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22件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

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2013-05-14 第183回国会 参議院 予算委員会 第17号

谷岡郁子君 明治大帝軍服姿でおありになったということ自身近代国家としてのある意味ではヨーロッパからの輸入であり、そして日本の言ってみれば伝統から少しずれた姿であったというふうに私どもは理解をしております。長い日本歴史をひもといていただければ、軍服姿になられた天皇というものが一体何人おられたかということは、それは歴然としたことであります。  

谷岡郁子

1965-03-11 第48回国会 衆議院 体育振興に関する特別委員会 第9号

加藤参考人 別に運営委員の性格を深く掘り下げたわけではございませんが、いままで私が出ております範囲内では、神宮外苑の造成の本旨に基づいて、できるだけ国民一般の和楽の場所ということで、明治大帝の遺徳に基づいてつくられた外苑の姿をできるだけ一般大衆に味わわせる、そういう形でいろいろな設備をしていこうじゃないかというふうに私は考えてきて、それに応じて協力したつもりでおります。

加藤一雄

1965-02-19 第48回国会 衆議院 体育振興に関する特別委員会 第6号

○田中(榮)委員 私は、先ほど来同僚委員意見をいろいろ聞いておるのでございますが、やはり明治神宮の設置せられた御趣旨から申しますると、やはりスポーツとしてはアマチュアスポーツを優先的に——アマチュアスポーツ優先というよりもむしろアマチュアスポーツを専門にあの場所でやらせるのが、明治大帝の御神徳に沿うゆえんではないかと私自身は考えておるわけでございます。  

田中榮一

1959-02-26 第31回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第2号

最近われわれが全国各地を遊説する際において非常に深く感ぜられることは、この二代の天皇陛下の足跡に比べて、非常に交通の阻害のあった明治時代において明治大帝が、大演習あるいはその他の行事もあったのでありましょうが、しかし全国ほとんどくまなく歩かれて、ことにわが国の歴史文化というものに注目をされて行幸されておる跡を見ますると、やはり民利民福の向上に常に意を払っておられたということが、しみじみとわかるのであります

川崎秀二

1955-12-14 第23回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第3号

あるいはまた「幸徳秋水」、これは明治大帝暗殺大逆事件を起した人であります。それから「内村鑑三与謝野晶子などのような人たちがいました。」こう書いてあります。これは私たちから見れば、一方的な取扱いだと思うのであります。これは偏向だどうだということになれば、議論はございましょう。しかしこういうような一方的な教え方というものは、中正な教育のあり方ではないというように考えます。

佐々木秀世

1955-06-07 第22回国会 参議院 文教委員会 第10号

また今日の教育方針につきましては、お話の通りの次第でございますが、しかしこれを教育勅語のように文書でこの国民教育の何を政府がきめるということも、果してそれが本当に教育の上においていい効果を来たすかどうかは、なお研究をする余地があるのではないか、それはほかでもありませんけれども、これは明治大帝が出された、そうしてそのときの状態が何でありましたが故にあの教育勅語の精神というものは国民のすみずみまで行

松村謙三

1954-03-26 第19回国会 参議院 外務委員会 第12号

ところが来るなら来てみたまえということで、あれは鉄、木材、その他非常に資源の大きな国でありますから、どうしてもあそこは未だに……、尤もこれは半面にいわゆるグスタフ・アドルフという王様、これはその当時明治大帝に比較される、或いはこれ以上と言われた名君と言われた人であります。この施政そのものが非常によかつたというふうな点もあるでありましよう。

岡野保次郎

1954-03-16 第19回国会 参議院 予算委員会 第14号

従つて紙幣の価値というものが暴落し、物価の高騰によりまして、明治十年の米価というものを見ますると、石五円十五銭、それが明治十四年においては、石十円四十八銭というような高騰を来し、ここでデフレーシヨン政策を起そうとした松方蔵相は、非常に窮局に立至りまして明治大帝の激励の辞によつて腰を上げたというように聞いておるのであります。

