2021-03-22 第204回国会 参議院 財政金融委員会 第4号
結構年食っていますんで、これでも戦前生まれだから。 そういった意味では、今の話はインフレが何になって起きたかという話はいろいろ、言い方はいろいろできますので。
結構年食っていますんで、これでも戦前生まれだから。 そういった意味では、今の話はインフレが何になって起きたかという話はいろいろ、言い方はいろいろできますので。
そういった中で、やはり原子力、核という言葉に対する、何と言ったらいいんでしょう、拒否反応といったものが戦前生まれの世代にはあるということをしっかりと承知した上で対応していくことが大事であろうと考えております。 また、戦後には、一九五四年にはビキニ被曝で改めて核の恐ろしさを認識させられました。
若い私が言っても、おまえ、何言うとんねんと思われるかもしれませんが、大臣はいつも、戦前生まれでというお話もされていますけれども、昨今、北朝鮮のミサイルも、いざ飛んでくれば、数分あれば飛んでくる時代で、この取引だってまばたき一回の間に何百回という取引をする、そういう時代になってまいりましたが、そういう時代だからこそ、しっかりとして監督官庁としてやらなきゃいけないことがあると思いますので、そういった意味
とりわけ、国会でも七百を超える議員がおられますが、恐らく何十人、五、六十人ぐらいしか、一割にも満たない方しか実際の戦前生まれという方はいらっしゃらない。そんな中で、私は、非常に今想像力が全体として欠如している、そういった危機感を持っております。 私、戦後生まれと申しましたが、実は私の二人の祖父は、シベリアに行って戦って抑留をされた。
○国務大臣(麻生太郎君) もうここで戦前生まれの方というのは二人ぐらいですかね、ほかにおられないと思いますけれども。これは、今でも宮崎県に行かれると八紘一宇の塔というのは建っております。宮崎県の人いない。八紘一宇の塔あるだろう。知ってるかどうか知らないけど。ねえ、福島さんでも知っている、宮崎県に関係ないけど。八紘一宇っていうのはそういうものだったんですよ。
そして、盗用する人間が、戦前生まれの辛光洙のような人たちは日本語がしゃべれるんですが、若い現地化された工作員をつくるためには教官が必要だということで、教官拉致が行われた。 今、日本政府認定の十七人のうち、ヨーロッパで拉致された三人を除くと十四人です。そのうち十三人は、金正日の命令の一年後の七七年と七八年に集中的に拉致されています。
私は戦前生まれで、小学校時代というのは昭和二十年代ですから年がばれるんですが、当時、私が学んだ田野小学校という学校にこども郵便局というのがありました。私は、小学校六年のときに、そのこども郵便局の局長をさせていただいた。まずここにおられる方で小学校時代に局長を経験した人というのは僕以外いないんじゃないかと思うんですが。 当時、戦争に負けて、戦後復興に膨大な資金を必要とした時代です。
私は戦前生まれですから、戦前のあの戦の中で軍人がとった行動というのは子供ながらに見てまいりました。特に、個人的な話をしますと、私のおじは、終戦間際、離島から私どもの食糧を調達するためにくり舟で出かけていったんです。それをとがめられて、守備隊にスパイ容疑でその場で射殺された。軍人というものの怖さ、軍人のかたくなな思い、それは大変恐ろしい思いをしていました。経験もしました。
私も戦前生まれでございまして、ある程度戦争も知っていますけれども、そういう従軍慰安婦がおったかどうかというところまで知る年齢ではございませんでしたので、体験はありません。したがって、文献その他ですけれども、私の公式的な見解は、河野官房長官の談話に尽きている、そのように思っています。
○泉委員 大臣はお若く見えますので、戦前生まれというふうにはなかなか私も見えないところもあるんですけれども。大変お元気な大臣ですので。 もう一つ、御党の太田代表が、集団的自衛権の行使は認めないと、これは改めての発言でありますが、おっしゃられました。
