2020-04-07 第201回国会 参議院 国土交通委員会 第9号
次に、マンションの管理適正化、マンションの建替え円滑化法案についてお聞きする前に、これも大臣お膝元のことであります、兵庫県淡路市の世界平和観音像の撤去について報道がされています。
次に、マンションの管理適正化、マンションの建替え円滑化法案についてお聞きする前に、これも大臣お膝元のことであります、兵庫県淡路市の世界平和観音像の撤去について報道がされています。
一番望ましいのは、自分の大好物なものを食べて、翌朝家族が起こしに行ったら静かに息を引き取っていたというぴんぴんころり、私も何とか観音というのを、もう見送りましたが母と一緒にお参りしたこともありますが、それを多くの方が望んでおられるのではないかと思います。家族や周囲の方と十分なコミュニケーションが取れる、会話を交わすことができる、そういうことがやはり口腔の機能だろうというふうに思っております。
そのほかのところでは、アクセサリーですとか、それから根付けのような小さなものから、ある程度大きい観音様の像のような調度品、それから邦楽器ですね、三味線のばちやお琴の弦を支える琴柱などにも使われております。これはもう国によって使われ方は様々で、中国の場合は専ら調度品、大きな作り物から小さなものまで様々であります。
三味線のばち、お琴の琴柱、観音像と、あとアクセサリーですか、分かりました。 いや、麻酔、私医療関係なんですけれども、それは量でちゃんと換算すれば体重と打ちどころで分かると思うんですけど、まあいいです。いいです、それで、もう時間ですから。
新しくつくるところは、物すごく強靱な建物ですよ、万々が一電源が落ちても自家発電もあります、二重三重のブロックをしていますよ、いざとなったら、観音崎もそのまま残すのでそこで対応しますよとおっしゃっているんですが、ちょっと役所の方にお伺いしますと、観音崎に人はいるんですかというふうに言ったら、いや、人は置かないつもりですと。
それでも、万々が一機能が完全に喪失した場合には、現在の観音崎における海上交通センター内に残される設備を使用した管制業務を実施することも想定しておりますし、また、必要に応じ、AIS受信機等の仮設や、レーダー、VHF送受信設備を搭載した巡視船艇の活用などにより、管制業務の維持に努めていきたいと考えております。
もう時間もそんなにありませんので、先般、残念ながらちょっと私は視察に行けなかったんですけれども、現在の海上交通センター、三浦半島の観音崎にありますけれども、浦賀水道航路や中ノ瀬航路というのが屋上などから直接目視できるようになっているというふうに聞いています。
さらに、万が一機能が完全に喪失した場合には、現在の観音崎における海上交通センター内に残される設備を使用した管制業務を実施することを想定しています。さらにそこも破壊されたということになりましたら、必要に応じ、AIS受信機等の仮設や、レーダーやあるいはVHF送受信機設備を搭載した巡視船艇を現場に配備して、これらを活用することにより管制業務の維持に努めていきたいと、このように考えております。
万が一機能が完全に喪失した場合には、現在の観音崎における海上交通センター内に残される設備を使用した管制業務を実施することを想定しておりますし、また、必要に応じ、AIS受信機等の仮設や、レーダーやVHF送受信設備を搭載した巡視船艇の活用などにより管制業務の維持に努めてまいります。
先日、このパネルにありますけど、私も横須賀の観音崎にある戦没船員の碑を訪れました。こう書いてありました。「安らかにねむれ わが友よ 波静かなれ とこしえに」。この碑文を前に、犠牲となられた方々の御冥福を祈るとともに、二度と過ちを繰り返さないということを誓いました。 総理は、戦没した民間船員について知っておられましたか。
こういったような年号から、また古文書の名称、何ちゃら文書とか、あと仏像の名前、何とか観音像とか、こういったようなこともありまして、知り合いに予備校の先生とか高校の先生も同級生なんかでもおるんですが、話を聞いても、日本史というのは暗記さえすれば点がとれるんだというようなことで、学校でもそういう意味では逆に教えやすいんだみたいな話もしておったわけであります。
千三百年間伝わっているわけですけれども、毎年、旧暦の一月十八日、月の出から翌日の日の出まで、全く寒い観音堂の中で夜を徹して舞われるわけであります。
また、十月には、私これとっても好きなお祭りなんですけれども、観音寺にちょうさ祭りがあります。こういった地元の若い人たちがこのお祭りを盛り上げることによって地域を活性化していこうと一生懸命頑張っているんですけれども、やはり今からは海外に向けてアピールをしていかなければなりません。 そこで、地方の魅力的なものを地域地域がばらばらに海外に向けて発信しても、これは効果が薄いと思います。
