運営者 Bitlet 姉妹サービス
使い方 FAQ このサイトについて | login
64件の議事録が該当しました。

該当会議一覧(1会議3発言まで表示)

2016-04-26 第190回国会 参議院 財政金融委員会 第10号

したがって、このときの内閣が、犬養毅内閣がこの時代だと思いますので、憲政会だったのでこの方は経済分からぬというので、時の政友会総裁だった高橋是清という元日本銀行総裁、元大蔵大臣、元内閣総理大臣という人を、民主党の方に頼んで自民党が、いや、逆か、これは、あのときは逆ですから、民主党自民党に頼んで財務大臣を出せということを約束して、そのときに高橋是清は、五回目かな、ぐらいの財務大臣を引き受けてそれをやって

麻生太郎

2016-03-22 第190回国会 参議院 財政金融委員会 第5号

○国務大臣(麻生太郎君) やはり中西先生、一九三〇年代にいわゆるデフレというのは最近で起きた最後のデフレですけれども、このデフレが起きて、日本の場合は、当時の憲政会政友会に頼んで、日本では、今でいえば民主党自民党に頼んで財務大臣やってくれと言って、時の政友会総裁高橋是清大蔵大臣を依頼する。

麻生太郎

2013-11-14 第185回国会 参議院 総務委員会 第4号

なぜかと申しますと、これは戦前歴史がございまして、大正デモクラシーという中で二大政党ができ、政友会憲政会という二大政党ができて、それでいろんな政治民主化が進んだわけではございますけど、その当時何が起きたかと申しますと、そもそも官僚制度山県有朋がつくったときには、官僚というのは官僚人事を決めていくというもの、それを変えたんですね。なぜかというと、政党が力を持ち始め、政党政治を始めた。

藤末健三

2013-06-21 第183回国会 衆議院 決算行政監視委員会第一分科会 第1号

そのときに、日本犬養毅という方が内閣総理大臣だったので、たしかこの方は憲政会だと思いましたが、とにかくこの非常事態にあって、政友会総裁だった、元日銀総裁、元内閣総理大臣だった高橋是清を引き抜いて、引き抜いてというのはちょっと聞こえが悪いね、頼んで大蔵大臣を引き受けてもらう。  

麻生太郎

2013-06-12 第183回国会 衆議院 厚生労働委員会 第20号

次に、日本精神科病院政治連盟の平成二十一年度の収支報告書を抜粋として添付させていただいていますけれども、田村大臣の地元、自民党三重県第四区総支部陣中見舞いで三百万、寄附で三十万、資金管理団体憲政会にも三十万の寄附が行われています。これはほかにも、ここにもずっと、三百万、三百万、二百万、二百万と陣中見舞い自民党の総支部寄附が行われているんです。  

大西健介

2010-04-21 第174回国会 衆議院 内閣委員会 第8号

昭和二年からは、憲政会政友本党の合併によりまして、立憲民政党立憲政友会のまさに二大政党時代が続いたわけであります。  このときに、政策でも大きな対立点がありました。まず、経済政策では、政友会は、インフラ整備のための公共事業公債発行積極財政主義をとりました。一方、民政党は、行財政整理金解禁などの緊縮財政主義でありました。外交政策でも、幣原外交と呼ばれる協調外交内政不干渉主義民政党

岸本周平

2010-02-24 第174回国会 衆議院 予算委員会公聴会 第1号

それで、一九三〇年に、当時の浜口雄幸、この方は大蔵省出身憲政会の首相です。この方と、それから日銀出身井上準之助大蔵大臣、この二人の方がタイアップして昭和恐慌ということをして、財政を、思い切って、前年に比べて五%、一〇%削減しました。その左上のグラフで黄色になっていますね。一〇、一五と落ちています。これで落ち込んで、それで結局、その下を見てみますとマイナス三〇とありますでしょう。

菊池英博

2005-09-30 第163回国会 衆議院 予算委員会 第2号

しかし、戦前も中選挙区で、政友会憲政会二大政党政権交代があったんですよ。だから、選挙制度によって政権交代しやすい、しにくい、若干の差はあったとしても、中選挙区だから政権交代できないというのは、これは当てはまらないという議論をしたことを覚えております。  現に中選挙区で自民党が過半数を割る可能性というのは十分あったんですから、この小選挙区に移る前に。

