2000-04-28 第147回国会 衆議院 運輸委員会 第13号
五十三年の二月には、福永健司運輸大臣に対しまして、当時は美濃部都知事でございましたが、羽田空港は国内線専用空港とするように、こういう要請があった。そして、平成九年の二月、今度は青島都知事が、生活都市東京構想において、季節便やチャーター便の運航による羽田の国際化を要望された。そして、平成十年の六月に、東京都議会は、羽田空港の国際化に関する意見書を決議されたという経緯がございます。
五十三年の二月には、福永健司運輸大臣に対しまして、当時は美濃部都知事でございましたが、羽田空港は国内線専用空港とするように、こういう要請があった。そして、平成九年の二月、今度は青島都知事が、生活都市東京構想において、季節便やチャーター便の運航による羽田の国際化を要望された。そして、平成十年の六月に、東京都議会は、羽田空港の国際化に関する意見書を決議されたという経緯がございます。
私ずっと歴代のどの運輸大臣からこの工事が始まったかを調べてみますと、昭和四十七年の新谷寅三郎大臣のときに始まりまして、約十一億の工事、同じく徳永正利大臣のときにその十一億の工事が続き、江藤智運輸大臣のときで四十八年三十五億、木村睦男運輸大臣のときに四十九年に三十五億、石田博英運輸大臣のときに五十年に五十六億、田村元運輸大臣のときに五十一年に三十億、福永健司運輸大臣のときに五十二年に五十五億、五十三年森山欽司運輸大臣
そういったために大体坪八万円か十万円ぐらいで取引されておったのが、福永健司運輸大臣の時代に新幹線を通す見返りとしての通勤新線、そしてこの伊奈町から大宮に新交通システムをつくるということを約束しました。そのためにモノレールをつくるとか、ガイドウエーバスを通すとか、いずれにしても地域住民の反対を抑えるために大きな交通総合システムの中に組み込まれました。
時間が参りましたので、私は福永運輸大臣に——福永健司運輸大臣の方でございますが、伺いたいというように思うのですけれども、五十一年八月二十五日の委員会で、当時の木村運輸相は、社会党の稲葉議員の質問にお答えになっておりますが、「そういう行政の結果を生む、その前段階におきまして、いまのようないろいろな疑惑や不信を持たれるようなことがあったということは、きわめて遺憾なこと」というように述べておられるのです。
思いますが、先ほどから申し上げておりますような私の本意からいたしますと、せっかくいままでそういうようないきさつがあって相互に信頼し合ってきた、小川さんから言うと余り信頼できないというようにおっしゃいますが、そういう相互信頼があるように、われわれの方は誠心誠意努めなければならぬ、少なくとも福永健司、運輸大臣である限りにおいて、そうでなければならぬと私は強く感じておりますだけに、正直言って、いままで言ったことを
そこで、なわ張り云々というような話もございましたが、少なくとも福永健司運輸大臣である限り、私の所管に属するものではそういうことを絶対させないつもりでございます。 そこで、すでに、たとえば東京では亀有、それから北海道では札幌郊外等で、住宅公団と話し合いをさせている部分がございます。恐らく私は、これは順調に進捗するものであることを確信するし、ぜひそうさせたいと考えております。