2021-06-14 第204回国会 衆議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第3号
北海道が新事業として検討している船上で慰霊祭を行う洋上慰霊について、元島民らでつくる千島歯舞諸島居住者連盟の方々も実施を求めており、去る五月二十六日は、北海道とともに外務省と内閣府に要望されました。 政府におかれましても、元島民の方々の心をしっかりと受け止めていただき、是非とも実現をしていっていただきたいと思います。見解を伺います。
北海道が新事業として検討している船上で慰霊祭を行う洋上慰霊について、元島民らでつくる千島歯舞諸島居住者連盟の方々も実施を求めており、去る五月二十六日は、北海道とともに外務省と内閣府に要望されました。 政府におかれましても、元島民の方々の心をしっかりと受け止めていただき、是非とも実現をしていっていただきたいと思います。見解を伺います。
○西銘委員 沖縄県でも、沖縄県全体での慰霊祭は、慰霊の日、六月二十三日に行っております。石垣は石垣で行っておりますが、地元の要望としては、昭和四十四年に続いて、是非とも魚釣でやりたいという強い要望であります。ですけれども、政府の、官房長官の公式な答弁では、上陸は認めないということも伺っております。 それでは、少し視点を変えて、尖閣諸島は我が国固有の領土であると、歴史上も国際法上も。
そこでの慰霊祭を地元の市長からはさせてほしいと。一九六九年、昭和四十四年には、当時の市長が魚釣島に上陸をして慰霊祭を行っているという事実もあります。このように地元からは様々な要望、最近、尖閣の地番をそれぞれつけたということで、地番標柱を建立させてほしいという要望もありますが、ここでは総合的に判断をして慰霊祭一本に絞ってお伺いをしたいと思います。
○芳賀道也君 十年節目だと、政府の慰霊祭も政府主催では行わないんだということになっていますけど、全く変わらない。では、少なくとも子供たちに対してはそうしたタイムテーブル、目標の、より安全にしていくという目標のタイムテーブルを作るべきではないかと私は思いますが、大臣、これもし御感想ありましたら。大臣はどうお考えですか。
三月十一日には東日本大震災の慰霊祭が毎年行われまして、私も伺っておりますけれども、遺族の方の話を毎回聞くことになりますけれども、決して思い出したくない話もあれば、だからこそ、これは記憶から薄らいだものにしてはいけないという思いもあろうと思います。
○国務大臣(武田良太君) お話にありましたように、佐賀県警におきましては、明治時代に感染症対策に従事して職に殉じられました増田巡査の慰霊祭を毎年実施しているものと承知をいたしております。 増田巡査はもとより、国民を守るため、危険を顧みずに日夜奮闘する警察職員に改めて敬意を表したいと存じます。
初めての慰霊祭の日は、ボランティアセンターの仲間で、作業車で浜に行き、海に向かって黙祷をし、帰りの車中で慰霊式典の様子を聞きました。御遺族の方のお言葉に、車内全員が泣きながら聞いたのを覚えています。今でも心の戦友であります。 野外で私が活動している様子を、当時、町の地域福祉課長として見回りでごらんになっていたのが、今の寺沢町長であります。
そこでも私はよくお参りをさせていただいていますし、また、八月十五日の政府主催の、第二次大戦で亡くなられた全ての方々、これは、都市空爆と言うんですか、そういうことによっても、全ての亡くなられた方々に対して、追悼慰霊祭にお参りをさせていただいております。それと同じような気持ちでお参りをさせていただきましたということを申し上げました。
三・一一の日にみんなで慰霊祭で祈っていただくのはいいんですけれども、自分の願いは、こんな悲しいことを二度と起こさないでほしい、そのために津波の避難訓練を徹底してほしい、自分たちの災害があった後、西日本や全国で水の災害を見るたびに、そこでお亡くなりになった方、孤立されている方、ニュースで見るたびに大変悔しい思いをする。
ちなみに、私も三月十一日には政府主催の慰霊祭に出席させていただきました。たくさんの被災者、その代表者四人の方が本当に訥々とその思い出とこれからをお話しいただきましたけれども、それぞれまた本当に涙なくして聞かれない、そういうようなことでございました。なるがゆえに、我々、それを乗り越えて、しっかりこの災害に立ち向かい、また復興を目指さなきゃいけないということを感じたところであります。
○森まさこ君 原田大臣には政府主催の慰霊祭に出席をしていただき、そして、あきもと副大臣が福島県主催の慰霊祭に出席していただきまして、ありがとうございました。 続けて、内閣府の防災担当にも同様の趣旨の質問をしたいと思いますが、私は、一年前の東日本大震災復興特別委員会、二〇一八年の四月四日でも質問をいたしましたが、その後の状況について確認をさせていただきたいと思います。
私は、長野県護国神社の例祭に総代会の会長として参列し、戦没者のみたまに手を合わさせていただいておりますが、それに加え、各地の戦没者慰霊祭、神社の霊社みたま祭り、あるいは旧陸軍墓地の慰霊祭といったものにも毎年参加させていただいております。 これらはいずれも、この地域からお国のために出征し、一命をささげた英霊を慰める儀式であり、遺族会の皆様を中心に催行されております。
