2020-11-19 第203回国会 衆議院 憲法審査会 第2号
これは、もう小選挙区制導入のとき、細川内閣のときから私はずっと申し上げていることだけれども、賛同を得られない。よくわからない。 今、山尾議員がおっしゃったかと思いますが、私どもは、臨時国会というものは、衆参のいずれかの総議員の四分の一の要求があれば、二十日以内に召集の手続をとらねばならない。
これは、もう小選挙区制導入のとき、細川内閣のときから私はずっと申し上げていることだけれども、賛同を得られない。よくわからない。 今、山尾議員がおっしゃったかと思いますが、私どもは、臨時国会というものは、衆参のいずれかの総議員の四分の一の要求があれば、二十日以内に召集の手続をとらねばならない。
私はこれも極めて不思議なことだと思っておりまして、従来、東京宣言とか、海部内閣から細川内閣、それからそれ以降も含めて、日ロの首脳間では、北方四島に領土問題が存在するということは確認されてきた。
細川内閣が誕生しましたときであります。自由民主党は、結党以来、初めての野党となり、その自由民主党が最初に直面した国政選挙が私の選挙でありました。暗闇の中から最初の第一歩を踏み出せたこの一勝の価値をばねにこれまで邁進してまいりました。 私の座右の銘は、人間万事塞翁が馬であります。
条文上はそういうことでありますから、平成六年に、当時の細川内閣が、いわゆる七党、七会派の政治改革論で小選挙区比例代表並立制ができて、そのときからずっと存在する憲法問題がようやく基本的には解決する。その他の問題まで解決するわけじゃないけれども、肝心の、衆議院議員あるいは衆議院のあり方が憲法違反状態じゃないかと言われることはない状態になっている。
平成の時代に入り、国内外の政治、経済情勢は大きくかつ目まぐるしく変転し、湾岸戦争、政治改革、政権交代による細川内閣、村山内閣の成立と、まさに激動の時代を迎えました。そうした中、参議院自民党国会対策委員長として、橋本内閣から小渕内閣へと替わり、自民・公明連立政権へと移行する過程にも関わらせていただきました。
○細田(博)議員 一昨日も答弁の中で申し上げましたが、この小選挙区比例代表並立制ができたのは、平成六年の細川内閣のときでございます。そのときにも大議論があった。
○安倍内閣総理大臣 相当遠い昔の話でございますが、平成五年、当時、細川内閣のいわばウルグアイ・ラウンドについて国会決議がある中において、当時まだ米の自由化について我々は反対をしたわけでございまして、秘密交渉を許さないということを言ったかどうかというのは私もよく記憶にないわけでありますが、反対をして座り込んだのは事実でございますが、今回のTPPについては、米についてはしっかりと我々は守ることができたということでございます
しかし、これはもう細川内閣当時に決着済みの話なんですよ、皆さん。忘れておられませんか。細川内閣のときに、政治改革の一環として、税金で国民から政党助成金をいただくかわりに企業・団体献金は禁止するという約束をしたんですよ。定数削減の問題だけじゃなく、この問題でも国民との約束を破るんですかという話なんです。
総理に御質問しても、これは国会、各党各会派でよくお考えになってと、こういう状況になって、これは間違いではありません、そういう答弁の仕方もあると思いますが、総理が御当選され、私も一緒に当選をさせていただいたあの平成五年の頃、政権交代が行われて細川内閣がつくられました。
○国務大臣(石破茂君) 委員が先ほど御紹介いただきました細川内閣時代の選挙制度改革のときに、このお話は随分議論した覚えがございます。
○穀田議員 私も、当時、一九九三年、その細川内閣の議論に参加した者の一人であります。 その提案された政治改革法案には、企業・団体献金については廃止の方向に踏み切るとありました。といいながら、実際には、政党支部への献金は認める、さらに政治資金パーティーを残すという二つの抜け道をつくって、この企業・団体献金を温存してきたわけであります。
そのバランス論ということでありますけれども、例えば細川内閣のときに、政治改革四法案をめぐる議論の中でもそのバランス論の議論というのはあったように承知をしております。その際も、必ずしもこんなバランスがいいんだということではなかったように記憶をしているところであります。
