2013-11-27 第185回国会 衆議院 内閣委員会 第9号
そしてもう一つ、堺屋さんは、「落日燃ゆ」の広田弘毅氏を引用しながら、もしこれが事務になってしまったら、私は軍人を現役大臣にさせてしまった広田弘毅になってしまうから、それはとても賛成できない、こういうことを記録に残してほしい、こうまで発言しているんです。 これは大事な問題なんです。そんないいかげんな答弁は許されないと思います。私は、政治家がやるべきではないか、政治主導をやるのであればと。
そしてもう一つ、堺屋さんは、「落日燃ゆ」の広田弘毅氏を引用しながら、もしこれが事務になってしまったら、私は軍人を現役大臣にさせてしまった広田弘毅になってしまうから、それはとても賛成できない、こういうことを記録に残してほしい、こうまで発言しているんです。 これは大事な問題なんです。そんないいかげんな答弁は許されないと思います。私は、政治家がやるべきではないか、政治主導をやるのであればと。
城山三郎の「落日燃ゆ」、広田弘毅の外交官としての生きざまが描かれておりますけれども、そういう覚悟、意気をいま一度、外務省の職員一人一人が胸に手を当ててしっかり頑張っていただきたいと思っております。
○吉村剛太郎君 一つの巡り合わせでしょうか、あの当時、福岡出身の広田弘毅が、そして今日、こういう状況の中、似たような社会状況の中で福岡出身の麻生総裁が総理に就いておられるということは何か運命じみたものを感じるわけでございますが、今、総理のそういう社会状況の認識、経済状況の認識を伺いまして、私も全く同じ考えを持っておりますし、感じ方をしておりますし、国民の方々も今総理の発せられた言葉を聞かれまして、あっ
私もその本は何度も読み返したんですが、俳優が、これは広田弘毅の半生を描いたドラマでございまして、広田弘毅役にたしか北大路欣也、それから盟友の吉田茂役に津川雅彦だったと思います。共にベテラン俳優で、重厚な演技はその番組に大変重い雰囲気を与えたなと、このように思っております。 広田弘毅は申すまでもなく福岡県出身でございまして、昭和十一年、二・二六事件で岡田内閣が総辞職をいたしました。
広田弘毅、吉田茂共に外務省の同期の入省だったと聞いておりますが、組閣に当たって反対ということで、結果的に陸軍の刑務所に入ったんでしたかね、あの後は。で、あれをもし受けてりゃ内閣総理大臣はなかったと思いますんで、人間の運はどう転ぶか分からぬと、最たる例だと、私はそう思っております。
七十二年前といいますと昭和十一年、昭和十一年の三月五日に、我が福岡が生みました広田弘毅という方が総理に就任をされました。昭和十一年三月五日といいますと、そのちょっと前に二・二六事件があったときでございます。そして、三日後の二月の二十九日に反乱兵士が帰順をいたしまして、その後、三月五日にこの広田弘毅に、まあ歴史上の人物ですから呼び捨てをさせていただきますが、大命が下った次第でございます。
例えば、外務省の先輩の広田弘毅さんがいわゆるA級戦犯ということに入っている。彼にしてみたら、おれが一生懸命とめようと思ったときに軍人たちが勝手に動いていって、どうしようもなかったと。ちなみに、広田弘毅さんは、吉田茂さんの同期で外務省に入ったんですね。 この広田弘毅は、城山三郎さんの「落日燃ゆ」によれば、一切の言いわけをしなかった。
一言で申しますと、これは、広田弘毅被告が文民で唯一死刑判決を受けたわけでございますけれども、基本的に責任というのは軍人にあったのであって、広田被告に対する判決は不当であるということ。それから、これは死刑ではございませんが、重光葵元外務大臣の禁錮七年でございますけれども、重光外務大臣は真に平和を求めて活動していたのであって、この判決は不当である、一言で言うとそういう内容の社説でございます。
○山口(壯)委員 大臣、私は前回も、吉田茂さんの外務省の同期入省の広田弘毅さんが、関東軍が現地でどんどんどんどん独断専行をして、決定を突きつけられたことによって、最後はA級戦犯として命であがなわれたということまで説明しました。今、決定がなければここに持ってこれないというのであれば、昔の関東軍と一緒なわけですね。
そういう意味では、国会がコントロールしていくということが、前も私は、おじいさんの外務省入省同期の広田弘毅さんの例をとって、広田弘毅さんが、関東軍がどんどんどんどん既成事実を積み重ねていって、結局コントロールできなかった。決定を突きつけられてコントロールできなかった。あのときに、統帥権干犯の話が大臣からありました。統帥権干犯の話だって、憲法では決めていないものです。
○麻生国務大臣 たびたび吉田茂が登場してあれですけれども、吉田と広田弘毅、同期の入省。広田が内閣総理大臣になったときに、外務大臣は吉田茂、陸軍は拒否、結果として吉田茂は戦犯を免れた。あのとき陸軍が認めていれば吉田茂も一緒にA級戦犯だったかもしれませんな。それが運命の分かれ道だったんだと思いますよ、僕に言わせると。
