2019-04-16 第198回国会 衆議院 財務金融委員会 第11号
も大学受験の予備校で世界史の先生も今やっていまして、高校のを見ていましても、私は世界史なので日本史の方じゃないんですけれども、見ると、確かに大臣がおっしゃるように、日本史のBとか日本史のAを見ますと、渋沢栄一さんとか津田梅子さんとか、確かに多いんですけれども、同等の、同じ頻度で、犬養毅さんとか岩崎弥太郎さんとか、私なんかは大隈重信さんなんかもいいなと思っていますし、私の地元の茨城で関連しますと、岡倉天心
も大学受験の予備校で世界史の先生も今やっていまして、高校のを見ていましても、私は世界史なので日本史の方じゃないんですけれども、見ると、確かに大臣がおっしゃるように、日本史のBとか日本史のAを見ますと、渋沢栄一さんとか津田梅子さんとか、確かに多いんですけれども、同等の、同じ頻度で、犬養毅さんとか岩崎弥太郎さんとか、私なんかは大隈重信さんなんかもいいなと思っていますし、私の地元の茨城で関連しますと、岡倉天心
当時の明治の知識人たち、例えば新渡戸稲造や岡倉天心といった方々は、我が国の非常に深い文化、文明、また信仰や様々な生活スタイル、こういったものについて英語で書籍を発表し、そして世界で日本の国柄をしっかり理解してもらおうと、こういうことを、我々、近代国家以来百四十年間ずっと続けてきているんですが、今もそしていろんな事業をされているということをお話を聞いたんですけれども、やはり、まだまだ世界における日本の
文言が書かれ、そして論議が行われるということは、これは必然のことであろうというふうに思いますし、この憲法が昭和二十一年あるいは二十年という時を背負いながら必死に論議をされたということを踏まえても、日本人論ということでいうならば、一九〇〇年、ちょうど百年前、区切りのときに、例えば、一八九四年に内村鑑三が「代表的日本人」というのを書いた、一八九九年に新渡戸稲造が「武士道」というものを書いた、そして、岡倉天心
明治時代、日本画の伝統に新風を持ち込み、改革に挑んだ岡倉天心の言葉です。 伝統の名の下に、変化を恐れてはなりません。 農業は、日本の美しいふるさとを守ってきた国の基であります。だからこそ、今、変化を起こさねばならない。必ずや改革を成し遂げ、若者が自らの情熱で新たな地平を切り開くことができる新しい日本農業の姿を描いてまいります。 目指すは世界のマーケット。
明治時代、日本画の伝統に新風を持ち込み、改革に挑んだ岡倉天心の言葉です。伝統の名のもとに、変化を恐れてはなりません。 農業は、日本の美しいふるさとを守ってきた、国の基であります。だからこそ、今、変化を起こさねばならない。必ずや改革をなし遂げ、若者がみずからの情熱で新たな地平を切り開くことができる、新しい日本農業の姿を描いてまいります。 目指すは世界のマーケット。
○荒井広幸君 茨城県の五浦、福島県との境ですけれども、岡倉天心がそこに、東洋のバルビゾンということで、自分の弟子たちと一緒に志を果たすために集まりました。六角堂、そのままもう跡形もなく流されてしまったと聞いております。五浦ですね。
私は岡倉天心という方は知っています。しかし、岡倉覚三と言われても誰か知りませんでした。サンプル問題の第九問の枝では、岡倉天心ではなくて岡倉覚三と書いてあるんです。これは、私はたちの悪い引っかけ問題だと思っています。 今日、皆さん方のお手元にサンプル問題の四十問というのを、最後の問題もお出しをしました。お配りをしました。一般教養の試験時間は一時間三十分。
○麻生内閣総理大臣 これは、岡倉天心以来、とにかくという話で、ずっと九州選出国会議員全員でやってきたプロジェクトだったと記憶をいたします。初代がたしか西岡武夫、今、議運の委員長をしておられる方が当時の会長さんだったと記憶いたしますが、それ以後ずっといろいろな方々がされて、私もその会長をさせていただいたという関係であります。
麻生総理はよく言われますけれども、百年に一度の金融危機だということをよく言われておるわけでございますが、そもそもこの九州国立博物館は、明治三十二年に美術界の指導者としての岡倉天心がこういう博物館を九州につくるべきだというふうに言いまして、ようやく百年過ぎて平成十七年に実はオープンになったという、そういう歴史的な背景もございまして、ここで百年に一度の金融危機の議論が行われたというのも、これは何かの因縁
