2000-10-23 第150回国会 衆議院 政治倫理の確立及び公職選挙法改正に関する特別委員会 第2号
皆さんのところの村上孝太郎さんとか、あるいは当時の民社党の向井長年さんは開票日でしたか、結論的には当選なさったのでありますが亡くなるとか、私のところの人も亡くなるというように、肉体的にこれは大変な、これからもしこれが通っても、日にちがまだ幾らか短いから肉体的に楽かと思いますが、普通は二年ぐらい前からやるわけですね。全国を歩くわけです。
皆さんのところの村上孝太郎さんとか、あるいは当時の民社党の向井長年さんは開票日でしたか、結論的には当選なさったのでありますが亡くなるとか、私のところの人も亡くなるというように、肉体的にこれは大変な、これからもしこれが通っても、日にちがまだ幾らか短いから肉体的に楽かと思いますが、普通は二年ぐらい前からやるわけですね。全国を歩くわけです。
あの全国区選挙のときに、皆さんわかっていますか、例えば村上孝太郎さんという人がおられました。村上さんは大蔵事務次官から参議院を目指して全国を走り回って、走れ走れ孝太郎。ところが、当選をして、その後お亡くなりになってしまった。私が当選するちょっと前です。私が当選した次の回では何が起きたか。向井長年さんという方がおられました。全国を走り回って、その結果、投票日の当日亡くなられてしまった。
また、村上孝太郎議員が、自民でございますが、九月八日にお亡くなりになっているということで、これは二カ月ほどたっておる、二カ月以上でございますが、というこの三例を私ども掌握させていただいております。 このほか、第十二回選挙、昭和五十五年六月二十二日執行におきましては、向井長年氏が選挙期日の翌日に死亡された例がございますが、このときは当選人の告示は行われておりません。
亡くなられたとされる方が、村上孝太郎、山本伊三郎、向井長年、江藤智ですか、その他たくさんございますが、どれほどの過酷な肉体労働を、選挙期間だけではありません、一年、二年ぶっ続けてやるのか。 人気投票になってしまう。マスコミかタレントしか上位が当選できない。そうばかりではないかもわかりませんが、それでなければ、相当な組織力、資金力がなければこれはできない。 選挙違反の続発。全国区時代には四けた。
まず、行財政改革についてお伺いしたいんですが、私ごとで恐縮ですが、私のおじの村上孝太郎が今から三十年前、大蔵省の主計局長のときに財政硬直化のキャンペーンを行いました。
私ごとで恐縮なんですが、私のおじの村上孝太郎が大蔵省の主計局長時代に、農家の皆様方を極力守ってきたのは自民党の議員たちだと常に私に申しておりました。問題の本質は、国際化の波の中で結局農業問題が国内問題だけでは解決できない状況になってきたというのが今日の大きな現状じゃないかと思います。
それは、かつて村上孝太郎さんという大蔵省の事務次官をやられた方、これは私の選挙区でございますが、この村上孝太郎さんが非常に立派な財政通の大蔵官僚であったということは有名な話でありますが、この村上孝太郎さんのことを、橋口収さん、主計局長もやり、公取の委員長もやられたと思うのでありますが、この方が「新財政事情」という本を出されておるようでありますが、その中の一こまで取り上げて、この村上孝太郎さんがかつて
全国区は残酷区だとよく言われますが、その根拠とするところは、気の毒なことでありますけれども、四十六年の選挙のときには当選後三カ月で村上孝太郎氏が十八位で当選しておりながら亡くなりました。そのときにまた社会党の山本伊三郎先生も当選後二週間で亡くなっておられます。五十五年の選挙のときには向井長年氏、民社党の先生でいらっしゃいますが、当選の報を聞きつつ亡くなられた。
昭和五十五年六月の選挙で、八十七万票を獲得して全国区に当選されました向井長年氏が当選証書を手にされることなく亡くなられた、まことにお気の毒であり、党及び御本人の無念さはさぞやと思う次第でありますが、自由民主党の村上孝太郎さんも、私の記憶によれば同様の事例であったと思います。まことに全国区参議院議員選挙というのは非人道的な感じでございます。
まず、国会に参って財政をやっておりまして、非常に不幸なことに、参議院選挙に当選をして議席につく間もなく亡くなった村上孝太郎さんという大蔵省の先輩がおられます。この村上孝太郎さんが、主計局長だったと思いますが、次官かな、どっちかちょっとはっきりしませんが、総合予算主義ということを問題提起をいたしました。財政法をじいっと読んでみますと、いまの財政法は総合予算主義が原則になっているのです。
