1965-12-09 第50回国会 参議院 本会議 第12号
正副議長の党籍離脱の問題につきましては、大正十四年、当時の帝国議会の五十国会におきまして、当時の議長でありまする粕谷義三氏並びに副議長でありました小泉又次郎氏、いずれも大正十四年のことでありまするが、党籍離脱をして、公平無私の立場で院の運営を行なおうという、きわめて高潔な態度をもって党籍離脱をしたことを、私たちは忘れることができないのであります。
正副議長の党籍離脱の問題につきましては、大正十四年、当時の帝国議会の五十国会におきまして、当時の議長でありまする粕谷義三氏並びに副議長でありました小泉又次郎氏、いずれも大正十四年のことでありまするが、党籍離脱をして、公平無私の立場で院の運営を行なおうという、きわめて高潔な態度をもって党籍離脱をしたことを、私たちは忘れることができないのであります。
御承知のごとく、戦前の帝国議会においてすら、衆議院では、大正十四年、第五十回議会において、粕谷義三議長小泉又次郎副議長が最初に党籍を離脱して、名議長の名を歴史に残しています。自来、党籍離脱が普通のこととなっていました。当時の記録によりますと、「議長、副議長は、憲政治下における最も名誉ある、かつ権威ある地位である。同時に公平無私の態度でその職に当たらなければならない。
(拍手) すでに戦前の帝国議会においてすら、衆議院では、大正十四年、第五十回議会の粕谷義三議長、小泉又次郎副議長を最初の例として、以後正副議長は党籍を離脱することが普通となりました。議長、副議長は、憲政治下における最も名誉ある、かつ権威ある地位である。同時に公平無私の態度でその職に当らなければならない。
また、わが国におきましても、ただいま提案者から御説明のありましたように、旧憲法時代、大正十四年三月、第五十回帝国議会におきまして、衆議院議長粕谷義三氏、副議長小泉又次郎氏、この両氏が党籍を離脱いたしまして、それ以来、おおむね正副議長は党籍を離れる慣行が長く続いておりました。
私は、政界の先輩としての松野君が、かつて衆議院に議席を持っておられたとき、お隣りの埼玉県から出られた粕谷義三氏の議長として公正であったことを、今思い起すのであります。政友会に籍は置いておりましたけれども、一たび議長に選ばれるや、副議長であった小泉又次郎氏と協議の上、党籍を離脱して、長年、議会の議長はかくのごときものであるという見本を、松野君は議員として見られておったはずであります。
その時分当選した入は、秦豊助という後の逓信大臣、衆議院議長粕谷義三、こういう人はてこでも動かぬのです。ただ動きやすいのは、私とその時分の代議士で当選した定塚門次郎二人だけだつた。だから私は二百五条の後段の規定が必要だというのは、今のてこでも動かぬような、何にも関係ない奏豊助だの粕谷義三というような人まで当選無効にする必要はない。
しかして私の政治經歴はきわめて乏しいのでありますが、その政治經歴に入りました環境におきましては、この議會におきまして一代の人格の名議長とうたわれました粕谷義三先生と郷里を同じゆうするゆえんをもちまして、ある時は先生の秘書として、また議會の最も古い尊敬いたしまする先輩でありますところの尾崎行雄先生からも、特に知遇をかたじけなくいたしまして私の選擧等には、あの老齡を提げて御後援をいただいておつたような、