小泉純一郎

2005-07-12 第162回国会 衆議院 法務委員会 第26号

手元に、一九二五年の治安維持法の本会議において、当時の憲政会加藤高明内閣若槻礼次郎内務大臣に対して、星島二郎議員、そしてさらに三番手として鳩山一郎議員代表質問を行っている。委員会質問星島二郎議員が行っておられます。  「普通選挙を断行せんとし、貴族院改革を致さんとする現政府を支持致して居る一人であります、」星島二郎議員はこのように冒頭で述べております。

辻惠

2002-04-09 第154回国会 参議院 国土交通委員会 第8号

鉄道について引き続き質問させていただきますが、昔、政友会憲政会鉄道整備方策について大きな政党を挙げて争ったことがございます。そのときには建主改従改主建従という言葉で争われたわけでございますが、建というのは建設を、新設を主とする、改良を従とする。あるいは、改良を主とする、建設を従とする。

荒井正吾

1993-04-21 第126回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第9号

大正十四年に、護憲三派が勝利を占めて、護憲三派、政友会憲政会、革新倶楽部がそれぞれの選挙区にそれぞれの候補者を立てられるようにしようということから、三人ないし五人の中選挙区制ができ上がったわけでございました。これが昭和三年に初めて実施されまして、自来二十四回衆議院の選挙を行っているわけでありますけれども、違った仕組みをとったのはただの一回、昭和二十一年だけでございました。

奥野誠亮

1993-04-13 第126回国会 衆議院 本会議 第19号

我が国の歴史をひもといてみましたときに、大正十四年、護憲三派、政友会憲政会、革新倶楽部がみずから生き残るために、三人から五人の選挙区を構築したのであります。また、そうして昭和二十二年にこの制度を復活したとき、その当時は進歩党、自由党、そうして社会党、国民協同党、これらがみずからの立場を守るためにこの制度を復活したのでありまして、これは世界的に見て、一党制度でもなければ多党制度でもございません。

石井一

1993-03-17 第126回国会 衆議院 政治改革に関する調査特別委員会 第3号

したがいまして、現在の日本の中選挙区制というのは、これは大正十四年に、やはり人の和というのですか、あのときにありました政友会憲政会革新倶楽部、三つの政党がおのおの出るようにということで、あのときの知恵によってできたのだと思いますけれども、六十何年やってみると、いろいろな弊害が出てきた。

亀井正夫

1991-09-27 第121回国会 衆議院 政治改革に関する特別委員会 第7号

また、中選挙制度というものがしかれましたときも、自由民主党の記録によると、大正十四年には、いわゆる護憲三派と言われた政友会憲政会、国民党連立内閣のもとにあったのでありますけれども、このときの選挙制度を決めるときのいろいろな主張を読んでみると、政友会は小選挙区制を主張された、憲政会は大選挙区制を都道府県単位で主張された、その三派のいろいろな話し合いの中で生まれたのがこの中選挙区制であったということが

海部俊樹

1985-06-24 第102回国会 衆議院 本会議 第38号

もちろんこのときの政治情勢から、憲政会、革新倶楽部政友会政治的妥協の産物であったことは私も否定をいたしませんが、以来、日本民主主義はこの中選挙区制の中で発展してきたこともまた事実でございます。三十九年あるいは五十年の定数是正も増員によりましたけれども、六名区以上になるところにつきましては最低三名を基準といたしまして分区をしたのでありまして、二名ではなかったのであります。  

佐藤観樹

1978-11-21 第85回国会 衆議院 大蔵委員会 第4号

と申しますことは、十月十七日のエコノミストにおいて、「金融・商社の再編成」という中で、記者が、戦前三菱憲政会と非常に関係があって、しかも四十九年七月の参議院選挙のときには、三菱グループとして某という人を支援しておったというような事情がある、それで、三菱政治との関係はどうかと言いましたときに藤野会長は、うちの仕事は「半分以上は輸出か輸入で、外国との関係ですよ。

大島弘