2021-04-15 第204回国会 参議院 文教科学委員会 第9号
○横沢高徳君 私も障害があり、息子たちもこのヤングケアラーに当たるかなと、こう考えるところもあったわけでございますが、決して家庭で支え合いながら生きていてネガティブなことだけではないというところもある反面、本当に支援が必要な子供たちもたくさんまだまだいるんではないかということで、以前と違い、医療制度の改革などで病気やけがで入院してもある程度の期間が来たらすぐ自宅へ退院しなければならないような今の状況
○横沢高徳君 私も障害があり、息子たちもこのヤングケアラーに当たるかなと、こう考えるところもあったわけでございますが、決して家庭で支え合いながら生きていてネガティブなことだけではないというところもある反面、本当に支援が必要な子供たちもたくさんまだまだいるんではないかということで、以前と違い、医療制度の改革などで病気やけがで入院してもある程度の期間が来たらすぐ自宅へ退院しなければならないような今の状況
そして、その昭和一桁世代という話、今局長からもさせていただきましたけれども、どうも私の周辺、私の一世代の上の方々は、自分の息子たちには、おまえは百姓になるなと、こんなつらくてしんどい仕事をおまえにはさせられぬと言って農業従事を積極的に勧めなかったということもあります。
先ほど来、地方銀行の経営が悪いとおっしゃった理由として、人口減の問題だとかそれから経費率が高過ぎるとか、そういうような末梢的なことをおっしゃっていますけれども、それは、例えば藤巻家が苦しくなった、それは息子たちのお年玉が減ったせいだというようなことを言っているようなものであって、幹の部分は私の収入が上がるか下がるかなんですよ。 なぜ地方銀行の業績が悪かった、これマイナス金利でもありません。
昨年、NHKのある番組で過労死事件と向き合う弁護士が取り上げられて、娘や息子たちが過労死した御遺族の声が紹介されました。少し紹介します。 電通勤務の高橋まつりさん、享年二十四歳を過労自殺で失った母、幸美さん。私は娘を助けられなかった、守れなかったという自責の念でずっと来た。彼女が弱かったから自殺したんじゃないかと思われるのは不本意。彼女の尊厳を守りたいと弁護士を頼った。
九〇年代は、日本の政治が大きく改革されて、政と官の関係が大きく見直された時期に当たりますし、これは私の私見ですけれども、平成六年、一九九四年の小選挙区制度の導入あるいは政党交付金制度の導入ということがなければ、私を含めて多くのサラリーマンの息子たちは、政治の世界に踏み入れることは恐らくなかっただろうというふうに思っております。
私らのときは、とにかく、何が何でもまずは免許証を取って車を買わなきゃ、とてもじゃないけれども楽しい生活にいろいろ影響が出ましたので、車は何といったって絶対大事なものだったと思うんですが、息子たちは買いませんもの。
特にTPPで、これはもう息子たちに継がせることができなくなったと言われる方々も非常に多いわけですね。 ですから、そういう中にあって今回の農協改革が来たということなんです。
当時、私は大阪で隊員の募集をしておりまして、国内で多くの反対もありましたし、この派遣の説明のために父兄の会合に行きますと、どうしてうちの息子たちがカンボジアに行かなきゃいけないんだと問い詰められたこともたびたびありました。 その十年後、私は、中部方面総監として兵庫県の伊丹の司令部に赴任しました。
特に、一戸複数加入というような方針もこの組合員拡大運動の中でとられてきたと思うんですが、これは、もともとみなし組合員制度という制度もありますから、家族会員みたいなものですね、そこのお父ちゃんが入っていれば、あとは家族はいろいろな形でJAのサービスを利用できるという仕組みも既にある中で、その一戸の中でも複数組合員、つまり、お父ちゃんが入ったんだったらお母ちゃんも入ってくれ、息子たちも、サラリーマンだけれども
