2020-02-25 第201回国会 衆議院 予算委員会第八分科会 第1号
琉球王朝時代の首里城は、その役割から大きく三つの空間で構成されておりまして、政治、行政の空間、生活、儀礼の空間に加え、祭祀の空間がございました。祭祀の空間につきましては、京の内や首里森御嶽の復元を行ったところでございまして、これらの施設については、今回、幸いにも火災の被害を免れたところでございます。
琉球王朝時代の首里城は、その役割から大きく三つの空間で構成されておりまして、政治、行政の空間、生活、儀礼の空間に加え、祭祀の空間がございました。祭祀の空間につきましては、京の内や首里森御嶽の復元を行ったところでございまして、これらの施設については、今回、幸いにも火災の被害を免れたところでございます。
さて、この大臣がまたお好みの泡盛、これについて少し話しさせていただきますけれど、泡盛の歴史は古くて、琉球王朝時代から作られておって、いろんな変遷が時代とともにあって、原料も変わってきたんです。
沖縄県にとって豆腐ようは、名産品という表現にとどまるものではなく、琉球王朝時代から継承されている歴史と文化の結晶であり、今回の表現は沖縄そのものをやゆするものです。沖縄の県民感情やまた原発事故で被災された方々の気持ちを考えれば、到底受け入れることのできない表現が教科書に引用されたことにとても衝撃を受けました。
それならば、琉球王朝時代にやったデルタ貿易、三角貿易というんですが、清の国、コリア、大和、琉球と、これを結んだ交易で繁栄した時代があるわけですが、あれの再現し得る状況になってきたと思うんです。 それで、お配りした資料をちょっと見ていただきたいんですが、カラーで二枚の資料です。この一枚目に、赤い色の棒グラフと水色の棒グラフ、あるいは黄色の線グラフと緑の線グラフ。水色は米軍関係収入です。
○川端国務大臣 硫黄鳥島は、古来、人が住んでおられまして、その名前のとおり、琉球王朝時代から硫黄の採掘が行われていたと承知をしております。しかし、島内に火山が存在することから、噴火により、多数の死傷者が出るとともに、住民はたびたび避難を余儀なくされ、昭和三十四年に全島民が久米島に移住したものと聞いております。先生、久米島へ行かれたということですが、元島民の方がおられたんだというふうに思います。
琉球王朝時代に本当に貴重な島として、宝の島として硫黄を取っていたと。これが中国の交易にかなり広大な役目を果たしていたということもありますし、植物群落が今大変貴重なものとして残されておりますし、そういう意味から考えましても、新たな基地の負担ではなく基地の負担軽減のために頑張っていただくことを是非お願いを申し上げまして、質問を終わりたいと思います。 ありがとうございました。
○照屋委員 今ありましたように、当該地域は、琉球王朝時代から非常に由緒のある地域なんです。琉球王朝時代に普天満宮を中心に集落が形成された。このような場所に海軍病院をつくるということは、市長だけではなくて、市民あるいは沖縄県民にとっても、到底認めるわけにはいかぬ。そのほかの地域でつくればいいんじゃないか、つくる必要があるならば。ただし、私はないと思いますよ。
そこで、私はもう一度、琉球王朝時代の政治家、今度は蔡温とは違いますが、具志頭親方、名護親方、程順則、この人は今の名護市のまあある意味では市長さんみたいなような方でございますが、この人を少し御紹介させていただきながら質問をさせていただきたいというふうに思うのであります。 この程順則というのは日本の教育に大きくかかわっております。
最後に、その他の視察先について簡単に紹介いたしますと、まず瑞泉酒造株式会社は、琉球王朝時代の焼酎職の流れをくみ、首里での創業百年余となる泡盛製造のしにせであります。最近では、瑞泉青龍が全国酒類コンクールの泡盛部門で一位を獲得したことでも知られております。
