2020-05-27 第201回国会 衆議院 内閣委員会 第14号
平安時代の第五十九代宇多天皇は、時の天皇である第五十八代光孝天皇の皇子であったことから、三年間の皇籍離脱の後、皇位継承を目的に、八八七年に親王宣下をこうむって皇籍に復帰し、皇太子となり、即位したものでございます。
平安時代の第五十九代宇多天皇は、時の天皇である第五十八代光孝天皇の皇子であったことから、三年間の皇籍離脱の後、皇位継承を目的に、八八七年に親王宣下をこうむって皇籍に復帰し、皇太子となり、即位したものでございます。
首都直下地震といえば、専門家の分析によりますと、二〇〇〇年に入ってからの地震は平安時代に起きたことと似ていると言われております。つまり、その昔、宮城県沖で貞観地震が起き、その九年後に関東南部の相模・武蔵地震、その九年後に南海地方の仁和地震と。これを参考にすると、二〇一一年の東日本大震災、その九年後のちょうど今年が首都直下地震でございます。
一瞬、平安時代の話かなと私は思いました。 深刻なのは、私たちが聞いたところでは、この規定の解釈を盾に、企業側からコピーを拒否されるという例もあるらしいんですね。コピーしたらだめだと。どうするかといったら、手書きでやるわけですよ。手書きで写せと。 私はこれを聞いて思い出したのは、また思い出したんですけれども、何で毎回思い出すのか不思議なんですけれども、会社法で。
大嘗祭は、明治より前、特に奈良、平安時代には簡素に行われていたようでもあります。五穀豊穣と国民の安寧を祈ってくださる天皇家の私的な行事に内閣が公的性格を付与することに、内閣はどのような憲法の趣旨に沿った配慮をしたのでしょうか。また、退位、即位に伴う儀式は閣議決定されましたけれども、何ゆえ大嘗祭の挙行については閣議口頭了解とされたのでしょうか。
過去を振り返りますと、やはり今回の東日本、今回というか、月日がたってしまったわけですが、東日本震災の地震においても貞観地震があったという、データ的には当然、平安時代であったらそういった調査の結果みたいなものはないわけですけれども、しかし、経験は我々日本国民というかはしているわけでありますし、このところの地震で、大阪の北部地震であったりというようなものについても、過去、歴史をさかのぼると地震があって、
そして、もう一つ二つ御紹介したいんですけれども、鴨長明の方丈記というのは平安時代末期に記されていますけれども、京都で起きた文治地震、一一八五年の被害、これについて無常観を鴨長明氏がつづっていて、山は崩れ、川は埋まり、海が傾いて陸を水浸しにした。塀の下敷きで亡くなった子を父母が抱えて声の限り泣き叫んでいたのが余りに哀れで、悲しい思いで見ていた。
もう一つ、大変重要な特徴は、日本の場合は政祭分離、つまり天皇が直接政治権力を握って支配する国ではなくて、政治というのは、時には平安時代のように公家が、貴族が、あるいは戦国時代、江戸時代も含めて、これは武家が政治権力を握って政をつかさどると。
○政府参考人(中岡司君) 委員お触れになりました福島県いわき市の国宝阿弥陀堂につきましては、平安時代後期に藤原秀衡の妹徳尼が建立したと伝えられ、史跡白水阿弥陀堂境域、周りの周辺でございます、と合わせまして、日本の浄土美術や浄土式庭園の代表例として価値を有するものであり、文化庁といたしましては、こうした文化財の次世代への確実な継承に向け、保存と活用のバランスに配慮しつつ、計画的に取り組んでいくことが大切
平安時代には、私の住んでいます博多、博多港に平清盛が日宋貿易を開いて富を運んでまいりましたし、また、江戸時代には、私の母方の島、対馬におきまして、朝鮮貿易、朝鮮通信使といった形で富や文化が運ばれてまいりました。また、鎖国時にも、北前船を通じまして莫大な富が日本国内を流通いたしまして、各都市が豊かになりました。
大臣、手元に京都大学教授の藤井聡先生の地震の資料がありまして、三月十一日、二〇一一年、あの東日本大震災が起こって、その後の先生の論文からの資料なんですけれども、東日本側の海溝型の巨大地震、例えば東日本大震災は、貞観の地震、平安時代、八六九年の一千年後の地震だと言われておりまして、この貞観の地震の九年後には、マグニチュード七・四の相模・武蔵地震というのがありました。
