2021-02-24 第204回国会 衆議院 財務金融委員会 第6号
今、女性の話がよく出てきますけれども、少なくとも、津田梅子というのは、日本でいけば初めての、女子の海外留学生第一号ということになるんだと思いますが、帰ってこられてからも津田塾等々いろいろな貢献をされたことも確かですし、北里先生は、今、科学技術とか医学とかいろいろ言われておりますけれども、そういった中で、この人とか野口英世とかというような方々の貢献された部分というのはいろいろな意味で非常に大きく、今の
今、女性の話がよく出てきますけれども、少なくとも、津田梅子というのは、日本でいけば初めての、女子の海外留学生第一号ということになるんだと思いますが、帰ってこられてからも津田塾等々いろいろな貢献をされたことも確かですし、北里先生は、今、科学技術とか医学とかいろいろ言われておりますけれども、そういった中で、この人とか野口英世とかというような方々の貢献された部分というのはいろいろな意味で非常に大きく、今の
その渋沢栄一公を、二〇一九年の四月の九日、当時の大久保利通のやしゃごであられる麻生先生が、新一万円札に渋沢栄一をされるということでありましたし、それから津田梅子さんも、あのときの岩倉具視使節団に六歳で一緒に同行されています。そして津田塾をつくる、それから英語教育の最初ということをやり遂げられるということもあります。
今、渋沢栄一のお話をしましたけれども、渋沢栄一、津田梅子、そして北里柴三郎さん、この三人の方が新しい紙幣に、これから二十年間、コロナ後の世界を、毎日その紙幣を見ることになります。麻生先生からの日本は大丈夫だとの力強いメッセージを毎日見る紙幣になろうかというふうに思います。
福沢諭吉さんから渋沢栄一さんに、樋口一葉さんから津田梅子さんに、そして野口英世さんから北里柴三郎さんにというようなことでございます。
五千円券につきましては、これは女性という話が、前回の樋口一葉のときからの話だと思いますが、初の女子留学生であり、いわゆる女子高等教育に尽力をされた津田梅子というのを選ばさせていただき、千円券につきましては、これは、ペストの発見者とも言われる、日本の細菌学の父とも言われる北里柴三郎先生を選ばせていただいたということであります。
○青山(大)委員 学校の教科書という御答弁をいただきましたけれども、私も大学受験の予備校で世界史の先生も今やっていまして、高校のを見ていましても、私は世界史なので日本史の方じゃないんですけれども、見ると、確かに大臣がおっしゃるように、日本史のBとか日本史のAを見ますと、渋沢栄一さんとか津田梅子さんとか、確かに多いんですけれども、同等の、同じ頻度で、犬養毅さんとか岩崎弥太郎さんとか、私なんかは大隈重信
特に私なんかは、物心ついたときから一万円札は福沢諭吉先生のものを使っており、慶応大学出身の自分としてはちょっと寂しい気もいたしますけれども、そういった新紙幣の肖像が渋沢栄一、津田梅子さん、そして北里柴三郎さんというふうになりましたけれども、この肖像画の決定権は財務大臣にあるということでございますけれども、どういったお考えでこの三人にされたのでしょうか。大臣に伺います。
肖像につきましても、渋沢栄一とか津田梅子とか北里柴三郎とか、いろいろな、よく学校の教科書で出てくる顔で、先生たちの世代だと、渋沢栄一なんていっても知らない人が多いのかもしれませんけれども、私は、あれの孫と学校が一緒だったので、あいつのおやじが渋沢栄一かなんて思って見ていた記憶があった。そのころは吉田茂の孫といってよくいじめられましたので。大体、偉いやつの息子というのはみんな迷惑していますので。
今回の新しい日本銀行券の肖像につきましても、その考え方を踏まえまして、先ほど大臣から御答弁もございましたように、新一万円券は日本の経済近代化の最大の功労者と言われる渋沢栄一、新五千円券は近代的な女子高等教育に尽力をされた津田梅子女史、新千円券は日本医学の発展に貢献した北里柴三郎博士としているところでございます。
先ほども申しましたが、私立学校の振興には特に私ども頑張っておりますが、先ほど来、発議者の中から私立は公立を補完するものだというお話がございましたが、私学は、大隈重信とか福沢諭吉、新島襄とか津田梅子とか井上円了とかいう立派な人たちの設立されました大学がたくさんあります。
その結果が、御存じのような津田梅子先生や吉岡弥生先生等、明治初期のそういう教育を受けた方がすばらしい実践をされておるわけです。それがいつの間にか、だんだんと時間を経るにつれて女性は良妻賢母型の、家庭におりなさいというようなこと、それから男性は外だということ、これは私はすべてやはり教育の力が非常に大きいと思うんです。
そうした中では、具体的には、例えば明治初期、岩倉使節団に津田梅子らが同行してアメリカに渡ったということ、あるいは平塚らいてうさんらが青鞜社を結成して女性解放運動を行ったこと、あるいは大正期におきまして、平塚さんや市川房枝さんらが新婦人協会を組織して婦人参政権運動を進めたこと、あるいは大正期以降には女子の高等教育が拡充していったこと、あるいは戦後は婦人参政権が実現いたしまして、戦後最初の選挙では多数の
そういう中で、しかも驚くことに、当時、婦人の地位向上のためでしょうね、将来の日本婦人のために、何と一番年の少ない方は、当時満八歳のあの津田梅子さん、当時の子供さんまでも入っている、こういうことを聞いて、私はどぎもを抜かれたのです。
明治四年のことなんですけれども、津田英学塾を開かれた津田梅子さんが、ちょうど岩倉具視さんをいわゆる使節団の首席としての訪米使節団に加わって、そうしてアメリカへ行って英学を勉強されて、そうして津田英学塾を開いた、私たちはこういうふうな歴史的な経験を持っている。これが一つなんです。