1993-05-13 第126回国会 参議院 運輸委員会 第5号
○国務大臣(越智伊平君) 今の滋賀丸のお話でございますが、私も御遺族なり霊に対して何とかしたいという気持ちはございます。これは当時の斎藤厚生大臣の御答弁と同じであります。しかし、戦後もう四十八年たっておりますし、非常に古い。
○国務大臣(越智伊平君) 今の滋賀丸のお話でございますが、私も御遺族なり霊に対して何とかしたいという気持ちはございます。これは当時の斎藤厚生大臣の御答弁と同じであります。しかし、戦後もう四十八年たっておりますし、非常に古い。
○西岡瑠璃子君 もう本当にはしょってやらなければならなくなりましたけれども、あと最後に滋賀丸事件についてちょっとお尋ねをしておきたいと思います。
厚生省、今大臣のお言葉でございましたんですが、軍人軍属等の方々につきましては私どもの方の援護法等で処遇させていただいているわけでございますけれども、滋賀丸の一般乗客の方々につきましては、厚生省といたしましては補償等の問題は非常に困難であるということで、従来から先生にも御答弁申し上げているところでございますので、御理解賜りたいと思います。
運輸委員会に所属してから私はきょう初めての質問に立たせていただいたわけでございますけれども、既に決算委員会におきましてハイヤー、タクシー問題でございますとか、あるいは戦後処理に関して滋賀丸事件など、運輸省にお尋ねをした経過もございます。今回図らずも運輸委員ということで配属をされましたのも何かの御縁だと大変心強く思っているところでございます。どうかよろしくお願いいたします。
滋賀丸が潜水艦によって撃沈された当時、昭和十九年五月三十日でございますので、詳しいことはわかりませんけれども、先生御指摘のような点があったものと考えております。
○山原分科員 もう一つ、この滋賀丸の事件ですけれども、当時の国は、この事件を非常に隠ぺい、抹消しようとしているのですね。例えば、救助された人に対してすぐ、このことは絶対口外してはならぬというふうに憲兵あるいは警察が口どめに来ております。
第二次大戦中の昭和十九年の五月三十日の未明ですけれども、高知県の室戸岬沖で、高知と大阪を結ぶ定期客船、滋賀丸と申しますけれども、七百四十総トンです。これがアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて室戸岬沖で沈没をしたんです。それで乗員、乗客合計百九十人のうち百五十人が犠牲になったのでございます。これが滋賀丸事件です。 滋賀丸というのは明治時代の建造船でございます。
滋賀丸の乗船名簿につきましては、運輸省内はもとより、運輸省所管の公益法人であります海事産業研究所、それから船舶の所有者でありました関西汽船、それから防衛庁の防衛研究所、さらに国会図書館等、広範な調査を徹底的にいたしましたが、大変残念ながら御指摘の名簿、つまり滋賀丸の乗船名簿については発見することができませんで今日に至っております。
私は、まず最初に、滋賀丸事件の真相究明についてパートツーという形で、昨年の十月三十一日に引き続きお尋ねをしてまいりたいと思います。 当決算委員会におきまして、滋賀丸事件に関して戦後処理の問題をお尋ねいたしましたのは昨年の十月三十一日でございました。 運輸大臣、お尋ねいたします。滋賀丸事件については御承知でございましょうか。
そして、確かに滋賀丸を撃沈したと。そして、その撃沈の経過もスケジュール表も、もう事細かなものをいただいてきているわけでございますよ。それなのに政府の方には名簿すら整備をなさっていらっしゃらない。私は、これではお亡くなりになった方の遺族は本当に浮かばれないし、亡くなった方はもちろん浮かばれません。
○説明員(相原力君) 先生御指摘の滋賀丸事件につきましては、戦時中とは言えまことに痛ましい事件であるというふうに考えてございます。 運輸省といたしましても、遺族の御心情等を察しましてできる限りの努力はしたいというふうに考えております。
二、大崎半島突端附近は古來船の難所であつて、築港完成の曉には附近唯一の緊急避難港となること、宇和海に突出せる大崎半島突端附近海面は、豐豫海峽岬佐賀關附近に次ぐ宇和海における海の難所でありまして、往時宇和島大坂航路滋賀丸九百トン、同義州丸一千トンを初めとして、沿岸航路第二鶴島丸九十トン等、汽船、機帆船の難破せるもの枚擧にいとまのない實情であります。