2001-06-13 第151回国会 衆議院 外務委員会 第13号
○田中国務大臣 まず、外交文書の方でございますけれども、これにつきましては、私は、公開が余り——今河野農林大臣のころのお話が今ごろとおっしゃいましたけれども、やはりもう少しアクセレレートした方がいいというふうに、前向きに検討するべきだというふうに考えております。
○田中国務大臣 まず、外交文書の方でございますけれども、これにつきましては、私は、公開が余り——今河野農林大臣のころのお話が今ごろとおっしゃいましたけれども、やはりもう少しアクセレレートした方がいいというふうに、前向きに検討するべきだというふうに考えております。
今、そこから日本は復興をしたわけでありますが、その当時は、これは吉田茂総理とかあるいは池田勇人大蔵大臣とかあるいは河野農林大臣とかというふうに国民は政治を信頼して、そうして一生懸命についてきておったと思うわけであります。それで、また野党も浅沼稲次郎先生とかあるいは佐々木更三先生とかというふうに、まさに政策決定が、政治がなされておったというふうに私は考えるわけであります。
一九五六年ですか、鳩山総理、また河野農林大臣、ソ連におきましてフルシチョフ、またブルガーニン議長と協定を結びまして、いずれ日本とソ連が平和協定を結んだ時点では日本に返すということが言われているのでございますから、日本古来の領土に変わりないのですが、依然占拠が続き、また軍事基地もつくっているわけでございます。
ところが、私なりに見ておりますと、戦後四十年、時事通信社の記者として、特派員として、一緒にモスクワには行きませんでしたけれども、サンフランシスコ講和条約のときのソ連、日本の対応、そしてまた言うまでもありませんが、鳩山総理、重光外務大臣、そしてまた河野農林大臣を初めとして田中さんもブレジネフ書記長と会っておられる。
ところが、当時河野大臣のこのような努力にもかかわらず、財界も労働組合も消費者団体もだれ一人としてこれを支援しようという動きは見られず、さすがの河野農林大臣も挫折せざるを得ませんでした。それから二十年を経過し、最近になってようやく世論に抗し切れず、先般食管法はミニ改正を見たわけでございます。
○国務大臣(伊東正義君) 日ソのサケ・マスの交渉、これは歴史がずっとございまして河野農林大臣等のときからずっとあるわけでございます。
その後、食糧対策協議会、米穀懇談会、食糧関係調査会、臨時食糧管理調査会、米配給制度改善協議会、こういうふうないろいろな議論を経て、昭和三十六年七月には河野農林大臣の例の食管河野構想というものが発表されて、これまた大きな問題を提起した。
そういう荒廃に瀕しておる今日、約二十年前の河野農林大臣の演説を思い浮かべたときに、私は、今日まで政府は日本の林業というものに対して一体どういう対策を講じてきたのか、これは怒りが込み上げてくるわけなんです。そういう点について、まず私は具体的に指摘をしながら、お聞きをしていきたいと思うわけです。
それを、この山の中の本別の町に持ってきたのは、河野農林大臣と、この俺である。」
私はかつて、いま羽生さんもお触れになりましたが、鳩山総理大臣が、昭和三十一年にあの不自由な体でみずから河野農林大臣と一緒にソビエトに参られまして、共同宣言方式による国交回復をなされました。また、田中元総理大臣は、それから十七年ぶりの昭和四十八年に、ブレジネフ書記長の招待ということではありまするが、日ソ両国間の平和条約締結の意図を持って訪ソされました。
政府がまずソビエト大使館に申し入れたと、そして三十七年の日ソ漁業交渉に臨んだ今度また河野農林大臣とそれから大日本水産会のいまおっしゃった高碕会長が、当時フルシチョフにまで会って、せめて零細なコンブ採取だけでも認めるようという要請をされている。その後の高碕会長の経過ずっと見ますと、非常にもう零細なコンブ漁民の立場に立って、大変な熱意を込めての具体的な行動をされているわけです。
