2014-02-25 第186回国会 衆議院 東日本大震災復興特別委員会 第3号
確かに、いろいろ言われておりまして、これは大臣及び小泉政務官等も大槌で御存じの安渡とか赤浜文久とか言われて、権利調整という意味ではかなり詰めてきているんですけれども、結局、権利調整で最後詰められないところは収用にいかなきゃいかぬわけです、不明裁決、論理的には。だから、そこは、まさに収用の必要性がある、そういうことで事例はありますので、今後ともしっかり御相談をさせていただきたいと思います。
確かに、いろいろ言われておりまして、これは大臣及び小泉政務官等も大槌で御存じの安渡とか赤浜文久とか言われて、権利調整という意味ではかなり詰めてきているんですけれども、結局、権利調整で最後詰められないところは収用にいかなきゃいかぬわけです、不明裁決、論理的には。だから、そこは、まさに収用の必要性がある、そういうことで事例はありますので、今後ともしっかり御相談をさせていただきたいと思います。
小泉復興政務官にも言ったせりふだと言っていましたけれども、何と江戸時代、文久、これは百五十年前ですよ、さかのぼって、そこまでして権利者を見つけるという苦労をしているんです、現場は。だけれども、やっと登記するというときに、法務局の体制がなくて、三カ月以上待っている、こういう実態だそうです。
ただし、これは大臣も恐らく知っておられると思いますが、赤浜の文久の土地、明治以前の文久の土地がたくさん散らばって、相続人不明とか、相続人は、確定したんですかね、四十六人中四十五人までが所在不明だと聞いておりますが、これは所在不明になっただけであって、これから遺産分割協議をせないかぬのですよ。 そして、もう一つ申し上げますと、大体、防集は柔軟で、そこを避けてやればいいと。それはそうだと思います。
○畑委員 現地で大変なのは、公図とか境界が不明確な中で、江戸時代の人の土地が、例えば文久生まれの人の土地があって、それが共有者が広まって、今、樺太も含めて五十人ぐらいとか何百人に広がっているという例も現にあります。そういうことも含めれば、通常の六カ月とは違って、やはり六カ月というのはなかなかきついと私は思います。そこはしっかり検討していただきたい。
この陵の治定は江戸末期の文久年間に行われているわけでございますが、それに基づきまして、私どもは楊梅陵として現在管理をしているというところでございます。 学術研究の成果というのがいろいろあろうかと思いますけれども、ちょっとそこまで私の方でコメントする余地はございませんので、申しわけございません。
それぞれの起源を尋ねていくと、中央競馬は、文久二年、一八六二年に横浜の居留外国人が始めた洋式競馬が発端だ、こういうふうに言われています。戦前の政府は軍馬の改良増殖のためにこれを公認して、一九四八年からは政府みずからが国営競馬として開催した、こういうふうに言われています。一方、地方競馬は、古くからの全国各地の神社の祭典で奉納された神事が起源だ、こういうふうに言われています。
ところが、文久三年、一八六三年に、将軍家茂と、その後見役でありました後の十五代将軍慶喜が京都に移転します。それに伴って、諸大名、有力大名もことごとく京都に移転します。したがって、このとき首都機能は完全に京都に移転したんです。それからの五年間、明治元年までの五年間にすべての改革が行われました。
これは幕末の例を見ても明らかでございまして、あれだけ黒船が来て幕藩体制が行き詰まっても、京都に移転された文久三年までは何一つ変わらなかったんですね。だから、今、日本が新しい時代、新しい世の中になるためには、首都機能の移転が不可欠だと考えております。 そして、三番目には、今、日本にとって最も必要なことは、通信情報社会を確立するということです。日本はずっと対面情報社会でやってまいりました。
黒船がやってきたのは一八五三年ですが、それから十年間、文久三年までは全く変わっていない。いろいろやりますけれども、何ら変われない。 ところが、文久三年に将軍以下、京都へ移住いたします。そして、諸大名も京都へ移りますと、一遍にこの五年間で世の中が変わって、首都機能が京都にあった五年間に世の中が変わって、新しい時代ができて、そして明治になって、首都でなくなっていた江戸に東京と改名してやってくる。
その後も、享保、文化、安政、文久と何度かにわたりまして幕府の探索、治定が行われたわけでございますけれども、御指摘のございました神武天皇陵につきましては、幕末の段階におきましても、現在の御陵となっております神武田(じぶで)、ミサンザイとする説を含めまして、四つの説が現実にございました。
