2019-11-19 第200回国会 衆議院 本会議 第9号
第三次桂内閣は長州藩出身の藩閥政治であるとして国民世論の批判が高まり、明治から大正にかわって半年後の大正二年二月五日、私の地元、相模原市緑区又野で生まれた尾崎行雄代議士が、桂太郎内閣弾劾決議案の趣旨説明を行っています。この桂太郎総理に対し、「常ニ玉座ノ蔭ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ挙動ヲ執ッテ居ルノデアル、」と批判。
第三次桂内閣は長州藩出身の藩閥政治であるとして国民世論の批判が高まり、明治から大正にかわって半年後の大正二年二月五日、私の地元、相模原市緑区又野で生まれた尾崎行雄代議士が、桂太郎内閣弾劾決議案の趣旨説明を行っています。この桂太郎総理に対し、「常ニ玉座ノ蔭ニ隠レテ、政敵ヲ狙撃スルガ如キ挙動ヲ執ッテ居ルノデアル、」と批判。
せっかく明治維新で朝廷を倒し、幕府も倒し、そして藩閥政治にはなったけれども、しかし政党政治。政党政治が、原敬が倒れたのはポピュリズムですよね。選挙至上主義、ポピュリズム。
しかし、日本が今日の近代国家、果たして完成した近代国家と言えるかどうかわかりませんが、かつて、鎖国、封建社会から近代国家を目指した明治維新、その以前は確かに、これは藩閥政治で完全な、逆を言えば民主的な地方政治の集合体が幕府というものを形成し、そういうわけでありますから、三百諸侯という名のいわば完全な、今でいう地方自治の完成したものというべきか、地方政府と言っていい、それぞれに今でいう課税権もあるいは
逆に言えば、あったといえば藩閥政治のころ、それぞれの領主、藩主というものは、一つの自治権を、今よりもむしろ強力な自治権を持った集合体の国家を形成したわけでありますが、明治以来、日本を強くしようというところでは、むしろ画一性を求めたところに日本の行政の中心が置かれたわけであります。
第一点の政党ですけれども、やはり日本の議会制度の発端がいわゆる藩閥政治だったというようなこともあって、なかなかパーティーという概念が日本の民主主義の中に溶け込んでいくのにはかなり時間がかかるだろう、溶け込んでいったにしても一定の限界があるだろうという気がいたします。それが一点。
いい米どころを、藩閥政治じゃないけれども、おまえのところも何%、おまえのところも何%というのは、これは愚ですよ。ばかな話ですよ。いい米はいい米でつくらせた方がいいと思う。これは意見だけ言っておきます。 ただ、そういうことで、まずいところの米はしようがないからなくしていくとしても、大きいところの米は育てていく。
それから、藩閥政治の名残みたいに、北海道はまずい米を食え、東京もまずい米を食っていろ、埼玉もおまえのところは生産が少ないからまずい米を食っていろ、これもよくないと思うのです。外国の米がいいとか悪いとかの問題よりも、まず国内の流通が、平等に食べられて、新潟の米が自由に入る、あるいは宮城の米が自由に入るというふうに、まず国内の国民生活の水準を平均に保つということが必要だろうと思うのです。
明治以来の日本のかじ取りは、藩閥政治から始まっていわゆる官僚制度というのが一つのしんになってきたということは、これは間違いないと思います。
先生の官界での生活は五年という短い期間ではありましたが、第一次世界大戦後の大正デモクラシーの高まりと、藩閥政治から政党政治へと政治の流れが大きく転換をしたときでありました。この間、先生は、加藤友三郎内閣総理大臣を初め、多くの偉大な政治家に仕え、為政者の先見性と勇気ある決断を目の当たりにされました。
また一つは、いわゆる藩閥政治の一つの名残としての士農工商的な発想のいわゆる封建制というものもあったであろうということは言えると思います。これが昭和三十四年まで、国鉄の場合は昭和三十一年まで続いたのであります。これが一応簡単に言った恩給の歴史だと思うのであります。 この軍人恩給は、マッカーサーによって途中で停止をされたわけであります。ところがサンフランシスコ条約によって新たに復活をした。