もし御関係の方がいたら大変申し訳ないんですが、芦別は、これは見えているのは大観音と五重の塔、これは九〇年代に北の京という名称でリゾート開発がされました。この裏には第三セクターで破綻したカナダ村があります。この五重の塔の横には三十三間堂を模した巨大なホテルもあります。今これを、全施設をパッケージで一億円で売りに出されています、完全に破綻して。 全く隣町なんです、富良野と芦別は。
翌三十一日、まず、広島平和記念公園において、原爆死没者慰霊碑に献花を行った後、広島市西区観音地区において高潮対策事業概要を、太田川放水路において放水路事業概要を、広島市安佐南区相田一号堰堤において直轄砂防事業概要を阿部河川事務所長から聴取いたしました。
私たちは何か、多分映画かテレビかわかりませんけれども、この部屋で観音像を前に最後に死刑囚が辞世の句を詠んだり、あるいはお菓子を食べたりお茶を飲んだりするというようなことを、ちょっとそんなイメージがあったものですから、そういうことはあるんですかと聞いたら、いや、この部屋ではそういうことはない、割とその宣告をしてから余り間髪を置かずに処刑は行われるんだ、こう聞いたんですが、この部屋には、拘置所長以外に、
○森国務大臣 大変よく再現されていると思いますけれども、下の図の、観音像なんかのあった部屋には執行ボタンはなかったように記憶していますけれども。これは裏だよね。
○森国務大臣 これは観音像のある部屋というのと別ですね。すぐ隣接する……(保坂委員「はい、違うんです」と呼ぶ) では、全くこのとおりだったと思います。
先生御指摘の第三海堡でございますけれども、これは明治二十五年から大正十年まで三十年かけてつくられたものでございまして、神奈川県横須賀の観音崎と千葉県富津岬の間にある浦賀水道の西側に、当時といたしましては世界最高レベルの海洋建設技術を駆使して建設されましたけれども、残念ながら、大正十二年の関東大震災で崩壊して暗礁化しました。
○井上哲士君 世界平和を願って建てたというのはこの比島観音の話なんですね。この殉国七士廟というのは、まさに東京裁判で処刑をされたけれども、それは国のためにやったんだと、悪い人じゃないんだということでここに置かれて、当時建立されたときにいろいろな問題にもなったそうでありますけれども、こういうことなんですよ。
「第二術科学校は、空幕長の歴史教育重視の方針を受け、学校長推薦の愛知県三ヶ根山頂付近にある殉国七士廟及び比島観音に、学校長以下七名で現地偵察を行いました。」と。「殉国七士廟は、極東国際軍事裁判によってA級戦犯として処刑された七名の遺骨を埋葬したもの」と、さらに、「今後、第二術科学校は、基幹隊員の防衛教養として、また課程学生の使命教育の一環として、三ヶ根山における現地研修を予定しています。」
○保坂委員 その際に、衆議院の法務委員会でも二度見に行っているんですが、まず、死刑執行に当たって、ドアがあいて、観音像か絵があったと思うんですけれども、そして正方形の部屋があり、ボタンを押す部屋があり、そして中央に四角い、そこに死刑囚が立つというところはごらんになったと思うんですね。 その下の部分、つまり落下してくる部分については、大臣はお入りになりましたか。
そこで、これが衝突した場所は観音崎の先だったと思いますけれども、ここよりももっと海上交通の頻繁なところあるよと。それは備讃瀬戸であり、私の方の選挙区も近いですけれども、あの明石海峡、まだ橋はできていませんでした。
高橋是清翁が特許局をつくり、そして商標法、さまざまな法律をつくり、特許局は独立をすべきだということで独立もさせて、そのときに言った言葉が、この本には、井上馨当時農商務大臣に、東京見物に来た者が浅草の観音様の次には特許局を見に行こうというぐらいにしたいものだと。
そういうような、政治家でもそれぐらいの知識人であり、かつあれだということが言えると思うんですが、そのシラクさんをそこまで知日派、親日派にさせたのは、何といってもアンドレ・マルローという二十世紀が生んだ行動する文化人、この人の日本文化に対する造詣の深さ、百済観音を称揚したり、藤原隆信は浮世絵ではないといって藤原隆信という肖像画家を発見したり、非常にそういう意味で高い日本文化に対する見識が政治家にまで及
○井上哲士君 それ以外にも、市指定などを含めますと、輪島市で二十四件、七尾市で十七件、志賀町で八件、計四十九件ということで、今後も地盤が緩んだところに雨など降りますと大変心配をしておるんですが、例えば輪島市の門前町にある曹洞宗の大本山の総持寺というところは、築約百年の建物で、山門や観音像の転倒などで、全体の被害額が数十億に上るという報道がされてございます。
旧東海道や名古屋の四大観音と呼ばれます笠寺観音などがございまして、昔ながらの面影を残す庶民の町でございます。ここはまた、昭和三十四年に発生をいたしましたいわゆる伊勢湾台風では、死者・行方不明者を合わせて五千名を超える甚大な被害を受けた悲しい歴史を持つ町でもございます。近年では、去る平成十二年九月に発生をしました東海豪雨においても甚大な被害を受けた地域でもございます。