これはお手元の図版資料を見ていただきたいのですが、例えば、文久元年、西暦の一八六〇年ごろ出版されました「世界輿地全図」とか「官許 新刊輿地全図」の挿絵を見ますと、日の丸が何と大日本国旗と明記されておる点からも明らかでありましょう。これは先生方の方に回覧してございますが、これが当時の地図でございます。
文久二年に至って、将軍家茂後見役の今大河ドラマになっております慶喜、それから各大名がことごとく京都に移って、この文久二年から首都機能が江戸から京都に移りました。 そうしますと、わずか五年の間に世の中は全く変わって、すべて新しい明治という時代に変わってまいります。それで改めて、京都に一たん移った首都機能が東京と名前を変えました江戸に移転をし、そして文明開化という時代が進む。
長らく続いてまいりました明治維新論争というのがありまして、明治維新は江戸、東京と続いていたのに改革したではないかという話がありましたが、最近の研究では、文久二年から慶応、明治元年までの間、文久二年まではほとんど変わっていないということが言われておるのですね。 そういうことから見まして、やはり内部的にいろいろとぐちゃぐちゃ変わっていても、ぱしっと変化させるのは首都機能の移転ではないか。
日本に戦前駐留しましたのは、あの生麦事件の後、文久三年に老中が変なことを言って認めちゃったものですから、それ以来明治八年まで横浜にイギリス軍、フランス軍が駐屯しておったというのが戦前の例でございます。
若鶴酒造株式会社は、創業が江戸文久年間にさかのぼるなど古い歴史を有する会社であり、現在では、清酒のほか、しょうちゅう、ウイスキー等の製造・販売、キリンビール、キリンレモン等の卸販売、北陸コカ・コーラボトリング株式会社等の経営など、事業の多角化に努めております。なお、清酒に対する課税をワイン並みに引き下げるよう酒税制度に関する要望が出されております。
先ほども局長からもあるいは競馬協会からも若干のお話がございましたけれども、そもそも日本よりもむしろ競馬の関係については世界的は歴史の古い国がたくさんございまして、日本では、横浜に文久元年に外人が馬を持ってきて競技をやったというようなことから国内でスタートをしたようであります。
例えば神事競馬というような形で賀茂の神社のくらべ馬とかそういう形の中から始まってきたような競馬から、例えば一八六一年、文久元年に横浜ホースレースというような形で初めて近代競馬が入ってきたというような形で、競馬につきましては馬というものと人とのかかわり合いの中で、いろんな面で文化的なつながりもありながら今日の発展が生じてきたということではなかろうかと思っております。
そして石特の委員長は我が党の田代文久議員でした。この日、石炭対策特別委員会は附帯決議を採択いたしまして、その五項目、「離職金、賃金等の労務債の支払いについては、下請労働者に対しても本従業員に準じた取扱いをすること。」この項目を含めた附帯決議を全会派一致で採択しております。
かつて中曽根総理が通産大臣当時、電力用炭販売株式会社法など石炭関係の三つの法律の手直しを一本の法案で処理しようとした際に、当時の本院の石炭対策特別委員長、これは我が党の田代文久議員でありましたが、この一括処理法案というのは三本の法律ですよ、それを一括処理法案とするのは委員会審議を不当に制約するので、改めるように警告した。四十九年三月二十五日の石炭対策特別委員会です。
そのことは、幕府の外交に携わった人も後で取り返しのない悲劇として腹を切ったり、文久二年に竹内下野守あるいは松平石見守あたりが、あのとき中国側から示された地図なり何なりはあれは間違いのもとだと言って訂正を申し入れて、グリニッジ天文台にまねしてつくられたペテルスブルグにおけるところの郊外につくられたイギリス製の地図を見て、はっきりそこでは樺太が、北緯五十度以南が日本領になって記されている。
われわれは紛争を拡大するんではない、実行はなかなか困難であると思うけれども、中途半端なでたらめな、黒船を持ってきて下田で威喝して、腰抜けの徳川幕府が主体性を持たずして結んだ条約は恥ずかしいと思って、後では幕府の外交官も文久二年には竹内下野守、松平岩見守がペテルスブルグに行って主張すべまものは主張してきた。井伊掃部の軟弱外交が桜田門の変でテロのためにたたかれたのも単なるテロリズムではない。
それから中世以降、戦乱の中で一時所在が不明になったものもございますけれども、徳川時代に入りまして元禄以降、特に幕末の文久の際には、陵墓につきまして新たにここは御陵であるということで治定されまして、またいろいろ修築工事もいたしたわけでございます。明治に入りまして、それまでに決まっておりませんでしたもの、若干の御陵につきましてまた新しく御治定になったわけでございます。