2020-03-23 第201回国会 参議院 予算委員会 第13号
このときはちょうど盧溝橋事件、日中戦争が始まるときで、まさに軍機保護法改悪法が議論になるすさまじい中での同時に議論、法案が出ております。そして、まさにこの裁判所構成法は、一九四七年五月三日、日本国憲法の施行と同時に裁判所法が施行され、裁判所構成法が廃止をされ、この定年延長も削除をされます。 なぜこのとき削除されたんですか。なぜ削除されなければならなかったんですか、日本国憲法の施行と同時に。
このときはちょうど盧溝橋事件、日中戦争が始まるときで、まさに軍機保護法改悪法が議論になるすさまじい中での同時に議論、法案が出ております。そして、まさにこの裁判所構成法は、一九四七年五月三日、日本国憲法の施行と同時に裁判所法が施行され、裁判所構成法が廃止をされ、この定年延長も削除をされます。 なぜこのとき削除されたんですか。なぜ削除されなければならなかったんですか、日本国憲法の施行と同時に。
昭和十二年、盧溝橋事件における当時の政府の声明は、東亜の平和の維持を掲げていました。昭和十六年、日米開戦の折の宣戦の詔書は、東亜永遠の平和を確立と掲げていました。 我が国だけではありません。ベトナム戦争における米国両院合同決議、いわゆるトンキン湾決議は、東南アジアにおける国際平和と安全の維持が国益と国際平和にとって死活的であるとして、本格介入を承認しました。
例えば盧溝橋事件だとか、これは日本が発砲したのか中国側か、若しくは国民党なのか中国共産党なのか、いろんな議論はあります。
昭和十二年、盧溝橋事件における政府声明は、東亜の平和の維持を掲げていました。昭和十六年、日米開戦時の宣戦の詔書は、東亜永遠の平和を確立とされています。 我が国だけではありません。ベトナム戦争における米国両院合同決議、いわゆるトンキン湾決議は、東南アジアにおける国際平和と安全の維持が国益と国際平和にとって死活的であるとして、本格介入を承認しています。
○岸田国務大臣 まず、本件につきましては、具体的な経緯を振り返りますと、用船契約が結ばれたのが一九三六年ということであり、盧溝橋事件以前の段階で用船契約が結ばれている等の経緯を振り返りますときに、戦争との関係について断定的に述べることは難しい案件であるとは考えております。
このインパールからビルマに帰ってくる街道というのは、白骨街道とか靖国街道と言われた状況で、生き残った人の話を聞いたら、それはもうひどいもので、いわば個人的な野望か野心か知りませんが、無理やりやったこの牟田口さんというのは、盧溝橋事件の当事者でもあるんですね。
これはまさに盧溝橋事件勃発の日なんだ。つまり、日中戦争の発端となった。こういうことというのは一体どういうことなんだろう。 あるいは、国有化の閣議決定をしたのが九月十一日ですね。これは、九月十八日に勃発した柳条湖事件、満州事変の発端となった柳条湖事件の直前であるということ。
ところが、その翌年、三七年の七月七日に盧溝橋事件が起こります。中国への戦争、こういうもとで国民統制の国民精神総動員体制というものがしかれ、大日本体育協会も組織を挙げてこれに協力をするということになりました。一九三七年八月に、馬術競技の中心を担っていた陸軍が、戦時を理由に、馬術競技の準備を中止すると決定をいたします。
「日本の中国侵略」、「南京大虐殺」、「盧溝橋事件」と記述されている。日本軍がアジアの国に悲劇と損害をもたらしたことが書いてある。このように実際には日本はこれらの事実を認め、そして真実の歴史を子供たちに教えている。」ということであります。
例えば、反日教育をやめなさいと、あるいは歴史的な事実をきちんと検証しましょうと、もうこれは何度も言っているかと思うんですが、盧溝橋事件、本当はどうだったのか、南京事件もどうだったのか、あるいは中国側の大躍進、文化大革命、正に先ほど出ました「マオ」という本の中に毛沢東は七千万人も殺しているというような話が出てくるわけです。僕もざっと読みました。