吉田萬次

1953-12-08 第18回国会 参議院 外務委員会 第6号

そうすると日清戦争以前、明治初年から日清戦争に至るまでの琉球帰属の問題を清国日本との間において非常に論議せられ、これがいろいろ複雑な外交問題になつていたのが想起されまして、明治十二年グラント将軍が来た時に日清両国の間に斡旋をいたし、清国行つて李鴻章に会い、又日本においては明治大帝を説いてこの間の妥結案を作り、十三年には、天津の会議を開きまして日本の公使と清国の当局とがすでに条約を締結いたしましたが

團伊能

1953-02-18 第15回国会 衆議院 大蔵委員会公聴会 第1号

始終山岡さんの屋敷に来まして、たいや何かみやげものを持つて来て、山岡先生と飲むのを晩年楽しみにしていたようですが、会つてこういうことを言つた、あなたは剣法もできるし、禅もやつて明治大帝と相撲をとつて負かすくらいの気骨のある偉い人であるが、一つ偉くない点がある。それを忠告するが聞くかと言つたら、おれも神様でないから何か欠点があつた言つてくれ。それじや聞くなら言いましよう。

石田百寿

1952-04-01 第13回国会 参議院 通商産業委員会 第26号

非難はいたしませんが、よくこの辺を勘案いたしましたときに、地方公共団体の今日の苦境、そして又京都のことを申して済みませんが、明治二十五年に明治天皇が、都をお遷しになつたについて将来京都はさびれるというので、お手許金を出して、日本一のあの古き都に日本一の進歩した文化施設の、いわゆる発電所を作るということで、お手許金まで頂きまして、これによつて事業を起して京都の将来を運営して行けよとの大御心によつて明治大帝

福田關次郎

1952-02-01 第13回国会 衆議院 予算委員会 第6号

英国のマクドナルド大使が、日光は非常によいところであるが、陛下もときどきおいでになりますかとお尋ねしたときに、明治大帝は、いや忙しいのでいまだ一度も行つたことがないと仰せられておる。この大帝の御徳が、今日敗戦後の日本においても、今年のお正月のあの多数の民衆が参拝する気持と、私はつながるものだと思うのであります。お互いの今日の国情はみな行き詰まつております。

世耕弘一

1951-05-31 第10回国会 参議院 内閣・人事・地方行政・大蔵・農林・水産・運輸・建設・経済安定・予算連合委員会 第1号

明治大帝陛下北海道を巡幸遊ばされまして、北辺地北海道状態をつぶさに御覽遊ばされまして、北海道をお去りになるに当つて函館において残されたる重大なるお言葉がございます。それは北辺地北海道開拓日本国将来のために重大なる問題であるから北海道から上る国の収入はすべてこれを北海道に還元せよと、こういう有難いお言葉があるのです。

椎熊三郎

1951-05-28 第10回国会 衆議院 内閣委員会 第18号

つて明治十四年以来、明治大帝陛下北海道御臨幸からお帰りの際、函館市において北海道民に賜わつた言葉があります。それは、北辺地北海道は未開の地であるが、日本の将来のために非常に重要な地点である。従つてこれを積極的に開拓しなくてはならぬ。そのためには将来北海道から上るところの国費の収入の一切は北海道に還元せしめて、北海道開拓をなすべし、そういうお言葉があるのであります。

椎熊三郎

1949-05-06 第5回国会 衆議院 議院運営委員会 第29号

北海道総合開発につきましては、明治十四年に明治大帝が行幸になられて、御勅語がある。それに基いて常に超党派的に、三十年の間やつて來たものです。それが今回に至つて初めて、党派的の委員の選考をやる。これは驚くべきものです。ことに北海道総合開発委員のごときは、閣内協力をしているということにおいて、犬養派永井要造君のごときは神奈川縣の人で、北海道にはほとんど関係のない人です。

椎熊三郎

1949-05-06 第5回国会 衆議院 議院運営委員会 第29号

神山委員 今の椎熊君の意見に対して、明治大帝が出て來たのに賛成するかと林君がひやかしておりますが、明治大帝にかかわりなく、これは自由討議でありましたけれども、篠田君が北海道総合開発のことを言つたときに、超党派的ということを口をすつぱくして言つたと思う。私ども北海道を開発することには異議はない。また総合國土開発ということも、超党派的の見地から研究しなければならぬ。

神山茂夫

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