2014-06-03 第186回国会 参議院 法務委員会 第20号
矯正局長に伺いたいというのは、例えば明治時代とか大正時代、大正時代だったら講談本というのがあって、例えば「猿飛佐助」というのを本を読んで、みんなで、じゃ、忍者ごっこやろうかと言って、極端な場合でも木から木に飛び移ろうとして落ちて骨折するという程度だったと思うんだけれども、だけど、想像力がまだ働いていた時代ですよね。
矯正局長に伺いたいというのは、例えば明治時代とか大正時代、大正時代だったら講談本というのがあって、例えば「猿飛佐助」というのを本を読んで、みんなで、じゃ、忍者ごっこやろうかと言って、極端な場合でも木から木に飛び移ろうとして落ちて骨折するという程度だったと思うんだけれども、だけど、想像力がまだ働いていた時代ですよね。
さらに、「巨人の星」、これがインドで今アニメでやっておりまして、「スーラジ ザ・ライジングスター」、これはもともと講談社でありますけれども、やっているわけでありますけれども、基本的には「巨人の星」そのものであります。 三つ違います。一つは、この主人公、スーラジでありますけれども、星飛雄馬役になるわけですけれども、野球ではなくて、インドの国民的なスポーツでありますクリケットをやっている。
その中で、参考人としてここに来てレクチャーをしていただいたあの藤井教授の迫力ある講談のような御指導がどうも頭に浮かんじゃって。でも、レジリエンスというのはなかなかうまい言葉をつけたなと思いながら拝見いたしました。 それで、三つほど質問を出させていただいたんですが、その前に、ちょっと基本的事項で確認させていただきたいことがあります。
昔から森の石松、清水次郎長等が講談でもてはやされたり、戦後も東映のやくざ映画、あるいは女やくざ親分が主演となるような映画等がもてはやされるといったようなことを見てもそういうようなことが言えるんではないかなというふうに思います。
まあ本当に、こういうことを言っちゃなんですけど、講談師、見てきたようなうそを言いというせりふありますけれども、本当に見てきたかのような報道記事になっていて、そこにおった関係者は非常に限られているのに、あり得ないということをもっと確認した上で報道してもらいたいなと思うことがあります。それも、変な新聞じゃなくて、一流の新聞のあれが出しているわけですから、記者がですね。
だから、本当に、講談師、見てきたような何とかを言いという話じゃございませんけれども、本当にみんなが見たら、さもその席でそんな話が出たかのように書かれておるというのはこちらとしても非常に心外ですけど、それは一緒に同行した記者ももちろん違うと思いますけれども、どこ発なのか、その辺をこっちも知りたいなと思うぐらいであります。
浪曲にも、浪花節、講談にもと。私、そうだと思う。やはりそういう、これは落語協会、また講談協会、浪曲、奇術、それからコント、マジック、曲芸、ボーイズ、漫談、物まね、歌謡曲、民謡、こういうことで構成されている日本演芸家連合という方からの、これはうちの提案の中にも入っているんですけれども、講談などを学校教育や福祉活動に活用すると。それからまた、商店街寄席など伝統文化を町づくりに活用と。
私は、やっぱり国民は、漠然とですけれども、講談やあるいは落語の中に出てくるようなお話を頭に描いて三方一両損というのを思っておるんだろうと思うんですね。そこは、だから国も国の責任としてこれだけのことはやっているんだということを自信持っておっしゃられた方がいいんじゃないかなというふうな気持ちを抱いたわけでございます。
私は、三方一両損というのは、講談だとか落語とか、あんなところで非常に今国民の間に流布されているようないわゆる大岡裁きですね、そのことだとばかりてっきり思っていたんですよ。
しかしながら、我が国の文化を支える実演家には、例えば、先日亡くなられた小さん師匠のような落語家、講談師、浪曲師、曲芸師、漫才師、手品師など、さまざまな方々がおられます。
それから、もうこれから時間がないのでお願いばかりですけれども、二番目は、私は是非、浪曲とか講談なんかの、これはラジオではありますけれども総合テレビでも是非入れていただきたい。
そういう中で、だんだんその時間数が減っている中で、指摘があります講談、浪曲でありますけれども、講談につきましては、「NHK講談大会」ということで年二回総合テレビで放送しておりますし、また浪曲、浪花節につきましても、「NHK東西浪曲大会」ということで東京と大阪で年二回、それぞれそういう大会を催し、それを放送に活用しております。
もう一つは、大衆芸能というんですか、要するに落語だとか漫才、浪曲、講談とかいったこういう番組も非常に今少なくなっているんです。古典芸能は確かに歌舞伎、舞踊、邦楽だとか狂言云々と、結構やっておるんです。ところが、講談とかは年間二回ぐらいじゃないですか、あれをやるのは。落語も非常に少なくなった。
戦前の歴史あるいは源平の戦いなんというのは浪曲とか講談なんかでもやらなくなっていますから、わからなくなってきてしまっているというふうな形であります。
「程度の差こそあれ、ヤクザを国民的英雄に祭り上げ、映画、演歌、浪曲、講談などで、その行為を容認し、美化する日本の気風には、シチリア社会と似た悲しい部分がある。」そしてまた、彼がつき合ったイタリア移民の親友がいる。「彼がマフィアのボスを語る時、そこには日本人が清水次郎長や国定忠治を語る時のような、英雄視する部分があるのに気付く。
清水次郎長の講談が国民から非常に親しまれる、また戦後、暴力団の対立抗争を扱った各種東宝、東映の映画、また「極道の妻たち」とかいろいろな映画も国民からこれだけ喜ばれて見られるということは、日本の社会に暴力団を必要悪としてとらえる素地があるのではないかというふうに思います。
私は、この考え方というのは、講談にあります大岡越前守の三方一両損という考え方と似ていると思っております。昔、江戸時代に、お金を三両落とした人がおります。拾った人がいる。拾った人が落としたところの人に三両を持っていきました。あなたのお金を私が拾ったからお返ししますと。
先ほどの例がよかったかどうかわかりませんが、やはり純文学が講談調になっていったりすれば、これはある意味じゃ文学の自殺行為であろう、このように思います。やはり報道といいますものは、報道のあるべき姿、哲学というものがあろう、このように思いますから、そういう面で進んでいっていただきたい、このように思う次第でございます。
気功だとかそういうのがありますが、落語や講談のせりふの中に「腹が立った途端に腰が立った」と。寝たきりの方が、自分で本来は立てるにもかかわらず、人間の心というのは微妙なんですね、そういうところで抑制しているんですね。それが何かあった拍子にはっと立ったりできると、それが気の力だみたいなことになってきたりしております。
私は旭堂小南陵という芸名を持っている講談師でもございまして、今、お休みごとに被災地、避難場所を慰問いたしております。そしてその中で、随分といろんな被災を受けた方々からの悩みを聞いております。その悩みを中心に御質問をしたいと思います。 まず法務大臣にお伺いをいたしますが、今、被災地では、家主さん、こっちの言葉で言ったら大家さんですか、雲隠れをしている例が随分とあるわけなんです。
○西野康雄君 新党・護憲リベラルを代表して、総理初め関係大臣に質問を申し上げますが、その前に、国立劇場だけではなく国立演芸場の方にも各大臣は足を運んでいただいて、本当に貧しい中で一生懸命伝統芸能を守ろうとしている若手の落語家や講談師に力添えをしていただきたい、かようにお訴えをさせていただきます。
私は、西野康雄というほかに講談師で旭堂小南陵という芸名を持っております。農学部を出た者あるいは農業学校を出た者が後継者にならないと言われるとまことにつらい部分がございます。