細川内閣というのがあって、そのときに、細川さんが参議院議員の頃でしたでしょうか、知事の頃でしたでしょうか、「鄙の論理」という本をお書きになって、あそこに、バス停をどこに置くかもそれぞれ国にお伺いを立てねばならないのだみたいなお話を書いておられたように記憶をするのです。そんなばかなことあるまいと、バス停をどこにするかを一々当時の運輸省までお伺いを立てねばならぬなぞとばかなことはないだろうと。
当時、細川内閣のもとで提案された政治改革法案は、企業・団体献金については廃止の方向に踏み切ると言いながら、実際には、政党支部への献金は認める、政治資金パーティーは残すという二つの抜け道をつくり、企業・団体献金を温存してきました。
ところが、ウルグアイ・ラウンド合意を受け入れた細川内閣に対して、当時、自民党はこの本会議場で、米について、ミニマムアクセスの受け入れで輸入量が年々拡大されることになれば、全国の稲作農家及び畜産・畑作農家全てが崩壊に向かって進むと批判しました。これは間違いだったと言うのですか。
ウルグアイ・ラウンドの合意を受け入れたのは細川内閣で、当時の会議録も振り返って私は読みました。例えば、平成五年十二月十三日の本会議で、当時、自民党の玉沢徳一郎議員が、自民党を代表してと言って、質問をこんなふうにされています。 「本年は、天明の飢饉以来と言われるほどの未曽有の凶作に日本列島は襲われました。農家は生産意欲の減退が強まり、経営の存続にも深刻な悩みをもたらしております。
西村副大臣、今の安倍総理の発言とともに私の言ったこと、そして、あのときには細川内閣で、そのとき安倍総理かどうかは確認していませんが、五人ぐらい国会の正面玄関のところで座っていたところに、頑張ってくださいと私は差し入れを持っていきました。安倍総理かどうかは覚えていません。みんな座り込みして、寝袋を持ってやっていた。でも、私は若き熱い思いはいいと思うんです。
半年後の解散、総選挙では八党会派に依る非自民の連立政権、細川内閣が誕生することとなります。その後、羽田政権、村山自社さ政権と目紛しく政局は動いてゆきましたが、私自身は自らの信念に従い、保守に対抗し得るリベラル勢力の結集をめざして、民主党の結党に参画しました。
その上において、先ほど申し上げましたように、しっかりと国益を守るために我々としては全力を尽くして交渉していきたい、こう思っている次第でございますし、米をしっかりと守っていくという思いについては、玉木議員と全く思いは同じでございますし、私は、初当選のとき、ちょうど細川内閣でございましたが、ウルグアイ・ラウンドを受け入れる、ミニマムアクセスを受け入れるというときに、あそこに座っている根本議員とともに国会
それで、ちょっと今、細川内閣のときだったんだというふうに言われたけど、もちろん、だから自民党政権のときじゃないという話をされるんだけど、その後また替わって自民党政権の下で推進したわけですから、やっぱり責任は免れないということですよね。 今、石破大臣はちょっとお答えにならなかったんですけれども。いいですか。
八頭(党)立てといわれた細川内閣での土井議長のご苦労は、当時野党議運理事であった私は身近に見ていました。 「女性初」という枕詞の最もふさわしくないのは土井議長でしょう。適任の方が推戴され、それが結果として女性初の土井たか子議長でした。 ご生前の憲政へのご貢献に敬意を表し、謹んでご冥福をお祈りいたします。
実は、日米構造協議だけじゃなくて、私は細川内閣のときにウルグアイ・ラウンド交渉というのを、あれを取りまとめしたわけですけれども、あのときも関係者は大変な苦労をして、御案内のように、あのときは米の問題が一番ネックになったんですが、国会では何遍も米は一粒たりとも輸入まかりならぬという趣旨の決議がありましたので、その国会の御理解を得るのは大変な苦労があったわけですが、しかし、最終的にはいわゆるミニマムアクセス
私も以前、大蔵省に勤務しておった時分に、係長で主税局にいたわけですけれども、当時、ちょうど細川内閣に、政権交代が起こった時期でもありまして、そうなりますと、与党の税調と政府の税調との間で、力関係の変化というのもやはりどうしてもありました。