2013-05-14 第183回国会 参議院 予算委員会 第17号
○谷岡郁子君 明治大帝が軍服姿でおありになったということ自身が近代国家としてのある意味ではヨーロッパからの輸入であり、そして日本の言ってみれば伝統から少しずれた姿であったというふうに私どもは理解をしております。長い日本の歴史をひもといていただければ、軍服姿になられた天皇というものが一体何人おられたかということは、それは歴然としたことであります。
○谷岡郁子君 明治大帝が軍服姿でおありになったということ自身が近代国家としてのある意味ではヨーロッパからの輸入であり、そして日本の言ってみれば伝統から少しずれた姿であったというふうに私どもは理解をしております。長い日本の歴史をひもといていただければ、軍服姿になられた天皇というものが一体何人おられたかということは、それは歴然としたことであります。
それは、まさに神という仮定の上に立った明治大帝が大日本帝国憲法と皇室典範と軍人勅諭で政治を仕切り、そして、神様ですから、教育勅語で国民道徳までおせっかいに語った時代の法体系なんですね。ですから、今そういう教育勅語的なものが憲法規範にあるはずがないんですね。
○加藤参考人 別に運営委員の性格を深く掘り下げたわけではございませんが、いままで私が出ております範囲内では、神宮外苑の造成の本旨に基づいて、できるだけ国民一般の和楽の場所ということで、明治大帝の遺徳に基づいてつくられた外苑の姿をできるだけ一般大衆に味わわせる、そういう形でいろいろな設備をしていこうじゃないかというふうに私は考えてきて、それに応じて協力したつもりでおります。
○田中(榮)委員 私は、先ほど来同僚委員の意見をいろいろ聞いておるのでございますが、やはり明治神宮の設置せられた御趣旨から申しますると、やはりスポーツとしてはアマチュアスポーツを優先的に——アマチュアスポーツ優先というよりもむしろアマチュアスポーツを専門にあの場所でやらせるのが、明治大帝の御神徳に沿うゆえんではないかと私自身は考えておるわけでございます。
最近われわれが全国各地を遊説する際において非常に深く感ぜられることは、この二代の天皇陛下の足跡に比べて、非常に交通の阻害のあった明治時代において明治大帝が、大演習あるいはその他の行事もあったのでありましょうが、しかし全国ほとんどくまなく歩かれて、ことにわが国の歴史、文化というものに注目をされて行幸されておる跡を見ますると、やはり民利民福の向上に常に意を払っておられたということが、しみじみとわかるのであります
その結果明治天皇が王政復古の後に明治大帝とまで崇拝をされておるのであります。その後明治天皇は欽定憲法をしかれて、ほんとうに天皇主権のもとに天皇と国民は一体である。すなわち「罪あらばわれを咎めよ天つ神民はわが身の産みし子なれば」、全く一体の姿で来たのであります。
あるいはまた「幸徳秋水」、これは明治大帝の暗殺大逆事件を起した人であります。それから「内村鑑三、与謝野晶子などのような人たちがいました。」こう書いてあります。これは私たちから見れば、一方的な取扱いだと思うのであります。これは偏向だどうだということになれば、議論はございましょう。しかしこういうような一方的な教え方というものは、中正な教育のあり方ではないというように考えます。
明治の教育勅語というものも権力で普及させたものでもありましょうけれども、やはり明治大帝という人の個人の人格というものがあそこまできたものでありますから、今文部省でわれわれが教育の方針はこれだというようなことを出してみても、なかなかああいうふうには行われないと思っております。
また今日の教育の方針につきましては、お話の通りの次第でございますが、しかしこれを教育勅語のように文書でこの国民の教育の何を政府がきめるということも、果してそれが本当に教育の上においていい効果を来たすかどうかは、なお研究をする余地があるのではないか、それはほかでもありませんけれども、これは明治大帝が出された、そうしてそのときの状態が何でありましたが故にあの教育勅語の精神というものは国民のすみずみまで行
ところが来るなら来てみたまえということで、あれは鉄、木材、その他非常に資源の大きな国でありますから、どうしてもあそこは未だに……、尤もこれは半面にいわゆるグスタフ・アドルフという王様、これはその当時明治大帝に比較される、或いはこれ以上と言われた名君と言われた人であります。この施政そのものが非常によかつたというふうな点もあるでありましよう。
