2016-11-25 第192回国会 衆議院 文部科学委員会 第8号
恐らくそういう定義が普通に普及されるべきなんでしょうけれども、実は、教育学という学問の世界では、教育政策というのは非常に有名な定義がございまして、宗像誠也という人の定義で、教育政策とは権力に支持された教育理念という定義をほとんどの教育学研究者が引用するという、教育学の世界ではこれがクラシックな定義として定着をしている。
恐らくそういう定義が普通に普及されるべきなんでしょうけれども、実は、教育学という学問の世界では、教育政策というのは非常に有名な定義がございまして、宗像誠也という人の定義で、教育政策とは権力に支持された教育理念という定義をほとんどの教育学研究者が引用するという、教育学の世界ではこれがクラシックな定義として定着をしている。
宗像誠也さんという教育学者は、教育とは人間の尊厳を確立する過程という言葉を残しています。 多くの子供たちが家庭にも学校にも居場所を見つけられなくなっているのは、効率や競争原理を最優先しようという政治や経済や社会の運営のありように、根本原因が潜んでいるからではありませんか。それぞれの家庭は社会の真っただ中にあり、社会全体のひずみや不安定はすぐに忍び込んでくるのです。
○濱田(健)委員 宗像誠也という教育学者が「教育とは人間の尊厳を確立するプロセス」という言葉を残していますが、大変失礼な言い方かもしれませんけれども、岡光さんが小学校から大学までの学校教育の中で、今のあなたという人間を形づくるために一番ためになったということはどういうところでしょうか。
かつて宗像誠也という学者が、教育というのは人間の尊厳を確立するプロセスだというふうな言葉を残しているわけでございますが、このいじめの問題は、その一人一人の子供の存在する尊厳というものを打ち崩すような課題でございます。ぜひ、今の大臣の決意を一歩でも前進できるように私たちも努力をしてまいりたいというふうに決意を申し上げたいと思います。
二点目ですけれども、子供たちによりよく育ってほしいというふうに願っているのは私たちすべての大人なのですけれども、いじめや登校拒否、不登校というものが、数の増減はあるにしましても陰湿な形でやはりふえ続けている、残っていく、なかなか一掃できないという状況の中で、宗像誠也という学者が教育とは人間の尊厳を確立していく過程であるという言葉を残しております。
これは、個人の尊厳を重んじ、人格の完成を目指して行うべきもの、簡単に言えばそういうことになるかと思いますが、これは今先生御指摘の、宗像誠也先生の教育とは人間の尊厳を確立していく過程であるとおっしゃった言葉と大いに精神が一致しているのではないかというふうに理解をいたしております。
これは宗像誠也さんがかつて、日本の教育をゆがめるものに三つある、一つは教科書検定、一つは勤評、一つは学テだ、こう言ったことがありますけれども、大分前のことでありますが、しかし私はこの言葉をやはり一つの至言として聞くべきだと思っております。 きょう吉田正雄議員が時間をかけまして、しかも綿密に資料に基づいて質問をされました。
ですから、具体的な人の名前を挙げて失礼ですが、その当時、いまは亡くなられた東大の教授をやっておった宗像誠也さんであるとか、今度はいま、ことしですか、神奈川の知事になった長洲一二さんとかいうような方々が、やはり社会科の教科書の執筆に当たっておりましたが、昭和二十八、九年から三十年、そのころから後には、そういう人が執筆陣からだんだんおりていったと言うか、おろされていったと言いますか、そういう事実が出てきております
本日の新聞を見ますると、昨日の日本学術会議の総会に、学問・思想の自由委員会の委員長の宗像誠也東大教授がこういう報告をしておるのです。これは法務大臣もひとつ御記憶になっていただきたいのです。
これは教師の自由について宗像誠也氏が婦人公論の「教師の退廃と母親の心構え」という中で強調されております。それが載っておるのですが、「宗像氏は東京新聞(二月三日号)に発表した論文「教育−その課題」での主張を繰り返し、プレゼント、アルバイト、リベートの“三ト”にも言及する。
それからあと四分ありますから簡単に一つ聞いておきたいと思うのですが、東京新聞の一月九日と十日の夕刊に「教育、その課題」として、私はこの方面はしろうとでありますが、その方面の日本の権威者であります宗像誠也という東大の教授が、勤評実施以来の日本の教育は非常に危機に瀕しておる、こういうことを二日間にわたって連載をされております。
特に私からお尋ねいたしたいのは、この講演において、日教組の倫理綱領を書いた人の名前が十五名書いてある、こう大臣は言われて、宗像誠也、宮原誠一、柳田謙十郎、中島健藏、上原専禄、羽仁説子、十五名ですからあと九名おりますが、あとは忘れたと、特に覚えておかなければならぬほどりっぱな学者でないように思うからと、こういうお話でございましたが、私はその際特に覚えておかなければならないような学者でないという人たちの