日ソ領土問題の交渉は古くは第一次のロンドン交渉、一九五五年六月から九月、松本・マリク会談、第二次のロンドン交渉、一九五六年一月から三月、同じく松本・マリク交渉、それから第一次モスクワ交渉が一九五六年七月、重光外相と松本全権、それから第二次モスクワ交渉は一九五六年十月、鳩山総理、河野農相、松本全権、それからソ連側がブルガーニン、フルシチョフ、このときにおいて河野農林大臣がイシコフ漁業大臣に対して、歯舞
私は、今回の鈴木農相の訪ソは、日ソ間の漁業交渉においては、さきに昭和三十一年河野農林大臣が訪ソをされて日ソ漁業条約を締結された、まさしくこの歴史的な訪ソに匹敵する意義を持つものではないか、こういう実は理解をいたしておるわけです。
たとえば、河野農林大臣当時に愛知用水公団をつくって初めて外資を導入したかつての経験、これには膨大な地方の技術者を愛知公団に吸収した。将来の身分を保証してやる、決して不利にはしない、こういう政府が約束をし、大きな将来への希望を持ってこの技術者たちは長い間愛知用水公団の建設という難事業に取り組んだ。いざ済んだら、県庁に帰るにもポストはない。自分の元の古巣の研究所へ帰ってみてもポストはない。
河野農林大臣の存命中に、これはまあ労働組合側の主張もあって、あの農政局所管の問題は、民有林の問題は、うやむやになって消えちまったんですけれども、やはり日本の八二%を占める山林そのものに対する考え方が、もう実に国有林優先の立場に立って、民有林対策などというものに対してはきわめて冷たい。そういう感じを、われわれは長いことこの農林行政を、政府機構を見詰めておって感じる。
いろんな角度から検討すべき点もあるかと思いまするが、まあ私は人情にからまれて言うわけではございませんけれども、実はこの農林水産技術会議が河野農林大臣当時に、河野先生の発想で、これが、従来の試験研究機関を統合して新たな発足を見たものであるという記憶を持っておるものでございます。
これはかつてあなたの親分の河野農林大臣のときに、農林金融の金利が三分五厘じゃ高いと言うと、河野農林大臣は、おれも三分五厘は高過ぎると思うと言うておった。なぜ安くせぬかと言うと、思ってたってやれぬことがあるじゃないか——あなたの親分も高過ぎると思っていた。あなたも三分五厘は高過ぎると思われたから、まず融資の面において金利を下げるということ。
河野農林大臣が適地適産を叫んで、米はもう余った。だからこれからは果樹や野菜や畜産にひとつ向けようじゃないかということを十数年前に言って、農業基本法ができた。私はこれは問題があるということは指摘しましたけれども、そのときにすでに米の過剰という問題は指摘をされて、そういう方向というものは出されてきたわけです。
それに北海道の漁業におきまして一番王座を占めておるサケ・マス漁業というのは、定置は別としまして母船漁業のほうは、網漁業のほうは、かつて河野農林大臣の時代、西カムチャツカを放棄したということで、このオホーツク海においては流し網漁業はできない、こういうような状態のところでございます。したがって、沿岸漁業というものは、非常に零細である。小規模である。
これまでの経過、例を見ましても、たとえば日ソ交渉のときに当時の河野農林大臣が特派員を集めまして協力を呼びかけて、相当なニュースを出しまして、そして一緒にやっていこうという呼びかけをした例があるわけであります。
御承知のとおり、過去の経緯を申し上げますと、河野農林大臣の時代にそういったこともあったわけでございますけれども、少なくとも、毎年の日ソ漁業委員会の交渉をスムーズに進めるためには、積極的にこの問題に取り組むべきであろうというふうに考えるわけでございますし、現に、御承知のとおり、昨年赤城農林大臣が十月に訪ソされましたときに、イシコフ漁業大臣ともこの問題について話し合いをされたわけでございます。