2020-05-14 第201回国会 参議院 財政金融委員会 第12号
○国務大臣(麻生太郎君) これはもう長い歴史のある話なので、池田内閣時代でしたかね、池田勇人大蔵大臣の時代からこの話は出たんだと記憶しますけれども。
○国務大臣(麻生太郎君) これはもう長い歴史のある話なので、池田内閣時代でしたかね、池田勇人大蔵大臣の時代からこの話は出たんだと記憶しますけれども。
さて、今、ジェトロを通じての海外市場を拡大しているということのお話がありまして、そのとおりひとつ頑張っていただかなければならないと思いますが、私は本委員会の冒頭にも、我が国の農業は衰退したと失礼ながら言い切っておりますが、その要因の一つに、池田内閣時代に始まりますが、所得倍増計画の中核を成した二次産業、戦後の産業構造の切替えによって重工業を中心にやってまいりましたから、戦後は二次産業が飛躍的に発展していきました
おっしゃるとおり、池田内閣時代に閣議決定したということは大分いろんな報道にはございましたけれども、今のお話のとおり、日本はこれからもっといろんな責任を負わなきゃいけない段階に入ってきたと思うんです。
池田内閣時代に臨時行政調査会の委員だった。同じ委員だった花井忠元検事総長は、大きな工事というのは大体半値でできるよと、検察庁はそう見ていると、そう言っていたと言いました。まあこれは極端な例でも、私が調べた例でも実際に出たんだから、四十数%、これはなかなか、なるほど大変なものだと思ったんです。 何でこんなに大もうけができるかというので一つ問題になったのは、建設省の現場の危機的実態です。
翻って国内的には、池田内閣時代で、東京オリンピックを翌年に控え、所得倍増計画が大きな成果をあげようとしていました。あれから四半世紀、ドルショック、オイルショックなど幾多の危機を乗り越え我が国は世界一の債権国の地位を築くに至りました。 しかし、その一方で日米貿易摩擦、産業空洞化に代表される新たな問題も生じております。
ですから、例えば歴代の首相の私的諮問機関も、これは池田内閣時代ですか、私的諮問機関が大変ふえたということで国会で大変問題になって、それ以降自粛をするということになったわけなんだが、大体歴代首相の私的諮問機関は一内閣一機関にほぼ抑えられてきたはずなんですよ。そして、余り政治の前面に出なかったはずなんだ。
〔委員長退席、船田委員長代理着席〕 率直に申し上げますと、高度経済成長政策、つまり、あれは昭和三十五年ですか、池田内閣時代の所得倍増計画、これに始まる経済成長政策、これとともに財界からの教育に対する要望という形で、たくさんの意見なり提言なりが出てまいりました。これは当然教育の中にも生かされていったという経過は、大臣も御承知だと思うのです。
ましてや、匿名預貯金や架空名義預貯金も大蔵省が一片の通達で容認していますから――たしか池田内閣時代です。政府は脱税資金の隠れ場所までも用意してくださっているわけでございますから、まことに御立派と言う以外はないと、こういうことでございます。 反対理由の十二を申し上げます。 我が国が米国に次いで世界第二の電算機の普及国であることは御承知のとおりです。
かつて池田内閣時代に、一兆何千億の総予算の中から新しい政策として一千億減税、一千億施策、しかもそれは、公共投資とともに福祉に重点を置いて、非常に大胆な経済政策を打ち出されて、これを契機として日本の高度成長が出発したということも考えられるわけです。
これ、「再び大平正芳の人と政治」ということで、前書いたのが大変好評だからと、自分の日記を引用なさって、そして池田内閣時代から大変私はおもしろく全部読ませていただきました。大変リアルなんです。このお書きになったことが全然事実と違っている、この日記は違っていると、こういうことでございますか。
過去、池田内閣時代に臨時行政調査会が設置をされております。当時、政府は「広く国民の立場に立って行政の画期的な体質改善を行ない、国民へのサービス向上に寄与すべく、各界各層の知能を結集して、権威の高い行政診断機関を設ける」との趣旨から昭和三十七年二月に臨調を設置し、昭和三十九年九月に至るまで実に二年七カ月にわたる審議を経て、総論以下十六項目、千ページに上る答申が提出されたのであります。
池田内閣時代には、三十六年の九月に武鉄汚職事件がありました。佐藤内閣時代には、四十二年二月、共和製糖事件。また、四十二年の八月には大阪タクシー事件。そして四十三年二月、日通事件と続いております。 さらに、地方公共団体職員の収賄事件受理処理人員について調べましたところ、四十九年に、通常受理人員が四百九十人、そのうち起訴された者が二百八十七人、不起訴が二百三名となっております。
○安武洋子君 ある新聞報道によりますと、「海部氏は池田内閣時代の首相秘書官田中六助氏と面識があった」と。また、「日商側がダグラス社に対し、日本国内での政治工作資金を通常の代理店手数料に上乗せして請求していた」、こういう疑惑が指摘されております。それから、これは長官の証言が載っておりますけれども、「海部氏は知っている。たしか親友の安倍晋太郎に紹介したと思う。」と、こういうふうなことも載っております。
第二の選択は、池田内閣時代以来の高度成長政策、外にも内にも極力事を構えずに、対話と協調とかいろいろなことを言っておりましたが、ひたすら高度経済成長路線を歩んできた。こういう道を日本は第二の選択としてやってきたと思うんですね。それはそれなりの意義があったと思います。いろいろ問題点もありましたし、われわれも批判を持っている。
これはかって池田内閣時代に、同じ名前の池田科学技術庁長官が大学の技術者養成に対する注文をつけました。これが一度きり。この勧告権の行使を要請した一人としまして当時を顧みておるのでありまするが、後にも先にもこれが一度きりと私は思っておりますが、そのことと、勧告権の行使に対する長官としての御意見を承ります。
○永末委員 かつて池田内閣時代にいわゆる経済成長政策をとりましたときに、当時の池田首相はあなたと似たようなことを言うたわけですね。われわれ国民側から言いますと、消費者物価は上がりつつある、成長政策は結局物価値上がりにつながるのではないか、こういう質疑がいろいろ出た場合に、いや、消費者物価じゃなくて卸売物価なんだと。卸売物価は当時ほとんど上がらなかった。
○宇佐美説明員 各四宮家の御殿を新しくつくるということは実は池田内閣時代にすでに出ておりまして、皇室経済会議が開かれました際、久保田衆議院副議長が、余りひどいからあれは直せという御発言がございました。それで協議会が開かれまして順次やろうということになったわけでございますが、やはり各宮家の御都合もございまして延び延びになってまいったわけであります。
そして、佐藤内閣のもとであなたが大蔵大臣としてその策定に重要な役割りを果たされた中期経済計画及び経済社会発展計画では、経済成長率をそれまでの一〇%台から八%台に落とすことにしておりましたが、実績数字は、池田内閣時代に匹敵するか、それを上回る一二、三%の成長となっております。
そのとおりにならないじゃないかとか、あるいは五カ年計画だと言ってみたり、十年で所得倍増をぶち出した池田内閣時代のことは例外としましても……。
というのは、私が昭和三十六、七年、池田内閣時代の所得倍増十カ年計画、あの時代にしばしば経済企画庁に足を運んで、その当時の新産業都市の計画などに携わっておられた若い新進の官僚の方にお目にかかったときに、農業のことなんか考えちゃいないよというような、簡単に言うとそういう表現に接したことがあるんです。この新全総の中にも大畜産基地の設定というようなものがあります。北海道、東北あるいは阿蘇。