しかし、これは明治初年の藩閥政治時代のひずみをようやく直すということですが、これも活用するということで、植林に対しての問題はまだまだこれからやらなければならぬと思うのです。植林だけでなく、間伐もあるし、いろいろな面の問題があるのです。そういう意味では水源涵養とか、いろいろな水という問題が大きくあるのですよ。
昔の藩閥政治とはよほど違っております。藩閥政治のときだって大臣はどんどんかわっている。しかし、このごろは、個人の力というよりも、そのうしろだてにある政党というものがしつかりしているかどうかで大臣も仕事ができるのです。大臣はなるほど一年でかわる、しかしながら与党としてがんばっておるので、やっぱり大臣も安閑としてはおれない。
明治百年というようなことをよくいわれますけれども、政治的にこれをながめていくなら、この百年の歴史というものは、初めは薩長土肥あたりの藩閥政治であり、太政官政治に入り、それから憲法発布以後におきましても、内閣ができましたけれども、やはり御承知のように枢密院があり、元老がこれを支配しておった。
もう一つは、長いこと藩閥政治といいますか、廃藩置県で——ちょっといま聞きましたのですが、これは千葉県なども佐貫だとか、一ノ宮だとか、館山だとか、昔の徳川時代の藩であります。あるいは、山形も、米沢であるとか、天童であるとか、新庄であるとか、長いこと藩閥の中にあって県内の統一行政ができなかった。セクトにあいましてできなかった。これがようやく六、七十年の歴史、ほんとうの歴史は二十年くらいだと思います。
そういうのを見た場合に、どうして改元の日を選んだかということ、それから百年祭の意義は何なのか、ずばり言いますと、あなたは長州の出身だからね、まあまあめでたいかもしらぬけれども、あれは薩長藩閥政治の起点なんです。その陰には作人、労働者がどんなに泣かされたか。明治から大正にかけての女工哀史もその中にあるのです。そして百年を見た場合に、いわゆる旧憲法下の時代と新憲法下は違うと思います。
藩閥政治のもとにおいてすら、このやり方は暴挙であるといわれたのであります。今日の民主政治のもとにおいて、国会の最終日に当たる一昨日、法律案を提案し、その通過をはかろうとする政府の態度に対しては、はなはだ理解に苦しむところであります。この理由を内閣総理大臣から明瞭に御答弁を願いたいと思います。
すなわち役人というものは、一方ではそういう藩閥政治と申しますか、そんなようなものと結びついて、古くからの権力を持ち、かつまた同時に新しい政治の面においても啓蒙的な面があつて、一歩を先んじていたということから、実質的な優秀性があつたと思う。これはいろいろ逆の例もございましようが、大体において国を治めるというような形がある程度まで実際に成立し得たということは、私も認めざるを得ないのです。
このいわゆる官僚横暴の傾向は、明治以来ずつと続いておることは、皆様方がすでに御承知の通りでございまして、藩閥政治あるいは政党政治の時代、あるいは軍人の政治の時代、あるいはその後の時代も、すべて非常に有能な人物がありますために、その有能な人物が自分の才能におぼれて、自分が政治を左右するというような間違つた雰囲気に包まれて、世の中の政治の方向にブレーキをかけ、あるいは間違つた方向に向けておつた事実は、疑
○北委員 どうも政府の秘密外交といい、秘密計画といい、憲法ではアメリカ政府の憲法を金科玉条としておりながら、なすところは明治時代の藩閥政治家、官僚政治家の遺習を大いに受けておつて、今の公明政治の時代には適せぬと思いますが、どうか今までの戦時内閣の命令服従の関係で来た遺習を一蹴して、公明正大な政治をやられんことを希望条件として申し上げておきます。 これで終ります。
ところが薩長の藩閥政治家が日本国民を征服したつもりでさらに弱者をいじめた。日清、日露の戦争まではよかつた。日露戦争においては、とにかく白色人種と初めて戦うて勝つたというので、アジア民族の誇りとした。支那の革命等もこれによつて鼓吹されたということは、後に国民党の元老になつた戴天仇の「日本論」という書で詳しく書いております。青年トルコ党もこれによつて起きた。インドの志士も日露戦争に刺激されて起きた。
若しそういう話があつたとすれば、これはいわゆる藩閥政治だとはお考えになられむかどうか、その御意見を承りたいと思います。又農林人事を全部総理大臣にお任せするつもりかどうか、その点も承りたいと思います。