2006-03-01 第164回国会 衆議院 予算委員会第五分科会 第2号
八月六日の日の情景を聞きますと、みんな同じように、軍の命令で、夏なのに敵の飛行機にわかるといかぬというので黒い服を着て、四列で隊列行進をしながら建物疎開の現場に向かっていったということであります。
八月六日の日の情景を聞きますと、みんな同じように、軍の命令で、夏なのに敵の飛行機にわかるといかぬというので黒い服を着て、四列で隊列行進をしながら建物疎開の現場に向かっていったということであります。
この方々が何百人も集まって、列車に乗って一時間ぐらいで広島市内に入り、それから、広島市内で行われておりました建物疎開といったような作業に従事しておられたわけでございます。 この国民義勇隊の活動につきましては、昭和三十四年に援護法が改正されまして、準軍属として国民義勇隊を認めるということでございまして、国民義勇隊の活動で障害を受けた者については障害年金の支給が申請できるというふうになりました。
実は、私の住んでおります広島に中国新聞という新聞社がございますが、ここ三年間におきまして、一九四五年八月六日の午前八時十五分に、今広島の平和公園となっております爆心地一帯の住民や勤労者、そしてとりわけ国の命令によって建物疎開に動員されていた動員学徒などの皆さんが、一人一人がどういう状況で被爆したのかという調査の作業を進めております。
この変化をもたらしたのは、言うまでもなく戦争下における住宅難の深化でありまして、空襲や建物疎開と称して道路を広げるために健全な建物をどんどん壊したわけです。さらに、建築資材の不足等によって戦争末期には大都市では非常な住宅難を生じたわけで、そのもとでこの借家人保護という機能が非常に大きな意味を持ってきたわけであります。
ともに学んだ友の大半は、八月六日に建物疎開作業をしていて無残な犠牲者となりました。そしてこの校舎は、被爆直後から救援拠点とされたのです。 同じように被災者を収容した同市立本川小学校では取り壊しの際、校地内から多くの犠牲者の遺灰が発掘されたとのことです。しかし本川小は一部を残して壊されました。 平和教育の拠点として活用できる袋町小西校舎は貴重な被爆遺跡です。
私も、あの日建物疎開に動員された女学校一年生の妹の生死を求めて、一カ月広島の町を歩き回りました。ちょうど九月六日、私はたまたま郊外におばが住んでおりまして、この家も傾いていたんですが、そこで世話になっておりましたが、そこへたどり着くなり倒れ込んでしまいました。体じゅう赤い斑点が出て、のどが焼けるように痛く、何も口にすることができない状態になりました。急性症状です。
○林紀子君 確かに十代の方たちがこれだけ亡くなっているというのは、建物疎開などで動員をされて、まさに爆心地、その中心に十代の若者、女学生、中学生がたくさん集まっていた、そういうことによるものだと思います。 今幾つかの数字をお教えいただきましたが、こうした結果は、赤ちゃん、子供、また女性であれお年寄りであれ無差別に皆殺しをする原爆の非人間性というものを示していると思います。
○榊委員 お尋ねいたしますけれども、戦争中に建物疎開といって民家を取り壊しました、駅前とかどことか。この法的な根拠はどういうものだったでしょうか。結局あれと同じようなものなんでしょうか。
姉は町内会組織からの勤労奉仕当番日のため、爆心地から一・一キロの国泰寺町で建物疎開作業中に被爆し、ほとんど全身やけどによる重傷を負いました。しかし、命だけは奇跡的に取りとめました。一緒に作業している五十人ぐらいのうちで助かったのは四、五人だと聞いております。小学校一年生だった私は、その日観音小学校で被爆いたしました。
それから「建設院分課規程」なんというのがございまして、ここにも四のところに「建物疎開及び防空土木水利施設の殘務處理に關する事項」なんというのがございまして、つまり国の責任であったわけです。それが貯水槽、防空壕の原状回復の請求権等一切を含んでいた戦時補償請求の消滅というところにひっかかっているわけですね。
○玉村参考人 第一の目標は、新橋の駅前は、御存じのとおり終戦前に一応建物疎開をいたしましたが、終戦後非常に混乱した時代に、その疎開あと地にいろいろな方が入ってまいられました。
それから、新橋の市街地改造事業とのかかわり合いでございますが、これは新橋商事が、先ほど申し上げましたように、建物疎開をしましたあとで東京都と賃貸契約をいたしておりますので、そういうことで関係がございまして、この事業にかかる前に、すでにそういう権利を有しておる方でございます。 なお、新橋商事のたな子の方がたくさんおられますが、先ほど申し上げましたような数字は概略の数字でございます。
