません。その点については調査をさしていただきます。
文部大臣官房長 西崎 清久君 文部大臣官房審 議官 菱村 幸彦君 文部大臣官房会 計課長 坂元 弘直君 文部省初等中等 教育局長 高石 邦男君 文部省教育助成 局長 阿部 充夫君 文部省高等教育 局長 宮地 貫一君