御案内のとおり、大臣がおっしゃった東南アジアの中心になるべきであろうというようなことは、これは十五世紀、琉球王朝時代のころには既に東南アジアあるいは朝鮮、中国、琉球王朝ですから日本といったような国々と沖縄、琉球王朝が大交易をしていた時代がありました。この時代が一番華やかな時代だというふうに言われておるわけでございます。
それで、きょう大臣もお持ちのようですが、これは沖縄県が作成した「沖縄からのメッセージ」、非常にコンパクトに沖縄の歴史、琉球王朝時代からそして米軍の占領下、その前の沖縄戦、そして今の基地問題についてまとめられております。 それから、私たち日本共産党は、昨年の沖縄サミットの前に、世界への、沖縄の米軍基地問題の訴えの文書も出しました。
それと、昨年だったと思うんですけれども、首里城初め琉球王朝時代の城跡などを世界遺産に登録申請したということを新聞で見ましたけれども、その後どうなっておられるのか。 そういったことにつきまして、政務次官にお尋ねをさせていただきます。
長い間、琉球王朝時代からの日本との歴史、そういうことも私なりに、浅薄な知識しか持ちませんけれども、そういう昔のお話を申し上げて、そして、どの地域にもなかった本土決戦というものの中の経験をされて、とうとい、特に非戦闘員の方々の、女性の方とかお年寄りの方々やお子様方が亡くなられたということ、そして日本が平和を取り戻してもまだ沖縄はアメリカの施政権の中にあったということ、そして本土に返ってきてもアメリカの
この機会に私たちは、沖縄の亜熱帯の海洋性気候、風土の中で築き上げられた歴史、文化、自然景観、そして、琉球王朝時代から万国津梁の鐘に刻まれた精神で平和を希求し続けてきた精神とホスピタリティーの県民性を遺憾なく発揮して、遠来の世界主要国の首脳を初め、世界じゅうから集まる関係者を守礼の邦、沖縄県民の名誉にかけて温かくお迎えし、二〇〇〇年沖縄サミットが二十一世紀に向けて世界の恒久平和の発信地及び出発点になるように
その理由は、沖縄県は、我が国の南の玄関口として、国際交流やその会議場所として最もふさわしい地理的優位性と島嶼海洋性のすばらしい自然景観を兼ね備えたところでありまして、琉球王朝時代から諸外国との交流の長い歴史の中で築き上げられてきた国際性豊かな伝統文化、そして他国民との融和性に富んだ県民性は、世界の先進国首脳会議開催地として最もふさわしい場所である、私たちはこのように考えているところであります。
沖縄の先人は、琉球王朝時代に顕著なように、一貫して、平和な人的交流、信頼の交易を盛んにした貴重な歴史を有する、武器を持たない平和の民であります。第二次大戦、米軍支配という忌まわしい悲惨な体験をしたとはいえ、平和の民の本質は不変であります。平和を発信する地域であることを誇りとしている伝統文化であります。とはいえ、現実を厳しく見きわめていることも事実であります。
そういうのを考えますと、沖縄の長い三百年、五百年という歴史を見てみますと、かつてはそこがいわば南西地域に開かれた貿易立国というか、琉球王朝時代以来、交流、交易の大変盛んだった地域、今にその時代を移すことができるかできないかという問題も、それは沖縄の振興というのを考えれば当然あるべきだ。
ですから、琉球王朝時代からのいろんな歴史やあるいは地政学的なことの勉強を若干したこともあります。そして、特に官房長官になって以来、昨年以来、この沖縄問題を特に注意して見るようにという総理の示唆もあり、今回はまた沖縄担当という一つの部門も仰せつかったこともこれあります。
組踊りは、御承知かと思いますけれども、十八世紀の初めに中国からの使節を歓待するためにつくられたいわゆる琉球王朝時代の宮廷芸能でありまして、芸術的に見ましても高度に洗練された古典的な演劇の一つであるというふうに承知をいたしてございます。
これは一六五〇年代の琉球王朝時代の大政治家蔡温が残した格言ですが、彼は当時、土地改良事業やため池やダムあるいは治山治水の土木事業、あるいは防潮林、防風林、街路並木の植林事業を徹底的に行わしめた。その足跡は、三百年経た昭和二十年代まで、大戦まで沖縄の至るところに残っておりましたが、昭和二十年の米軍との激戦によって跡形もなくなくなってしまったのであります。