2016-04-26 第190回国会 参議院 財政金融委員会 第10号
したがって、このときの内閣が、犬養毅内閣がこの時代だと思いますので、憲政会だったのでこの方は経済分からぬというので、時の政友会の総裁だった高橋是清という元日本銀行総裁、元大蔵大臣、元内閣総理大臣という人を、民主党の方に頼んで自民党が、いや、逆か、これは、あのときは逆ですから、民主党が自民党に頼んで財務大臣を出せということを約束して、そのときに高橋是清は、五回目かな、ぐらいの財務大臣を引き受けてそれをやって
したがって、このときの内閣が、犬養毅内閣がこの時代だと思いますので、憲政会だったのでこの方は経済分からぬというので、時の政友会の総裁だった高橋是清という元日本銀行総裁、元大蔵大臣、元内閣総理大臣という人を、民主党の方に頼んで自民党が、いや、逆か、これは、あのときは逆ですから、民主党が自民党に頼んで財務大臣を出せということを約束して、そのときに高橋是清は、五回目かな、ぐらいの財務大臣を引き受けてそれをやって
○国務大臣(麻生太郎君) やはり中西先生、一九三〇年代にいわゆるデフレというのは最近で起きた最後のデフレですけれども、このデフレが起きて、日本の場合は、当時の憲政会が政友会に頼んで、日本では、今でいえば民主党が自民党に頼んで財務大臣やってくれと言って、時の政友会総裁高橋是清に大蔵大臣を依頼する。
お手元に、資金管理団体憲政会、政治団体田村憲久君を応援する会、自由民主党三重県第四選挙区支部の収支報告書から、厚生労働行政に関係すると思われる団体、これ以外の団体からも当然いろいろな献金とかを受けられているわけですけれども、それだけを抜き書きして、私の方で整理をしてみました。
なぜかと申しますと、これは戦前の歴史がございまして、大正デモクラシーという中で二大政党ができ、政友会と憲政会という二大政党ができて、それでいろんな政治の民主化が進んだわけではございますけど、その当時何が起きたかと申しますと、そもそも官僚制度を山県有朋がつくったときには、官僚というのは官僚で人事を決めていくというもの、それを変えたんですね。なぜかというと、政党が力を持ち始め、政党政治を始めた。
そのときに、日本は犬養毅という方が内閣総理大臣だったので、たしかこの方は憲政会だと思いましたが、とにかくこの非常事態にあって、政友会の総裁だった、元日銀総裁、元内閣総理大臣だった高橋是清を引き抜いて、引き抜いてというのはちょっと聞こえが悪いね、頼んで大蔵大臣を引き受けてもらう。
次に、日本精神科病院政治連盟の平成二十一年度の収支報告書を抜粋として添付させていただいていますけれども、田村大臣の地元、自民党三重県第四区総支部、陣中見舞いで三百万、寄附で三十万、資金管理団体の憲政会にも三十万の寄附が行われています。これはほかにも、ここにもずっと、三百万、三百万、二百万、二百万と陣中見舞いで自民党の総支部に寄附が行われているんです。
少なくとも、よく最近出てくるようになった高橋是清が、一九三一年の十二月、犬養内閣で、政友会の総裁が、憲政会の方の、大蔵大臣になったんですが、就任する前の日に、深井英五、時の日銀副総裁が高橋是清のうちに訪ねていって、そこで金解禁やめろという話をする。それが歴史ですから。
昭和二年からは、憲政会と政友本党の合併によりまして、立憲民政党と立憲政友会のまさに二大政党の時代が続いたわけであります。 このときに、政策でも大きな対立点がありました。まず、経済政策では、政友会は、インフラ整備のための公共事業と公債発行の積極財政主義をとりました。一方、民政党は、行財政整理、金解禁などの緊縮財政主義でありました。外交政策でも、幣原外交と呼ばれる協調外交、内政不干渉主義は民政党。
それで、一九三〇年に、当時の浜口雄幸、この方は大蔵省出身の憲政会の首相です。この方と、それから日銀出身の井上準之助大蔵大臣、この二人の方がタイアップして昭和恐慌ということをして、財政を、思い切って、前年に比べて五%、一〇%削減しました。その左上のグラフで黄色になっていますね。一〇、一五と落ちています。これで落ち込んで、それで結局、その下を見てみますとマイナス三〇とありますでしょう。