外務省に同期で入った人に、広田弘毅さんという人がいるんですね。吉田茂と広田弘毅は同期で入省した。吉田茂さんが中国とかに赴任しているときに広田弘毅が日の当たる坂道を上るものだから、いろいろ吉田茂さんも当時は悩んだそうです。でも、この広田弘毅さんが、戦後、A級戦犯になってしまうわけですね。要するに、自分が担当したときに軍の独走を抑えられなかったと。
その中には外務大臣も務めた広田弘毅のような、文官で本当に死刑が相当であったか疑わしい人もいるわけであります。こうした人々も含めて慰霊をするということが国家の責務であり、理解してほしいということを情理を尽くして近隣諸国に説明するということがあってもいいんではないかと思います。 小泉総理も平和を祈念して参拝するんだと、こう言われているわけでありますけれども、若干言葉が短いように感じます。
ですから、日本の悲劇は、広田弘毅という吉田茂の後輩が総理大臣になってしまった、中国と何とか和解したいと広田弘毅は何度も英国大使の吉田茂に英国に中国との仲介を頼む手紙を出しておりますが、これは「落日燃ゆ」という小説の中によく書いてありますが、それを全部吉田茂が握りつぶしております。それを握りつぶして、ついに日中戦争。
そして、広田弘毅氏は文民で唯一、A級戦犯、東京裁判で受けたと。これがよかったかどうかという判断は別として、そういうことが一つの理由とされたということがあります。
そして、その上に陸海軍大臣が現役の者でなければならないというようなこと、これが契機となって広田弘毅さんが極東軍事裁判で責任を負うことになったわけでありますが、そういうふうなことから内閣そのものを揺さぶる力も持っておったと。こういうようなところで、これは法制度としてこういうふうになっておったわけでありますね。 しかし、戦後はどうなっておるか。
これは個人的なことでまことに申しわけないのでございますが、私のおやじは、戦前、三期国会議員をやっておりましたが、そのときにいつも言っておりましたのは、私は広田弘毅さんが書いた「大自然」というのを持っておりますが、うちのおやじは、陸軍の偉い人とか海軍の偉い人とか政治家の偉い人に、みんな同じ字を書かせております。「大自然」と書かせているのです。
結局、松井石根大将と広田弘毅という時の文官の総理大臣、外務省出身の総理大臣は、その責任をとらされて首をくくられるわけだけれども、その罪状は何かというと、監督不行き届きです。監督不行き届きということになれば、松井大将は中支派遣軍の総司令官、その中の幾つかの司令官を見まして、南京を攻撃した上海方面軍の司令官は皇族だけれども、これは朝香宮さんだ。
私は、かつて外務大臣をして総理を一時期されました広田弘毅さんという人の本をある作家が書いているのを読みました。非常に不運な人なのだけれども、徹底した平和主義でやったけれども、時期が時期であったものですから戦犯で問われたわけですね。絞首台に上った。しかし、その過程は、読んでみる限りにおいて、非常に徹底した平和外交で、軍部を何とか抑えようとしてやられたという歴史を私は読んだことがある。
そして、これまた宮澤喜一総理とは大変御縁の深い吉田茂、広田弘毅さんと大変仲のよかった方でございますけれども、この方と近衛さんが、広田弘毅にぜひ引き受けてくれということをおっしゃるわけでございます。
一九四五年二月の十五日にはもう宮川船夫さんというハルビン総領事をしておられた人がマリク駐日代理大使を訪問して調停を依頼してますし、日魯漁業の田中丸さんという人で、これは広田弘毅さんの側近でしたが、この人が交渉してますし、それから重光、東郷外務大臣がスウェーデンのバッケ公使に頼んでいます。これはもう早い段階、三月の段階で始まっています。
この機会にちょっと聞いておきたいのですが、昭和十一年、二・二六事件のあと、広田弘毅内閣が道州制を発想した。そして十二年に日中戦争に入っていって、十六年、太平洋戦争に入った。十七年四月に東条英機首相の翼賛議会選挙が行なわれた。そして翼賛議会が生まれ、そして敗戦まで総選挙が行なわれなかった。それから昭和十七年九月二十六日から九月二十九日まで四日間、大政翼賛会第三回中央協力会議が持たれた。
当時の近衛総理大臣、広田弘毅外務大臣、そうして大谷拓務大臣、ちゃんと議定書が結んであるどれもはっきりと議事録に、大出先生がやっておられる。それをあなたたちは何がゆえにこんな片手落ちなことをやられるのか。まことに私は、私は別に拓植の職員でもなければ満鉄の職員でもなかったのだから関係ありませんけれども、国民としてこういうことは許すことはできない。
そしてそれを貫かれるかと思うと、そうではなしに、あなたは寺内寿一大将を持ってこよう、こういう考えがあったにせよ、東条さんとの意見の相違もしまいには出ておるから、しまいの部分だけ言われて、時の閣僚として東条が悪いような証言を次から次へと重ねられてあなたはここへ出られる、東条さんはあのように死刑、その前の広田弘毅氏も死刑、その他たくさんの死刑者や自殺者が出ておるのであります。