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20件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2019-11-19 第200回国会 衆議院 本会議 第9号

第三次桂内閣長州藩出身藩閥政治であるとして国民世論批判が高まり、明治から大正にかわって半年後の大正二年二月五日、私の地元、相模原市緑区又野で生まれた尾崎行雄代議士が、桂太郎内閣弾劾決議案趣旨説明を行っています。この桂太郎総理に対し、「常ニ玉座ノ蔭ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ挙動ヲ執ッテ居ルノデアル、」と批判

後藤祐一

1997-05-22 第140回国会 衆議院 行政改革に関する特別委員会 第7号

しかし、日本が今日の近代国家、果たして完成した近代国家と言えるかどうかわかりませんが、かつて、鎖国、封建社会から近代国家を目指した明治維新、その以前は確かに、これは藩閥政治で完全な、逆を言えば民主的な地方政治集合体幕府というものを形成し、そういうわけでありますから、三百諸侯という名のいわば完全な、今でいう地方自治の完成したものというべきか、地方政府と言っていい、それぞれに今でいう課税権もあるいは

梶山静六

1997-05-16 第140回国会 衆議院 行政改革に関する特別委員会 第5号

逆に言えば、あったといえば藩閥政治のころ、それぞれの領主、藩主というものは、一つ自治権を、今よりもむしろ強力な自治権を持った集合体国家を形成したわけでありますが、明治以来、日本を強くしようというところでは、むしろ画一性を求めたところに日本行政の中心が置かれたわけであります。  

梶山静六

1993-04-28 第126回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第13号

第一点の政党ですけれども、やはり日本議会制度の発端がいわゆる藩閥政治だったというようなこともあって、なかなかパーティーという概念が日本民主主義の中に溶け込んでいくのにはかなり時間がかかるだろう、溶け込んでいったにしても一定の限界があるだろうという気がいたします。それが一点。  

田勢康弘

1991-03-12 第120回国会 衆議院 予算委員会第五分科会 第2号

いい米どころを、藩閥政治じゃないけれども、おまえのところも何%、おまえのところも何%というのは、これは愚ですよ。ばかな話ですよ。いい米はいい米でつくらせた方がいいと思う。これは意見だけ言っておきます。  ただ、そういうことで、まずいところの米はしようがないからなくしていくとしても、大きいところの米は育てていく。

沢田広

1991-03-12 第120回国会 衆議院 予算委員会第五分科会 第2号

それから、藩閥政治名残みたいに、北海道はまずい米を食え、東京もまずい米を食っていろ、埼玉もおまえのところは生産が少ないからまずい米を食っていろ、これもよくないと思うのです。外国の米がいいとか悪いとかの問題よりも、まず国内の流通が、平等に食べられて、新潟の米が自由に入る、あるいは宮城の米が自由に入るというふうに、まず国内国民生活の水準を平均に保つということが必要だろうと思うのです。  

沢田広

1979-05-10 第87回国会 衆議院 本会議 第24号

先生の官界での生活は五年という短い期間ではありましたが、第一次世界大戦後の大正デモクラシーの高まりと、藩閥政治から政党政治へと政治の流れが大きく転換をしたときでありました。この間、先生は、加藤友三郎内閣総理大臣を初め、多くの偉大な政治家に仕え、為政者の先見性と勇気ある決断を目の当たりにされました。

下平正一

1977-05-13 第80回国会 衆議院 大蔵委員会 第26号

また一つは、いわゆる藩閥政治一つ名残としての士農工商的な発想のいわゆる封建制というものもあったであろうということは言えると思います。これが昭和三十四年まで、国鉄の場合は昭和三十一年まで続いたのであります。これが一応簡単に言った恩給歴史だと思うのであります。  この軍人恩給は、マッカーサーによって途中で停止をされたわけであります。ところがサンフランシスコ条約によって新たに復活をした。

沢田広

1973-07-11 第71回国会 衆議院 農林水産委員会 第43号

しかし、これは明治初年の藩閥政治時代のひずみをようやく直すということですが、これも活用するということで、植林に対しての問題はまだまだこれからやらなければならぬと思うのです。植林だけでなく、間伐もあるし、いろいろな面の問題があるのです。そういう意味では水源涵養とか、いろいろな水という問題が大きくあるのですよ。