私ども戦前生まれの者は、私も兄弟が六人おりますけれども、明治以降、引き続く大戦で子供たちが戦争にとられていく、少し多目に産んでおかないと何人かとられてもしようがないような環境でもありました。
○国務大臣(麻生太郎君) ちょっと漠然とした質問なんで、沖縄をどう考えておられるということかな、そういう意味なんだと存じますが、少なくとも戦前生まれですから、私の家も全部空襲で焼けましたし、そういった意味ではかなり悲惨な状況というのを知っておりますので、そういった意味におきましては焦土戦と、焦土戦という言葉は通じませんかな、もう今、焦土戦というのを現地でやられた沖縄というものに関しましての理解というのは
私は、数年ですけれども、一応戦前生まれでございますので、終戦後の十数年間、物のなかったひもじかった時代を経験しております。
○衆議院議員(冬柴鐵三君) 私はもう戦前生まれでございますし、戦争の体験もあります。そういう中でずっと昭和を生きてきたわけでございますが、質問者がおっしゃるように、豊かな時代もあれば、失われた十年の一部に入っていた時代もあります。
実は、二〇〇〇年の初頭ぐらいには、国会議員、例えば衆議院でいうと、戦前生まれの方々が大体三分の二だったんですね。戦後生まれが百八十八人で三分の一だったわけです。それが、この二回の選挙を経て、現在、実は戦後生まれがもう三分の二になっているんですね。
○尾辻国務大臣 まず、冒頭言われましたことについて申し上げますと、私も、先生が区別された戦後生まれ、戦前生まれの区別でいきますと、戦前生まれでございます。そして、戦争の苦しみを、父も戦死しておりますから、よく知っておる一人であります。 そういう立場で申し上げますと、確かに、もう戦争が風化したのかなという思いを最近しないでもありません。
児童虐待防止法の論議の中でも、懲戒に係る民法の規定というのは戦前生まれのものだ、ですから、現在では子どもの権利条約によって解決すべき問題であるという議論が繰り返しなされております。 今、調べてみますと、二〇〇二年十一月には、栃木県で養育里親による児童の傷害致死事件まで生まれているんですね。ですから、やはり現状を厳しく見る必要がある。
そのときに一緒に行った戦前生まれの同僚議員に、自分たちが子供のころもこうだったというふうに言われたことを私は鮮明に覚えておることでございます。 つまり、私どもの考え方、今の二十一世紀の日本に生きる我々の考え方と、ある意味、非常に異なる国家の運営がなされているのではないだろうか。
ヨーロッパ等、馬車馬が昔から走っていたわけでありますから、道路は自動車、そういうものになじむことが何百年前からあったわけですけれども、日本の場合は何といってもかごの国、あるいは馬が、あるいは大八車が通る道路ということで、泥だらけで石ころだらけということで、道路が後れていたということは戦前生まれの私としてはよく皆様とともに分かるわけですけれども。
私は戦前生まれでございまして、調べてみました。閣僚の皆さん、総理を含めまして十八人おみえになります。この中で、戦前派の閣僚は十名いらっしゃいます。ですから、私が戦前の体験をもとにしてお話をしても、御理解いただける部分も多いんじゃないかと思っております。 戦前の体験といいますのは、私、子供時代でしたが、軍国主義体制でございました。現在は民主主義国家でございます。
戦前生まれは絶対反対と、戦後生まれは自由度高まるからいいんじゃないかと。
そういうものを入れ込むということは、私も戦前生まれでありますけれども、かつての強要された奉仕活動ということを連想する人が少なくないと思います。私は、言葉というものは時代をとらえた新鮮なものを目指すべきだと思います。 そこで、では私は何を言うかというと、この奉仕という言葉にかえて社会貢献活動というふうな表現なら、私は大賛成であります。つまり、自発的で自由意思による社会貢献活動であります。