さらに、時間もございませんので、私からもう一つ二つ御紹介いたしますと、総理は伝統の重みを盛んにおっしゃるんですけれども、古来、皇族を離れた方が復帰をして天皇につかれたというのは、平安時代に二例あるそうです。
一揆とは、今さら申し上げるまでもありませんが、高校の参考書、山川出版「詳説日本史B」などによれば、平安時代の末期から、寺院の僧兵や農村の百姓らが共同の行動をとろうとするときに、しばしば一味団結を神仏に誓った、その際、一味神水といって、神に誓った文書、起請文を神前で焼き、水にまぜて回し飲みをする、それによって一味による決定は神の意思であると確信し、通常では無理であると考えられるような問題の解決に向かって
これ、ローマ時代とか奈良時代とか平安時代とかはそういう時代だったわけで、そういう時代の残されているデータを見れば、初めの生まれて五年間で子供の半分が亡くなっちゃうということによって寿命が短い時代があったわけですけれども、福祉国家や産業革命以降は、子供が早く死ぬということによって寿命が抑えられるという時代は終わってきて、子供は生存率が上がってくると。
この挙母という言葉は、平安時代に在原業平が、伊勢物語で東下りを編んだときに、三河八橋というところのカキツバタの名所がございます、そこへ寄ったときに、「から衣きつつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」、こういう歌を詠む、そのような古い歴史のある町でございました。 そして、昭和に入って、養蚕が盛んでございました。また、川を利用した、がら紡というものも盛んでありました。
ちょうど千年前の平安時代に大噴火が起こって、日本も、北海道から東北、日本海側が六センチから七センチの火山灰に覆われて、農業は壊滅的な打撃を受けたことがあります。 そういう過去のいきさつも考えて、今、日本が運用している地球観測の衛星が日常的に二十四時間体制でいろんな地理情報ですとか地殻変動に関する情報を送ってきているわけですね。
これは別に今始まったことじゃなくて、もう平安時代、戦国時代から都を目指していく。もちろん、朝廷に権威をもらうということもあります。しかしながら、ずっと続いてきたこの日本の歴史というのを簡単に変えることはできないことは確かです。 ですから、相当な挑戦になる。
話はちょっとずれるかもわかりませんけれども、平安時代の昔から有職故実という書物があります。これは、いろいろな物事、服装とかを春夏秋冬でどうするべきかということを書いているんですけれども、その中に長生きの秘訣という文言がありまして、長生きの秘訣は、遠くて近いものを食べろということが書かれているんですね。 遠いものとは、すなわち、人より遠いもの。近いところからいったら、牛、豚の肉、鳥、魚、野菜。
地震とか地球物理学なんてなると、ちょっと時間の観念が我々の感覚と違っちゃうのでよくわからなくなるんですけれども、平安時代と同じだと。そういうことを言われてもぴんとこないわけです。
暗記科目としての歴史教育ではなくて、例えば、そういう教科書的な歴史教育と、今おっしゃった「逆説の日本史」みたいなものを読み比べたときに、平安時代をどう捉えるかとか、なぜ鎌倉時代に武士が興ってきたのかという歴史的な観点から今の時代も捉えて、それは大学入学試験から変えることだと思います。
今から千百年前、日本が平安時代の頃に大噴火をいたしました。そのときの記録を見ると、我が国北海道から東北地方を含めて五センチから六センチの火山灰が降り注ぎ、農業が壊滅的な打撃を受けたことがあります。その白頭山が今まさに噴火の予兆があるということで、北朝鮮だけではなくて世界中が注意を注いでいるわけなんですね。万が一、この白頭山の噴火ということになれば、噴火後十二時間で火山灰が日本に降り注ぎます。
平安時代になってようやく日本も桜ということで、中国が梅とか桃だったんですけれども、日本も平安時代から桜で花見をするようになる。ただ、これは上流階級の本当に一部の楽しみでありまして、本当に一般の庶民が花見を楽しむようになりましたのは、八代将軍の吉宗のころに江戸の町に桜を植える、こういったことから始まっているわけであります。