しかし、戦前も中選挙区で、政友会、憲政会、二大政党で政権交代があったんですよ。だから、選挙制度によって政権交代しやすい、しにくい、若干の差はあったとしても、中選挙区だから政権交代できないというのは、これは当てはまらないという議論をしたことを覚えております。 現に中選挙区で自民党が過半数を割る可能性というのは十分あったんですから、この小選挙区に移る前に。
手元に、一九二五年の治安維持法の本会議において、当時の憲政会の加藤高明内閣の若槻礼次郎内務大臣に対して、星島二郎議員、そしてさらに三番手として鳩山一郎議員が代表質問を行っている。委員会質問も星島二郎議員が行っておられます。 「普通選挙を断行せんとし、貴族院改革を致さんとする現政府を支持致して居る一人であります、」星島二郎議員はこのように冒頭で述べております。
やはり戦前の幹部公務員、当時の言葉で言いますと官僚ということになるわけですが、時には政友会、時には憲政会、そういう政党と非常に密接に結び付いて、政権が替わるたびに大幅な幹部公務員の人事異動が行われたと。
鉄道について引き続き質問させていただきますが、昔、政友会と憲政会が鉄道の整備方策について大きな政党を挙げて争ったことがございます。そのときには建主改従と改主建従という言葉で争われたわけでございますが、建というのは建設を、新設を主とする、改良を従とする。あるいは、改良を主とする、建設を従とする。
大正十四年に、護憲三派が勝利を占めて、護憲三派、政友会、憲政会、革新倶楽部がそれぞれの選挙区にそれぞれの候補者を立てられるようにしようということから、三人ないし五人の中選挙区制ができ上がったわけでございました。これが昭和三年に初めて実施されまして、自来二十四回衆議院の選挙を行っているわけでありますけれども、違った仕組みをとったのはただの一回、昭和二十一年だけでございました。
我が国の歴史をひもといてみましたときに、大正十四年、護憲三派、政友会、憲政会、革新倶楽部がみずから生き残るために、三人から五人の選挙区を構築したのであります。また、そうして昭和二十二年にこの制度を復活したとき、その当時は進歩党、自由党、そうして社会党、国民協同党、これらがみずからの立場を守るためにこの制度を復活したのでありまして、これは世界的に見て、一党制度でもなければ多党制度でもございません。
したがいまして、現在の日本の中選挙区制というのは、これは大正十四年に、やはり人の和というのですか、あのときにありました政友会と憲政会と革新倶楽部、三つの政党がおのおの出るようにということで、あのときの知恵によってできたのだと思いますけれども、六十何年やってみると、いろいろな弊害が出てきた。
また、中選挙区制度というものがしかれましたときも、自由民主党の記録によると、大正十四年には、いわゆる護憲三派と言われた政友会、憲政会、国民党の連立内閣のもとにあったのでありますけれども、このときの選挙制度を決めるときのいろいろな主張を読んでみると、政友会は小選挙区制を主張された、憲政会は大選挙区制を都道府県単位で主張された、その三派のいろいろな話し合いの中で生まれたのがこの中選挙区制であったということが
もちろんこのときの政治情勢から、憲政会、革新倶楽部、政友会の政治的妥協の産物であったことは私も否定をいたしませんが、以来、日本の民主主義はこの中選挙区制の中で発展してきたこともまた事実でございます。三十九年あるいは五十年の定数是正も増員によりましたけれども、六名区以上になるところにつきましては最低三名を基準といたしまして分区をしたのでありまして、二名ではなかったのであります。
ただ、政友会なり憲政会なり政党政治ではありましたけれども、政友会と憲政会はかなり意味合いが違いますけれども、やはり議会のビヘービアというものがかなり違っていたのじゃないかという感じがいたします。
と申しますことは、十月十七日のエコノミストにおいて、「金融・商社の再編成」という中で、記者が、戦前の三菱は憲政会と非常に関係があって、しかも四十九年七月の参議院選挙のときには、三菱グループとして某という人を支援しておったというような事情がある、それで、三菱と政治との関係はどうかと言いましたときに藤野会長は、うちの仕事は「半分以上は輸出か輸入で、外国との関係ですよ。