2018-04-17 第196回国会 衆議院 農林水産委員会 第10号
○齋藤国務大臣 今、小島委員御指摘のように、私が自民党農林部会長のときに、日本が地球温暖化対策に貢献をしなくちゃいけないということで高い目標を掲げる、その中で、森林吸収源も大きな目標を掲げるという中で、しかし、掲げてはいいけれども、それを実行するための安定的な財源がないじゃないかということで、四年前に、安定的な財源がないということを自民党の税調の中で何とか認めてもらおうということで奮闘をした経験がありますので
○齋藤国務大臣 今、小島委員御指摘のように、私が自民党農林部会長のときに、日本が地球温暖化対策に貢献をしなくちゃいけないということで高い目標を掲げる、その中で、森林吸収源も大きな目標を掲げるという中で、しかし、掲げてはいいけれども、それを実行するための安定的な財源がないじゃないかということで、四年前に、安定的な財源がないということを自民党の税調の中で何とか認めてもらおうということで奮闘をした経験がありますので
○齋藤国務大臣 この議論は、私が自民党農林部会長の最初の年だったと思いますのでもう四年以上前になると思うんですけれども、そのときに、もう既に地球温暖化のための森林吸収源対策の安定的な財源がないですとか、森林が荒れているですとか、そういう議論をスタートして、そして、自民党の税制改正大綱にそこを何とかしなくちゃいけないというところから私自身はずっと関与してきたので、私自身の頭はそういう出発点でやってきておりまして
都市農業振興基本法は、実は私が自民党農林部会長のときに当時の山田さんと大変汗をかきながら調整をしてここまで来た法律でありまして、私も都市近郊を選挙区とする人間でありますので、今までもうとにかく都市にある農地は出ていけよという、そういうものじゃないだろうということで、その発想を変えようということで、当時、大抵抗をした国土交通省とけんかをしながらこの基本法で位置付けを変更させていただいたということなので
○齋藤国務大臣 御指摘のように、花きの振興に関する法律については、当時自民党農林部会長として、大変思い入れがある法律であります。
実は、四年前に私が自民党農林部会長のときにこの安定的な財源がないということを税調で認めてもらうために大奮闘したという経緯がありますので、個人的にもこの森林環境税の実現には強い思い入れがあります。 委員御指摘のように、新たな森林管理システムの下で森林整備を進めるということが大事だと思っておりまして、このためにも税の創設という結論出すように全力で取り組んでまいりたいと思います。
○小泉(進)委員 御紹介いただきました自民党農林部会長の小泉進次郎です。 きょうは、総理、二十分でありますが、よろしくお願いします。 一年前、私は自民党農林部会長になりましたが、正直言って、そのときは驚きました。私は、横須賀、三浦という神奈川県の都市農業、そしてキャベツ、大根の一大産地が地元ではありますが、農業、林業、これを専門にやってきたわけではない。
ですから、その点については、突然また自民党農林部会長の立場に戻りますけれども、当然セーフガードが続く、守られるという前提で、我々はこの協定に、まあ、最低限クリアできているだろうと思っているわけでありますので、十年過ぎてもきちんとこのセーフガードが現状のまま維持されて、弱まることがないという前提で我々は理解しているんですけれども、これは農水省かもしれませんが、農水省もそういう理解でよろしいでしょうか。
まさに今、小里自民党農林部会長からお話があったとおり、現場の声、そして現場の人の体温といいますか、気持ちがなえるということは非常に怖いわけでございます。 遠慮という言葉の語源は、遠きにおもんばかりなければ近きに憂いあり、こういう言葉だそうでございます。やはり、あしたどうなるか、来年どうなるかということも大事でありますけれども、五年先、十年先を見通して、現場の方は一生懸命頑張っておられる。
十四日の自民党農林部会長が、決議のこの部分が聖域であろうと思うが、はっきりさせる必要があると、こう党内で言っているわけです。部会長です。日本が関税撤廃の例外品目として守るべき聖域は、米、小麦、牛肉、乳製品、砂糖の五品目が基本との見解を示しました。総理、これが聖域ですか。
ですから、自民党農林部会長ということで、私のことは若い当時の同僚たちはみんな私が農政家だというふうに思ってくださっておりました。それが何の拍子か知りませんけれども、金融危機のときに金融大臣ということをさせられて、ああ柳澤は元はといえば財務省にいた人間なんだということで、言わば思い出すような形で私の出身と私とを結び付けるということになったと、私はそのように思って受け止めておりました。
そのころの松岡大臣の、私は自民党農林部会もよく取材に、ちょこちょこ行っておったんですけれども、そのときは輸出ではなくて、むしろ農業の現実、農村の現実を踏まえて、何かしなきゃいけないんじゃないか、そういうのが、当時、自民党農林部会長の熱い思いで、いわゆる族議員と簡単に片づけるけれども、そうではなくて、それはそれで、農村の実態を踏まえた主張であったという面でも私は受けとめておったんです。
その前の職は自民党農林部会長でありまして、三期農林部会長を務めておったのが、文部大臣をやれと言われてびっくり仰天いたしました。新聞記者に言わせますと二・二八事件が起こった、二月二十八日のことですから、そういうぐらい意外であったのであります。
私の先輩は、私がこういうことを言ったら、それは、柳沢、おまえは少し、何というか、気持ちがグルーミーになっているその反映じゃないか、もうちょっと元気を出せと言って励ましてくれましたが、私、三年ちょっと自民党農林部会長をやっておったときに、一番食糧庁の皆さんに言っていたのは、私が農林部会長の間は絶対に米の輸入ということはないようにしてもらいたい、これを何回も懇親会の席上などで、私は本当に拝むような気持ちで