そういう中で、毎年硫黄島に御遺族が慰霊の旅をしたり、あるいはアメリカとの合同慰霊祭、これは外務省がやっているということですが、チャーター機飛ばしているらしいんですね。もし政府の専用機があれば、飛行機があれば御高齢の方をお乗せすることにも助かると思うんですが、外務大臣、どうでしょうか、この辺の考えをお聞かせください。
船上で洋上の慰霊祭を実施する結果となってしまいました。私も、団員の方々の無念さに思いをいたした次第でございます。 元島民の方々など関係者、そして、先生からもありました、これまでにも上陸率を向上させるためのさまざまな御提案をいただいております。
しかし、まだまだ、かつていた皆さんの人口から勘案しますと、帰還する方というのはなかなか増えていかない現象がありまして、私は、今年の三月十一日に富岡町の慰霊祭があって、そこに参加してまいりましたとき、現地の保健師の方から、地域医療再生支援予算、これが無駄に使われている、本来町が必要としていること、ニーズに沿って使われていないという訴えを聞いてまいりました。 そこでお伺いします。
含まれているという考えはだめだというのは、逆に、吉野大臣が、昨年、安倍総理が慰霊祭のときに原発事故災害という言葉を使わなかったからこれはよくないということで、吉野大臣が、ことしの慰霊祭の追悼の言葉には入れるようにというのを言ってあるんですよ。 これは、大震災がきっかけで原発事故が起きていますけれども、質が違うんです。地震と津波。原発事故災害は今でも継続中の災害です。
私は、毎年自衛隊の慰霊祭に出席をしております。毎年残念ながら何人かの殉職者が出ている。もう既に二千人を超えている殉職者が出ているのは事実でございます。そして、かつ皆さん若い方でありますから、奥さんも若い方であり、お子さんは赤ちゃんだったりするわけであります。皆さん涙に暮れている。私は、最高指揮官として常に責任を感じているわけであります。
○小熊委員 あとは総理にどう言ったかということも聞きたいんですけれども、昨年の三・一一の慰霊祭のときには、総理の言葉の中に原発事故というのが入っていなくて、これは地元で大きな騒ぎになりました。そのことを吉野大臣の会見で記者からも質問されて、ことしはどうするんですかと言ったら、総理に言うと会見で答えていますけれども、この点についてはもう総理に指摘をされましたか。
これを受けて、外交ルートで累次にわたってロシア側に働きかけを行った次第ですが、結果としましてこれらの墓地自体への訪問は実現できず、現場での調整の結果、瀬石及びニキシロの墓地に関しては墓地に近い地点で慰霊を行う、東沸については洋上慰霊祭を行った、こういったことであります。こうした結果につきましては、誠に残念であると感じています。
これらの墓地自体の訪問は実現できなかったところでございますが、現場での調整の結果、瀬石とニキシロの墓地に近い地点で慰霊を行い、東沸については洋上慰霊祭を行ったところでございます。 このような結果については、元島民の皆様の思いに鑑みれば誠に残念でございますけれども、政府としては、引き続き、元島民の方々の御希望に沿うような改善を不断に目指していく考えでございます。
そういった中で、影の部分なんですけれども、私がここで申し上げたいのは、六年経過して、先ほど慰霊祭の話をさせていただきました、慰霊祭のお一人お一人を、ずっと私は申しわけないなと思いながら、後ろ姿だったり、すれ違っておじぎしたりする際に見ると、やはりどうしてもお子さんを亡くされた御家族、御遺族はまだまだ時間が必要なんだと。 よく言葉で、時間が解決するという言葉もあります、事案によっては。
行政としては、やはり、慰霊祭。私は御質問を受けたことがあります、慰霊祭、いつまでやってくれるんですかと。百カ日、そして、六年ですから七回、今までやっております。 私は、何回目かの慰霊祭に、主催して、これも風化させない一つの取り組みだよなというふうに自分の心の中で折り合いをつけさせていただきました。
調整の結果として、これらの墓地に近い地点で慰霊を行いまして、東沸につきましては洋上慰霊祭を行ったというところでございます。 このような結果につきましては、元島民の皆様の思いに鑑みますればまことに残念なことでございまして、政府としては、元島民の皆様の御希望に沿えるよう、引き続きロシア側にしっかりと働きかけてまいりたいというふうに考えております。
ですから、毎年四月二十一日には、芳魂之塔という、守備兵士二千人、住民千五百人、合わせて三千五百人が祭られている、そこでみたまに対して慰霊祭が行われるということで、伊江村役場に確認しましたところ、本来、私も、きょう、もし委員会、本会議がなければ参加をする予定でしたが、きょう滞りなく挙行いたしますということで確認をいたしました。
これも、昭和三十年代ですが、時の秋田県知事の小畑知事だったと思うんですが、それと、琉球政府、当時米軍施政下ですから琉球政府の大田さんという主席が、焼け野原になった沖縄に何とか緑をということで、小畑県知事の提案で、小畑さんは、沖縄県の慰霊祭に来られて、沖縄の現場見て、こんなに焼け尽くして、これは大変だと、何とか緑を増やそうじゃないかって始まったのが緑の使者という運動なんですね。