そこで、大久保町長は、何とかこのすばらしい豊かな自然のところで子供の教育をしてやりたいと、そういう環境で思い切り遊ばせてやりたいということで、島を離れて本島に移住というか生活をしている子供たち、息子たちに、おまえのところの孫をひとつ引き取らせてくれと。そういう孫を学校や幼稚園で、すばらしい青空、海の下で育ててあげると。そして、伊仙町は支度金として三十万円出すと。
○塩崎国務大臣 私は、息子たちの進路について口を出したことは一度もないので、私は多分何も言わない、自分の選んだ道は自分の選んだ道ということだろうと思います。
今の農家、こうやって私も何十軒各農家を訪問させていただいてヒアリングさせていただくと、四十歳前後の息子たちが継いでいるんです。皆さん、サラリーマンをやめて継いでいらっしゃる。恐らく、リーマン・ショック後に会社をやめて農業大学校に入って、一年か二年農業を勉強しておやじの農業を継いでいるという方が結構多くて、結構やる気があります。
四十前後の息子たちが、サラリーマンをやめて、農業大学校で一年から二年勉強をして就農しているんです。ですから、彼らにとっては、四十ですから、今、ここで諦めてもう一回サラリーマンに戻るのか、せっかく農業を継いで、これからやっていくかという瀬戸際なものですから、そこのメッセージをぜひ明確に出してほしいと思うんです。その点についての再度の御答弁をお願いいたします。
そのフリーマーケットというのは、その当時ビーズアクセサリーが大変流行しておりまして、それを障害のある息子たちや障害のあるほかのお子さんたちと一緒に作る。でも、彼らは大勢の前で商売というか販売はできないんですね、障害から来る緊張であったり、そういうふうな特性があって。
○国務大臣(羽田雄一郎君) 先ほど息子たちの話も出していただきました。歩道を歩いていても安全だと思うなということを教えておりまして、車道の側、歩道であっても車道側は歩かないようにという指導を学校自体がしております。そういう日本で今あるというのが現状であるというふうに思っておりますし、そういう中でまだ五二%しか歩道もないという現状でございます。
後を継ぐ人がいないというのは、今の時代、企業を起こすことがダサいという印象があるのかもしれませんが、それ以上に、先ほど言った経営環境の悪さ、こういう中では息子たちに継がせることも難しいよね、そういう印象が多々あるわけでございます。 この意味から申しますと、私は、特に、事業承継に関する税制の対応ということ、これは大変望ましいことであると。
ですから、私はいい弟子をたくさん持った、おまえ、幸せな教師だと言われるんですけれども、それに対してちょっと反論しますと、私のことを幸運なおやじだというふうに例えてくれる人はいるけれども、そのおやじが息子たちに先立たれて死なれちゃったら、こんな不幸なおやじはないだろう。私の場合、期待していた教え子というのは、もう三人以上、私よりずっと若くして死んじゃっているんです。
息子たちや娘たちは都会に出ていってしまう、取り残されたような、関西の過疎に近いその村のお父さんの後を継いで住職になりました。孤縁社会と言われております。でも、そうじゃないのだ、若者でも、こうやってこの村に帰ってきて、みんなの、地域のきずなになっていきたい、そうして、志高く帰り、後を継ぎましたけれども、現実は大変厳しいのです。
ただ問題は、全般に年齢構成がこういうふうになって、その方々も、つまり我々世代の、六十五です、我々世代の友達が一生懸命頑張っているんですけれども、息子たちが継いでくれない、息子がいない、農業の後継者がいないということだけは、彼らも大変悩み深い。つまり、何らかの別の形、つまり産業化を考えないと、農業はこのまま座して死を待つことになるというふうに私は考えております。
それで、私が行った農家の一つは、要するに、発生はしなかったんだけれどもワクチンを打って、やっぱり止めるために六百七十頭の牛を全部亡くしてしまったという農家で、そこの方がおっしゃっておられましたけれども、息子たち夫婦は頑張ると言っていると、だから何とかやっぱりつなげていきたいという思いを話をされていまして、やっぱりそういう復興しようということでの思いにこたえていかなきゃいけないということを痛感をしました