2021-04-15 第204回国会 参議院 文教科学委員会 第9号
元々、徳川家康が生まれました岡崎城から八丁、八百七十メートルぐらい離れたところの八丁村、今の八帖町というところで、江戸時代からみそを作り続けてきた老舗の二社が、農水省によるGI保護制度により八丁みその定義を変えられてしまったので、その老舗が八丁みそというのを使えなくなってしまうというような、そういった事態に直面しているという問題です。
元々、徳川家康が生まれました岡崎城から八丁、八百七十メートルぐらい離れたところの八丁村、今の八帖町というところで、江戸時代からみそを作り続けてきた老舗の二社が、農水省によるGI保護制度により八丁みその定義を変えられてしまったので、その老舗が八丁みそというのを使えなくなってしまうというような、そういった事態に直面しているという問題です。
元々利根川というのは、御存じのように、徳川家康が今の形に持っていったわけですから、千葉県の東の方の人たちは歴史的に利根川という意識はないんですね。今やっとこうなったものですから、上から下まで同じ利根川ですよと言っても、歴史的にそんな感性がなかなかない中で、流域という概念をどうやってこれから若い人に伝えていけばいいか。 七ページ目。
それは、戦国武将を取っても、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉と、その本名が、本人の名前が出てくるんですね。 私、最近、「エール」、そして「おちょやん」というのは随分と凝っていまして、デマンドでも再放送を何遍も見ておるわけでございますけれども、しかし、「エール」でも、あの大作曲家、古関裕而さんの伝記に近い物語だとか、あるいは今、「おちょやん」、浪花千栄子さんの。
話はいろいろと飛びますけれども、私も、太閤記あるいは徳川家康なんかを読みますと、伏見の町というのは、豊臣秀吉が開いた、淀川を改修して、非常に華やかで文化的な交流が行われていたということを承知をしております。 そういう中でのみなとオアシスの取組でございますので、官民連携の協議会の下で様々な活動がこれから展開されていくんだろうというふうに思っております。
小学生ですかね、「おしん」見ていましたし、「おしん」を見て本当に自分は恵まれた環境にあるんだなということを学びましたし、あと「徳川家康」ですか、大河ドラマですね、これも中学校ぐらいまではもうずっと見ていました。もう大好きでした。
この審査会が直接担当する問題とも言えないんですけれども、日本の統治の伝統の中に、よらしむべし、知らしむべからずという古い伝統がありますね、家康の言葉だとも言われますけれども。
徳川家康をイエヤス・トクガワとは言わない。ヒデヨシ・トヨトミとも言わない。明治以降の近代化の過程で、西洋人の流儀に合わせた欧化思想があったと考えるのが第一感でございます。 なぜそういう取扱いになったかということについて、例えば、NHKの「チコちゃんに叱られる」という番組がありますが、この話題を「チコちゃんに叱られる」で取り上げていただけないかななんて思っております。
無類の将棋好きで知られる徳川家康は、後に一世名人となる大橋宗桂らを江戸城などに招いて御前将棋を指させて、慶長十七年、一六一二年ですけれども、宗桂に俸禄を、給料ですね、を支給して棋士の地位向上を図ったという、こういう歴史がございます。
過ぎたるは及ばざるがごとし、あるいは徳川家康公御遺訓には、及ばざるは過ぎたるよりまされりという教えがあります。 十年後、関税がゼロにされた日本、非関税障壁がなくなった日本が、その後の十年後、二十年後、どんな姿になっているのか、想像することができないのでしょうか。昭和二十五年、木材、丸太が当時のGHQ政府によって関税ゼロにされました。
古くからいえば、徳川家康公がつくった町でございまして、もともと、二核ワンモールといいますけれども、今、商業のはやりが二核ワンモール、二つの核になる大きい商業施設の間をモールでつなげるという、これが非常に力があるんですけれども、昭和の初めから静岡は百貨店が二核になっていまして、そこを商店街がモール化している。
その上、ガイドをすれば、大阪城を建てたのは徳川家康だと案内するような話もあると。 大臣、これが日本のおもてなしなんでしょうか。こういう訪日経験をする方を増やすようなこういう政策、大臣、やっぱり日本は取るべきじゃないと思うんですけれども、大臣の認識を伺いたいと思います。