○玉村参考人 当時の詳しいことを、私も資料を持っておりませんし、存じませんが、建物疎開をやって後に都が管理しておりました時代には、もちろん地代は払っておったと思います。その後のことについて、終戦後のこまかい数字等につきましては、ちょっと私いま資料を持っておりませんのではっきりは申し上げられませんが、何らかの形で地主との契約関係があったろうと思います。
これに、建物疎開によりまして取りこわした住宅が五十五万戸、それに、復員並びに海外の居留日本人が引き揚げてまいりましたので、それによる需要が六十七万戸となっております。それに、戦争中住宅の建設がストップしておったような状況で戦争中の供給不足、そういうものを加えまして、終戦時におきます住宅不足数は四百二十万戸というふうに算定されております。
建物疎開は当時幾らか費用は出ておる。農地補償の場合も出ておる。再補償もしておる。こういう犠牲があるということを考えた場合に、土地の処分等についてはあだやおろそかには考えられない。農民の血と涙がこもっている土地であるということを認識してもらいたい。単に広い土地だ、松の木がはえているという認識では間違いだということだけははっきりしておきたい。
軍需会社等に対する補償金、陸海軍納入物資の代金、土木請負業者の工事代金、沈没した船舶に対する補償金、個人や法人の企業整備の補償金、五万円をこえる建物疎開の補償金、五万円をこえる戦争保険金、銀行等の命令融資等による損失の補償金、社債等の元利補償金、こういうものがたくさん出てくるわけでございます。
それから建物疎開をやった諸君も、企業整備、みな中小企業です。何も補償をいただいておりません。戦争によって家が燃えた、工場が燃えた。何百万円という保険の契約を結んでおった諸君が、法人が一万円、個人が五万円だぞ。そうしてそれが打ち切られて本日まで何らの補償が行なわれていない。
第六には、五万円をこえる建物疎開の補償金、これは一体どうなっているか。第七には、戦時保険によりまして、保険金が法人は一万円、個人は五万円で切り捨てられている。そもそも保険金というものは、大体五十年に一回しか災害がないものとされている。五十年に一回そういうような災害があったときに、自力によって再建することのために、五十年間保険金をかけて、その一時の災害に備えるのが目的です。
建物疎開の問題もございます。軍事補償の問題もありますし、財産の問題もありますし、銀行預金の封鎖もありますし、保険の打ち切りもありますし、数えあげれば切りがないわけであります。そういうものに対しての、この問題はその中の一つだと思う。
○政府委員(關盛吉雄君) ただいま新橋の西口駅前広場都市計画決定は、全面的に広場として決定されておったのでありますが、お話の通りに、との新橋の西口地区は防空法の規定によりまして建物疎開を実施いたしまして、都が全面的に借地をいたしておったのでございます。
建物疎開の補償金、戦争保険の保険金というようなものは、わずかな控除額の設定はありましたけれども、おおむねこれらの戦争によって生じたところの国民の債権は、戦後におけるこの三つの立法によってほとんどなくされてしまっているのであります。
特にこの中には、今申し上げておるように、企業整備の補償金から建物疎開の補償金から戦争保険金は当然のこと、百姓が納めた馬匹薪炭類、そんなものの請求権から土木青負業者の工事代金、むろん軍需会社に納めた納入代金、それから政府がそういうところへ未支払いになっておる補償金、こういうようなものも全部この戦時補償特別措置法の制限対象になっておるのですよ。
従つて本陳情において述べられているような、罹災者と建物疎開者との間に異なる取扱いがされたわけでなく、平等の保護が與えられたのであります。 次に住民登録制度実施に関する陳情について申し述べます。すでにこれにつきましては本委員会において審議を了されておるところでありますから、政府としては別に申し上げることはございません。さよう御承知願います。
従つて本請願の趣旨とされるような罹災者と建物疎開者との間に異なる取扱いをしていなかつたのでありますから、御了承を願います。
それから東京都のいろいろな関係官僚がこの法律案の立案に当つたのではないかという御質問でありますが、実は首都建設法案は広島、長崎の法案が出ます前にこの問題は取上げておつたのでございまして、先程申しましたように、四千三百万坪に亘ります厖大な戦災都市を抱えまして、特に戦後行われました建物疎開等の残地等の整理は、この機会に東京都の都市計画事業と適応せしめまして、それぞれ具体的な方途を講じて置かなければ由々しい