2020-03-17 第201回国会 衆議院 農林水産委員会 第5号
司馬遼太郎によりますと、この言葉は、清の末期の政治家であり文人であった李鴻章が、瀬戸内海を汽船で神戸に向かいながら、内海の島々の耕作の状態を見て、驚嘆してつぶやいた言葉であるとされています。中国にも雲南などに棚田の地域がございますが、安徽省出身の李鴻章は、これほどの棚田は見たことがなかったのかもしれません。
司馬遼太郎によりますと、この言葉は、清の末期の政治家であり文人であった李鴻章が、瀬戸内海を汽船で神戸に向かいながら、内海の島々の耕作の状態を見て、驚嘆してつぶやいた言葉であるとされています。中国にも雲南などに棚田の地域がございますが、安徽省出身の李鴻章は、これほどの棚田は見たことがなかったのかもしれません。
なぜ真珠湾攻撃から半年目に沖縄を日本から切り離そうとしたかといいますと、明治の廃藩置県のときに、中国との関係を断ち切れといった場合に、中国の外務省の李鴻章という大物が、日本がこうして軍事力に物を言わせて強制的に沖縄を併合すると、日本は次は必ず台湾をとって、朝鮮半島を植民地にして、中国に侵略して、アジア侵略するだろうということを予言していたわけですよ。
これは山を段々に、いわゆる段々畑ではなくて田んぼが、圃場がもう段々になっているわけでありまして、そしてその先には日本海がございまして、そこはもう本当に見ていてはっとするほどの美しい景色であるのも事実でございまして、かつて日清講和条約を結んだときに、中国側、清の全権代表李鴻章が、耕して天に昇ると、こう書き残したのがこの棚田でございますが、そうした棚田というのは、では産業的な側面で競争力があるかといえば
これを最も象徴しているのは、鄧小平さんがサッチャー・イギリス首相と会ったときに、香港問題に関して、私は李鴻章のような売国奴と呼ばれたくない、こう言ったところであります。李鴻章についてはもう説明はする必要もないだろうと思います。こういった言葉がまた台湾問題に関連して何人かの指導者の口から出てきているということであります。
邯鄲の向こうあたりから来た人でしょうが、結局西太后にしても、自分の栄耀栄華のためならばとにかく死んでも竜宮があるようにという迷信に駆られて、明の十三陵を見せなかったからまだよかったけれどと言うけれども、地下宮殿をつくって中で自分が死んでいったんですが、そういう偏執的な人間の飽くなき栄耀栄華、地獄にまでそれを持っていこうとしたやつに迎合して国を売り、ソ連に対してでもウィッテもひやかしていますが、この李鴻章
文天祥以来の、事の成敗でなくて、烈々として三千年の文化、道統を維持して中国のモラルを、生命力を維持していこうという近代化路線というものは、新聞やいわゆる中国通というやつが皆、香港情報のようなとんちんかんなことばっかり書いているけれども、私は、幾多の試行錯誤をやったが、あの日本が李鴻章やあるいは袁世凱や西太后をたぶらかして、賄賂取りの名人、ああいう官僚、軍閥を使って中国を疲弊させたことに対しては戦わざるを
日露戦争に負けたときのロシアの外交官の偉さは、小村寿太郎を手玉にとったウィッチ伯は、東洋人との外交を研究するために、李鴻章のことをとっても研究しております。そうして小村寿太郎を孫悟空が手のひらであやしたような形で、緊張している形の中にかえってアメリカの世論を切りかえた。これは自分が生きている間に発表すると危ないから、フランスの銀行にとどめたウィッチの記録に書いてあります。
日露戦争においてポーツマス条約に臨むのに当たって、帝政ロシアのウィッテ伯は日本を知る前に、まず中国のアジアの外交官としての李鴻章を研究するためにずいぶん詳細な研究をやっております。
○戸叶武君 日露戦争に敗れたときに、帝政ロシアは非常に動揺して、野に下っていたウイッテを起用してポーツマス条約の全権たらしめたのですが、そのときにウイッテの偉さというものは、アジアの人々の外交的な考え方はどういう点に特徴があるかというのを、馬関条約や日清戦争の時代を通じて日本との折衝に当たった李鴻章の研究というものを彼はしさいに行っています。
