2021-03-10 第204回国会 衆議院 文部科学委員会 第3号
例えば、英語教科書などでいけば、単語の辞書機能をくっつけていくということであるとか、あるいは、音声を出していくことによって、ネイティブの発音の中で本が理解ができていくような状況をつくるとか、あるいは、教科書の内容をテーマにした音声の中で、会話ドリルのような形で、そのまま効果を持っていける、こういう機能をどこまで教科書そのものに付随をさせていこうとしているのか。
例えば、英語教科書などでいけば、単語の辞書機能をくっつけていくということであるとか、あるいは、音声を出していくことによって、ネイティブの発音の中で本が理解ができていくような状況をつくるとか、あるいは、教科書の内容をテーマにした音声の中で、会話ドリルのような形で、そのまま効果を持っていける、こういう機能をどこまで教科書そのものに付随をさせていこうとしているのか。
しかし、紙が主体になるんじゃなくて、元々がデジタルボーンという前提で教科書を開発して、紙をその副産物と、例えばそういうことでいいよという形になったら、教科書そのものの質というか、そこで出てくる機能というのは全く違ってくるんです。
それから、あと、当然、教具として供給をされるということになれば、これは個人の、ハードはいいですよ、ハードは、教科書そのものは個人の、当然有償ですからお金も払うわけですから、個人のものであって、例えば一年生のときに習ったことを二年生で振り返ろうと思ったときに、今の紙であれば簡単に、昔の教科書を引っ張り出してきて見れば、当然、昔の、昔といいますか当時の教科書を見られるわけですけれども、これが教具で学校の
タブレットだとかパソコンだとかの話をしているんじゃなくて、そこで展開される教科書、いわゆるデジタル教科書そのものが誰の所有のものなのか。 ということは、当然、紙の教科書であれば、自分でいろいろな書き込みをしたりだとかアンダーラインを引いたりだとか、それは一人一人がカスタマイズしていくわけですけれども、それについては、三人に一人ということではないでしょう。一人一つということでいいんですよね。
最終的には教育委員が判断していますけれども、しかし、教科書そのものを読み込んでいないということは、やはり実態としてはどこの教育委員会においても全国的に見られる傾向であります。 ですから、これは、教育委員会が教科書採択をするのであれば、教育委員みずからが教科書を読み込んでいただきたい。
もちろん、教科書そのものはこのまま今の法のもとにおいてつくっても大丈夫というようなことであろうと思いますが、しかし、さまざまな副教材、いろいろなものに関しては、将来的には日本版フェアユースの検討というようなことが必要なのかなと思います。
そういう意味では、教師用指導書は教科書そのものではないため検定を受ける必要はないですが、やはり学習指導要領が改められ教科書の領土に関する記述が充実する際には、指導書の記述もより深くなるべきだと考えます。というのは、そのことを余り教えられていない世代が、私たちの世代となって、今学校現場の第一線に立ってくださっているからです。
○神本美恵子君 是非、週刊誌などでは教科書も金次第なんてことが書かれておりますし、やはり子供たちの手に渡る教科書はより良質なものでなければいけないし、多様な教科書の中からより良いものが選択されて、教科書そのものもその選択によってより良いものにまたなっていくという、そういう制度として機能してきたと思いますので、是非存続の方向で頑張っていただきたいと思います。
だから、そういうことはやっぱりやった方がいいんじゃないかというふうに私は思いますので、歴史教科書そのものをやるといったら、それはそれぞれ検定制度なり教科書のつくり方の違いがありますからこれはかなり困難でしょうけれども、やはり我が国と朝鮮半島、中国、これは非常にかかわり合いを持ちながら中世から近代へと来たということを踏まえて、そういう共同研究というふうなものについて踏み込んでいくということがあっても、
その意味では、本当は学術的にしっかりした専門的な角度から共同研究、歴史そのものの事実について共同研究がなされるようになればいいなとは思いますけれども、歴史教科書そのものの共同研究ということになりますと、それはなかなか、それぞれが具体的にどのような歴史的事象を取り上げてそれをどのように記述するかということはそれぞれの国の執筆者の判断にゆだねられているところであります。
また、この教科書そのものがどういう選ばれ方をするか、もちろん、検定あるいは採択という方法をとって無償の教科書が子供たちの手に渡るわけでありますが、どうも、この検定そのものの内容よりも、検定の方法、それから検定に参加する業者の数、あるいは採択の方法、これらになかなか問題があるのかなという感じが私はしております。
○松崎分科員 予算を出しているから云々とは言いませんけれども、やはりこの辺に今までの、戦後五十年間の中の、歴史教育も含めて教育の内容そのものに大変に、今日の日本の青少年を含めて、ゆがんでいる形をつくってしまった原因の一つに教科書そのものの問題があるのだ。それをチェックする文部省も、これだけ問題がある採択の問題に関して調査していない。