実は、岡崎には、徳川家康公の誕生した土地ということもありまして、伊賀八幡宮という神社があるんですね。そこが、徳川家康公ゆかりの松平家の氏神様が祭られている、そういう由緒ある神社で、岡崎市においては観光地の一つなんですけれども、そこの随神門という門があったり、あるいは本殿、これは国指定の文化財なんです。
なお、私ごとではございますけれども、四月二日から五月八日まで、私の出身地とかかわりがあります徳川家康展が、私は愛知県の刈谷というところでありまして、於大の方でありますので、ぜひとも、徳川家康展がありますので、どうぞ先生方には一度御来館いただきたいというふうに思っております。 また、今後とも、どうぞよろしく御指導のほどお願い申し上げます。ありがとうございました。
その上で、近世の江戸城には、徳川幕府初代将軍家康から四代家綱の時代まで天守閣が存在したが、一六五七年のいわゆる明暦の大火で焼失し、以降、再建されていないと承知しております。一般に、史跡等の往時の姿を忍ばせる歴史的建造物を十分な歴史的根拠に基づいて復元することは、地域の活性化や文化振興に資するものであると考えております。 一方で、御指摘の江戸城の天守閣復元を実現するためには課題があります。
智者は、性、臆病と考えていい、その人の中の臆病が、敵の意図をそんたくさせ、情報を集めさせ、事態の本質を察しさせるかのようである、若い頃の家康は露骨に臆病であった。司馬遼太郎さんの絶筆、「街道をゆく 濃尾参州記」の最後の文書、「家康の本質」の書き出しですが、イラク戦争に参加したスペインやイギリスの悲劇は今紹介したとおりです。
司馬遼太郎さんの絶筆、「街道をゆく 濃尾参州記」、その書き出しは、智者は、その性、臆病と考えていい、その人の中の臆病が、敵の意図をそんたくさせ、情報を集めさせ、事態の本質を察しさせるかのようである、若い頃の家康は露骨に臆病だった、で始まります。 集団的自衛権を行使したら、日本はアメリカと一緒に日本を攻撃していない国を攻撃することになります。
岡崎というと、家康公が生まれた岡崎城、お城があるじゃないかという、こんな話ばっかりなんですけれども、しかし、あの広い町の中には、中心部とは遠く離れたところでは、もう本当に田んぼしかない、山しかない、こういう地域もあるわけなんです。 そういう中で、先般、岡崎市の藤川という地区において田んぼアートというのが行われました。振り返れば、これも青森県ですね。
徳川家康が江戸幕府を開いたのも責められません。明治政府が東京に首都を決めたのも責められないと思います。こういう状況が分かってきたのは一九六〇年代以降ですから。だけれども、こういう状況をやっぱりこれから国家の危機管理上はよく捉まえていく必要があると思います。 赤澤副大臣、こういうことについてどういう内閣府で今検討が進められていますか。
総理の答弁でちょっと訂正したいのは、実は、一六〇七年、徳川家康が初代天守閣を造って、二代、三代続いて、それで、振り袖火事で一六五七年に焼失して、これは四代家綱のときですね。それ以降建っていませんから、江戸時代初期の五十年間この天守閣は存在したわけなんです。江戸時代の寛永文化の象徴とも言われていまして、これは大変なモニュメントであったわけなんです。
それから家康の駿府城、あるいは名古屋城も河村市長が言っておりますし、あるいは高松城、あるいは萩のお城。こうやって日本各地の城郭文化を復元していく、それも地域の力で復元していく。まさしくこれ地域再生じゃないですか。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 突然の御質問でございますが、昨日、文化勲章の、叙勲の関係で皇居に参りまして、そのときにたまたまその話になったわけでありますが、これは、徳川家康が開城して後、天守閣を造るわけでありますが、二代目のときにも新たに造り、三代目家光のときに新たに造ったと、しかし、その後二十年でそれは振り袖火事で焼失をした後は天守閣がなく今日に至ったというふうに承知をしております。
戦国大名が一五〇〇年代に土地を争うということになりましたが、実はこれが終息するのが、国土交通行政からいいますと、一五九四年だと思いますが、秀吉から排斥をされた家康が江戸に転封をされまして、アシが茂って沼地が多い江戸に、あっちに行け、こう言われて、来た。そこで、ここをどうするかと。そのときに、利根川が東京湾に注いでいた。