それが四十四、五年ごろでございますが、元主計局長、また元参議院議員であられた村上孝太郎君さんがいわゆる財政硬直化の問題を持ち出しまして、このままでいけば財政が硬直化してしまうということで、その出た自然増を政策目的にだんだん使えなくなってしまった、それでもなおかつ毎年度、毎年度相当程度の自然増収が出る、こういうことでこの前質疑をいたしたのでございますが、実は過日の某銀行の調査は、御存じかと思いますけれども
私は昭和三十五年十月の十二日に当委員会においてこの所得倍増計画について、当時役柄は何であったかわかりませんが、参議院議員になって、亡くなられた村上孝太郎さんと二時間半にわたって論議をいたしたことを覚えております。要するにそれ以来日本は高度成長という方向に入ってきたわけでありますね。この高度成長がずっと続いて、そうして今度は佐藤榮作さんが昭和四十年、池田さんの後を追って総理になられました。
大蔵省は前に、村上孝太郎事務次官の当時——彼が主計局長のときかな、次官のときかな、総合予算主義ということを非常に熱心に主張したね。私は、なかなかりっぱな次官、だったと思いますよ。補正というのはなるべく組まないことがいいんだ、財政法というのは単年度主義なので、できるだけ補正を組まないように、当初から見込める予算は全部見込んでいこうというのが総合予算主義だ。ところが、それが完全に崩れちゃった。
いままで四十三年のときにも具体的に相当な努力をやろうということで、いろいろな意見が出されて、亡くなった当時の大蔵省の村上孝太郎次官などがその問題を積極的に取り上げたこともあったわけですね。ところが、結局それも未発に終わった。こういう中で、ぜひそういう試みをやってみるべきだ。もう一度総理のお考えをお願いいたします。
だから、大平さんも慎重に、本来総合予算主義であるべきであるという話をされましたが、村上孝太郎君が主計局長のときに大変やかましく総合予算主義という問題が出て当然の問題であったけれども、とかく忘れがちになって、補正で処理をするわけです。
それから財政の硬直化に交付税の問題を入れるかどうか、硬直化要因として交付税を考えるかどうかというところでございますが、かつて亡くなりました村上孝太郎さんが、次官でいらっしゃいましたときにそういうことをお述べになっていたことも事実でございます。
福祉の指標もさることながら——福祉の指標については、あまり上げると財政硬直化するといって、いまはなくなった村上孝太郎君などもがんばったものです。それは、福祉の予算は率をふやしますと非常にふえてまいりますから、そうすると財政硬直化して、そのときどきに応ずるうまみがないというふうなことを言ったわけですね。
兄弟愛の人一倍強かった先生が、昨年九月になくなられた御令兄参議院議員村上孝太郎先生のあとを追うかのように去って逝かれたことは、いかに天運とは申せ、その無常をしみじみと感ずるものでございます。 村上先生と私とは、その所属政党を異にし、昭和四十二年、先生が衆議院議員総選挙に立候補されて以来、同じ選挙区において過去二回にわたり選挙戦を相争ってまいりました。
○八木一郎君 ただいま議長から御報告がありましたとおり、議員村上孝太郎君は、去る九月八日、肝硬変のため逝去されました。まことに痛恨のきわみでございます。 私は各位のお許しを得て、議員一同を代表し、従三位勲二等故村上孝太郎君の御生前をしのびつつ哀悼のことばを申し上げるものであります。 村上君は、大正五年愛媛県に生まれ、第一高等学校、東京帝国大学法学部を経て、卒業後、直ちに大蔵省に入られました。
昭和四十六年十月十六日(土曜日) 午前十時八分開議 ————————————— ○議事日程 第一号 昭和四十六年十月十六日 午前十時開議 第一 議席の指定 第二 会期の件 ————————————— ○本日の会議に付した案件 一、日程第一 一、新議員の紹介 一、故議員村上孝太郎君に対し弔詞贈呈の件 一、故議員村上孝太郎君に対する追悼の辞 一、日程第二
○議長(河野謙三君) 議員村上孝太郎君は、去る九月八日逝去せられました。まことに痛惜哀悼の至りにたえません。 同君に対しましては、すでに弔詞を贈呈いたしました。 ここにその弔詞を朗読いたします。 〔総員起立〕 参議院は議員従三位勲二等村上孝太郎君の長逝に対しましてつつしんで哀悼の意を表しうやうやしく弔詞をささげます —————・—————
○事務総長(宮坂完孝君) 去る九月八日逝去されました議員村上孝太郎君の御遺族に対しましては、法律の定めるところにより弔慰金を差し上げるのでございますが、これはお手元の資料のとおりその一部を予備金から支出することになっておりますので、国会予備金に関する法律第二条の規定によりまして、本委員会の御承認を求める次第であります。