だから、教科書そのものも、日本の教育における教科書の使い方のような使い方というのは、アメリカなんかではしていません。教科書というのはほとんど副読本です。そのかわり、例えば理科の教科書を見せてもらったんですが、理科の教科書はこんなに厚いんですね。日本の理科の教科書よりずっと厚いんです。中を見ますと大変おもしろい。非常によくわかる、おもしろい書き方をしているんですね。
私は、教科書というのは最低限のことがきちっと盛り込まれていればいい、そういう意味で検定をやっていると思っておりますが、それを超えてまたいろんな社会の動き、政治の動きを教えることはもちろん妨げないわけでありますし、そのために学校ではそれこそ多様な副読本を使ったりあるいはいろいろな現場を見たりという形で補っているので、教科書そのものが全部個性的で全部違っていていいということとは必ずしもそこは一致しなくてもいいんではないのかなと
これは、今申し上げましたように、従軍慰安婦の問題だけでなく、まさにそういう意味ではある面からいえば非常に反目的とも言える、あるいは自虐的とも言える学校の歴史教科書そのものを見直そうという中で生まれたことであります。
○国務大臣(羽田孜君) これは、山花さんが御自身で書かれたもの、これに対してあの方は撤回されたということでありまして、教科書そのものは大分前からじゃないのかと思いますけれども、その中で常に検定を受けながらきたというものでありましょうから、それを私の立場で申し上げることはちょっとお許しをいただきたいと思います。
しかし、教科書そのものは著者あるいは教科書の出版社がつくるわけでございますが、しかし、その歴史認識について意見を交換する、こういうようなことは国としてもできるんじゃないか、あるいは国そのものがしないにしても、国がきちっと対応をした形でいろいろなチャンネルで話し合いをして、お隣の朝鮮との間はもう二千年、三千年、考えれば長いおつき合いがあるわけですから、一つの事実の見方についても、向こうからの見方どこちらからの
それではいけないので、やはり「うれうべき教科書の問題」をどう評価するかということは別といたしまして、教科書そのものを慎重に検定するという、そういう体制づくりが必要だろうということで、教科書調査官制度といういわゆる常勤の調査官制度を創設したのは三十年の後でございました。 それから昭和四十年、一九六五年に、今先生おっしゃいました東京教育大学の元教授の家永三郎氏が裁判を提起したわけでございます。
ですから、問題は教科書のあり方あるいは入試のあり方、これは臨教審でもいろいろと議論したわけでございますが、教科書そのもののあり方、入試のあり方そのものを変えていかないとどうも根本的には解決がつかない問題ではないかというふうに考えております。 それから日本史の問題でございますが、これは必修ということを先ほどおっしゃったわけでございますが、私は基本的にはこのように考えております。
そういう意味で、この問題、これ以上言いませんけれども、本当に今度新聞に出たばかりでございまして、私も教科書そのものを今手に持っていませんから、またこの問題は今後続けていきたいと思いますが、こういう問題は、やはり今あなたがおっしゃった、子供の発達段階に応じてと言うならば、その問題として論議をしていく必要があるんじゃないかということを痛切に感じておりますから、意見だけ申し上げておきます。
仮にそういう写真を全部教科書に載せて子供たちに見せることも、また一つの教育なのかもしれませんが、しかし、そういうことを子供たちがじっと見ておって、そういうことで戦争がいけないとか悪いものだという教え方をしなくても、教育というのは、教科書そのものを教えるのではなくて、歴史の場合などは教科書を中心にして、教師がいろいろな意味で物事を公正に客観的に、主観を交えないで教えていくことが大事なのでありまして、戦争
あるいは参考書が若干ある程度で、教科書そのものはないわけです。
それからまた、教科書そのものにつきましても、私は、もちろん教科書を書く方々は立派な先生方が書いているわけですから、この点に何ら問題を差し挟むわけではありませんけれども、ただ少なくとも、例えば世界史という教科書を見た場合に、世界の歴史が書いてあるはずなのに、書いてあるのが主にヨーロッパの歴史である。そういう形で世界史がつくられている。
少なくともこの数ページの間にしたって、その間の事情は書いてないんじゃないか、こう思うのですが、しかしきょうは時間もないですから、では後ほどに、もっと教科書そのものをたくさん持ってきて議論しなければわからぬことになります。
教科書そのものは、まあ教科書によって違いますけれども、五ページないし六ページ減っておりますが、その結果どういうことが起こっているかというと、逆に密度の濃いものになっているわけですね。時間数は削られる、教科書は減っていますが、いかにも教科書が減っているからこれは時間が少なくともやれるのじゃないかということなんですけれども、非常に中身が濃密になってくる。
そういったことを脅えますと、ここにも一つの矛盾がありますが、もう一つの大きな問題として私は非常に重要視したいのですが、この六十年からいわゆる教科書そのものが現実に変わる、それまでの二年間は大臣が所見を明らかにして教育の場に十分反映をさせるという。