歴史というのは長い連続性の中にあるわけでございまして、例えば、盧溝橋事件のときに日本軍はあの場所にいた、では、なぜあの場所にいたかといえば、これは北清事変講和議定書にのっとってあの場にいたわけでありまして、他の国の軍隊もいた。では、その前の北清事変講和議定書は、これは義和団事変の結果を受けて結ばれたわけでありますが、では、その評価はどうなのかということもあると思うわけでありますね。
あるいは、三七年の盧溝橋事件についても、当時の近衛首相や米内海相は不拡大方針、閣議決定までされました。しかし、それにもかかわらず全面的な日中戦争に拡大をした。だれも罰せられていないし、責任をとっていない。 そういうある意味でのあいまいさといいますか、それが日本の特徴だと言われればそうかもしれませんが、やはりそういったことについてきちんと検証を重ねる、そのことが私は必要なことじゃないか。
今度、七月七日、盧溝橋事件、八月の十五日、九月三日、終戦が二回あるとは、この間、有村議員がおっしゃっておられましたが、正にそのとおりで、抗日戦争勝利の日だそうです。それから九月の十八日は満州事変、これらの節目を迎えるに当たって、反日デモが広がらないように、私はただ祈るばかりであります。
アメリカにとっての戦争はパールハーバーから広島までであり、満州事変も盧溝橋事件もその中になかった。日本は米国のことが中心で、中国や韓国のことに思いをめぐらせず、そうした問題に対処してこなかった。それが現在の歴史問題などの一因になっている。日米関係への過度の集中が生み出した視野狭窄の影響だ。こういう言い方をされています。
いろんなことが書いてありますけれども、例えば柳条溝事件あるいは盧溝橋事件といった、今でいえばでっち上げの事件を大義名分として戦線を拡大していった軍部に対して、当時の政治家あるいはマスコミ、あるいは世論もそうかもしれません。
昨日もたまたま、夜十二時過ぎでしたか、NHKで、その時歴史は動くという、の盧溝橋事件、昭和十二年七月七日、もう遅いな、眠いなと思って見ていたら、ついつい興味深く、最後まで見ちゃったんですよ。 石原莞爾、近衛首相、当時の満州事変から盧溝橋事件、日中戦争に至る過程。そして、戦後の、満州事変で、石原莞爾氏が満州事変を起こした首謀者の私が戦犯として問われない、おかしい。
あの映画で、もちろん、上海事変、盧溝橋事件あるいは日独伊三国同盟があったり太平洋戦争等々、そういう経緯等も含めて、あの映画を見ながら、そして、たしか最後の部分だったと思うんですが、外交か戦争かという言葉が出てまいりました。外交か戦争か。よく、戦争か平和かという言葉は出るんですね。戦争か平和かという言葉は出ます。しかし、外交か戦争かという言葉を見たときに、ああ、そうだと私なんかは思いましたね。
特にあの盧溝橋事件というのは、宋哲元の二十九軍と日本の清水中隊が対峙している真ん中で、後の劉少奇将軍、当時胡服と言いました、胡服という名前の劉少奇が間で爆竹を鳴らしたんですね。これがいわゆる日中戦争の始まりです。 それまでに、中国と仲よくしようということで、実は梅津、何応欽将軍の間で敦睦邦交令というのが結ばれておったんですが、それが、西安事件でつぶれました。
だから、昭和十二年七月七日の盧溝橋事件が始まったときに、参謀本部が三個師団の増派をやっちゃった。これが、私は、戦争不拡大を唱え続けておったにかかわらず、拡大に火がついたんじゃないかなという心配をしているわけでございまして、こういう統帥権の独立も明治憲法の落とし穴だったんじゃないかな、こう思っておるわけでございます。 お話、よくわかるわけであります。