2019-04-24 第198回国会 衆議院 外務委員会 第9号
一九九一年、当時の鈴木宗男外務政務次官が千畝の行動を高く評価すると夫人に伝えました、千畝生誕百年に当たる二〇〇〇年、勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝をたたえてと顕彰プレートが外交史料館、飯倉ですね、に設置された、除幕式で当時の河野洋平外務大臣が戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪しました、これにより千畝の名誉は回復したのですということがホームページに書かれてあります。
一九九一年、当時の鈴木宗男外務政務次官が千畝の行動を高く評価すると夫人に伝えました、千畝生誕百年に当たる二〇〇〇年、勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝をたたえてと顕彰プレートが外交史料館、飯倉ですね、に設置された、除幕式で当時の河野洋平外務大臣が戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪しました、これにより千畝の名誉は回復したのですということがホームページに書かれてあります。
これは二〇〇〇年十月十日の河野洋平外務大臣の演説でございますが、それから月日が二十年近くたったわけでございます。
その顕彰プレートをつくるということを決定をされましたのが、時の河野洋平外務大臣であります。 そういった意味では、さまざまな歴史、外務省の中でのさまざまな事情があった中でも、まさに時の河野洋平大臣の英断があって、新しい、そしてまた日本が世界にも誇れる歴史というものがつくられたのではないのかな、このようにも思うところであります。
よく考えると、河野洋平外務大臣の外交演説というのは私読んだことがなかったものですから、今、そういうことを言っていたのかと。ちょっと、自分も全文読まにゃいかぬなと反省をしたところでございます。 日本とアメリカは、民主主義とか基本的人権とか、さまざまな価値を共有する、そういう二つの国なんだと思います。
しかし、戦後外務省は、多くのユダヤ人を救った杉原さんを冷遇し、依頼退職という形で事実上解雇、後にイスラエル政府が勲章を与えたのを機に、彼の没後十四年もたった二〇〇〇年になって、河野洋平外務大臣によって名誉回復されたと言われています。その事実関係について、河野太郎外務大臣に伺います。 明日、一月二十七日はホロコースト犠牲者を想起する国際デーで、グテーレス国連事務総長からのメッセージも届いています。
外務省と杉原家の間で意思の疎通が欠けていた点については、二〇〇〇年十月に外交史料館において杉原千畝顕彰プレート除幕式を行った際に、当時の河野洋平外務大臣がおわびを申し上げるとともに、人道的かつ勇気ある判断により人道的考慮の大切さを示されたすばらしい先輩を持ち、誇りに思うと述べました。
外務省としても、これまでも外務省外交史料館に杉原千畝顕彰プレートを設置し、その除幕式で当時の河野洋平外務大臣が祝辞を述べるなど、顕彰に努めているところであります。
杉原氏の行動は、勇気ある人道的な行為であり、杉原氏の業績を後世に語り継いでいくことが重要だと考えておりますし、外務省はこれまでも、外務省外交史料館に杉原千畝顕彰プレートを設置し、除幕式で、これは二〇〇〇年のことですが、当時の河野洋平外務大臣が祝辞を述べるなど、杉原氏の顕彰に努めてまいりました。 そして、御指摘の杉原千畝記念館ですが、これは設立されて七十五年と聞いております。
あのSACO協定をやって、河野洋平外務大臣に対して私は質問しました、こんなことで進める、オスプレーもやる、とんでもないじゃないかと言って。しかし、十三年間やられてこなかったということをとにかく前のめりで進めて、協定はそれを無理やり進める裏づけになることは明白だと私は思います。重大だということを指摘したい。
私は、平成十二年四月の外務委員会で、当時河野洋平外務大臣に対して、拉致問題の解決を質問した一人でございます。 あの横田めぐみさんが拉致されてから実に二十八年と二カ月、御家族にとりましてはまことに残酷な長い日々がたっております。また、私の選挙区、北九州八幡東区大蔵の電停前で、八月八日、出勤途中の二十二歳の女性が一九七〇年に拉致されたと言われております。
かつて、河野洋平外務大臣に外務委員会でこの問題を質問したときにも、明確なお答えはありませんでした。
拉致問題の解決に当たっては、私、以前、例えば河野洋平外務大臣などとも面会したことがあるのですけれども、河野さんあたりの発想では、とにかく日本側からさまざまな援助物資も送って、盛んに友好ジェスチャーを送って、独裁者の気持ちを和ませることによって解決が図れるのじゃないか、そういう発想が露骨に見えまして、私はこういうのを喜び組外交と言っておるのです。
つまり、日米地位協定の改正も視野に入れると言うということはごくごく最近のことではないのかと思いましたら、案の定、二〇〇一年二月十四日に行われた稲嶺沖縄県知事と河野洋平外務大臣との会談の場で初めて使われた。大体、二十一世紀になってから、今から二年ぐらい前からこういう言い方がされている。
各大臣の皆様におかれましてもお疲れのことだと思いますし、とりわけ河野洋平外務大臣におかれましては、外交機密費、外務省の職員による官房機密費、この問題があり、えひめ丸の問題があり、そして連日の国会で……(発言する者あり)神奈川県だからというお話もいただいたわけでありますが、いつも河野さんに優しくしていただいているんだったら私もそういうふうな気分になるんですが、日ごろ大変厳しい御指導ばかりが県内においてあるものですから
二十五年後、河野洋平外務大臣は順調に年をとられて八十五歳をお迎えになるはずであります。そのころ外務大臣は、小渕総理の後の後か、その次かわかりませんけれども、総理を経験なされて、八十五歳のそのころはどんな人生を送られていると自分で考えていらっしゃいますか。
河野洋平外務大臣。
次に、今度はマレーシアの通産相ラフィダ・アジズ氏が河野洋平外務大臣に会った、このときも十五分。アジズは大臣室から出てエレベーターの中で不満を言ったと。マハティール首相でさえ日本での首相官邸での会談の時間の短さに不満を漏らして、マレーシアの閣議でも議題になった。「何も日本の政治家に会って、記念撮影をお願いしようというのではないんだ。政策対話をしようというのに十五分でどうやってできるのだ」と。
今回、河野洋平外務大臣のお力添えによりまして、五月十二百から三日間、坪井委員長それから衆議院の鈴木委員長が色丹島の方に訪問することができます。また、続いて五月十六日からもそれぞれビザなし渡航が出るたびに二名ずつ国会議員も行けるということにたったようでございます。本当にその点は外務大臣並びに外務省の事務方の方々の御努力に心からお礼を申し上げたい、こう思います。
そして、亀井静香運輸大臣、玉沢徳一郎防衛庁長官、河野洋平外務大臣、この特別の御配慮で緊急輸入をお認めいただきまして、それを海上保安庁の巡視船あるいは自衛隊のトラックで緊急輸送をしていただいたのでございますけれども、そのときに痛感をいたしましたのは、窓口がないことであります。