岡倉天心の「茶の本」、内村鑑三の「代表的日本人」、牧口常三郎の「人生地理学」などは、いずれも一九〇〇年前後の著作であります。今まさに、グローバルな時代における日本の未来を考えるときに、アイデンティティーの問題を、長い歴史的スパンと文化を常に念頭に置き、考えるべきであります。
新渡戸稲造の「武士道」、あるいは岡倉天心の「茶の本」や内村鑑三の「代表的日本人」、あるいは牧口常三郎の「人生地理学」、そうしたものは、やはり文明というものが大きく受容される中で、日本という国はどういう国であったかということを改めて問いかけるという作業が行われたんだというふうに思っております。
私よりも少し前の人、あの前後の人々は、岡倉天心のアジアは一つという言葉を、アジアは一つでなければならない、したがって、日本が中心になって、代表になって多くの国々を治めていくんだというふうに治められました。つまり、聖戦の思想でございます。 私は、それは違うだろうということをここに言っているわけです。アジアは本来一つなんだ、なければならないんじゃなくて、本来一つ。
もちろん、明治維新以降、岡倉天心が言ったように、アジアは一つなどと言ってアジアの中に足を入れなきゃならないという動きも一時期はあったことは事実でございますが、明治維新後の我が国の全体の目というのは脱亜、そして西欧に足を入れるという流れの中にあったというふうに私自身は認識しているわけであります。
実はアジアは昔から言われてきた、アジアは一つと岡倉天心は麗しくうたって、あのヒマラヤの氷壁もアジアの一つになる精神を分かつことはできなかったと、読んだらほろっとすることが書いてありますが、しかし現実にはアジアは一つではなくて、インドであり中国であり日本であり、一つ一つの国は大変違っていたわけです。それが初めて今共通性というのを急速に築きつつある。それをもたらしているのは工業化だと思います。
あそこは岡倉天心も仕事をしたところで、その像なんかを見せていただいて、展示されている浮世絵だけでなくて、その保存状況なんかもまた見せていただきました。さすがにボストンのは実に見事な保存をされているんで、大変感心したことがあるんです。 どうも日本のそういう古い美術というと、やっぱりゴッホやゴーギャンが非常に影響を与えられたというすぐ浮世絵ということになりますよね。
少々格調が高いですが、岡倉天心が「アジアは一つである。」、こういう言葉を「東洋の理想」の冒頭で述べて、我々に夢を与えてくれているわけであります。天心は、これは日本の芸術史の中でアジアの芸術の粋が標本のように凝縮されているということを指摘したわけでありますが、非常に文化遺産として大変なものだと思います。
そういう中で、実はこれまた私の地元の話で恐縮なんですが、北茨城市というところがございまして、そこは岡倉天心や横山大観が明治の中ほどに日本美術院をつくりました景観のすばらしい場所なんですけれども、そこも実は海岸浸食が起こり崩壊をしておる。こういう場所に人工岩礁をつくってまさに自然と同じような形で浸食を防ぐような対策もとられているわけであります。
岡倉天心もアジアは一つなりなんというようなことをインドに参りまして申しておりますし、また今の詩人タゴールとの交流も深かったと、こういう話も承っておりますし、さらにはマハトマ・ガンジーが非常にあの糸車を引いている姿は日本人の共感を呼んだということも承っております。
これは受け身から自主へという今度の施政演説の中にはこの中東問題が一つの課題として登場することは当然なわけでございますが、やはり東方文明の接触、イスラムにしても回教、この東方文明の接触でお互いに触発されるということは当然だし、それから岡倉天心が日本は東洋と西洋のかけ橋になれと言ったが、中東と欧米のかけ橋になるといったような役割りは日本にないであろうか。
○政府委員(志賀節君) 私の立場から各省庁に号令を発するといいますか、命令をすることはいささか僭越でございますが、私の考え方からいたしますと、かつて岡倉天心がアジアは一つと言いましたように、やはり人類は一つであり、いろいろ社会的あるいは伝統的な考え方、物の見方というものの変化の中からどうしても足並みがそろわない状況が現実にはございましても、将来は必ず一つになる方向に進んでいく、そういう考え方に立って