2016-04-20 第190回国会 参議院 決算委員会 第7号
私の地元岐阜県も古くから飛山濃水の地と呼ばれており、北部の飛騨地方は標高三千メートルを超える山々が連なる一方、南部の美濃地方は濃尾平野を潤す木曽三川が流れ、薩摩義士など先人の水との長い闘いの歴史を礎に、今日の伊勢湾、三河湾の豊かな環境づくりに貢献しております。
私の地元岐阜県も古くから飛山濃水の地と呼ばれており、北部の飛騨地方は標高三千メートルを超える山々が連なる一方、南部の美濃地方は濃尾平野を潤す木曽三川が流れ、薩摩義士など先人の水との長い闘いの歴史を礎に、今日の伊勢湾、三河湾の豊かな環境づくりに貢献しております。
豊かな河川があるということは、裏を返せば、それは水害との闘いの歴史を抱えているわけでございまして、古くは江戸時代に、多くの犠牲者を出しながら薩摩義士の献身的な尽力により達成をした宝暦の治水事業を始めとして、また新しいところでは、昭和五十一年には安八郡を中心に大変大きな被害を出しました九・一二災害、そしてまた昭和五十八年には美濃加茂市や坂祝町を中心としてこれまた大きな被害を出しました九・二八災害、まさに
私は三重県でございますが、伊勢湾台風で一番被害に遭いました地域の上流に薩摩義士の像があるわけでございます。いまだに数百年、地域の人は、治水の恩人だ、こういうことでお祭りをいたしております。
あそこは御承知のように、薩摩義士を初め、薩摩藩の屋台骨がぐらついて、今でも薩摩の皆さん、鹿児島県の皆さんは大変今でも非常に——これは薩摩が貧乏したのは何かといえば、徳川幕府の命令によってあの木曽三川の治水をやったために、本当に莫大な借金をしたために平田靱負以下千何百名の方が本当にもう大変なことになったんです。
だから、あの薩摩義士のああいう宝暦治水もあったのです。それだけに万全を期さないといけないので、そこで知事が、これはまだ万全じゃないと言うたときには、建設省としては、本湛水はしない、こういうことはきちっと担保していただかなければ、私ども知事の言明が信用できなくなるわけです。この点はどうなのですか。最後にひとつきちっとお答えいただきたい。
○富田参考人 ただいま先生からお話がありましたそれ以上のことを申し上げますが、昔の方に承ると、あれは二百年前、薩摩義士がおやりになった直後らしいです。あそこの堤防が切れまして、あそこに二町くらいの大きな池があったわけです。それで堤防を真ん中にずっとつくったということです。そのときに堤内部分だけは、現在池が約三反ばかりあります。その下に排水池がある。
ところが、その水を取るところの取水口が、皆さま方も御存じの薩摩義士の治水神社で名高い千本松原の付近、これはちょうど岐阜県と三重県の県境になっておるのでございますが、そこで取水をいたしておるのでございます。
薩摩のごとき、財政を窮乏に隠れたこの責任に対しましては、工事を完成し、その工事を幕府に引渡した、即刻、その現場において、その責を負うて皆八十有余名の人が屠腹して相果てたという、有名な薩摩義士の遺跡すら残されておるのであります。今日これらの人々の魂を祭るために、三大河川の合流地点に治水神社として県民、農民すべてが、これを崇高の的としておる。
元来この長良川堤防というものは、御承知の通り奈良朝時代以来の水利問題のやかましい所でありまして、殊に宝暦年間におきましては、薩摩義士が多くの犠牲を払つて築き上げた三大河川の堤防であつて、その後明治維新以来今日に至るまでこの三大河川の治水工事というものは国家事業として成し遂げられて、このほど漸く完成したものであつて、これによつて濃尾平野におけるあの米穀産地というものは築き上げられた。
宝暦年間におけるところの薩摩義士が、あの多くの犠牲を払つて築き上げた今日の決壊箇所の附近のいわゆる千本松原というような、ああした偉大な人命の犠牲を払つて築き上げた難工事であります。多年の人類の努力によつて、今日の長良川及び揖斐川、木曾川の三大河川というのは完成しておるはずであります。この水害予防の設備というものは、恐らく私は全国を歩いてみても、あれほど立派なものはまあ今日ではあり得ないと思います。
思うに、旧藩時代、薩摩義士が徳川の政略によつて木曽川の難工事を苦心の上完成したことは広く知られている史実であるが、その工事の場所が、いまなおいかなる災害をも征服していることに反し、近代科学の基礎の上に立つて工事したはずの箇所が年々破壊されている点は、大いに反省されねばならぬと思う。