2020-05-21 第201回国会 衆議院 東日本大震災復興特別委員会 第6号
また、死因が、溺死が九〇・六四%の一万四千三百八人、圧死、損傷死、その他が四・二三パー、六百六十七名、焼死〇・九二パー、百四十五名、理由わからず四・二二パー、六百六十六名。こういった方、とうとい命が失われているということでございます。 また、震災関連死では、復興庁発表で、去年の九月末時点で三千七百三十九名の方々が亡くなられている。
また、死因が、溺死が九〇・六四%の一万四千三百八人、圧死、損傷死、その他が四・二三パー、六百六十七名、焼死〇・九二パー、百四十五名、理由わからず四・二二パー、六百六十六名。こういった方、とうとい命が失われているということでございます。 また、震災関連死では、復興庁発表で、去年の九月末時点で三千七百三十九名の方々が亡くなられている。
例えば、実際に新聞などでも報道されますけれども、一人親家庭で、母親が夜仕事に出ざるを得ない、そのときに子供が火遊びをして、そして火事になって焼死したというようなケース。 これは、言ってみればネグレクトというふうに言わざるを得ませんけれども、では、その親に、夜働きに出るなと言えるんだろうかということですよね。
関東大震災では死者の八〇%が焼死したということです。阪神・淡路大震災では死者の八〇%が圧死しました。自宅に押し潰されたんです。東日本大震災では死者の八〇%以上が溺死しました。津波に流されたんです。このように、同じ災害というものは二つとしてありません。
そういう中で、高野先生が常勤医師として唯一、一人で頑張ってこられて、他の非常勤の先生方とともにやってこられましたが、残念ながら十二月に焼死をされるという大変なことが起きてしまいまして、心からまず御冥福をお祈り申し上げたいと思います。
御記憶もあろうかと思いますが、二〇〇九年、平成二十一年三月十九日、群馬県老人施設「たまゆら」の火事において入所者が焼死をするという痛ましい事件がありました。これは出入口に突っかい棒をして閉鎖の状態になっていました。「たまゆら」の事故においても、根拠とする法律があれば、閉鎖処遇というようなことはなかった、そしてチェックができたのではないか、被害を防止できた可能性があると思います。
しかし、お母さんと父親代わりだったお兄さんは焼死をされた。戦災孤児となった方々は地をはうように生き、つらく惨めな日々を決して忘れることはないと言われています。また、空襲による負傷で手や足を失った方、顔を焼かれた方の苦しみもまたどれほどのものかと思います。軍人軍属は恩給などの援護があり、これは総務省の所管です。なぜ民間人には国の謝罪も援護もないのかと。
両親は火が回ってきてしまって焼死をしてしまいました。僕が両親を殺したんだ、彼はずっと自分を責め続けておりました。でも、劇団のボランティアとして入って十年たった日に、先生、ごめん、今まで僕はいろいろな人を責めてきた、でも、僕には両親の命は救えなかったけれども、多くの人の命を救う医者になりたい。彼は一生懸命勉強して医大生となって、今は現場で医者として活躍をしております。
また、別の公的な記録によりますと、朝鮮総督府の官房外事課では、地震による圧死、押しつぶされて亡くなられたり、火事、焼死者で亡くなられた方も含めて八百三十二名というふうに発表をされておりまして、これは地震による直接被害を含めた八百三十二名でありますから、これは文献からの又引きでありますが、恐らくこの殺害事件の被害者になった方はこの二割から三割ではないかと推測がされるという表記がありました。
無届けのずさんな施設が使われ、最期が無残な焼死では、安らかな余生は程遠いと。ついの住みかの質量共々の不足が生んだ悲劇であると。これでは後に続く世代に不安ばかりが残ると。畳職人に倣って言うなら、こんな国は失格ということになるということであります。