どれだけ李鴻章の人となりや外交を彼が研究したかわからないです。そうして小村寿太郎をポーツマス条約において事実上手玉にとっていったじゃないですか。負けた国の、フランスのタレーランの外交でも、日露戦争に負けたウィッチの外交でも、もっとつらい目に遭ってもみごとに民衆を把握したがゆえに、外交の相手に世界の心を持ったがゆえに窮地から脱出することができたじゃないですか。
この曾国藩の弟子で李鴻章というのがおりましたけれども、李鴻章などは、曾国藩から比べますと問題にならぬほど小人物であったはずです。
ソ連との外交の問題は、徳川時代から非常にむずかしくて、中国の李鴻章の書いたものの中にでもむずかしさが書いてありますが、古くからいままでむずかしいわけです。それはお互いにやはり民族の習慣や何か知らない関係もあると思うんですが、ほんとうは、ざっくばらんにものを言うと、一時は険悪になるけれども、私は理解度は早まるんだと思います。
それに対して李鴻章の子分だった袁世凱がどんどん出てきて、韓国に清国系の政党事大党をつくらせていた。そして閔という李王朝の親戚を事大党の党主に仕立て上げた。それに対して、日本派の朴泳考とか金玉均とかいうのは、日本派の独立党というのをつくった。その独立党のクーデターが原因になって、中国の軍隊が日本人の大虐殺をしたのが、御承知の韓国半島における日本人と中国人の最初の接触だと私は思っております。
それから、日清戦争の講和談判下関条約で、清国の首席全権李鴻章は、清国は台湾及び澎湖島に対してその宗主権を主張したこともなければ、統治権がそこに及んだこともない。台湾は化外の地である。化外は御承知のとおり、統治権の及ばないものである。それらの島々を日本が欲するならば、かってに領有することができる。すなわち、当時の台湾は通常の意味で清国の植民地でさえもなかった。
一つは明治二十四年でありますか、当時のロシアの皇太子のニコラスが来たとき、警備の津田三蔵がサーベルで刺したという事件、それからその次は日清戦争のときに、講和大使といいますか、交渉大使というかわからぬが、とにかく李鴻章をピストルで打ったという小山六之助の事件、二つあったわけです。これらの事件と今度の事件について、内閣はどう考えているか。
たとえば日清戦争についてみますと、これは明治二十八年の三月二十日に日本側が伊藤、陸奥全権、相手の清国側が李鴻章全権で、この第一回会見が下関、で行われたのです。三月三十日に休戦条約が締結せられております。続いて四月十七日には日清講和条約及び付属書が調印されておるのであります。わずかに一カ月足らずの期間であります。
そうすると日清戦争以前、明治初年から日清戦争に至るまでの琉球帰属の問題を清国と日本との間において非常に論議せられ、これがいろいろ複雑な外交問題になつていたのが想起されまして、明治十二年グラント将軍が来た時に日清両国の間に斡旋をいたし、清国に行つて李鴻章に会い、又日本においては明治大帝を説いてこの間の妥結案を作り、十三年には、天津の会議を開きまして日本の公使と清国の当局とがすでに条約を締結いたしましたが
全く私は、中国における李鴻章というのは相当の政治家であつたが、国民をだまかすための、外国には割合に正直に言つたようなところもあつたようですが、国内の国民をだまかすことに汲々たるところの外交や政治をやつたために清国を亡ぼしてしまつたので、殷鑑遠からずでありまして、今のような吉田内閣における各大臣の答弁を聞いておると、すべて詭弁とごまかしとでたらめによつて言われておりますが、もつと真実を語り、国民に真実
先ほど外交上の用語の問題が大分問題になりましたが、これは今始まつたことじやなくて、大体、一つの国家が衰運に向い、或いは政治の非常に堕落をいたしたときには外交上における言葉というものが常に問題になりますので、清朝末期における李鴻章の外交が、特にそういう言葉のあやでもつて清国の国民を騙して清国の滅亡を招いたのでありますが、それはロシアにおけるウイッテ伯の記録の中にも指摘されておるのであります。
台湾は盗んだんだという宣言に対しては、盗んだんじやない、なぜなれば、あのときには李鴻章と一緒に下関へ支那代表として来たジヨン・ホウスターという人が——前のハリソン大統領のときの国務長官をしておられた方でありますが、その方があつせんしてきめたのである。だから、アメリカが盗んだのを手伝つたという結論になるが、そんなばかなことはない、アメリカの輿論は、そういうばか気た議論をのみ込むはずはない。