田中角榮

1969-04-08 第61回国会 衆議院 内閣委員会 第13号

昔の藩閥政治とはよほど違っております。藩閥政治のときだって大臣はどんどんかわっている。しかし、このごろは、個人の力というよりも、そのうしろだてにある政党というものがしつかりしているかどうかで大臣も仕事ができるのです。大臣はなるほど一年でかわる、しかしながら与党としてがんばっておるので、やっぱり大臣も安閑としてはおれない。

佐藤榮作

1969-02-07 第61回国会 衆議院 予算委員会 第6号

明治百年というようなことをよくいわれますけれども、政治的にこれをながめていくなら、この百年の歴史というものは、初めは薩長土肥あたり藩閥政治であり、太政官政治に入り、それから憲法発布以後におきましても、内閣ができましたけれども、やはり御承知のように枢密院があり、元老がこれを支配しておった。

阪上安太郎

1968-05-14 第58回国会 衆議院 地方行政委員会 第28号

もう一つは、長いこと藩閥政治といいますか、廃藩置県で——ちょっといま聞きましたのですが、これは千葉県なども佐貫だとか、一ノ宮だとか、館山だとか、昔の徳川時代の藩であります。あるいは、山形も、米沢であるとか、天童であるとか、新庄であるとか、長いこと藩閥の中にあって県内の統一行政ができなかった。セクトにあいましてできなかった。これがようやく六、七十年の歴史、ほんとうの歴史は二十年くらいだと思います。

依田圭五

1968-05-09 第58回国会 衆議院 決算委員会 第15号

そういうのを見た場合に、どうして改元の日を選んだかということ、それから百年祭の意義は何なのか、ずばり言いますと、あなたは長州出身だからね、まあまあめでたいかもしらぬけれども、あれは薩長藩閥政治の起点なんです。その陰には作人労働者がどんなに泣かされたか。明治から大正にかけての女工哀史もその中にあるのです。そして百年を見た場合に、いわゆる旧憲法下時代と新憲法下は違うと思います。

田中武夫

1961-05-26 第38回国会 参議院 本会議 第30号

藩閥政治のもとにおいてすら、このやり方は暴挙であるといわれたのであります。今日の民主政治のもとにおいて、国会の最終日に当たる一昨日、法律案を提案し、その通過をはかろうとする政府の態度に対しては、はなはだ理解に苦しむところであります。この理由を内閣総理大臣から明瞭に御答弁を願いたいと思います。  

田中一

1954-04-26 第19回国会 衆議院 法務委員会 第45号

すなわち役人というものは、一方ではそういう藩閥政治と申しますか、そんなようなものと結びついて、古くからの権力を持ち、かつまた同時に新しい政治の面においても啓蒙的な面があつて、一歩を先んじていたということから、実質的な優秀性があつたと思う。これはいろいろ逆の例もございましようが、大体において国を治めるというような形がある程度まで実際に成立し得たということは、私も認めざるを得ないのです。

中島健蔵

1953-10-06 第16回国会 衆議院 水害地緊急対策特別委員会 第34号

このいわゆる官僚横暴の傾向は、明治以来ずつと続いておることは、皆様方がすでに御承知の通りでございまして、藩閥政治あるいは政党政治時代、あるいは軍人政治時代、あるいはその後の時代も、すべて非常に有能な人物がありますために、その有能な人物自分の才能におぼれて、自分政治を左右するというような間違つた雰囲気に包まれて、世の中の政治方向にブレーキをかけ、あるいは間違つた方向に向けておつた事実は、疑

八木一男

1953-07-04 第16回国会 衆議院 予算委員会 第15号

北委員 どうも政府秘密外交といい、秘密計画といい、憲法ではアメリカ政府憲法を金科玉条としておりながら、なすところは明治時代藩閥政治家、官僚政治家遺習を大いに受けておつて、今の公明政治時代には適せぬと思いますが、どうか今までの戦時内閣命令服従の関係で来た遺習を一蹴して、公明正大な政治をやられんことを希望条件として申し上げておきます。  これで終ります。

北昤吉

1953-02-09 第15回国会 衆議院 予算委員会 第19号

ところが薩長藩閥政治家が日本国民を征服したつもりでさらに弱者をいじめた。日清日露戦争まではよかつた日露戦争においては、とにかく白色人種と初めて戦うて勝つたというので、アジア民族の誇りとした。支那の革命等もこれによつて鼓吹されたということは、後に国民党の元老になつた戴天仇の「日本論」という書で詳しく書いております。青年トルコ党もこれによつて起きた。インドの志士も日露戦争に刺激されて起きた。

北昤吉

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