2021-06-10 第204回国会 参議院 内閣委員会、外交防衛委員会連合審査会 第1号
戦後七十六年、一九七二年の沖縄返還から四十九年の現在でも、米軍統治時代のままの米軍基地が沖縄県民の日常を苦しめています。先日も、うるま市の津堅島の民家近くに米軍ヘリが不時着しました。民主主義、人権を標榜する日米両政府は、安全保障の名の下に、沖縄県民の人権と民主主義を無視し続けています。
戦後七十六年、一九七二年の沖縄返還から四十九年の現在でも、米軍統治時代のままの米軍基地が沖縄県民の日常を苦しめています。先日も、うるま市の津堅島の民家近くに米軍ヘリが不時着しました。民主主義、人権を標榜する日米両政府は、安全保障の名の下に、沖縄県民の人権と民主主義を無視し続けています。
普天間飛行場が現在まで安全性を無視して使用されているのは、一九七二年五月十五日の沖縄返還で米軍統治時代に建設された基地をそのまま施設提供をする五・一五メモで使用目的を飛行場としたからではありませんか。それ以外の根拠はありますか。
米軍統治時代にあって、六三年からようやく沖縄振興のお金は出るようにはなりました。七二年までで一千二百三十二億円です。全体の予算の〇・二%にすぎないということで、この分のスタートラインがかなり遅れているんですね。
戦後二十四年間の米軍統治時代、ほとんど無人島に近い状態で放置をされていた小笠原諸島と、日米両国政府から顧みられることがなかった奄美の八年間の米軍による統治期間を経た直後は、極度に荒廃していたがゆえ、当時の法案提出者の一人である山中貞則先生の言葉を引用すれば、振興以前のいわゆる復興から手がけなければならないくらい深刻であったということが議事録に残されております。
あるいは、米軍統治時代は、自分の、例えば一番代表的な、ちょっと時間があれですけれども、代表的なところは五十八号線という、今の、一号線、五十八号線、復帰前は一号線と言っていましたけれども、そこは幅大体六車線ありますけれども、実際は歩道がない状況であったわけですね。至るところに歩道のない沖縄県内の道路というのがたくさんあったわけですよ。
それは、太平洋戦争も末期に至る昭和十八年ころから旧日本軍は沖縄本島の小禄、現那覇市内、屋良、嘉手納町、読谷村、八重山の石垣、伊江島の軍用飛行場の建設や拡張のために民有地を強制収用したことに端を発し、米軍統治時代を経て、沖縄の復帰時においてもその接収の経緯等を無視して安易に国有地としたため、旧地主や承継人たちがその所有権を回復すべく運動している問題であります。
沖縄の米軍基地は、米軍が沖縄を占領し、米軍統治時代、いわゆる米軍占領時代に、しかも東西対決の冷戦構造の緊張状態の絶頂期に、米国がソ連を頂点とする対共産陣営向けの軍事戦略としてつくられたものであった。これは紛れもない、明白な歴史の事実であると考えますが、この点について、まず我が国政府の考え方をお聞きいたしたいと思います。
それから米軍統治時代でも、規模は小さかったけれどもフリーゾーンを設けて沖縄経済に貢献をしてきたというふうに私は理解しています。 そこで、河本長官の御見解をひとつぜひいただきたい。先ほどの御答弁だと、私はいささか懐疑的のような気がしたのですが、第一次沖縄振計、第二次沖縄振計、いずれも貿易の振興を図っていかなければいけない。企業の立地を促進していく。
○近江委員 沖縄県におきましては、四十七年以前の米軍統治時代から農連市場等を中心に生鮮野菜等の荷物と人とを一緒に運ぶ社会的な要請があったわけであります。琉球政府の免許を受けた一般小型貨物運送事業として、そのような運送行為が行われてきたという経緯があるわけであります。
○矢原秀男君 第四点でございますけれども、沖縄県においては四十七年以前の米軍統治時代から農連市場等を中心に生鮮野菜等の荷物と人とを一緒に運ぶ社会的な要請があり、琉球政府の免許を受けた一般小型貨物運送事業としてそのような運送行為が行われてきたという経緯もございます。 このような状況の中で、四十七年の本土復帰とともに何らの経過措置が講じられないまま本土法が適用されることとなったことでございます。
沖縄は御案内のとおり米軍統治時代は河川については何一つやってなかったわけでございまして、河川改修の事業というものは復帰してから政府のおかげをもちまして着々進んでいるところでございますけれども、その執行状況、これからの計画等についてお聞きいたしたいと思います。