あなたが荒木萬壽夫として個人で、造次顛沛、胸の中に反論の構想を練っていたり、あるいは奥さんに向って、ぶつぶつ、宗像誠也はけしからぬやつだと言うのと全く違って、文部大臣として公開の席上で批判をなさるということは、国家権力の発動というか、発動というと戦前のような忌まわしいニュアンスがつきまとうのですけれども、学閥的に言えば作用の一態様である。
そうすると、私はあなたにきわめて善意ある質問をいたしますけれども、宗像誠也氏以下十五名に対するあなたの今まで誹謗したことはなくなったということになりますね。そうでしょう。
東大の宗像誠也、宮原誠一、一橋大の上原専禄、それから羽仁説子、評論家の中島健蔵、務台理作、こういう人人の名前をあげて、これらの諸君は日教組から高い謝礼をもらって倫理綱領の解説を書いた。心にもない解説を書いたのではなかろうかと演説をしておるのであります。この人たちは大学の教授、社会的地位もあれば、相当見識を持った人々です。
宗像誠也氏がそういうことを新聞に書かれておる。この宗像誠也氏と先般来問題になっておる教科書との関係があるかないかは、文部省のあれは何かわかりますか。
この言説をなした者は、東大教授の教育学の宗像誠也という人物であります。この上原専禄なる教授は、たしか商大かどっかの教授であります。これが日教組国民教育研究所の運営委員長でございまして、宗像誠也なる人物は、その下で運営副委員長をいたしております。ここに運営委員が六名おりまして、その大部分、ほとんど全部が大学の教授でございます。
宗像誠也氏が学問的に教育学の立場から、評定はもう完成したものがないというお話でございましたが、現在の教育学の程度からいたしまして、あるいはそうかとも思うのでありますけれどもしかしながら、日々の教師の教育活動におきまして、またそれをまとめまして学校長が学校を運営しております際に当りまして、さようなものがまだ完成しないからといって、学校の教育がその面におきまして何ら触れていなかったならば、私は教育の内容
まず四つの偏向タイプのものをここに取り上げておるのでありまするが、あるいは宮原誠一氏の編にかかる「一般社会」であるとか、あるいは宗像誠也氏の編にかかる中学校の「社会のしくみ」であるとか、こうして四つの教科書が事例として取り上げられて、数多くの編著者がその中に具体的に、その個人の価値評価まで書かれておるのであります。
それから宗像誠也さん、この人は教育出版の役員であります。その他ありますが、私のもとに参っております資料の講師団の方々は、このように各出版会社の顧問なり役員なりをいたしておるのでありますけれども、こういう点は、御調査なさっての上でお選びなさったのでありますか、それとも、こういうことは知らないで講師団としてお迎えしたのかどうか、承わりたいと思います。
○佐藤証人 その第一でありますが、この評価基準を作成する場合に諮問申し上げました講師の方々でございますが、これは、先ほども申し上げましたように、全国研究集会の場合に教科書問題の部門を担当されました講師の方々、つまり東京大学の教授宗像誠也氏を中心とするところの岡津守彦氏、それから同じく東京大学の教授をやっておりますところの勝田守一氏、それから教育大学の梅根悟氏、同じく教育大学の馬場四郎氏、それから和光学園
それから、社会科に、宗像誠也、渡辺操、金沢嘉市、塩野谷敏夫、北海道社会科教育連盟、——これじゃ、団体が著者なんです。文部省が団体を著者と認めるわけはない。これが著者の中に入ってくると、この契約はばけもの契約であって、実は金をやっているのだと私どもは推察するのですが、これは私ども一個の独断ではなくて、少くとも常識ある者をしてこの契約を判断せしめるならば、契約書というものじゃないのです。
○北島証人 これも最近になって知った事実でございますが、私の方の社会科の教科書を出しております著者のうちの東京大学の教育学部長の宗像誠也さんが、日教組の講師団の一人になっているということを聞きました。
われてくるようになった原因の一つとして、日教組講師団の人々がこの教科書の編集に参加しておる、あるいはその編集において相当強力な立場を持っておる、こういうことを一因としてあげられたのでありますが、これもやはり同じ本によりますと、主として日教組の講師団が日教組の立場から考えて社会科の編成に重点を置いておる、ういうふうに書いてありまして、「宮原誠一はZ社の高等学校の社会科とG社の中学校、勝田守一はO社、宗像誠也
東大の宗像誠也教授は、純粋な動機から出発した研究の結論がたまたまある政党の政策に近いようなものになつたとしても、それが政治的偏向ということにたるならば教育の研究は上つたりだ、こう言つておりますが、これはまつたくその通りであります。大学においてはそうでございましよう。学問というものは結論を予想して探究しては生れて来たいものでございますから、大学においてはそうでございましよう。