従つて紙幣の価値というものが暴落し、物価の高騰によりまして、明治十年の米価というものを見ますると、石五円十五銭、それが明治十四年においては、石十円四十八銭というような高騰を来し、ここでデフレーシヨン政策を起そうとした松方蔵相は、非常に窮局に立至りまして明治大帝の激励の辞によつて腰を上げたというように聞いておるのであります。
そうすると日清戦争以前、明治初年から日清戦争に至るまでの琉球帰属の問題を清国と日本との間において非常に論議せられ、これがいろいろ複雑な外交問題になつていたのが想起されまして、明治十二年グラント将軍が来た時に日清両国の間に斡旋をいたし、清国に行つて李鴻章に会い、又日本においては明治大帝を説いてこの間の妥結案を作り、十三年には、天津の会議を開きまして日本の公使と清国の当局とがすでに条約を締結いたしましたが
福島県の安績の疎水は、明治大帝からの因縁の深いものであるけれども、これがどうです、あの福島県の瘴癘の地と言つていいようなところへ移民が入つたということは、あまりにも有名なとであるが、この歴史を御存じでございますか。それから満州が開拓された。
始終山岡さんの屋敷に来まして、たいや何かみやげものを持つて来て、山岡先生と飲むのを晩年楽しみにしていたようですが、会つてこういうことを言つた、あなたは剣法もできるし、禅もやつて、明治大帝と相撲をとつて負かすくらいの気骨のある偉い人であるが、一つ偉くない点がある。それを忠告するが聞くかと言つたら、おれも神様でないから何か欠点があつたら言つてくれ。それじや聞くなら言いましよう。
非難はいたしませんが、よくこの辺を勘案いたしましたときに、地方公共団体の今日の苦境、そして又京都のことを申して済みませんが、明治二十五年に明治天皇が、都をお遷しになつたについて将来京都はさびれるというので、お手許金を出して、日本一のあの古き都に日本一の進歩した文化施設の、いわゆる発電所を作るということで、お手許金まで頂きまして、これによつて事業を起して京都の将来を運営して行けよとの大御心によつて、明治大帝
英国のマクドナルド大使が、日光は非常によいところであるが、陛下もときどきおいでになりますかとお尋ねしたときに、明治大帝は、いや忙しいのでいまだ一度も行つたことがないと仰せられておる。この大帝の御徳が、今日敗戦後の日本においても、今年のお正月のあの多数の民衆が参拝する気持と、私はつながるものだと思うのであります。お互いの今日の国情はみな行き詰まつております。
明治大帝陛下が北海道を巡幸遊ばされまして、北辺の地北海道の状態をつぶさに御覽遊ばされまして、北海道をお去りになるに当つて函館において残されたる重大なるお言葉がございます。それは北辺の地北海道の開拓は日本国将来のために重大なる問題であるから北海道から上る国の収入はすべてこれを北海道に還元せよと、こういう有難いお言葉があるのです。
かつて明治十四年以来、明治大帝陛下が北海道御臨幸からお帰りの際、函館市において北海道民に賜わつたお言葉があります。それは、北辺の地北海道は未開の地であるが、日本の将来のために非常に重要な地点である。従つてこれを積極的に開拓しなくてはならぬ。そのためには将来北海道から上るところの国費の収入の一切は北海道に還元せしめて、北海道の開拓をなすべし、そういうお言葉があるのであります。
必ずしも声楽のみに限りません、正直に申しまするならば、あるいは日本の文化の発達の過程におきましても、明治大帝は非常にお偉い方といつても、その人の声を今日知つておるものはありません。
北海道の総合開発につきましては、明治十四年に明治大帝が行幸になられて、御勅語がある。それに基いて常に超党派的に、三十年の間やつて來たものです。それが今回に至つて初めて、党派的の委員の選考をやる。これは驚くべきものです。ことに北海道総合開発委員のごときは、閣内協力をしているということにおいて、犬養派の永井要造君のごときは神奈川縣の人で、北海道にはほとんど関係のない人です。
○神山委員 今の椎熊君の意見に対して、明治大帝が出て來たのに賛成するかと林君がひやかしておりますが、明治大帝にかかわりなく、これは自由討議でありましたけれども、篠田君が北海道、総合開発のことを言つたときに、超党派的ということを口をすつぱくして言つたと思う。私どもは北海道を開発することには異議はない。また総合國土開発ということも、超党派的の見地から研究しなければならぬ。