阪神大震災、あの風が全くなくて、それから破壊消防といわれるぐらいに瓦れきの山になって、非常に火災が燃えにくい状況でも要するに六千棟から七千棟燃えて五百人が焼死をしているわけです。
いろいろと報道等で我々が仄聞をしておりますと、いわば地震が起きて火事になって焼け出された方が非常に多いのではないかという印象を持つわけでございますが、後で調べますと、焼死者は約一〇%、何と八八%が自宅のたんすや食器棚、あるいは本棚、こういったものが倒れてきて圧死をしてしまった、あるいは窒息死をしてしまった、そして結果的に焼死体となって発見をされるという、火事ではなくて、まさに家の中の家具が大変な凶器
一九九九年十一月二十八日、今から七年半前になりますが、東名高速で酒酔い運転のトラックに追突されて、私たち夫婦の目の前で、三歳と一歳の娘二人が焼死するという事件に遭いました。 当時は、業務上過失致死傷罪と道路交通法違反、酒酔い運転という罪名でしか起訴されませんでした。刑事裁判が行われ、求刑五年という当時の業務上過失致死傷罪の最高刑が求刑されましたが、判決は懲役四年でした。
そのころはまだパソコンはなくてワープロを打っておりましたけれども、そのころ、ワープロでショウシカと打つと焼死と出たので、少子という認識はまだワープロにもなかったんですね。 ですから、最初が一九九〇年ということは、ことしが二〇〇七年ですから、もう十六、七年、政府としては一生懸命取り組んでこられているんだと思いますけれども、ほぼ一貫して出生率が下がり続けている。
震災で御両親を亡くした子供たち、そして何かの都合で御両親と住めない養護施設の子供たち、また一般のお子様を加えて劇団を立ち上げましたけれども、その劇団の中でも、本当に小さな子供からそしておじいちゃん、おばあちゃん、見に来てくれたおじいちゃん、おばあちゃん、そしてリストラに遭い会社を辞めようとして本当に自分の命を絶とうとした五十代の男性、また中には、中学二年生の男の子は、本当に震災で、目の前で御両親を焼死
一番の問題点は、やはり死者が六千四百三十四名になったわけでありますが、この死者並びに負傷者のほとんどは、圧死あるいは建物の下敷きになった、家具の下敷きになって逃げられない、その結果としての焼死、こういうことなわけであります。
火元は一番上の、北側の、ソファーが置いてあるところから火が出まして、そして、東側に一、二、西側に五、六と個室がありまして、四人はこの部屋で焼死していらっしゃるわけですね。どなたかわからないけれども、火元のところに一名焼死体があったわけでございます。そして、南の方の三、四、八、九にいらっしゃった方、これは午前二時ごろでございますから、担ぎ出しました。消防車はこの南から入りますからね。
夜が明けると、橋の下に生き残った者が二十人ほど集まったが、ほかはすべて焼死か水死していた。 私はここで一家六人を亡くした。しかし、本当の苦労はそれからだった。戦災孤児というハンデのもと、何十年ものあいだ、故なくして侮りを受け、社会の底辺にしがみついて生きなければならなかった。一体誰が、どんな形でその責を負うのか。
いわゆる、やればできるという自信が芽生えてきたように思いますと言うんであれば、自殺者は減り、若者だって職業を求めようという動きができ、山中で世をはかなんで亡くなるとか、この間も焼死事件がありましたね。病弱な家族を抱えて、一人だけ一生懸命頑張ったんだけれども、頑張り切れなくてどうやら自殺をしたようだ、一家そろって自殺をして火をつけたようだ。社会現象と小泉総理の認識が全く別なんですよ。
しかしながら、焼死者数を減少させるために、法律によって警報器の設置を義務づけることについていかがと考えられますか、こういう設問でありまして、法律等により、また、義務づけることについてという点についてはっきりお伺いをいたしましたところ、回答者の六六・九%が「賛成」あるいは「どちらかといえば賛成」という回答をなさっておられます。